狼嵜光が特別な犠牲を見つける物語 作:Black Shadow
氷の上はいつだって冷たい。
その中でも、トップに立てるのは一人だけ。
スケートリンク場で輝けるたった一つの希望の光。
周りを魅了させる程の冷酷さを兼ね備えた者は、おのずと次へのステップに足を踏み入れる。
いとも容易く。いとも簡単に。そして、当たり前のようにジャンプを成功させ、身軽に跳ぶことが出来る。
どんな選手よりも綺麗なスケーティング。手足の柔軟性。コンビネーション時の滑らかさ。
もちろん。私も、そんな素晴らしいスケート選手になりたいと思いながら、日々努力を積み重ねている。
いつも下ばかりを向いて、お母さんに迷惑をかけていた過去のことを思い出すと、思わず胸がキュっと苦しくなる。
でも、自分がスケートを特別にすると誓ったあの日から、全てが変わったんだ。
何事も物事に対して本気でぶつからなければ、想いは一生伝わらない。
スケートに掛ける情熱も。支えてくれた人に対する感謝も。
それら全てが私にとって、生きる上で必要なことだったのだ。
そして、去年の全日本ジュニア時にSPで結果が振るわなかった時。
嘘の笑顔で誤魔化しながら、全て投げ出したいと思っていた時。
自分のことをライバルだと謳ってくれた天才フィギュアスケート選手が目の前に現れて。
私の名前を何度も呼んでくれて。私がどこに逃げても追いかけてくれて。
あの夜の茂みで見つけられて。たった一人の憧れていた選手が、自分のことを諦めないで居てくれて。
そんなライバルのことを、自分はとても尊敬していた。
こんなどうしようもない私の事を、あそこまで気にかけてくれたことに涙が止まらなかった。
そして嬉しかった。私にとって、全てを失いかけていたあの真っ暗な心を打ち砕いてくれたことが。
だから、今度は。
もし光ちゃんが、あの時の私と同じく道を見失いそうになったら、自分が救うのだ。
どんなにプレッシャーがあっても。どんなに凄い選手になっても。
私だけは、本物の彼女を否定してはいけない。
そう心に決めていた。
「ひ、光ちゃんっ!」
少し大きめの声で呼びかけると、会場の外でベンチに座っていたライバルが反応する。
俯いていた顔をゆっくり上げると、彼女の綺麗な顔が視界に入る。
「いのりちゃん……?」
そう呟きながら、少し驚いた表情を浮かべる光ちゃん。
先程、ジュニアGPのショートプログラムが終了したばかりだ。
本来であれば、明日のフリーに向けて早めにホテルへと戻って体を休めなければいけない。
だが、今日の光ちゃんの滑走を見て、私はどこか違和感を覚えざるを得なかった。
最初はトップレベルのスケーティングで周りを圧倒しながらも、最後のジャンプを跳び降りた後に苦悶の表情を浮かべていたからだ。
着氷こそは出来ていたものの、本来3回転アクセルのはずだった所が2回転アクセルに変わり、大幅に減点される。
それだけじゃない。途中のステップシークエンスもレベル4を取れず、どこか痛みを抱えながら滑っている印象を感じた。
まさか、大きな怪我がある状態でこの大会に出場したのだろうか。
いや、彼女がそんな危険な賭けに出るはずがない。
それに、あの体のケア専門で実績があるライリー先生が傍にいるのだから、そんな下手なことは出来ないはずだ。
だから、きっと大丈夫なはず――。
「光ちゃん……」
もう一度、そう呼び掛けながら、彼女が座っているベンチへと近づく。
どうしても、今話したい。
そう思ったからには、悩むよりまずは行動してみることが大切だ。
帰宅時間が遅れて、司先生には心配されるかもしれないが……その時はその時だ。
とにかく、今の彼女を放っておくことは出来ない。
「いのりちゃん。まだ帰ってなかったんだ」
「うん。光ちゃんをずっと探してて……。ここに居たんだね」
「ふふっ。なんか、嬉しいな。こうしていのりちゃんが、私のことを追いかけてくれるなんて」
「そ、そんなの。当たり前だよ……!」
私は焦っている。
光ちゃんが、私の元から遠くへ行ってしまうことに不安が生じている。
その表情を見れば、いつもの光ちゃんではない。
いや、滑走が始まる前から何かがおかしかった。
「ごめんね。今日はみっともない姿見せちゃって。明日はしっかりと仕切り直すから私は大丈夫だよ!」
そう言って、満面の笑みを浮かべる彼女。
ああ。違う。そうじゃない。
私が聞きたいことはそういうことじゃない。
本当は分かっていたはずだ。
光ちゃんが、無理してジュニアGPに出場するなんてことは、初めから分かっていた。
その笑顔に、一体どれ程の辛さが含まれているのかはきっと、誰にも想像出来ないだろう。
一年前の私と、似たような状況だ。
多分、光ちゃんは今。すごく苦しい思いをしている。
私は頭が悪いし。勉強も全然分からないし。友達も少ない。
その上、周りの人に一杯迷惑ばかりかけているから。
上手く言葉で表現することは難しいけれど。
それでも。
周りのプレッシャーに抱えられながら、自分のスケートが出来ないことは何よりも辛いことは、私が一番よく知っている。
何度も本番で転倒して、思い通りに行かないことだってたくさんある。
氷の上で傷つくことが、誰よりも苦しいんだってことは理解している。
だからこそ。ここで光ちゃんの心が折れてしまわないように。
ここで、彼女のスケートに対する情熱が失われないように。
今度は私が。結束いのりが。
彼女の『希望の光』とならなければいけない。
「私は、バカでポンコツで……昔から臆病者だから。こんな事言っても、全然光ちゃんには届かないと思うけど」
唯一無二のライバルに対して、自分なりに言葉を必死に考える。
目の前に居る人は、自分にとって目指すべき場所で。
いつだって、私の目標で、スケートを始めるきっかけを作ってくれた人で。
あの時、目の前で跳んでくれた彼女の景色を自分も見てみたくて。
だからこそ。必死に努力して。一杯転んで。
何回も高い壁を乗り越えて。
やっと。ここまで追いつくことが出来たと。
そう思っていたはずなのに。
「私、待っているから。明日のフリーもそうだし、来年も再来年もずっと。いつもの光ちゃんが戻ってくるまで、ずっと待ってるから」
「ふふ。そっか……。いのりちゃんは、私の事。見捨てないで居てくれるんだね」
どんなに良い言葉をかけても、意味が無いことは知っている。
彼女がスケートに対して、何の感情を抱いているのかを私はまだ知らないのだから。
でも、だからといって大切なライバルを野放しにすることは出来ない。
これはきっと、私に与えられた試練なのだ。
挫折しそうになっている彼女を救うことが、結束いのりにとって為さなければいけない事なのだ。
「ひ、光ちゃん! 私は……ッ」
そう言いかけた途端、なぜか言葉が出なかった。
続く言葉を、発することが出来なかった。
どうして。なぜ私は今言えなかったのか。
それは――。
「ねえ。いのりちゃん」
光ちゃんがそうポツリと呟く。
無表情で。無感情で。無機質で。
今までに見たことのない冷たい視線で。今にも何かがはち切れそうな雰囲気で。
お互いの関係が。これまで築いてきた証が。
ここでパツン、と途絶えてしまいそうな、そんな空気感が漂っていた。
「今からちょっと変な事聞くけど、良いかな」
「うん……。光ちゃんのためなら、何でも答えるよ」
そう言うしかなかった。この選択肢しかなかった。
少しでも時間を延長できるように。この関係が一秒でも長く続くように。
とにかく、終わらせるわけにはいかなかった。
こんな所で、彼女との友情が壊れるのが、嫌だった。
「いのりちゃんにとって、今一番信頼できる人って誰?」
「え……? そ、それはどういう?」
「やっぱり、明浦路先生?」
「う、うん……。司先生は、私にとって大切なコーチだよ」
突然、よく分からない質問をされた。
光ちゃんの意図が読み取れない。
真意が汲み取れない。
でも、なぜか嫌な予感がする。
「そっか。なんか羨ましいな。二人の関係性が」
「そ、そんなことないよ。光ちゃんだって、あの夜鷹さんの元でスケート頑張ってるの、凄いって思ってるよ?」
「そうかな。私、あの人の元でちゃんと、頑張れているのかな」
「光ちゃんは、誰よりも努力してるもん。私だけじゃなく、他の皆もそう感じてる!」
だから、最初は気のせいだと勘違いしていれば良かったのだ。
ここで無理に、感情を押し殺すことなんてしなくても良かったはずなのに。
「私ね。夜鷹純のことが、分からなくなっちゃったんだ」
「え……?」
「多分、見捨てられたんだと思う。私が、この体を上手くコントロール出来なくなったから。きっと、もう用済みなんだろうなって」
「それは絶対に違うよ……光ちゃん。いくら契約の条件があったって、あの人はちゃんと、光ちゃんの事を大事に想ってくれてるよ」
光ちゃんは、一生懸命連れ出そうとしていたんだ。
夜鷹純を。あの冷徹な男を、たった孤独に生きる一人だけの世界から、連れ出してやりたかったのだ。
でも、結果として駄目だったんだ。
スケートで証明しようとも、体が先に限界を迎えていたんだ。
「あははっ。いのりちゃんは優しいね。ほんと、優しすぎるくらい」
「光ちゃん……」
ベンチから立ち上がった彼女は、今。何を思っているのだろう。
直接答えを言われなくとも、私は分かってしまった。
きっと、光ちゃんのこれからのスケート人生が、180度変わってしまうことになるだなんて、予想出来るはずもない。
「いのりちゃん。一つだけ、私の我儘、聞いてくれないかな」
そう言って、こちらを振り向く彼女。
どんな願いだって叶えてみせる。
そして、これだけは言える。
私が、手を伸ばして彼女の手を引っ張って。
またもう一度、スケートリンク場に立たせるのだ。
あの時の、圧倒的で自信満々な狼嵜光というスケート選手を再び蘇らせるために、私が助けないといけない。
そのために、ここに自分が居るのだ。
だが――。
光ちゃんが発する次のセリフで、私の思考は突如、停止することになる。
「光ちゃん……なんで」
彼女に言われたことに対して、理解が出来なかった。
どうして、あんな言葉を発したのかは今でも忘れられない。
ただ、決定的に私たちの関係を変えるには充分すぎるくらい、衝撃的なことだった。
まさか、私の大切なコーチが光ちゃんに奪われることになるだなんて――想像すらしていなかったのだから。