狼嵜光が特別な犠牲を見つける物語 作:Black Shadow
腰と足首の回復は順調に進んでおり、近いうちに大会に出場することも考える時期になった。
ノービス、ジュニアと続き、ほとんどの大会で連覇を果たしてきた私ではあるが、この前の大会からはいのりちゃんが王者となっている。
良い意味でも悪い意味でも、あの時。私は負けて良かったのかもしれない。
匠先生からはこの前、「お前ら……今すぐペアかアイスダンスやった方が金メダル取れるんじゃねえの?」と驚異の発言をされた。
どこをどう見たら、私があの人と一緒に滑ったら金メダルを取れるのか。
それは、未だにさっぱり理解できないことではあるけれど。あの発言を聞いてからは、今でも少しだけモヤモヤしていた。
別に、彼の体温を感じてドキッとしたり、顔が近くなって熱くなったりなんてことは決してない。そう、決してだ。
一ミリたりともそんなことがあるはずなんてない。あってはいけない。
だから、これはきっと、私の中で『エラー』が発生してしまっているだけなのだと結論付ける。
たまたま心拍数が上がって、少し意表を突かれただけの話。それ以上でもそれ以下でもない。
それに、あの時は偶然。お互いの呼吸が嚙み合って上手くいっただけの話ではないか。
匠先生の言ってきたことはこれまで理解してきたが、あの発言だけは絶対に納得できない。
それに、あれから周りの生徒に私達の関係について勘違いする人も多くなっちゃったし……。
あーもうっ。それもこれも、全部あの人のせいにしよう。私は全く悪くないしっ。
ここまで自身を変えさせた責任を必ず、取ってもらわなければ――。
そう悶々と頭の中で思考を巡らせながら、氷を削るエッジの音が、静かなリンクに細く響く。
クラブの生徒達はそれぞれの練習へ戻っていったものの、時折こちらへ向けられる視線だけは消えていなかった。
当然だろう。
今の私は、普段なら絶対に見せないような顔をしているのだから。
――司先生。
その呼び方を初めて口にしたあの瞬間から、胸の奥が妙に落ち着かなかった。
たった呼称が変わっただけ。
それだけのはずなのに、これまで積み上げてきた距離感が、ほんの少しだけ変わってしまったような気がした。
「……光さん?」
私の滑りを入念に確認していた彼が、不思議そうにこちらを見る。
私は咄嗟に顔を逸らした。
タイミング的にも、見られたくない時に見てくる所が本当にイラっとする。
「何ですか」
「えっ。いや、なんか急に静かになったから……」
「別に。考え事をしていただけです」
「アハハ。そ、そっか」
それ以上深く聞いてこないあたり、本当にこの人らしい。
空気を読むのが上手いくせに、肝心なところでは踏み込まない。
いや、踏み込めないのかもしれない。
誰かを傷つけないために。
誰かの領域を壊さないために。
そうやって、常に周りを見ながら、一線を引いて生きている。
でも、そんな不器用な優しさを……私はもう知ってしまっていた。
「司先生」
「っ……」
名前を呼ぶだけで、彼の肩が微かに跳ねる。
その反応が少し可笑しくて、私は思わず口元を緩めた。
「そんなに驚くことですか?」
「いや……その、まだ慣れてなくて」
「私だって慣れてません」
「な、なら無理しなくても――」
「無理なんてしてませんが?」
そう即答すると、彼は少し困ったように笑った。
その笑みを見ていると、また胸の奥がざわつく。
前々から、こういう顔が大嫌いだった。
誰に対しても柔らかくて。優しくて。
そして、自分だけが特別ではないと分かってしまうから。
なのに今は、その表情を向けられるだけで安心してしまう。
変わってしまったのだと感じる……私自身が。
夜鷹純を追い続けていた頃の狼嵜光は、もっと尖っていた。
誰にも頼らず、誰も信じず、ただ勝つことだけを考えていた。
勝たなければ意味がない。
努力出来ない人間に価値なんてない。
中途半端な覚悟で氷に立つ人間が嫌いだった。
だから、いのりちゃんのことも最初は理解できなかった。
どうして彼女は、あんな風に笑えるのか。
どうして全部を犠牲にせず、それでも前へ進めるのか。
当時の私には、全くと言っていいほどに納得し得なかった。
だけれど――その答えが、今なら少しだけ分かる。
彼が居たからだ。
司先生が、彼女を独りにしなかったから。
「……先生って、ずるいですよね」
「え?」
「誰かを救おうとしてる自覚が無いところとか」
ぽつりと零した言葉に、彼は目を丸くする。
理凰の時なんてまさにそうだ。
私が笑顔にできなかった部分を、目の前の人が全部成し遂げてしまう。
そのことが今でも、非常に気に食わない所ではあるけれど。
「いや、俺そんな立派なことはしてないつもりなんだけどなあ!?」
「そういうところです」
自分が誰かに与えたものを理解していない。
だから平然と人の人生を変えてしまう。
夜鷹純も。
いのりちゃんも。
そして、多分――私自身も。
「えーと、その……光さん」
少し照れくさそうな声音で名前を呼ばれる。
思わず顔を上げると、彼は少しだけ言い淀みながらこちらを見ていた。
「前に、河川敷で君から言われたことを、少し考えていたんだ」
その瞬間、胸がキュっと締め付けられたような気がした。
以前、感情のままにぶつけた言葉。
彼のやり方を否定するような言葉。
あの時の私は、自分でも驚くほど子供だった。
いや、もしかしたらそれ以上に。夜鷹純に依存しすぎていたのかもしれない。
だからこそ、自分自身のことも。周囲の大切な人達のことも。
皆を巻き込んでしまったこの紛い物が、今後もこの業界をかき乱すなんてことは、本来許されないはずなのに――。
「……忘れてください」
「忘れられないよ。ちゃんと刺さったからね」
冗談めかした口調だった。
でも、その目はいつになく、真剣だった。
「いつか、必ず話すよ」
「え――?」
「俺の、過去についてのこと」
司先生は、遠い場所に視線を向けながらそう言った。
表情を見るに、今は何とも言えないといった所だ。だから、どんな感情で今、私にその言葉を発したかは分からない。
でも――自身の心の内を曝け出す意思があることに、少し驚きを感じていた。
「多分、ずっと怖かったんだと思う」
「怖い? それは、何に対してですか」
「選手と、本気で向き合うことが」
意外な言葉だった。
この人は、誰よりも真正面から人に向き合える人間だと思っていたから。
「周りに期待された分だけ、応えられなかった時の方が物凄く怖い。誰かの人生を背負うのって、思ってるより重いんだよ」
リンクの外側で、彼は静かに目を瞑りながらそう呟く。
「だから、無意識に距離を取っていたのかもしれない」
その言葉で、全て腑に落ちた気がした。
誰に対して、なんてことは言わなくても分かっていた。
それは――いのりちゃんに対してですか。ということは私の口からは吐き出せなかった。
彼は平等なのではない。
誰か一人を特別にしてしまうことを恐れていたのだ。
期待されることも。
依存されることも。
信頼されることさえ。
全部受け止めようとして、逆に一歩引いてしまう。
なんて、不器用な人なんだろう……そう思った。
最初から分かっていたことだけど、この人は誰よりも人の幸せに敏感で、誰よりも自身の心を犠牲にしてしまう。
そのことを知ってからは、少しだけ胸が痛くなることもあった。
だけど、ここで終わらせてはいけない。
なぜなら、今この瞬間。
あなたの隣には、狼嵜光が居るのだから――。
「……なら、私が変えてあげます」
「え?」
「司先生のその悪癖」
そう言うと、彼は目を瞬かせる。
「別に、全部一人で背負わなくてもいいじゃないですか」
私自身に言い聞かせるような言葉だった。
これまでの私は、人に頼ることを弱さだと思っていた。
孤独でいることこそが、強さなのだと。
でも、それは違う。
本当に強い人は、誰かと並んで立てる人間だ。
夜鷹純には出来なかったこと。
そして、多分……昔の私にも出来なかったこと。
「私、先生のことを利用しますから」
「り、利用って言い方……」
「その代わり、先生も私を利用してください」
言葉にした瞬間、彼は少しだけ目を見開いた。
対して、私はゆっくりと優しく笑ってみせる。
「だから、いくらでも待ちますので。いつか……先生のこと、教えてくださいね」
今の私だから言えること。
この人に出会わなかったら、絶対に言えなかった言葉。
でも、それで良かったんだと思う自分が確かに存在していて、それに納得するもう一人の自分も居る。
ちょっと回りくどい言い回しになるかもしれないけれど。
今はそれだけで、十分な気がした。
「……変わったね、光さんは」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「え? そ、それは、えーっと……」
「ふふっ。司先生ですよ?」
即答すると、彼は困ったように頭を掻いた。
本当に調子が狂う。
もっと傲慢でいてくれれば楽なのに。
もっと自信満々でいてくれれば、私はこんなに振り回されなかったのに。
なのに、この人はどこまでも不完全だ。
だから、目を離せない。
だから、放っておけない。その温もりを手放したくない。
リンクの照明が、氷上に淡く反射する。
白い世界の中で、私だけが静かに滑っているような――そんな錯覚を覚える。
「司先生」
「ん?」
「私、絶対に勝ちます」
全日本も。
その先も。
夜鷹純が居た場所へも。
全部頂点を掴み取る。
「だから――最後まで面倒見てくれないと、許しませんから」
すると彼は、一瞬だけ驚いた顔をして。
それから真っ直ぐに頷いた。
「うん……もちろん!」
その返答に、胸の奥が熱くなる。
ああ。本当にずるい人だ。
こんな言葉を、そんな表情で返されたら。
期待してしまうに決まっている。
この人となら、もっと先へ行けるかもしれないと。
今まで見たことのない景色へ辿り着けるかもしれないと――。
氷を強く蹴る……加速する身体。風を切る感覚。
背中の後ろには、静かに見守ってくれている彼の視線。
独りではない。
それがこんなにも心強いことなのだと、私はまだ知らなかった。
けれど、この瞬間だけは確信していた。
司先生となら、私はもう一度戦える。
夜鷹純という呪縛を超えて。
狼嵜光として、いのりちゃんが待つ頂点へ辿り着ける。
そして――。
彼に向けるこの感情が、単なる信頼だけではないことを。
私はまだ、知らないふりをしていた。