深く、
目が慣れてきたのか、今は真っ暗な室内の輪郭が少しは判別できる。耳が痛くなる程の静寂。扉の隙間から漏れ出る外の明かりだけが、辛うじて私の心に希望を与えていた。
ぶるり、と悪寒が体の芯を痺れさせる。
11月に入って夜は気温が一気に下がるようになった。凍死することはないと思うが、既に指先は痛い程に冷えている。フローリングの床も氷みたいで、容赦なく全身から熱を奪っていた。
私はいつまでこのままなのだろうか?
本日はバーの定休日であり、他の店員が来ることはない。最低でも明日の営業時間になれば発見されるはずだ。裏を返せばそれまでは絶望的だった。
食事については少しくらい抜けるとしても、水分は深刻な問題。真夏でないことが不幸中の幸いだが、意識した途端に喉が渇きを訴えてきた。それに考えたくはないが、いつかは当たり前の生理現象にも直面するだろう。いよいよとなれば、まあ、覚悟を決めるしかない。
体が動かない代わりに、思考だけは十全に働いてくれる。
涼風鈴音は事前に未来視を使い、私が両儀家の回し者である可能性を想定していたのだろう。未来視の実演は情報を引き出すためか。カクテルに薬を盛ったのは保険。仮に私が普通の相談者だったとしても、体調が悪くなったという言い訳で切り抜けられる。
ただ、予想外だったのは金属バットで私を殴った男の登場だ。
どこかで見た外見だと感じたが、ようやく正体を思い出せた。
行方不明だった男が、何故あの場面で現れた?
そもそも、どうして涼風鈴音と行動を共にしている?
疑問は尽きない。
涼風鈴音の未来視と三日前の殺人事件が繋がっている可能性すらある。
こんな厄介事が裏に控えているなら、末那の仕事を断れば良かった。
そもそも、だ。
両儀家に目を付けられたのは彼らの下部組織の金融業者に借金をしたことが原因だ。人並みの生活に憧れて、社会に溶け込もうとして、失敗してしまったことが全ての始まり。
いや、もっと正確に言うなら。
14歳の夏に、自分の異能に酔って無謀にもあの殺人鬼を殺そうとしなければ。
未来視の完全性を証明するなんて、馬鹿げたことに躍起にならなければ。
きっと、こんなドン底で這いつくばる
こんな自分が心底嫌になる。
良くないと理性が叫びながらも、悪い思考の歯止めが効かない。
ああ、だからなのだろう。
ガチャリ、と。
硬く閉ざされたいたバーの鍵が解錠されて扉が開いた瞬間。
黒い天使が、降臨したと錯覚した。
「まあ」
少女――
「まあ、まあまあ!」
「大変っ! 大変よ、秋隆! 光溜さんが縛られて転がされているわ!!」
言葉とは裏腹に、楽しげに弾む声音。
動物園で珍しい動物の檻でも覗き込むみたいに、末那は私の前にしゃがみ込む。
「ふふっ、光溜さん、そうして転がっているとまるでボロ雑巾みたいよ」
「……末那、君は私を罵りに来たのか?」
「まさか。でも、どうしてでしょう? 何故だか身動きの取れない光溜さんを見ていると、こう、胸の奥がゾクゾクと疼いてしまって」
青い瞳が、歳に似合わない色艶に彩られる。
「光溜さん、試しに『助けてください』って言ってみてくれない? 情けなさや悔しさで溺れそうになりながらも、懇願するように、屈辱感たっぷりで」
「……、」
愉悦に浸る10歳の少女を見上げて、私は絶句する。一体どんな教育をすればこの歳でここまで性癖が捻じ曲がるんだ。
末那の背後で頭を抱えている秋隆氏に目をやる。私の意図を察してくれたのだろう。末那の教育係は無言で近づいてきて、手足の拘束を解いてくれた。
「もう、秋隆。これからが面白いところだったのに」
黒い少女は唇を尖らせると、むくれたままスタスタと扉の方へ歩いていった。
「お嬢様を許してあげてください、光溜殿」
強面の苦労人は両手を縛っていた結束バンドを切断しながら声を潜める。
「光溜殿の異変に気付いたのはお嬢様なんです。連絡が付かず、事務所にも戻っていないと知った時には凄まじく取り乱していました」
私は自由を取り戻した右手で、両儀家から仕事用に与えられている携帯電話を取り出す。確かに10件以上の着信が入っていた。
時刻は午後9時34分。
涼風鈴音との相談が午後5時30分頃だったので、あれから約4時間が経過している計算になる。気絶していたのはおそらく数時間程度だろう。
「光溜殿を探す為に、お嬢様は婿殿とケンカをしています。婿殿のことが大好きで、いつか御当主様を倒して奪い取るとまで言っているお嬢様が、です」
婿殿――末那の父親。
私が唯一の友を得るきっかけを作り、そして間接的に貧乏探偵として働くように仕向けた人物。両儀家の会計士であり、実質的な後継者と目される優男だ。
「お嬢様には何か確信があったのかもしれません。虫の知らせ、嫌な予感……上手く言葉にはできませんが、お嬢様の直感が外れることはありませんから」
閃きの呼び水はバアさんの忠告だろうか。
余りにも細い糸だ。普通なら私の窮地に気付けるはずもない。
「時間も遅く、危険だと諭す婿殿の静止を振り切ってお嬢様はここにいます。ですから、先ほどの態度は安堵による照れ隠しのようなもので――」
「秋隆」
末那の声が、バーの薄闇を鋭く揺らす。
「余計なことまで言わないで」
「へい、失礼しました」
屈強な黒服が10歳の少女に頭を下げる。実に不思議な光景だった。
「でも良かったわ、光溜さんが無事で。光溜さんにもしものことがあったら」
末那の、顔が。
「――わたし、その女性のことを嫌いになってしまうでしょうから」
深い、陰翳に沈む。
それは、ひどく違和感を覚える反応だった。
天真爛漫で、人懐っこくて、純粋無垢なお転婆娘。
そんな少女からは掛け離れた闇。穢れにも見える邪悪さ。
そう、思った。
「光溜殿、涼風鈴音に関する続報です」
携帯電話の明かりが秋隆氏のサングラスで反射する。
「我々は涼風鈴音の所在を掴んでいます。彼女は――」
「三日前の殺人事件の犯人と思われる男と行動を共にしている、でしょう?」
私の発言に対し、秋隆氏は小さく息を漏らした。
「涼風鈴音に薬を盛られて、意識が朦朧としているところをその男に金属バットで殴られました。涼風鈴音は三日前の殺人事件にも関わっているはずだ。いや、もしかしたら殺人を犯したのは……と言うか、両儀家は事前にこの情報を掴んでいた?」
「ええ、その通りです」
秋隆氏が首を縦に振る。
相手は未来視を持つ女子大生。能力によっては、いくら暴力を売りにする黒服を集めても空振りに終わる可能性がある。かつて同業者だった私以上に調査員として適役はいない。その私でさえも、まさかこんな手痛い抵抗を受けるとは予想していなかっただろうが。
「光溜殿に秘密にしていたのは、余計な情報を与えることで両儀家の思惑が涼風鈴音に漏れるのを防ぐ為です」
付け加えるなら、私が依頼を断る可能性を減らす為だろう。殺人事件の犯人の協力者への聞き取り。そんな厄介事に私が進んで首を突っ込むはずがない。末那についても、私に余計な情報を与えない為に何も知らされていなかったはずだ。
「光溜殿を金属バットで殴った男の名前は
「涼風鈴音が未来視を使って金を稼いでいた理由は?」
「いえ、そちらについては何も。杉浦克也が金銭面でトラブルを抱えていたので、単純に金が必要だったとも考えられますが」
両儀家から事前にもらった情報において、涼風鈴音は普通の女子大生だった。ヤクザの下っ端と関わりがあったり、大金が必要になったりするような状況とは無縁な印象がある。
「涼風鈴音と杉浦克也は
「龍宮……?」
「簡単に説明すれば、両儀家と敵対する組織です。殺人についても、杉浦克也の抱える過去の清算が目的だったのではないかと。龍宮との交渉は既に婿殿が終わらせています。警察にも話を通してありますので、後は両儀家の仕切りでケジメを付けるだけです」
私に涼風鈴音の調査を依頼した段階で、おおよその目算が付いていたのだろう。警察と協力していると言いながら独自の捜査で真相に先回りしていた訳だ。そう考えれば、ここまで用意周到な状況にも納得できる。
「さて、光溜さん」
末那がダンスのステップでも踏むみたいに私へ向き直った。その手にはどこからか取り出した眼鏡ケースが握られている。
「後は二人を捕まえるだけという状況だけれど、光溜さんはどうしたい?」
青い瞳が、何かを期待するように私を見詰めていた。
「……本当に、君は良い性格をしてる」
本音を言えば、このまま帰って寝てしまいたい。
縛られていた手足や殴られた後頭部が痛むし、精神的にも疲労が溜まっている。完全なる絶不調。熱血という概念は私の人生とは掛け離れた言葉である。
だけど。
だとしても、だ。
――理解できないわ。未来は
他の誰でもないこの私が。
この言葉を、この言葉だけを、認める訳にはいかなかった。
ああ、確かに失敗だらけさ。
生きるということは、基本辛いことなのだと。
そんな当たり前の事実を、私は未来視を失ってからようやく痛感した。
本当に、この12年間は後悔の連続だったのだ。
未来を
見よう見まねで人並みの生活を模倣して、失敗して、首が回らなくなるまで借金を重ねて……今だって、私が理想とする普通の生活とは程遠い場所で足掻き続けている。
それでも、得たモノはあった。
自分の罪と向き合い、唯一の友と出会い、不出来ながらも街の一部に溶け込んでいる。理想にはまだ到底及ばないが、一歩ずつ着実に近づいている実感はある。
それに、何よりも――。
「光溜さんが言いたくないなら、わたしが言葉にしてあげても良くてよ? 命令、という形で。うん、わたし的にはそっちの方が好みだわ」
顔の前で眼鏡ケースを振りながら、末那は挑発的な眼差しを浮かべる。
こんな私にも、期待してくれる人がいるのだ。
それはきっと、未来が
失敗と後悔に溺れながら、後ろ向きに、卑屈になりながら。
それでも逃げずに、自分なりに戦ってきたからこそ辿り着けた未来。
胸を張って誇れる
「末那」
私が手を差し出すと、黒い少女は満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくる。
かつて私は、成功する未来が
自分が
だけど、そんな愚かな人間は、無惨にも敗北する。
未来視の異能と、右目の視力を代償として。
それが、救いだったとは言いたくない。
あの殺人鬼との邂逅が、幸運だったとは死んでも認めたくない。
だが、あの一件が私の人生を大きく変えたのは事実だ。
観布子の母のように真っ当なまま社会と関わり続けるなら放っておいても良かった。だが、私と同じくヒトとしての道を踏み外すなら話は別だ。
私は末那からケースを受け取り、中に入っている眼鏡を掛ける。
「甚だ不本意ではあるが」
物語の端役でも、社会の害にすらなれない半端なチンピラでも。
突き立てる牙があることを教えてやる。
「――少しばかり、先輩風を吹かすことにしようか」
第8話は2025年3月16日(日)19:00投稿予定です。