若手カメラマンは覗き見たい。 作:水棲リクガメ
亨はたった今受け取ったばかりの一万円札二枚を、指に挟んでひらひらさせた。
写真わずか数十枚で五十万。時給に換算するといくらだろう、とてつもない金額ということは分かる。
ハナから疑ってはいないが、一応光に透かしてみたり、諭吉の顔と睨めっこしてみたり。
「本物だよね、多分」
亨の家庭は秀知院に通えるくらいなので当然大金持ちの部類に入る。しかし両親は二人して、生活に苦労しながらも成功を収めた、いわば叩き上げ。金銭感覚はかなり庶民的な方だった。
よって亨も世間一般寄りの金銭感覚を持ち合わせている。その価値観から判断して二万円は大金。
いつも仕事で忙しくしている母に、少しお高めな好物の菓子を買って帰ろうか、なんてことを考える。
カメラのディスプレイに表示された時計を見ると、隣で早坂が寝落ちしてからもうすぐ十分が経とうとしていた。
早坂は石像が何かのように微動だにしない。よほど疲れているのだろう。もう少し寝かせておいてもバチは当たらないはずだ。
ついでに自販機のジュース一つでも奢ってやればご機嫌取りにはなるかもしれない。
そう思いつき、亨がベンチから立ち上がろうとしたところで、眠りこけている早坂の姿勢に気がつく。ベンチの座面に体育座りのような格好。学校での早坂は制服を着崩しており、スカートは折って丈を短く見せている。
つまり——。
——いろいろと見えてしまうのでは?
亨とて一般的な男子高校生。そういう下心がないことはない。だからこそ気付いてしまったとも言える。
「しょうがないなぁ……」
亨は着ていた学ランを脱ぐと、そっと早坂の足回りを隠すように被せる。
近くの自販機へ向かい、眠気覚ましにおあつらえ向きな、糖分とビタミンが含まれた炭酸栄養ドリンクを二瓶購入。
ベンチに戻ると、早坂は目を覚ましていた。
「寝過ぎました」
「まあほんの二、三分だから大丈夫だよ」
目を擦る早坂に、たった今買ってきたドリンクを一本渡す。
「どうも」
「せっかく臨時収入が入ったから使ってこうと思ってね。これからも仕事があるんでしょ。ファイト・一発! って感じさ」
「それDですよね。これはCの方です」
「ま、どっちだって眠気覚ましにはなるでしょ」
亨は蓋を開けると一息に飲み干す。鋭い酸味と炭酸の刺激が心地よい。
「今日はもう帰るんですか?」
もらった瓶を弄びながら尋ねる早坂に、亨は頷く。
「用事も早坂さんに写真渡すだけだしなぁ。街で写真撮りながら帰るよ」
「そうですか。では私もこれで」
「はーい、お疲れー」
荷物をまとめた早坂は、亨に別れを告げてベンチを立ったところで、一つ言おうとしていたことを思い出した。
「あ、そういえば」
「なに?」
「この間のやつ、かぐや様には全部バレていました」
五日前、ミッションに失敗した早坂と事情を知り過ぎた亨は、電話越しのかぐや相手に理屈を並べ立て、己が罪を軽くしようと試みた。結果として亨は四宮かぐやの協力者と相成ったわけだが。
「さすがにあの言い訳は苦しかったか」
「ですね」
「あれ、じゃあ何で俺は無事なの?」
早坂は乾いた声で笑うと、カバンの中から一冊の雑誌を引っ張り出す。月刊のティーン向け恋愛トピック雑誌だ。
付箋がついた箇所を開き、亨に差し出す。
「月ごとの恋愛運占いだね。誕生日と生まれ年の干支で占うよくあるやつじゃん。これがどうしたの?」
「かぐや様の誕生日と干支から出る結果はここです」
そう言って早坂はページの中程を指差す。
「『友達に寛容な心で接するが吉』、『新しい人間関係が意中の人と急接近するキッカケに♡』。…………これはアレかな、俺たちの必死の説得は恋愛雑誌の占い欄にも及ばないって、そういうこと?」
早坂は空虚な笑みを浮かべた。
「ベッドの上で広げられたこの雑誌のこのページを目にした時の私の気持ちが、光くんにも分かりますよね?」
◆◆◆
亨と別れた早坂は足早に人気のない校舎裏へ向かい、タブレットの電源を入れた。
画面に表示されたのは、光亨の個人情報。顔写真、誕生日、住所、家族構成、当人の略歴——。
四宮家に仕える使用人として、この程度の情報を入手することは訳ないことだ。
亨が協力者とはいえ、まだ完全に信用できる存在ではない。身辺調査で疑わしい点がないか調べるのは当然。かぐやに仇なす可能性があるならば排除しなければならない。
父親は写真家で、母親は家電メーカーの重役。秀知院学園では珍しいものでもない。一家揃って犯罪歴もなし。とくに怪しい情報も今のところ出てこなかった。
早坂は亨の個人資料に、今日得られたデータを入力する。
実は先ほど早坂が亨の横で寝落ちしたフリをしたのも、素行調査の一環だった。無防備な女性に対して何かしらの悪戯を企てる可能性だってある。結果として亨は悪戯どころか、学ランで際どいところを隠そうとする配慮を見せたわけで。
「当人の素行もこれといって問題なし……と」
早坂は先ほど亨からもらったドリンクの瓶をしげしげと観察する。
——未開封だし、蓋に細工の跡もない。大丈夫そう。
プシュッと小気味よい音と共に蓋を開け、中身を飲み干す。
「元気ハツラツ、なんて」
早坂は足取り軽く、恋愛頭脳戦の最前線こと生徒会室へ向かっていった。
◆◆◆
早坂を見送ってから学園を出た亨は、街中を彷徨いあちらこちらで写真を撮り、家に着いたのは日が暮れて少ししてからのことだった。
早坂からもらった臨時収入で帰りがけに購入した洋菓子を渡すと、母親は満面の笑顔を浮かべてハーブティーを淹れた。
上機嫌な母親を横目に夕食と入浴を済ませ、早々に自室に引き上げる。今日撮影した写真データをパソコンに保存して出来映えを確認していると、スマホが震えた。
画面を見れば、名前の表示は「早坂愛」。
「もしもーし」
「早坂です。お時間よろしいですか」
「うん、どうしたの?」
「今日いただいた写真ですが、かぐや様は大変に満足していらっしゃいます」
「それはよかった」
「特に『学年集会で壇上に立つ会長』の写真が琴線に触れたようです。ただいま写真立ての注文の真っ最中で——」
電話口にかぐやの声が割り込み、「余計なこと言わないの!」とか叫んでいる。
「こんばんは、光くん」
電話口から聞こえたのはかぐやの声。どうやら早坂のスマホを奪ったらしい。
「こんばんは。気に入ってくれたみたいで嬉しいよ」
「光くん、あなたの写真の腕は本物よ。きっとどこに行ってもカメラで生計を立てられるでしょうね」
「そこまで言われると恐縮しちゃうな。また写真が欲しくなったら言ってよ」
亨は時間を見つけてはカメラを構えて歩き回っており、一日に撮る写真は数百枚にもなる。その中で数枚、たまたま白銀御行が写り込んでしまったとしても何ら不思議はない。白銀の個人情報を守るために、その写真たちがたまたま生徒会副会長である四宮かぐやの手によって没収されてしまったとしても、それは仕方のないことなのである。
「光くん、私は別に会長の写真が欲しいわけではなくてですね——」
「分かってる、分かってるよー。我が校の顔となる生徒会長の身だしなみ、健康状態、印象を生徒会副会長が気にするのはとーぜんのせきむだもんねー」
「何だかバカにされている気がするんですけど」
「そんなわけないでしょ!」
——バカにしてなどいない。面白がってるだけだ。
「はぁ、まあいいわ。それで、次に会長の写真を撮る時に気をつけて欲しいことがあるのですけど」
「うん」
「他の人間を極力写さないようにして欲しい、という話です」
「あー……」
かぐやがどの写真のことを指しているかは検討がつく。白銀が教室で談笑しているやつだ。クラスメイトの男子数名と雑談に興じる姿を写したスリーショットは、普段の近寄り難い雰囲気が緩和され、白銀の親しみやすさが前面に出ている。
亨としてはあの写真は結構気に入っていたのだが。
かぐやの要望とあらば仕方ない。依頼者の希望に応えるのも立派なカメラマンの仕事なのだから。
「分かった。覚えておくよ」
「無理にとは言いません。こちらでトリミングをすればいい話でもありますから」
「えっ? トリミング……?」
「ええ、今回の写真も何枚か、早坂にやらせました。——あら、もうこんな時間。長く話し過ぎましたね、おやすみなさい」
通話が切れる。
しかし、光亨は微動だにしない。かぐやが何気なく発した言葉が、頭の中で反響していた。
——トリミング? トリミングだって?
光亨という男の地雷を踏み抜いてしまったことを、四宮かぐやはまだ知らない。
◆◆◆
次の日、朝のホームルーム前の時間。
教室に入り自分の席に着いたかぐやは、今日こそ白銀に告白させるべく、放課後生徒会室にて実行するプランを脳内でシミュレートする。
光亨を味方につけられたのは幸運だった。彼の写真撮影技術はプロ並み。昨日もらった白銀の写真を見るに、対象に気付かれず撮影を行う隠密行動も得意なのだろう。
光亨という手札のおかげで、かぐやが取りうる戦略の幅は広がりつつあった。
——今日こそ私が、勝利を掴む……!
物憂げに考え事をするかぐやの姿は、絵画さながらの美しさ。そのオーラは教室にいる生徒数名の目眩を誘発するレベル。
「ああ、かぐや様……今日もなんとお美しい……」「物憂げな表情、一体何をお考えになっているのかしら」「かぐや様の御心を察するなんて、下々の我々には烏滸がましいことなのよ……」
尊敬、羨望、憧憬。かぐやに向けられる熱っぽい眼差しに込められた感情は様々だ。
それらをものともせず、かぐやの席の前に立つ人影が一つ。
かぐやは顔を上げた。
「あら、光くん。おはようございます」
多くの生徒が憧れる、四宮かぐやからの名指しによる挨拶。光亨に嫉妬の視線が突き刺さる。
かぐやを見下ろしたまま、亨は言い放つ。
「少しいいかな、話があるんだけど」
教室内でどよめきが起こる。
「誰あいつ?」「ほら、隣のクラスの」「まさか告白……!?」「なんとうらやま、じゃなくて身の程知らずな……」「白かぐ以外認めない……」
かぐやの人心把握能力は抜きん出ている。それ故に、亨の話はポジティブな内容でないことは想像がついた。
「場所を変えましょうか」
◆◆◆
人気のない校舎裏。
かぐやは亨と真正面から向かい合う。
「どうしましたか? 朝の時間、人の多いタイミングで呼び出すということは、急ぎなのでしょう?」
言外にくだらない用事だったら許さないというニュアンスを込めて、かぐやは問う。
亨は真正面からかぐやを見据えてくる。
かぐやは少し意外に思った。四宮家の息女であるかぐやに対して、こういう目をできる人間は少ない。ただの不敬か、はたまた肝が据わっているのか。
「四宮さん。俺はね、失望しかけているんだ」
「失望……私に、ですか?」
「ああ、そうだよ」
明らかに剣呑な態度。
かぐやは己の記憶をさらう。彼にここまで言わせる行為をした覚えがなかった。
早坂たちに彼の身辺を探らせたことだろうか? いや違う、そもそもバレるはずもない。それに、かぐやが身辺調査をさせるということは、その対象に興味があるということ。必要でなければそんなことはしない。裏を返せば彼の実力をかぐやが認めているということに他ならないのだ。
かぐやの頭脳を以てしても、亨が何に憤っているのか分からない。かぐやが黙っていると、亨はさらに続けた。
「四宮さんは学園きっての天才だ。文武両道、頭脳明晰、芸術分野にも造詣が深い。……でしょ」
「……それが何の関係があるのか、はっきり言って欲しいのだけど」
かぐやの視線が亨を射抜く。気の弱い者なら気絶するような圧力を、しかし亨はものともしない。
「トリミングだよ」
「はい?」
吐き捨てるように放たれた亨の言葉。
トリミング。写真の余分な箇所を切るなどして、必要な所だけを切り抜く行為。
なぜ今になってトリミングの話が。
「なぜ俺の写真をトリミングなんかしたんだい?」
「なぜって、それは、余分なところを落として……」
亨は頭を抱えてうめいた。
「余分なところ!? 余分なところだって!? ちょっと待ってよ四宮さん、俺の写真のどこに『余分』があるって言うのさ!!」
「そ、そんなこと言われても……」
かぐやが欲しかったのは白銀の写真である。その他有象無象の顔は別に必要なかったのだ。
しどろもどろになるかぐや。しかし亨の爆発した怒りは収まらない。
「いいかな四宮さん、俺は写真を芸術として見ているんだ。構図、演出、被写体、全て考え抜いてファインダーを覗きシャッターを切るんだ。だから俺の写真には不要な部分なんかない。欠けたものがどんなに小さかったとしても、それはもう不完全なものなんだ!」
ずい、と亨はかぐやに詰め寄る。
人は誰しも許せないこと、譲れないラインというものが存在する。「地雷」とも称されるそれは、人によって違う。そして、光亨の地雷は、己の写真を勝手に加工されることだった。
「四宮さんはフレンチフルコースの前菜に物足りないからと醤油をぶっかけるの? バベルの塔が窮屈そうだからって額縁を壊すの? ミロのヴィーナスが寒そうだからってコートを被せたりする?」
完全に冷静さを失った亨は、有名作品までも引き合いに出し始めた。
頬を引き攣らせながらも、かぐやは何とか平静を保つ。
「そ、それとこれとは——」
「いーや同じだ! 四宮さんは写真という芸術の心粋を理解してくれていると思っていた。それが、それが、こんな……!」
亨がわなわなと肩を振るわせる。その双眸には涙さえ滲ませて。
かぐやはドン引きしていた。それと同時に理解した。光亨という男は、恋愛頭脳戦におけるジョーカーであると。時には切り札となり、時にはババとなる。
——問題は、この状況においてはババ以外の何物でもないということ。
ここでだらだらと長引くのはまずい。もうすぐ朝のホームルームが始まってしまう上に、誰かに見られたらあらぬ誤解を受けかねない。
かぐやは今この場で己が為すべき対応を導き出す。
「光くん、ごめんなさい。私の行動が軽率でした。あなたの気持ちを踏みにじってしまいましたね……」
亨はかぐやが偶然にも引き当てた手札だ。それが切り札であろうとババであろうと、手中にある以上は必ず活かす。それが四宮家息女のプライドである。
そして、そんな気高きかぐやの心意気は。
「本当に分かっているのか……? 俺にとって写真は子供同然なんだよ? それを無残に切り裂かれて……。四宮さん、君は俺の子を殺したようなものだよ……」
まったく亨に通じていなかった。
さすがのかぐやもこれは腹に据えかね、苦言を呈す。
「光くん。写真は生き物じゃないわ。人を猟奇殺人犯みたいに言うのはやめて」
うつむいていた亨は、ガバッと顔を上げかぐやを睨みつける。
「じゃあ四宮さんは! 白銀くんとの間にできた子が誰かに傷つけられたらどうするんだ!?」
「は、はあぁぁぁぁ!!?」
かぐや、辛うじて保っていた冷静さが消し飛ぶ。
「そんなの四宮グループの総力を挙げて犯人一族根絶やしに——って、そんなの何も関係ないでしょ!」
「いーや同じだ! あの写真たちだって、俺とカメラが愛を育んで産まれたんだ! 愛の結晶だ!」
「言ってる意味が分からないし、言葉選びが気持ち悪い!! もうっ、早坂っ!」
建物の陰で待機していた早坂が飛び出し、亨の鳩尾に深々と掌底が突き刺さる。
地面に倒れ、ぴくりとも動かなくなった亨を見下ろし、早坂は口元をもごもごと動かしていた。
「どうしたの」
「想像を超える気持ち悪さに表情筋をどう動かしたらいいかわからず……」
「とりあえず、保健室に運んでおいて」
「はい」
光亨は、切り札でもなければババでもない。ただのハズレくじだったかもしれない。
滅多に出ないはずのため息が、かぐやの口から漏れた。
とりあえず、お試しで買ったあの恋愛雑誌を購読するのはやめよう、かぐやはそう決意した。
多分、光亨が一番イカれてる。