狼嵜光が特別な犠牲を見つける物語   作:Black Shadow

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狼嵜光の約束(10)

 狼嵜光は、夜鷹純に憧れていた。

 このスケートという世界で生きる術を教わった。

 私に、この残酷な世界で滑る意味を与えてくれた。

 

 何も感情を持たずして、あんなにかっこいいと思わせられるスケーティングは世界でただ一人といっても過言ではない。

 

 手品のように。あるいは魔法のように周囲を魅了させたその人物は今、どこに居るのだろう。

 ふと、過去の記憶が蘇り、こうしてしばしば思い出すこともある。

 

 ジャンプを跳べた時の思い出。

 一緒に滑って楽しかった思い出。

 途中で見捨てられて悲しかった思い出。

 

 様々な感情が交錯し合って、今の私が存在しているのだと思うと、どうしようもない虚しさが込み上がってくる。

 

 途中で夜鷹純を手放したことを何とも思わなかったのかと感じると、今までの関係は全て水の泡となるのか。

 

 もしその質問が飛び交ってきたら、まず間違いなく私は否と返答するだろう。

 なぜなら、私が夜鷹純に対して一方的に期待と憧れの感情を抱いていたからだ。

 向こうも、最初から興味が無かったらわざわざ私を生徒として面倒を見ることは無かったはずだ。

 お互いに常に思う所がありつつも、決して口には出さない。

 そんな空気感も、心なしか心地良いとさえ感じてしまう。

 

 今思えば、私は夜鷹純に褒められたくて、スケートを頑張ってきたのだろうか。

 一時期、いのりちゃんのためだけに滑った一昨年の全日本ジュニアの時は、狼嵜光らしい滑りで人々の心を焚き付けた。

 冒頭の4回転ルッツから観客を熱狂させ、氷の女王として成し遂げなければならない試練があの時にはあった。

 

 今はいのりちゃんがトップの座を勝ち取り、氷の上をいとも簡単に支配してしまっているけれど。

 それでも、彼女の圧倒的な存在力が日に日に増してきていることに、悔しさよりも高揚感の方が強く表れていた。

 

 いのりちゃんが私を追い抜いてくれたことが誰よりも嬉しかったからなのかもしれない。

 

 だから、私の役目はもう終わったのだと思った。

 彼女が狼嵜光という過去の光を変えてくれのであればそれで良いとさえ思えた。

 

 皆のとっての希望の光なんて、荷が重すぎる。

 たった一人でこの役割を担うのに相応しいのは、元々私ではなくいのりちゃんの方なのだ。

 

 そう心の中で確信した時には、ふと自分の周りに纏わりついていた重圧が無くなったような気がした。

 

 夜鷹純みたいにカッコよく滑れなくても。

 いのりちゃんみたいな怪物に追い越されても。

 

 私は、私らしいフィギュアスケート選手でありたいのだという目標が出来ればそれで十分だと感じた。

 

 コツコツと、地道に積み重ねていけば良いだけの話。

 

 だから、狼嵜光はこれ以上高望みなんてしない――。

 

「――選手。狼嵜選手っ!」

 

 大きな声で私の名前を呼ぶ声に気づき、現実へと引き戻される。

 少し考え事をしていたばかりか、この目の前にいる男に気が付かなかったみたいだ。

 

 流した汗をタオルで拭きながら、休憩時間にぼうっとしていたせいでもあるのだが。

 

 分からなかった自分の方も悪いとはいえ、もう少し声のボリュームを下げてほしいと願うばかりだ。

 

「だ、大丈夫? なんか、雰囲気が重そうに見えるけど」

「この前、どこかの誰かさんの看病をしたせいで、風邪が移ってしまったのかもしれませんね。責任取ってください」

「ええっ!? いや、でもあの時からだいぶ時間は経っているはずだから、その可能性は低いと思うけどなぁ……」

「それなら、何が原因かをすぐに突き止めるのがコーチの役割では? 生憎、今の私はとても機嫌が悪いので、どうにかしてくれると助かるのですが」

「ま、待ってくれ狼嵜選手。もしかして……また俺が原因なのか!?」

 

 そんな風に言って、急にあたふたとする明浦路先生。

 

 困った様子でこちらを見つめながらも、頭の中では真剣に解決方法を考えているようだ。

 

 確かに、私が怒っている要因の一つとして、この男のせいであるのは間違いない。

 先ほど、練習を行っている最中に、視界にライリー先生が明浦路先生に抱き着いている所を見てしまったからだ。

 

 十中八九、彼女の方から悪戯心でちょっかいをかけたことは理解しているが……。

 それを頭の中で受け入れても、心の中のモヤモヤが取れないことが腹立たしかった。

 

 なぜ自分はこんなにもイラっとしているのだろうか。

 

 この感情に決して名前を付けることだけはしたくないが、明浦路先生に対する何かしらの特別なモノを抱いていることは否定したかった。

 

 それに、こちらが熱心に次の大会に向けて四苦八苦しているというのに、呑気にライリー先生に対して鼻の下を伸ばしていたことも何となく気に食わない。

 

 狼嵜光のコーチとして契約を結んでいる以上、彼にはこれからもしっかりと大事な役目を担ってもらわなければならない。

 

 周囲の目もある中で、だらしない姿を見せてしまうとこちらの評判にも響いてしまう。

 大人の恋愛事情に関しては未だに理解できないことが多々あるけれど。

 

 それでも、この男が自分以外の女性と一緒に居るところを見ると、何とも言い難い感情が膨らんでしまうことが許せなかった。

 

「明浦路先生は、ライリー先生みたいな女性がタイプなんですか?」

「え? いやいやまさか……って。もしかして狼嵜選手、さっきのアレが原因で怒ってらっしゃる――?」

「私はただ事実関係を聞いているだけです。怒るも怒らないも関係ありません」

「声のトーンからしてもう完全にお怒りだよね……」

 

 それから、一生懸命弁明する明浦路先生に対して、私は不満の表情を浮かべながらも渋々と受け入れる。

 

 どういった経緯でああなったのかは大体想像出来ていたから良いけれど。

 

 この人と組んでまだ日が浅いし、そこまで深く追及するのは野暮というものか。

 

 しかし、今後も同じようなことがあったら、ライリー先生にもちゃんと指導しなければいけない。

 この男のことは少しは信用してはいるが、それでもまだ完全にとまでは行っていないからだ。

 

 これ以上、無駄に好感度を上げた所で何の得があるのかという疑問は生じてしまうところだが……。

 

 一応、彼女にも注意深く警戒しておく必要がありそうだ。

 

「それで。そこで黙って聞いている匠先生は一体何の用ですか?」

 

 切り上げた原因は、明浦路先生の後ろで気配を消している存在が居たからに他ならない。

 

 咄嗟に私が発言したからか、その人物――高峰匠は「バレたか」というような表情を浮かべていた。

 

 対する明浦路先生はずっと気づかなかったようで、とても驚愕しているようだけれど。

 もう少し周りを見た方が良いのではないかと思ってしまう。

 

「しょ、匠先生!? ど、ど、どうしてここにッ!?」

 

 すぐに後ろを振り向いて、膝をつく明浦路先生。

 急な出来事で思わず腰が抜けたのだろう。

 

 この人は、日本のアイスダンスを普及させた当本人。

 また、オリンピックの出場経験や現役を引退してからのコーチング指導でも有名な方だ。

 

 私は昔から「匠先生」と呼んでおり、今でも交流は長く続いているため良好な関係を築いている。

 

 たまにこうして私の練習を見に来てくれることもあり、たびたび助言も頂いている。

 

 特にステップシークエンスに関して言えば、数年前に私がレベル4を取れるようになったのはこの恩師のお陰でもあるのだ。

 

「わっはっは。お前達が上手く行ってるかどうか、ちょっと様子を見に来たんだ」

「そんな唐突に!? あ、あの……今さらですけど、本当に俺で良かったんでしょうか?」

「ん、何がだ? まさかお前、自信無いのか?」

「い、いえ……そういう訳ではないのですが。もっと他に適任が居たのではないかと思いまして」

 

 そう言いつつ、匠先生に対して少し懸念気味に尋ねる明浦路先生。

 

 匠先生は、私の元コーチ――夜鷹純の後任として任せた張本人でもある。

 なぜ、明浦路先生を抜擢したのかは当時の私にも理解は出来なかった。

 

 いのりちゃんというトップレベルの実力の持ち主を抱えているコーチが、どうして夜鷹純の代役として持ってきたのか。

 

 ライリー先生と振付師であるレオニード先生にはずっと前から話を通していたらしい。

 

 陸トレをしていたあの時に、ライリー先生が少し匂わせていたのは私が直前になって動揺させないための行動であったと考えるべきだろう。

 

 いずれ、夜鷹純が私のコーチを辞めることになることも。

 明浦路先生が、私の新たなコーチになることも。

 

 全ては、この高峰匠という人物が決定し、未来を作り変えたに過ぎないのだ。

 

「お前以外に光を任せられる奴が他に居ないと判断したまでだ。もっと自信を持て」

「アハハ……。何だか、匠先生に言われると気が引き締まりますね」

 

 お互いに会話をしながら、日常生活における内容に雑談が発展し、数分の時間だけ私は黙って耳を傾けていた。

 

 詳細な情報を私は持っていないため、この二人がどういう関係なのかはあまりよく分からないけれど。

 

 明浦路先生は昔、この人の娘に当たる瞳先生と一緒にアイスダンスの大会に出ていたらしいので、おそらくその指導を行っていたはずだ。

 

 どうして明浦路先生を瞳先生のパートナーに選んだのかという疑問は未だに払拭出来ていないが。

 

 きっと、この人にしかない光る物がどこかにあるのだろうと思った。

 

「あの……お二人はとても仲が良いんですね」

「まあ、過去にアイスダンスで司の指導をしていたからな。色々と縁があったって感じだ」

「ふーん……。匠先生から見て、昔の明浦路先生ってどんな人だったんですか」

「え? うーん。そうだなあ。最初に出会った時の印象は――」

「ちょっ、狼嵜選手!? なにしれっと俺の恥ずかしい過去を聞こうとしているの!?」

「はあ? 別に良いじゃないですか。どうせ貴方から私に隠すことなんてもう無いんですし。今更じゃないですか」

「いやいや絶対に駄目だから!? それに、匠先生も絶対に勝手なこと言っちゃダメですから!!」

 

 ブンブンと手を振り回しながら、大きな声でそう否定する明浦路先生。

 

 何でそんなに頑なに自分の過去を知られたくないのかは分からないけれど。

 少しくらい教えてくれても良いのにと心の中で思い、ついムッとしてしまう。

 

 別に、全てを知る必要はどこにもない。

 

 それでも、いのりちゃんがあそこまで成長出来たのは、コーチの存在も大きかったはずだ。

 

 本人の努力と才能がずば抜けていたからと言ってしまえば話は早いが、それでも明浦路先生の功績という物は計り知れないほど大きい。

 

 だからこそ、その強さの根底にあるモノが何なのかを単純に知りたかった。

 犠牲を払うことを良しとしない彼が、いのりちゃんに与えた強さが何なのかを知りたかった。

 

 彼の選手時代がどんな感じだったのかを直接聞くことが出来れば、自身も成長できるヒントが見つかるかもしれないと思ったから。

 

「とにかく、あの時は必死だったんだ。そうすることしか、俺には選択肢が無かったから」

「それは、私に聞かせるまでも無いということですか?」

「いいや……そうじゃない。でも、狼嵜選手が俺の過去を聞いたとしても、多分あんまり参考にならないと思うんだ」

 

 そう言うと、明浦路先生は微笑を浮かべながらも、どこか暗い表情をしていた。

 

 失敗。挫折。己の不甲斐なさ。

 様々な過去を乗り越えて、今の貴方が存在するとするならば。

 

 私は、どんな気持ちでこの人をコーチとして任せられるのだろうか。

 

 そんな不安が。衝動が。

 狼嵜光の心臓を抉ることになる。

 

 あの時に抱いたドキドキが失われることが無いように。

 熱い心で燃やされ、心を打ち砕かれたあの日を忘れることが無いように。

 

 私は。狼嵜光は――。

 この人が抱えている重荷が何なのかを共有したかった。

 

「まあ、なんだ。司は本当に一生懸命努力する奴だったよ」

「そうでしょうね……。途中で投げ出すような性格でもないみたいですし」

「第一、たった一年指導しただけであの瞳と同等以上のレベルまで持って行けたのは凄いからな」

「知っています。理凰から散々自慢話のように聞かれましたから」

 

 そう会話し、匠先生はどこか遠い目をしながら昔を思い出すかのように語った。

 

 当時のことを思い浮かべているのだろうか。

 

 懐かしむような。何かをやり残したことがあるかのような。

 

 どちらにせよ、この人は夜鷹純のコーチもやっていた男だ。

 過去の事に関して、何も悔いが無かったなんてことはあるはずもない。

 

 時間を巻き戻すことが出来るのであれば、今すぐにでもやり直したいと思っているだろう。

 

 だが、現実はそこまで優しくない。

 一度起こってしまった事象は変えられない。

 

 過去を変えることが出来ないことは知っている。理解している。

 

 でも、納得はしていない。

 あの狭い箱庭から連れ出すことが出来なかった私でさえ、苦渋の思いをしたのだ。

 

 ジュニアGPファイナルで結果を出すことが出来れば。

 ショートプログラムでしっかりとトップを取ることが出来ていれば。

 

 あの人は、まだ私のコーチを続けていたのだろうか。

 

 全く分からない。

 何度考えても分からない。

 

 でも、あの時失敗したからこそ得られた物もある。

 

 私を、本当の意味で変えてくれるきっかけを作ってくれた人が居たからだ。

 

 今でも喧嘩ばかりして、お互いに認め合えない部分はたくさんあるけれど。

 

 それでも、『明浦路先生』なら私を再び上へ導いてくれるのだと確信出来た。

 

 相性が悪いと思っていた相手なのに、いつの間にかその人を視線で追うようになっていた。

 

 そんな自分が嫌いだと思いつつも、心のどこかで甘えてしまっている部分があるのだと認めざるを得なくなっていた。

 

 こんな生意気な子供の面倒を見てくれる大人なんて、ごく少数しか居ないだろう。

 

 でも、それで良いんだと感じていた。

 この人に甘えられるのであれば、思う存分甘えれば良いと感じていた。

 

 だから私は。

 

「明浦路先生。今から1つだけ、我儘聞いてもらっても良いですか」

「か、狼嵜選手――?」

 

 なぜ、自分がそう言ったのかは分からない。

 けれど、丁度良い機会だと思った。

 

 アイスダンスの指導を行っている匠先生が居るからこそ、見てもらうには絶好のチャンスだと感じた。

 

 この短い期間で。このメンバーで集まることは滅多に無い。

 

 だからこそ、狼嵜光には一つだけ試したいことがあった。

 試さなければいけないことがあった。

 

 それが何なのかと言えば――。

 

「今から、私とアイスダンスを踊ってみませんか?」

 

 

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