春風が微笑む、その場所で 作:一介のエンジニア
七月中旬、朝から夏の気配を孕んだ風が吹き抜ける。私立星乃丘学園の裏手、小さな林は梅雨明けの湿り気を帯びた緑の香りに包まれている。
午前中は雲が多かったが、放課後になると晴れ渡り、木漏れ日が古びた東屋の柱に模様を落としていた。四人の『秘密基地』としてすっかりおなじみになったその場所に、今日は
期末テストも終わり、午前中だけの授業を終えた生徒たちは課外活動に励んでいた。ほのかは部活の用事、梢は生徒会の雑務が重なって残れないらしく、いつもなら賑やかな東屋がめずらしく静まり返っている。千夏は、少し広く感じるベンチに腰を下ろし、何気なく透の横顔に目を向けた。
銀糸のような髪が夕方の柔らかな光を受け、まるで儚い絹糸のように揺れている。その瞳は淡い藤色。少し遠くを見つめるようにまばたきするたび、千夏の胸に切ないような温かいような気持ちが混ざり合って湧き上がった。
「……今日は、ふたりだけなんだね」
先に口を開いたのは透だった。いつもなら明るい声でほのかが場を盛り上げてくれるが、そんな役回りがいないぶん、東屋には静かな空気が流れている。
「うん。ほのかも梢さんも、忙しいみたい。私たちだけでも、せっかくだし来ちゃおうかなって」
千夏は微笑みながら答える。少し前までなら、透もこういう『急な二人きり』の状況を気まずがったかもしれない。だが最近は、秘密基地での穏やかな時間を心地よく感じるようになっているらしく、その表情に警戒の色はなかった。
ベンチの上には、透が持ってきたノートが開かれたまま置かれている。どこか詩の断片のような文字が書き散らされているのを見て、千夏は話しかけた。
「それ、また新しい詩? 最近いろいろ書いてるみたいだね」
透はノートに目を落とし、指先でページを押さえながら、ふっと口元を緩めた。
「うん。……書くというより、言葉を留めるんだ。形にしないと、どこかへ消えてしまいそうで」
形にしないと消えてしまう想い。透がよく口にするこのフレーズは、いつも千夏の胸を切なく揺らす。言葉にならない感情を抱えながら生きてきた彼が、「書き残す」ことで自分を保とうとしている姿を、千夏は痛いほど理解していた。
「……消えてほしくない、大事な言葉なんだね」
そう問いかけると、透は小さく首を振ってから、ノートの片隅に目をやった。そこには淡い色のインクでなぐり書きのように書かれた一節がある。
「『かたちにしないままの気持ちは、風の中に散っていく』。……昔、海外にいた頃に読んだ詩からヒントを得た言葉かもしれない。僕自身が、本当は言葉にならない想いをいくつも抱えていて……書かないと、どこかへ行ってしまいそうで怖いんだ」
透は恥ずかしそうに笑いながら言うが、その声にはまだ拭えない寂しさがこもっている。その横顔を見つめながら、千夏は少し胸が苦しくなった。
ふと、木々の隙間から強めの風が吹き込み、ノートのページがぱらりとめくれる。透は慌てて手で押さえ、そこに挟まっていた一枚の紙を滑り落としそうになる。
「あ、危ない……」
千夏が紙を受け止めようと手を伸ばしたとき、透の手も同時に伸びてきて、ふたりの手先が触れ合う。思いがけない接触に、千夏の心臓がどきりと跳ねた。ほんの一瞬、透も目を見開くが、すぐに小さく笑ってその紙を引き寄せる。
「……ごめん。ありがとう」
「ううん、こちらこそ。風、ちょっと強くなってきたね」
千夏は微妙に熱くなった指先をベンチの上に隠すように置き、あらためて周囲を見渡した。東屋の外は蝉こそまだ鳴いていないが、夏らしい匂いが漂い始めている。
透は落ち着きを取り戻すように深く息をつき、ノートを丁寧に閉じた。そして背もたれのないベンチの端に腰を移し、地面を見下ろすように視線を落とす。
「……ほんとはね、僕、ずっと一人でも平気だと思ってた。どこかに馴染めなくても、書くことさえあればいいって。でもほのかや千夏、梢さんと過ごしてるうちに、そうじゃないかもしれないって思うようになったんだ」
そこまで言うと、透は言葉を切ってしまう。千夏は自然と呼吸を浅くし、次の言葉を待つ。けれど透は、少し迷うように唇を震わせるばかりで、すぐに続きを出せないらしい。
千夏は、秘密基地の『嘘をつかない』ルールを思い出しつつ、できるだけ優しい声で問いかけた。
「透くんが、そう思うようになったのは……どんなとき?」
すると透は、視線を地面に落としたまま、ぽつりと答える。
「……みんなが弁当を分けてくれたときとか、くだらないことで笑いあったときとか……そういう瞬間瞬間。自分が『ひとりじゃない』って実感できるんだ。昔は信じられなかった。どうせ、一緒に笑ってもすぐ壊れちゃうんじゃないかって」
どこか自嘲するような笑みを浮かべる透を見て、千夏の胸が痛む。けれど、透がこうして少しずつ本音を言葉にできるようになったのは、確かに以前より大きな進歩だ。
「壊れないよ、そんな簡単に。……私たちはきっと、同じように『自分の居場所』を探しているから。ほのかはほのかで悩んだりするし、梢さんも家族とのことでいろいろ……。みんな、それぞれ不安は抱えてるんだと思う」
透はちらりと千夏の顔を見上げた。短い会話の中にも、少しだけ光が差し込むように思えた。ノートに言葉を書き留めるように、透は小さな声で呟く。
「そうだね。……みんなも同じかもしれないって思ったら、少しだけ楽になる。ここなら無理に『平気なふり』をしなくても、千夏はそのままの僕を見てくれるから」
ほんの少し顔を赤らめて語る透の言葉を、千夏はぎゅっと心の奥で受け止めた。もともと言葉を選ぶのが苦手だと思っていた自分だが、透が真剣に告白するならば、拙くても何か返したい。そんな思いが千夏を突き動かし、自然と口を開かせる。
「私こそ、透くんに支えられてるんだよ。ほのかとタイプが違うから、うまく表現できないこともあるけど……透くんが書いてる詩や言葉から、勇気をもらうときもある。いつも、ありがとね」
その言葉に、透は明らかに驚いたように目を見開く。千夏自身がきちんと気持ちを伝えることは少なかったのかもしれない。だが、透は何か吹っ切れたように微笑むと、小さく首を横に振った。
「……僕のほうこそ、ありがとう。千夏がそう言ってくれるなら、言葉を書き続けてよかったと思えるから」
まるで時間が止まったように、ふたりはしばし黙り込む。耳を澄ませば、林の木々を抜ける風の音と、鳥のさえずりが遠くで交錯していた。
やがて、透が思い出したようにノートを開き、ペンを走らせる。千夏はそっとその横顔を眺める。淡い光の中、透はまるで自分自身と対話するかのように、言葉を紡ぎ出す。
数行を書きつけてから、透はノートを千夏に向けて、ほんの少しだけ見せてくれた。乱雑な文字のなかに、一節が浮かび上がる。
「伝えたい想いは、今ここにしかない。
だからこそ、風に乗せて届けたい。
いつか消えてしまう前に――」
千夏はその短いフレーズを目で追い、声には出さずに心のなかで反芻した。すると、不思議なくらい胸がじわりと温かくなり、少し涙が出そうになる。透がかつて孤立を感じながらも、未来を見ようとしてきた証のように思えたからだ。
「……すてきな言葉。まるで、この風に手紙を託すみたいだね」
千夏が率直に感想を述べると、透は照れくさそうに笑ってノートを閉じた。
「そう……手紙みたいなものだと思う。自分宛てか、誰か宛てか、まだわからないけど、いつか本当に風に乗せたいと思ってる。――いつか、ね」
『いつか』という響きに、千夏は少しだけ不安も覚える。透は両親と離れて暮らしており、家のことや過去の経験について、まだ多くを語らない。もし彼の中で、遠くへ行ってしまう決意があるのだとしたら……そんな不安がちらりと頭をよぎる。
しかし、ここは秘密基地。『嘘をつかない』と誓った場所であると同時に、互いの意志を尊重する場所でもある。無理やり問いただしても、透が苦しむだけだろう。千夏はその不安をのみ込み、あえて穏やかな声で言った。
「その手紙、いつか本当に風に乗せるときは教えてよ。私も見届けたいから」
すると、透は少し強い眼差しで千夏を見つめ、かすかに頷く。
「……うん。そのときは、一緒に。ありがとう、千夏」
夕陽が徐々に赤みを増し、東屋の木の柱を橙色に染めはじめる。千夏と透は並んでベンチに座り、静かに空気を共有していた。会話は多くないが、その沈黙が心地よい。言葉がなくても分かり合える、とまでは言えなくとも、お互いの心音を遠くで感じるような静かな安心感がある。
しばらくして、校内のチャイムが放課後の終わりを知らせるように響いてきた。透がほのかな疲れを帯びた表情で、「そろそろ戻ろうか」と口にする。
「うん。ちょっと名残惜しいけど……また明日も来ようよ。ほのかや梢さんも一緒に、四人で」
千夏が立ち上がり、ベンチのわずかな埃を払う。透もノートをカバンにしまいながら頷き返す。その姿は、前よりもう少しだけ前向きに見えた。
東屋を出るころには、風が軽やかに林を揺らし、木漏れ日はすでに夕闇に溶け込む寸前だ。空の端には茜色から藍色へのグラデーションが広がり、透はその色彩を見上げながら歩を進める。
「……なんだか、さっき書いた言葉を本当に風に流したくなってきた。あとでもう少し推敲してみるよ」
そう呟く透の声は、わずかに弾んでいるようにも感じられた。
秘密基地を後にする道すがら、ふたりは多くを語らなかった。けれど、互いの足取りはどこか軽く、いつの間にか手に宿ったささやかな熱が、胸の奥でこぼれそうに脈打っている。
――形にしなければ消えてしまうかもしれない想い。それを恐れながらも、透は言葉を綴り続ける。千夏はそんな彼のそばで、小さな声援を送る。いつか『未来』にその想いが届くように、と願いながら。
校舎へ戻るころには、すでにあたりはオレンジ色から紫に変わりはじめていた。教室の窓にはいくつかの明かりが灯り、帰り支度をする生徒たちの気配が見える。
千夏と透は昇降口で靴を履き替えたあと、ほのかや梢の姿は見当たらないまま、並んで門を出る。
「また明日、秘密基地で」
千夏が小さく言うと、透は微笑んで応じた。
そうして、夕焼け色に染まる坂道を別々の方向へ歩き出す。だが、その背中には確かに、先ほど交わした言葉の余韻が残っていた。風はそっと千夏の髪と透の銀髪を撫で、まるでふたりの想いを運ぶかのように吹き抜けていく。
こうして、秘密基地の午後は静かに終わりを迎えた。だが、透の綴る言葉は、風に乗る日を待っている。透が紡いだ言葉が風に乗り、未来へと届けられる日が来るのか――。かすかな予感を胸に、千夏はそっと空を仰いだ。夕闇が深まる前のひととき、紫と茜の混じるグラデーションの空が、まるで祝福するように見守っていた。