春風が微笑む、その場所で   作:一介のエンジニア

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嘘のないルール

 六月も半ば、梅雨の合間に久しぶりの日差しが差し込んだ。登校時は雲が広がっていたが、昼には青空が見え始め、午後には夏の気配が滲んでいた。

 私立星乃丘学園の2年C組の教室では、ほのかは窓の外を見て、嬉しそうに声を弾ませた。

 

「今日はやっと秘密基地に行けそうだね!」

 

 雨で地面こそ湿っているが、その分、林にはしっとりとした初夏の香りが満ちているはずだと想像するだけで、胸が弾む。

 ほのかは堀川千夏の席に身を寄せながら、ほのか特有の朗らかな笑顔を浮かべる。

 

「千夏、透くんにも声かけて! 梅雨でなかなか三人で行けなかったし!」

 

「うん、わかった。雨上がりの東屋も、意外と趣がありそうだよね」

 

 千夏も微笑み返し、近くの席にいる雪宮透へ目をやる。透はほのかの声を聞きながらも、雲の流れに視線を預けていた。銀色の髪が光を帯び、静かに揺れている。

 そんな透に、千夏はこっそり目配せする。透は静かに頷き、「うん、行こう」と短く応じた。

 

 放課後。いつものように三人は校舎裏を目指す。雨上がりの地面は足元にまだ水気を含んでいるが、空気が澄んでいて心地よい。辺りの木々はこの数日の雨をたっぷり吸い込んだのか、葉の色が濃く生き生きとしている。

 

「わあ、ほんとに綺麗……」

 

 ほのかが声を弾ませ、千夏も頷く。しっとりと潤った緑の中を抜けていくと、見慣れた古い東屋――三人が“秘密基地”と呼ぶ場所が姿を現した。木の柱は雨粒が乾ききらず、かすかな水の痕を残している。どこからか涼しい風が吹き、湿った土や草の香りが鼻先をくすぐった。

 

 東屋のベンチに荷物を置いた瞬間、透が小さく息を吐く。

 

「……やっぱり、ここは落ち着くね。空気が全然違う」

 

 彼の瞳はどこか安心したように見えた。普段は少し遠慮がちな透も、ここでは自然体になれる。それこそが、この秘密基地のいちばんの魅力なのだろう。

 

 しかし、今日はいつもと様子が違う。東屋の入口付近に、先客の姿があった。

 

「――梢さん?」

 

 千夏が驚きまじりに口を開く。そこにはクラスメイトの桐ヶ谷梢が、湿ったベンチの端をハンカチで拭きながら腰かけていた。ショートボブの髪が首筋にかかり、涼しげな横顔をこちらに向ける。

 

「ごめん、勝手に入って……。雨上がりの東屋がどんな感じなのか、ちょっと確かめたくて」

 

 梢は少しぎこちない声で立ち上がった。戸惑いを隠せない千夏とほのかを見て、彼女自身もどこか居心地悪そうな表情を浮かべた。

 

 ほのかが先に声を張り上げる。

 

「いえいえ! 別に謝ることなんてないよ。びっくりしただけ! 来てくれたんだね、梢さん」

 

 以前、図書室で言葉を交わしてから、梢はこの“秘密基地”の存在に興味を抱いているようだった。ほのかはそのことを思い出し、嬉しそうに微笑む。

 

「私たちは大歓迎だよ。むしろ四人でここに集まったら、面白そうだなって思ってた!」

 

 千夏もほのかの言葉に続き、ぎこちなくなりかけた空気をなんとか和らげようとする。

 

「そうそう。ここは誰のものでもないし……ゆっくりしていって。雨上がりで足場も悪いし、せっかくだから」

 

 恐る恐ると言葉を選んだつもりだったが、梢は深く息をついて小さく笑った。緊張をほどくような、わずかな笑み。

 

「ありがとう。……実はずっと、来るかどうか迷っていたの。興味がないわけじゃなかったけど、ほのかさんや千夏さん、そして雪宮くんがどう思うか……」

 

 透のほうをちらりと見やった梢は、視線を揺らしながら言葉を続ける。

 

「図書室で話した詩のことがきっかけかもしれない。あのとき、あなたたちが『ここでは嘘をつかない』って言ってたって、誰かから聞いたの」

 

 梢の声は静かだが、その内容にほのかが目を見開いた。

 

「嘘をつかない……確かに私たちは『自由に過ごそう』ってルールは作ったけど、“嘘をつかない”っていうのは新しくない? 誰がそんな噂を……」

 

 ほのか自身、そこまで明確に“嘘をつかない”という決まりを掲げた覚えはなかった。せいぜい「ここではみんな本音で話そうね」くらいのニュアンスだったはずだ。

 

 すると、梢は控えめに首を振る。

 

「ごめんなさい。私が勝手に付け足したのかもしれない。……嘘をつかない場所って、すごく憧れるから」

 

 その言葉には、どこか思いつめた響きがあった。千夏は、梢がふだん隠している“何か”を感じ取り、胸がざわつく。彼女は成績優秀で生徒会の仕事もこなし、周囲から一目置かれる生徒だが、その裏にはきっと孤独や葛藤があるに違いない。

 

 ほのかは少し息を呑んだあと、「それじゃあ……嘘をつかないルール、作っちゃおうか?」と提案する。

 

「ここは自由な場所だからこそ、本音で話せたらいいよね。千夏も透くんも、そう思わない?」

 

 唐突にも思えるが、その真っ直ぐな一言に、千夏は「うん」と大きく頷いた。透にも視線を向けると、彼は少し考え込んだ表情をしてから、静かに頷き返してくれる。

 

「……嘘をつかない、か。いいと思う。僕も、そのほうが気が楽なときがあるから」

 

 雨上がりの林の中、東屋の周囲には鳥のさえずりが微かに響いていた。梢はその音に耳を傾けるように目を伏せ、そしてベンチに腰を下ろす。ちょうど向かいには透が座り、千夏とほのかは二人を挟むようにして立っていた。少しだけ湿った空気に、初夏の緑の香りが混じり合う。

 

 梢は視線を斜め下に落として、ぽつりと呟くように言う。

 

「私、嘘ばっかりついてきたかも。家でも学校でも……いい子を演じたり、優秀だと思われたり。それが嫌なわけじゃない。そうやって生きるしかなかったんだけど……」

 

 その声音には、自嘲の響きがあった。ほのかは息を飲んで彼女を見つめる。まだ梢のことをよく知らないとはいえ、これまでの印象からは想像もつかないほど脆い部分が覗いているように感じた。

 

 すると透が、静かながらもはっきりとした声で言葉を返す。

 

「……嘘をつくことは、悪いことじゃない。そうしないと守れないものもある。それでも、ここでだけはちょっとだけ“本当”を出してもいいって思えるなら……僕は歓迎だと思う」

 

 透の言葉に梢がふと目を伏せる。千夏はそっと椅子を引いて隣に座った。ほのかはその向かいの柱に背を預けるように立ち、四人は自然と小さな輪をつくった。

 

「ここに来ると、みんなが少しだけ素直でいられる気がするんだ。私も、ほのかみたいに明るくはなれないけど、透くんが“言葉にすること”を大事にしてるのを見て、自分も表現してみたいと思うようになったし……」

 

 千夏がそう言いかけると、ほのかは「え、嬉しい!」とまっすぐな笑顔を返す。

 

「そうそう、千夏は繊細で優しいんだよ。私は元気しか取り柄がなかったけど、二人の存在に触れて、なんていうか、言葉にできない想いを分かち合うってすごいなって気づかされたんだ」

 

 ほのかの力強い声と笑顔につられて、梢は微かに口元をゆるませる。彼女自身、その“素直さ”に憧れがあったのだろうか。

 

 再び目線を落とした梢は、少し震える声で口を開く。

 

「……そんな場所があるなら、私も入りたい。ここでなら、嘘をつかずに済むことが増えるのかもしれないって……そう思ったの」

 

 その言葉に、透や千夏、そしてほのかは同時に頷く。もはや形ばかりのルールなどではなく、四人それぞれが自分の心を素直に語り合えるような空気が、そこに生まれつつあった。東屋を吹き抜ける風が湿り気を帯びながらも心地よく、葉の裏についた水滴がキラキラと光る。

 

「じゃあ改めて、秘密基地のルールその2は『嘘をつかない』ってことで!」

 

 ほのかが宣言すると、千夏も「いいね、それ大事!」と笑う。透も苦笑しながら「バレバレの嘘はしないようにね」と続け、四人の輪にささやかな笑い声がこぼれた。

 

 そこで、一瞬の沈黙。ふと梢が透を見つめる。

「……雪宮くんは、どうしてそんなふうに、嘘じゃなくて“本当”を大事に思うの? ごめん、変なこと聞いて」

 透は驚いたように目を見開くが、やがて静かに視線を落とした。しばらくの逡巡の後、少しだけ口を開く。

 

「本当は……僕も嘘ばかりついてきたんだ。海外にいたときも、ここに来てからも。自分を守るために嘘をつくことは当然だと思ってたし、それに慣れてしまってた。でも……ほのかや千夏と過ごすうちに、嘘じゃなくても自分を守れるかもしれないって感じ始めたんだ。言葉にするのは難しいけど……そういう場所が欲しかった。だから、ここではなるべく正直にいたい」

 

 重々しくなりそうな告白だったが、その声には救われたような響きが混じっている。千夏とほのかは黙って聞き入り、梢はまぶしそうに透の表情を見つめた。すると透は気まずさを紛らわすかのように小さく笑い、付け加える。

 

「……でも、まだ完全にうまくいってるわけじゃないよ。長年染みついた“壁”は、そう簡単にはなくならない。でも、『ここではなるべく嘘をつかない』って決めるだけで、ずいぶん気が楽になる気がするんだ」

 

 その率直な言葉に、四人の間に不思議な共感が生まれる。梢は小さく息をつくように頷き、柔らかな笑みを浮かべた。

 

「そっか……私も、ここでなら大丈夫かもしれない。ありがとう。呼んでくれて。……っていうか、勝手に来ちゃったんだけど」

 

 最後の一言に、ほのかが嬉しそうに笑い声を立て、千夏もほんのり口元を和らげる。東屋の木陰には、初夏の湿り気を含んだ風が吹き抜け、雨上がりの光が四人の姿を照らしていた。

 

 

 

 その後、四人はやはり足元がまだぬかるんでいることもあって、あまり奥へは行かず、東屋の中で軽く談笑するにとどめた。ほのかは「次は絶対ここでお弁当を食べようね!」と張り切り、千夏も「じゃあ私も何か簡単なものを作って持ってこようかな……」と乗り気になる。

 透はそんな二人のやりとりを静かに見守りながらも、ときおり微笑みを浮かべ、梢はそっと耳を傾けている。まだぎこちない部分もあるが、いつしか“四人”でいる空気が自然に感じられ始めていた。

 

 やがて下校時間が近づき、四人はそろそろ校舎へ戻ることにする。湿った林を抜ける際、多少のぬかるみに足を取られながらも、ほのかの明るい声と透の控えめな笑み、梢の穏やかな横顔に、千夏は胸が温かくなるのを感じた。

 

「梢さん、また来てくれるかな?」

 

 そう問いかける千夏に、梢は一瞬だけ逡巡したものの、すぐに「……うん、多分」と微笑を返す。

 

 校舎裏を抜けると、ちょうど降り始めた夕陽が地面を淡いオレンジ色に染めていた。ほのかは「わあ、綺麗!」と声を上げ、透も目を細めて小さく呟く。

 

「雨上がりの空は、やっぱり不思議な色だね。なんだか……少し先の未来を見てるみたい」

 

 その言葉に、誰もがふと黙り込む。未来――梢はどんな未来を求め、透はどんな過去を背負い、そしてほのかや千夏は何を夢見ているのだろう。秘密基地で「嘘をつかない」ことを誓ったとしても、そう簡単に深い悩みが消えるわけではない。けれど、少なくとも互いの心を少しずつ預け合い、支え合う道は開かれる。

 

 昇降口に着いた頃、ほのかは梢に向き直る。

 

「ねえ、また一緒に秘密基地に行こう? 今度はお昼ご飯でも放課後でも、都合が合うときに。私たち、いつでも待ってるから!」

 

 そう言って手を差し出すと、梢は一瞬だけ戸惑ったように見えたが、「わかった」と小さく笑って手を握り返す。その姿を横目に、千夏と透も気恥ずかしそうに視線を交わした。

 

「四人で集まると、何かが始まりそうだよね」

 

 千夏のつぶやきに、透は微かな笑みを浮かべる。まるで、彼も同じことを感じているかのようだった。梢はまだ外に見せない大きな悩みを抱えているのだろうし、透も自分の過去を語り尽くせてはいない。ほのかはほのかで、自分にしかできない“リーダーシップ”や“場を盛り上げる明るさ”の意義を、いつか悩む時が来るかもしれない。

 

 それでも、「ここでなら嘘をつかなくていい」――そう信じられる場所があることが、どれほど力になるだろう。

 

 やがて昇降口で下校の準備を整え、それぞれ帰り道へ散っていく。梢は一足先に歩き出し、ほのかは部活の支度に戻り、透と千夏は並んで校門へ向かった。夕焼けが夜の紺に溶ける空を見上げ、千夏は胸の奥に残る温もりを感じていた。

 

(嘘をつかない場所……秘密基地が、私たち四人をどう変えていくんだろう)

 

 そっと息を吐いたとき、透がつぶやく。

 

「明日も晴れるかな。また、あの東屋でゆっくりできたらいいね。」

 

「うん、そうだね。晴れたら木漏れ日が綺麗だし、いろんな話をしたいな」

 

 淡い月が浮かび始めた空の下、足元のぬかるみもどこか心地よく感じられる。雨上がりの秘密基地に梢が加わったことで、生まれたばかりの“小さな世界”は少しずつ広がり始めているようだ。

 どんな嘘も、どんな弱さも、あの場所ではさらりと受け止めてもらえるかもしれない――そんな期待が、千夏と透の胸の奥で柔らかな灯をともしていた。

 

 こうして、秘密基地には四人目の“仲間”が加わった。静かで落ち着いた梢が投じた「嘘をつかない」という言葉は、透や千夏、ほのかの心にも何かを変える予感を残していく。夕暮れが夜へ移り変わるころ、校舎の窓にもほのかな明かりが灯り始めた。

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