「まあ
屋上の扉が開く。
現れたのは悪戯っぽく微笑む少女だった。
濡れたように黒い長髪に、愛らしさと知性が同居する青い瞳。無垢な顔立ちには似合わない落ち着いた雰囲気。着ているのは流行りではない高級志向の黒いブラウスとスカートなのだが、少女の内から溢れ出す気品も相まって、一昔前の『良家のお嬢様』を想起させた。
「
不機嫌さを視線に込めても、黒い少女はどこ吹く風と言った様子。転がった缶コーヒーを見つけるとパタパタと近寄ってゴミ箱に入れた。
「光溜さんが黄昏れていても、残念ながら絵にならないわ」
青い瞳が、楽しそうにこちらを見詰める。
「外見だけなら、そうね、わたし的には及第点。でも立ち姿に深みがないのよ。貫禄が足りてないのかしら。人生の浅さが滲み出てしまっている感じね」
「10歳の子どもに言われたくはないね」
「思うに、光溜さんはまずファッションをどうにかするべきなのよ。まともな服を着れば、少しはましになるはずだわ」
「それは素敵な提案だが、私のどこにそんな金があるように見えるんだ?」
ついこの前、衣替えの為に量販店の安物を一通り揃えたばかりだ。一般的には大して痛くもない出費なのだろうが、こと私の懐事情では今後の食事の内容を真剣に検討する必要がある。
「そもそも、屋上から街を眺めることは私の唯一の趣味なんだ。邪魔をされる謂れはないよ」
屋上からの景観は私に人々の暮らしを教えてくれる。
正面にある10階建てのビルで土曜日でも忙しそうに働くサラリーマン、幸せそうに買い物袋を持って大通りを歩く親子連れ、公園のベンチで手を繋いで座っている高校生カップル。
私の人生とは何ら関わりのない人々だが、この街には誰かの今日が根付いている。そう実感できるだけで私の心は暖かさに満ちていくのだ。
「別に、邪魔も否定もするつもりはないのだけど……」
濡羽色の長髪が、乾いた風に小さく流される。
「少し、寂しいわ。眺めているだけなんて、まるで光溜さんが仲間外れみたい」
……なるほど、言い得て妙だ。
高さにして約15メートル。
俯瞰できるほど空に近くないが、落下すれば死を免れない距離。
きっとこの隔たりこそ、私が世間に感じている負い目なのだろう。
未来が
胸に去来した冷たい感情を無理やり押し留めてから、私は屋上の扉へと歩き出した。
「末那。せっかく来てもらって悪いが、今日はもう店仕舞だ。大人しく帰ってくれ」
「あら、おかしなことを言うのね。店仕舞いって、まだ午後三時じゃない」
「絵本の仕事をするつもりでね。子どもの相手をしてる暇はないんだ」
「そう、残念だわ。せっかく万年金欠の貧乏探偵に仕事を貰ってきてあげたのに」
「……、」
一瞬でも。
仕事、という言葉に期待を覗かせたのが致命的だった。
「ふふっ。光溜さん、本当に扱いやすい。そう言う素直なところ、わたし好きよ」
末那の口許に得意げな笑みが浮かぶ。
「そもそも、絵本の収入はほとんどないのでしょ?
「……だから、その両儀家の一人娘である自分を邪険に扱うな、と?」
「そう言うつもりはないわ。ただ、礼節を弁えるべきだと忠告しているだけ」
黒いお嬢様が服の内からUSBスティックを取り出して、柔らかそうな頬の横で振る。
お気に入りのペットに躾でもしている気分なのだろう。細められた青い瞳は挑発的で、遥か高みから見下ろされている錯覚に陥る。
「それはまた、難しい注文だな」
反論できない自分がなんとも情けない。
実際、絵本作家としての収入は皆無に等しい。今は亡き唯一の友人から引き継いだ仕事だが、どうやら私には才能がなかったらしい。何冊か出版した絵本には今のところ微塵も価値など付いていなかった。
唯一評価されている処女作『吸血鬼の涙』も、私名義になっているだけで実際に描いたのは友人だ。余命半年と宣告された友人の代わりに出版社とやり取りをしていた結果、なし崩し的に仕事を引き継ぐことになったのである。
10歳のお嬢様にオモチャにされる屈辱と、一足早く冬を迎えた財布。
これが今年で26歳になる大人の天秤だと思うと軽く死にたくなる。
とは言え、答えは始めから決まっているようなものだ。末那の言葉をそのまま鵜呑みにする訳では断じて、断じてないが、両儀家からの仕事を私が断ることはできない。
たとえそれが、どんな厄介事であっても。
「――分かった」
短く息を吐き出したのは、小っぽけなプライドを納得させる時間稼ぎ。
「口車に乗ってやるよ。だから末那、その仕事とやらを教えてくれ」
「へぇ、そんなにわたしから仕事を貰いたいの?」
「ああ、喉から手が出てしまいそうだ」
「そう。なら!」
くるっ、と黒いスカートを翻す。
「わたしを捕まえてごらんなさい! そうしたら教えてあげる!」
黒い少女のご機嫌な笑みが残像として私の左目に焼き付く。開け放たれた屋上の扉が、北風に弄ばれて軋み音を鳴らしていた。
「……はあ」
頭を掻きながら、私は気乗りしない足を無理やり前に進める。
階段を降りると、四階の事務所の扉が開けっ放しになっていた。足音は聞こえない。鬼ごっこでは私が真面目にならない為、事務所のどこかに身を潜めることを選んだのだろう。
「……末那、少し舐め過ぎじゃないか?」
事務所の入口で立ち止まり、視線を左右に走らせた。
「この私に、かくれんぼを挑むなんて」
フロアに繋がる段差に足を掛ける。
数年以内に貼り直されたと思われる床や壁材。比較的新しいデスクや棚の周りには植物園と見紛うほどの観葉植物が置かれていた。物が少ないのにどこか雑然としているのは、無秩序に緑が生を主張しているからだろう。
異質なのは壁際に積まれた古式ゆかしいブラウン管テレビだ。今ではなかなか手に入らない骨董品であり、処分するのも勿体無いため放置してある。私個人としては気に入っていた。
見慣れた事務所の風景の中から、末那の痕跡を探し出す。
デスクの椅子が少しズレている。風とは異なる空気の流れ。脳裏に刻まれた記憶との僅かな差異。左目に映った情報を組み立てて、架空の未来を予測し――
「えいっ!!」
脳天に雷が突き刺さるにも似た衝撃。
何者かに背中を押された瞬間、私の脳内で輪郭を帯びつつあった未来が霧散した。予想外の展開に体が付いていけず、喉を凍り付かせたまま膝を折ってしまう。
「ふふん」
私を跪かせた下手人――末那は腰に手を当てて鼻の先を天井に向けていた。
「光溜さん、わたしを少し舐め過ぎではなくて? 眼鏡を掛けずに勝てると思ったのかしら?」
ぱちんっと片目を閉じた黒い少女が、弾むような声音で告げる。
おそらくだが、末那は事務所の扉を開け放った後で階段の陰にでも隠れていたのだろう。自分の思惑通り事務所内へ意識を集中する愚か者をほくそ笑みながら。
悔しいとは、不思議と感じない。
むしろ、こうなることが当然という気すらしている。
「分かった、分かったよ。私の負けだ」
私は大人しく両手を上げてみせた。
「だから、もうこれ以上は意地悪をしないでくれ」
「よろしい。いつもこれくらい素直ならもっと可愛げがあるのに」
わがままお嬢様は不貞腐れた私の頬を軽くつつくと、ブラウスの裾を揺らしながらデスクへ歩いていく。スキップでも始めそうな軽い足取りだった。
――異質。
黒い少女に対して、私の直感はそう告げている。たとえ眼鏡を掛けたとしても、今の私では末那の未来を予測できるとは思えない。少女は常に私の理解の埒外に生きている。
それもそのはずだ。
どちらにせよ、物語の端役でしかない私が太刀打ちできる存在ではなかった。
いや、本来なら私など関わることすらできないはずだ。生きている世界が違うのだから。それがどういう訳か、わがままお嬢様は野良猫のようにふらりとこの事務所にやって来る。
両儀末那の真意は解らない。
悪い気はしないが、振り回される身としては肝が冷えるというのが本音だった。
デスクに移動した私は
「……末那、これは」
「わたしも驚いたわ。だって、光溜さんにピッタリな依頼内容なんだもの」
末那は私の膝に手を付くと、ディスプレイを覗き込む為に小さな体をデスクの間にねじ込む。少し高い体温と甘い香りが私の視界を遮った。
「調査対象の名前は
期待に輝く青い瞳が、私の右目を覗き込む。
「この人、未来が
第3話は2025年3月11日(火)19:00投稿予定です。