狼嵜光が特別な犠牲を見つける物語 作:Black Shadow
人には欲がある。
物欲。金銭欲。承認欲求。
数えきれないほどの不要なものがこの世界では存在する。
スポーツ選手であれば、この雑念思考が自分の足を引っ張ることになるのだと分かっているはず。
しかしながら、失敗した過去を綺麗に清算し、自己ベストを尽くして前に進めるのはごく一握りしかいない。
一度転べばそこで試合終了の現実。ギャラリーからの重圧。本番で表彰台に入れなかった時の絶望。
それらを踏まえても、やはり精神的なダメージは計り知れないものだ。
もっとも、私自身はそんな恐怖心を抱くことがあっても、常に勝ち続けなければいけない。
夜鷹純の元でスケートを続けるためには、常に金を取ることが絶対条件。
だからこそ、今は安静に。そして、傷がこれ以上悪化することがないように、体のストレッチは欠かさずに行う。
「1…2…3……」
最近は足首の状態もあまり良くないため、ライリー先生からは特別なメニューが施されている。
入念な体のケアはあの人の専門分野でもあるし、何よりも16歳で金メダルを取っているという実績があるからだ。
最初、このクラブに入った時は疑心暗鬼で様子見していたが、今となってはそこそこ信頼する程度までには彼女のことを認めている。
まあ、少し変わっているところもあるため、まだ完全にとまではいかないが。
それでも、私の表コーチとして、立派に務めてくれていることには感謝をしなければならない。
「ピカるん。足の状態はどう?」
「先週は少し痛みがありましたが、今は問題ないです。心配かけてすみません」
「んー。そう? 本当に無理してない?」
「もうっ。ライリー先生もちゃんと見てたじゃないですか。あれはただの疲労ですよ」
黙々と与えられているトレーニングをこなしている私に対して、ライリー先生は少し不安そうな表情を浮かべる。
それもそのはず。あの狼嵜光がここ一週間、満足にスケートが出来ていない状況にあるからだ。
ついこの前、夜鷹純にも私の体の状態をすぐに察したからか、夜の曲かけ練習はしばらく中止と言われた始末だ。
転倒せずに完璧に滑り切ったはずだが、やはりあの男の前では多少の誤魔化しは効かないといった所だろう。
だが、再来週に行われるジュニアGPまでには必ず調整しなければならない。
いくら不調だからとはいえ、きっとあの人は試合に出ないことを許可しないはずだ。
それに、選手としては怪我をしないことも実力の内。
こんな所で私が立ち止まっていては、本気で闘ってくれるライバル達にも申し訳が立たない。
いずれにせよ、いのりちゃんと勝負できる機会を逃すわけにはいかないのだ。
「ふふっ。そっかそっか! でも、後一週間は今日と同じトレーニングを行ってね。これは体の治療でもあるんだから」
「はい、ありがとうございます。ライリー先生が強い体で金メダル取れたのも、今になって何だか納得できたような気がします」
「イヤー。改めて言われるとなんか照れるね! まあでも、当時は結構怪我する選手が多かったから、なるべく負担のかからないようにストレッチを行う習慣を身に付けるしかないのよねー」
そう言いながらも、あっけらかんとして満面な笑みを浮かべる彼女。
いつか私も、そんな本当の感情を表に出せるような女性でありたいと願望しているが、そんな願いはおそらく叶うことはないだろう。
私にとっての希望の光は、きっと、もうどこにも無いのだから。
思えば、去年のジュニアGPの時に、いのりちゃんのために滑った私は太陽みたいに明るかっただろうか。
あの時は、そうだったのかもしれない。
でも、今はどうなのだろう。
皆が思っているような存在になれているかと言われれば、恐らく自分は否定する。
名港ウィンドFSCから離れて一年が経ち、たくさんの経験を積んできた。
理凰との別れ。家族との別れ。
そして、クラブの仲間達との時間も無くなって、孤独に身を任せる辛い時期を過ごしてきた。
もちろん、環境が変わることで新しい出会いもあり、楽しい日々を過ごせてはいる。
新しく転入した中学ではたくさん友達も出来たし、スケートの技術も向上させることが出来た。
コーチの方は相変わらずだったけど。
それでも、後悔の無い人生を歩めているのだろうと、そう感じていた。
そのはずなのに――。
「はぁ……何してるんだろ。私って」
「おっと。もしかして女の子の悩み事かな?」
「ライリー先生は黙って見守っててください」
「もー。相変わらずピカるんは冷たいナー。しくしく」
「嘘泣きは効きませんよ」
「あ、バレちゃった?」
「もうちょっと顔の演技が上手くないとダメですね」
「ふふっ。そっかー。まだまだ私も修行が足りないみたいだねー」
裏が読めないコーチだなと思いつつも、とにかく雑念を振り払う時間には充分だった。
そこからお互いに会話をしつつ、10分程メニューをこなす。
いつもであれば、全ての日課を終えた後はそのまま帰宅するところなのだが――。
ここで、なぜか一週間ほど前に会ったあの先生のことが頭の中でチラつく。
確か、ライリー先生からの頼み事でこっちに来たって言っていたけど……一体あれは何だったんだろう。
あの後、すぐに彼は名古屋の方に帰って行ったし、そんな中身のある会話をした訳でもないけれど。
ただ……。そう。
少し気に食わない感情が先行してしまっているだけだ。
ライリー先生が、あの人のことをかなり評価しているという事実に対して納得がいかない部分がある。
ただそれだけのこと。
別に、これは嫉妬心とか、子供心とか、そういうのではない。
一応、目の前にいる彼女も私にとっては大切なコーチなのだ。
悪い男に利用されていないかどうか、内容を確認するだけなら話は早いだろう。
「そういえば、この前。明浦路先生とお会いしたんですけど、何の用事で呼び出したんですか?」
ごく自然に、私はふとした疑問をライリー先生に問いかける。
すると、くるっと綺麗にこちらに振り向いた彼女は一瞬、思案顔になりながらも、すぐにニヤッと企む表情へと変えた。
ああ。これは何か良からぬことを考えている顔だ。
大体彼女が何を言ってくるかは察するが、冷静にセリフを返すことに徹する。
「え、なになに。もしかしてピカるんも、司先生のこと狙ってるの?」
「何でそうなるんですか……。別に狙ってません」
「えー? でも、私から見ればいのりちゃん以上に司先生の事に執着しているような気がするけどナー」
「では、それに私が納得すれば満足してくれるんですか?」
「アハハッ。それはどうだろうねぇ」
そう言いながらも決して本音を見せない。
大人というものはどうしてこんなに隠すことが上手いのだろう。
自分も、そんな余裕のある大人に早くなりたいなと思った。
「でも、これだけは言えるかな。ピカるんにとって、きっとこれから良いことが起こるはずだよ」
「それはさっきの答えと捉えても?」
「少なくともライリーちゃんからはノーコメントとしか言えないかな」
「そうですか。なら、期待はしないでおきます」
そう言いつつも、なぜか心に靄がかかる。
もしかして、私は何か過ちを犯してしまったのだろうか。
いや、そんなはずはない。
夜鷹純を超えるために、私はいくつもの犠牲を払い続けるのだ。
だからこそ、これからも。
自分の足で、必ず前に進めるはず。
そう。たとえ、どんなに困難な試練が立ちはだかって来ようとも、無感情に倒していけば良いだけ。
しかしながら、そんな異質な日常を送っていた私は、この時、何も知らなかった。
まさか、自分のコーチが変わるだなんてことは――想像してもいなかったのだから。