狼嵜光が特別な犠牲を見つける物語 作:Black Shadow
明浦路先生がスターフォックスFSCに来てから、一か月ほどが経過した。
今の私に足りない部分や技術的な点なども踏まえて、あの人は丁寧に教えてくれた。
そのため、コーチとしては幾分か少しは信頼出来るかなと感じた。
成長期を迎えている途中に体も大きくなったことで、重心の位置や回転時の軸に変化が起こる。
去年の不調の原因は怪我の要素はもちろんあった。
しかしながら、それ以外にも今言ったような修正能力が及ばなかったことも敗因として挙げられるだろう。
過去の大会での動画を交えながら、明浦路先生と深く議論が出来たことは大きな収穫だった。
いつもなら、自分自身の改善点を磨いてスケートスキルを上達させるはずが、彼から課題を洗い出されてハッとする場面もあったりした。
夜鷹純であれば、滑っている所を見て真似する作業が大半だったため、こうしてコーチと相談しながら二人三脚でやっていくのは慎一郎先生以来かもしれない。
もちろん、ライリー先生からもアドバイスは受けてはいたが、彼女は他の生徒達もたくさん抱えているため、中々時間が無かったという事情もある。
生徒一人だけを贔屓に教えるわけにはいかないので、クラブのコーチというものはとてつもなく大変なのだ。
親御さんとの話し合いや、寮で生活させることの責任もあるだろうし、常に周りに気を遣わなければならない。
それが大人の役割であることは百も承知だが、明浦路先生の場合は自覚が無い分、周囲の人から好かれすぎている性質がある。
まあ、今更あの人の悪口をここで言うつもりもないし。
私のコーチになったのだから堂々と構えてればそれで良いけれど……。
心の中で少しの愚痴をこぼす事ぐらいは許してほしい所だ。
そんなこんなで年も明けてしばらく経ったが、例年以上に寒さが東京に舞い戻ってきた。
この時期は特にインフルが流行るため、なるべく体調を崩さないように自己管理をしなければならない。
体を冷やして風邪をひく生徒もたくさん居るため、睡眠と食事はしっかりと取ることが大事だ。
また、スケートの練習を過剰にやりすぎると、筋肉の疲労から熱が発生することもある。
ただでさえ氷の上は冷たいのに、無理して体を動かせば辛い未来が待っているのも想像できるはずだ。
だが、肝心の誰かさんは今現在。
どうやら、生徒でもないのに熱を出して家で寝込んでしまっているらしい。
良い大人してる癖に、年が明けて早々に病気にかかるなんて、本当に付いていない人だ。
今日も指導を受けるはずだったのに、こんな有様になろうとは予想すらしていなかったが。
いずれにせよ、愚かというにも程があるといった所だろう。
「体は丈夫な方だからって、あれだけ自慢してた癖に」
そう一言。冷たく言葉をこぼしながらも、なぜか私はあの人が住んでいるアパートの前に来てしまっている。
クラブからそこまで遠くない場所であったため、道に困ることは無かった。
もちろん、ここに至るまでは変装したり買い物したりと、色々と手間がかかったが。
ここで勘違いだけはしないでほしい。
別にこれはただのお見舞いだ。しかも、最初から狼嵜光自身が行きたいと思って来ているわけではない。
ライリー先生から「心配だから様子見てきてほしい」と土下座されてお願いされた程だから、仕方なく来てあげただけなのだ。
私があの男のことを気にかけてるだなんてことは1ミリも無い。
だから、妙な憶測はやめてほしい。絶対にだ。
部屋番号が『A-206』の目の前に辿り着き、そのままインターフォンを押す。
ピンポーンという電子音が鳴っても出る気配が全くない。
まさか、ここまで来て居留守なんてことがあるのだろうかと勘繰ってしまったが、数秒後に足音が聞こえてきたため少し安堵した。
「す、すみません! 起き上がるのに少し時間がかかってしまって――って、か、狼嵜選手ッ!?」
部屋の扉を開けて、私が目の前に居ることに驚愕している明浦路先生。
その驚き様はちょっと失礼では無いだろうか。
せっかくこの私の貴重な時間を割いてまでやってきたというのに、少しムッとしてしまう。
まあ、本当であればライリー先生が来るはずだったから無理はないけど……。
「こんにちは明浦路先生。随分と顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?」
「う、うん。それはまあ問題無いんだけど……っていやいや。待て。一旦落ち着こう狼嵜選手!」
「落ち着くのは貴方のほうです。それに、声がデカすぎます。近所迷惑になるので、もう少しボリュームを下げてください」
「ウッ……。ご、ごめん」
そうして、謝りながら素直に頭を下げる彼。
その姿を見てから、部屋の中に入れさせてもらうと想像以上に物があちこちに散らかっていた。
一人暮らしの成人男性というのはこういうものだと聞いたことがあるが、それにしては少し管理を怠り過ぎている。
夜鷹純の時もそうだったが、この人もこの人で似ている部分があるんだなと思った。
「病院にはもう受診したんですか?」
「昨日の夜に行って、薬貰ったから大丈夫。まあ、体調はかなりキツいけど……」
「なら、今すぐ横になって寝てください。後は私が全部やりますから」
「え? いや、流石にそこまでやってもらうのは――ゲホッ!」
「どうやら、体の方は素直なようですね」
そう言いながら、ごみ袋の方へと目を向けると、そこにはカップ麺やらビタミン剤やらが大量に溜まっていた。
普段からまともな食事すら取れていないのだと思うと、ちゃんと生活できているのかが心配になってくる。
いのりちゃんが常日頃、明浦路先生のことを気にかけていたことも納得する。
「その……狼嵜選手はどうしてここに?」
「ライリー先生から代役として頼まれただけです。先ほど、スーパーで飲み物とか栄養のある食べ物を買ってきたのですが……余計なお世話でしたか?」
「いや、全然そんなことはない。むしろ、外に一歩も出れない状況だったから助かるよ」
「女子中学生に面倒見てもらうなんて、大人としてどうかと思いますけどね」
「アハハッ。言い返す言葉がない……。でも、心配してくれてありがとう」
「お礼はライリー先生に言ってください。お金の方は全部彼女が出してくれているので」
そんな会話をしながら、台所のキッチンに買い物袋を置く。
その後、冷蔵庫の中を覗くと案の定、何も入っていなかったため思わずため息を吐いてしまう。
まあ、イメージ通り予想は出来てはいたものの、ここまで酷いとは思っていなかった。
東京に来てから環境が変わった影響で、色々と忙しいのは理解できるが……。
もう少し、自分の身の周りの事をきちんとやってもらわないと困る。
仮にも狼嵜光のコーチなのだから、生活面においても規則正しく送ってもらわなければ示しがつかない。
それに――。
「また、夜遅くまでバイトしてるんですか?」
この人と一ヶ月間過ごして、分かったことがある。
それは、財政的に厳しい状況にあるということ。
少なくとも、この東京では家賃が高いため、一年間とはいえ暮らしていくには多少のお金がかかる。
この件に関してはライリー先生の方から特別に寮に住ませるという援助付きのありがたい申し出があったそうだが、それも頑なに拒否したという話も聞いている。
なんでも、人に迷惑をかけたくないからというのが理由らしい。
この男はどこまでお人好しなのだろうかと思った。
外見からすれば尤もらしいを言っているように見えるが、こうして私がお見舞いに来ている時点で既にその効力は失われているというのに。
「二年ほど前、いのりちゃんのために夜のバイトをしていたことが記憶に残っていたので聞いてみたのですが……その顔だと図星のようですね」
「ああ、ハーネスの費用を稼ぐために必死になって工事現場に当たっていた時か。懐かしいなあ」
「話を逸らさないでください。私は今、結構真剣な話をしているつもりです」
先ほどの質問に答えなかったことに狼嵜光は不満を漏らす。
この人は犠牲を払うことを良しとしないはずなのに、どうしてここまで自分の体を削ることが出来るのだろう。
言っていることとやっていることが正反対で、全く理解が及ばない。
あの時だって、いのりちゃんのために犠牲を払っていたに違いないはずなのに、本人は絶対に認めなかった。
勝利の代償として、強くなるために何かを捨てなければいけない瞬間が必ずやってくる。
それが一番分かっている人なのに、自分とは同じ失敗を歩ませたくないという屁理屈を押し通すのだ。
「狼嵜選手には、関係のない話だよ」
「他人には優しく手を差し伸べるのに、いざ自分のこととなると遠慮するんですね」
「これも、全部俺自身がやりたくてやっていることだから。誰かのためにだとか、本当にそういうのじゃないんだ」
「知ってますよ。貴方がそんなに器用じゃないことぐらいは」
どうせ、自分のためにやっているから苦痛ではないとこの男は言いたいのだろう。
もちろん、彼からしてみれば狼嵜光の言うことに納得が出来ない話であることは理解している。
でも、自らの行いによって、他の人が傷つくこともあるのだということを知ってほしいのだ。
それが例え、善意であったとしても。
大切な人達は皆、貴方の事を気にかけている。
だからこそ――。
「明浦路先生の言い分も分かりますが、もう少し自分を大事にした方が良いと思います」
普段の私なら絶対に言わないセリフだ。
今までの狼嵜光であれば、スケート以外の全てを捨てるのは当然だという理屈を通していたのだから、驚くことも無理は無い。
だが、そのせいで長年の疲労蓄積や精神的ダメージを負っていたお陰で、結果的に去年のジュニアGPファイナルでは棄権することとなってしまった。
いのりちゃんにもたくさん迷惑をかけてしまったし、あの後に理凰からもものすごく心配されたほどだ。
私という存在が、どれだけ皆の心に刻んできたのかはきっと計り知れないものだったのだろう。
「狼嵜選手は、少し変わったね」
ポツりと、少し嬉しそうにそう呟いた彼の表情が気に入らなかった。
ああ。やっぱり嫌いだと感じた。
こんなことになるぐらいなら、最初から出会わなければ良かったと思った。
でも、一度関係を持ってしまったからには、後戻り出来ない。
こうなった原因の半分は私の責任でもあるからだ。
だからといって、ここで素直にうなずくほど今の私は優しくない。
「何も変わってませんよ。まあ、私を変えれるかどうかは貴方次第かとは思いますが」
敢えて試すような口調でそう言い返す。
決して、明浦路先生に甘えてはならない。
この条件付き契約には、たくさんの問題が複雑に絡み合っているからだ。
私のコーチが夜鷹純から急遽、明浦路先生に変わったのもそれなりの事情がある。
それに、期間限定とはいえ、いのりちゃんには大切なコーチを奪ってしまった。
明浦路司という絶対的に信頼のおけるコーチを、誰よりも必要としているのはあの子の方であるはずだ。
結果的に私が悪役となり、彼女がある意味での正義の光とならなければならない。
その二項対立が成り立ってこそ、この契約を結ぶことに意味がある。
しかしながら、私は後になって後悔することになる。
この男をコーチにしなければ良かったと思う日が来るなんて、誰が予想出来るだろうか。
胸がとてつもなく苦しい。
心臓の音がものすごくうるさい。
彼の事を思い出すだけでなぜか心拍数が上昇する。
約一年後のジュニアGPファイナル。
スケートではありえないぐらい史上初のスコアを叩き出すこととなる。
でも、本当であれば喜ぶべきはずなのに。
嬉しいという感情は一切無くて。
ただ、絶対に離れてほしくないという気持ちだけが残っていて。
一年という決められた期間で、延長なんてものは最初から存在しなくて。
だからこそ、辛くて。むず痒くて。
嫉妬という名の醜いモノが徐々に現れて。
いのりちゃんの所に戻ってほしくないなんて、絶対に思っちゃいけないはずなのに。
後になって、この特別な感情が大きく膨らむことになることを――狼嵜光は知る由もしなかった。