狼嵜光が特別な犠牲を見つける物語 作:Black Shadow
自動販売機で何を選ぼうかと考える。
いつもなら真っ先にスポドリのボタンを押して飲む所だが、今日は不思議とそういう気分ではなかった。
自然と、あの男が今手に持っている飲み物が目に入る。缶コーヒーのブラック。
そんな苦そうなモノを飲んで何が美味しいのだろう。自分も昔、一口飲んでみたことはあるが、あの味は少し苦手だ。
だが、口の中に染み渡るその味は、今までに含まれていた他の味覚をリセットするには丁度良いのかもしれない。
スケート場でパフォーマンスに余計な甘さが入るぐらいなら、苦味を味わう方がまだマシだろうか。
その感覚を口から全身へと行き渡らせ、自らの失敗を反省し次に修正を図る。
しかしながら、私のコーチ……夜鷹純の元にいる限りは『失敗』は絶対に許されない。
氷の上でどんなことが起きようとも、表彰台のトップを取り続けなければならない。
全てはあの人と同じ、金メダルという最高の称号を手に入れるため。そして、フィギュアスケート時代の夜鷹純を超えるためだ。
今の私にはいのりちゃんという強力なライバルがいるが、実力的にはまだまだ足りない。それは自分自身にも、彼女自身にも両方に言えること。
だからこそ、私のコーチと同じ実力を持つ存在がいのりちゃんにも必要ではないかと考える。
スケート以外の全てを犠牲にし、氷の上でしか生きれないように指導する。そんな存在が。
様々な思考を巡らせながら、自販機で真っ黒の飲み物があるボタンを強くを押して、ピッという電子音が鳴る。
数秒してガタッという音が聞こえたことを確認し、滑らかな動作で下の方から飲み物を手に取る。
これは大人がよく飲むやつだが、自分ももう中学生だ。このぐらいの苦さは許容範囲だろう。
そんなことを思いながら缶の蓋を指で軽く開けると、隣に居るあの男が話しかけてくる。
「か、狼嵜選手……。普段からブラックを飲んでいるの?」
「いえ。今日はたまたまです。ただ今、苦いのが欲しい気分だったので」
そう言ってから、缶コーヒーに口を付けて液体を中に流し込む。
すると、苦味が口の中を渡って味覚に刺激が発生した。
一瞬、その刺激に押し潰されそうな感触を味わったが、決して顔には出さない。
「ハハっ。それ、とてつもなく苦いでしょ。自分も飲んでいるんだけど、未だにこの苦さには慣れてなくて」
微笑みながらこちらを見つめる彼。
目を合わせると、やはり気に食わない感情が先走ってしまうのか、つい自分の方から顔を逸らしてしまう。
「別に私は問題ないです。まあ、明浦路先生はもっと苦い経験を味わった方が良いと思いますが」
「これ以上苦いのはちょっと勘弁かな……。というより、なんか別のことを言われているような気がするんだけど気のせい!?」
「さあ、どうでしょうね。自分の胸に手を当てて考えてみては?」
「うぐっ……。そ、そうだな。一回ここで立ち止まって振り返ってみるのも良いかもしれない」
そんな意味も無い会話をお互いに繰り出しながら、一秒一秒と時計の針が進んでいく。
スケートを滑る時間以外は全てが無駄。
そんなことを思っていた時期が多少あった。
だが、今この瞬間は不思議とそんなに悪くない時間を過ごしているのではないかと感じている。
隣に居る人は、私にとって相性の悪い相手なはずなのに。
ずっとここに居ても、気持ち悪くなるだけのはずなのに。
どうして私は、こんなにも子供っぽい感情を表に出してしまうのだろうか。
思えば、あの河川敷でお互いの価値観をぶつけ合った時からそうなのかもしれない。
この人は犠牲を払わなくとも勝負の世界では『執念』さえあれば関係ないと思っていて。
だからこそ、いのりちゃんには無理をさせずにじっくりと成長させる道へと導いていく。
それも、焦らずに。地道に。四年に一度しかない、オリンピックで金メダルが取れるようにスケートを磨いていく。
体も心もきっと、あの子は時間が経つに連れて成長していくことだろう。
対して、私――狼嵜光はどうだろうか。
天才と言われたあの夜鷹純の元でずっと滑り、全日本ノービス大会では四連覇を果たした。
今までも、そしてこれからもずっと。表彰台の頂上に居続けることは確定している。
そこから一つでも段差が落ちようものなら、それはもう私ではない。
ただ単に、人生の中で犠牲を捨てた量と重さが足りなかったことを嘆き、苦しむことになるだけだろう。
そんな思いをするぐらいなら、最初からスケート以外の全てを捨てて戦った方が悔いなくやれるし、命だって捨てられる。
それぐらいの覚悟で臨まなければ、自分の夢は叶えられない。もちろん、今でもそう思っている。
だが、果たしてそれでいのりちゃんに勝てるのだろうか。
このまま突き進んでいって、本当にあの人を超えることができるのだろうか。
そんな疑問が、不安が。
精神的な問題となってプレーにも影響が出てしまう。
だからこそ、ここでしか聞けない事を聞くしかないと思った。
私と同じ境遇にいるこの人ならば。
私よりも苦味の経験が長いこの男ならば。
きっと教えてくれるのではないかと思ったから。
「明浦路先生は、どうしていのりちゃんを選んだんですか?」
「きゅ、急に唐突だね……。狼嵜選手の思考が全く読めないな」
「勿体ぶらずに答えてください。ちなみに貴方には最初から拒否権はありませんので」
「あはは……困ったなあ。ちょっと恥ずかしいからあんまり話したくはないんだけど」
そう言いながらも、ポツポツと呟きながら理由を話していく明浦路先生。
話を聞いていると、どうやらいのりちゃんを見る目だけはあるようだ。
もし、これで変な事を言っていたら、即刻教育しなければいけない所だった。
まあ、私の方がもっと情熱的に語れるけれど。
「――って感じで。あ、あれ。狼嵜選手……なんか不機嫌そうな顔してるけど、どうしたの?」
「別に。ただ、そうやって色んな人を口説き落としてきたんだなと思って嫌気が差しただけです。気にしないでください」
「いやいや普通に気にするよ!? あとその言い方、地味に傷つくからやめてね!?」
私が嫌味を言うと必ず言い返す。それがこの明浦路先生の特徴だ。
いくら大人だからとはいえ、何を言っても良いという訳ではないのは理解しているけれど。
なぜか、この人の前となると、どうしても文句の一つや二つは口から出てきてしまうものだ。
「すみません。でも、こんな酷い事を言うのは貴方の前だけですので。どうか安心してください」
「狼嵜選手……やっぱり前回から何も反省していないような気がするっ!?」
「そうですか。なら、後で一杯いのりちゃんから慰めてもらってください」
そう言って、自ら悪戯顔を浮かべながら明浦路先生に対して視線を向ける。
今、他の皆が私の言動を聞けばきっと驚くことだろう。
なぜなら、小さい時から『大人』でいることを当たり前としていた狼嵜光が定着しているからだ。
こんな子供っぽい一面を今見せてしまえば、明日氷の上で滑ることは出来ないだろう。
だが、この人……明浦路司だけは特別だ。
私にとって相容れない存在で、私と同じ能力を持ち合わせていながらそれを行使しない憶病な人。
お互いのスケートにかける価値観すらまるっきり異なっていて、犠牲の払い方にも違いがある。
けれど……。
この人は私の大切な人、理凰を救ってくれた。
あんなにスケートに対して後ろ向きだった少年を、私が望む想像以上に実力を伸ばしてくれたこの人には恩がある。
また、私のコーチである夜鷹純も。私のことを大切に育ててくれた鴗鳥先生も。
自分の周りにいる人は、皆。この目の前にいる明浦路先生に興味と関心を抱いている。
どうしてなのかは、私には分からないことだけど。
でも、これから徐々に、この先生のことを知っていくことに悪い気はしなかった。
胸の中に潜むこの鼓動は、きっと気のせいなのだと信じて。