4月16日(土)
翌朝になっても、頭痛は依然残留していて、やはりというか体力が週末まで保たなかったことを悟る。
夕飯も食べずに寝たのにお腹は空いていなくて、布団から出る気力もなく、かといって水も持たずに来たから喉が渇いて仕方ない。
どうしたものか。部屋には僕一人だし、そんなことで佐倉さんを呼ぶのもな、と思う。自分で取りに行く、のがいいけれど。
枕元のスマホに手を伸ばして、画面をつける。6時ちょうど。習慣って怖い。いつもの時間だ。
昨夜の通知がピカピカ光っていて、なんだっけ、と通知を見る。
双葉から、ごめんなさい、と一言。
居ても立ってもいられなくなって、ベッドから抜け出そうとして、思いっきり膝から落ちた。布団に足が絡まっていた。どういう寝相してたんだ僕。
結構派手な音がしたので、双葉を起こしたかもしれない。ああ、そっか、この時間はまだ双葉は寝ている。急ぐ必要なんてなかった。ああもう、うまくいかない。
「大丈夫か? すごい音したぞ」
ああ、結局佐倉さんに手間を掛けさせてしまった。
様子を見に来た佐倉さんは、僕がベッドの脇で座り込んでいるのを見つけて、それはそれは驚いた顔をしていた。
「降りそこなって落ちた……」
「おいおい、気をつけろ」
終わりの運動神経なので、こういうことは稀によくある。
「まだ具合よくないんだろ。目が腫れぼったい。いつもの診療所が開いてるだろうから、薬もらってこい」
「はい」
先週もお世話になったばっかりなのに、また武見先生のところに行くことになるとは。怒られ…はしないだろうけど、十中八九呆れられるだろう。
ともかく、布団から出てしまったものは仕方ないし、一旦水だけ取りに行こうか、とゆっくり立ち上がる。したたかに打ち付けた膝が痛い。
「何か要るか?」
「水、あとトイレ」
「飯はどうする?」
「……今はいいです」
「そうかい」
寝汗で湿った服が気持ち悪い。着替えもしたいけれど、もう少ししてから。
僕がのそのそ動き出したのを見て、なんかあったら電話しろ、と言い残し佐倉さんは引っ込んだ。店に行く準備だろう。
◇
静寂の中で浮かんでくるのは、懐かしい思い出。
あのひとと駆け抜けた戦いの日々。結末はどうだったかしら。もう覚えていない。
よく見知ったあの子とは違う、けれどよく似た小柄な悪戯妖精を呼び出していた、例の少年には、あのひとに似たものを感じる。
しんと澄んだ水底から見上げる月のようなまばゆいもの。世界を塗り変えるほどの才の輝き。きっとすでに私のようなものに見初められたのだろう特別なひと。
不思議な巡り合わせね。
私には才がない。
他の誰かにできることしかできない私は、才あるものにのみ許された絶技の習得に至らなかった。
強敵との戦いに駆り出されるのは、いつも私でない輝けるモノたち。私のような一妖精とは格の違う存在。
私の役目はあのひとの露払い。
由はついぞ問えなかった。
ただの気まぐれかしら、それとも。
分からないなりに、大きな才の糧となるのであれば、よしとした。誘蛾灯に誘われるように、私はあのひとのものになった。
あのひとが去ってからも、私は鮮烈な煌めきに焦がれ続けている。
眠る今の宿主を見やる。
あのひとのいない世界で、私が選んだ特別。
『メディラマ』
あのひとが教えてくれた術をかける。
余剰の力が光となって散っていく。もっと簡単な方法もあった気がするのだけど、とうに忘れてしまったわ。
◇
寝すぎてしまった。
次に目を覚ましたのは13時過ぎ。
朝よりは大分具合が落ち着いたので、武見先生のところに行くくらいなら大丈夫そうだ。
あまりもたもたしていると診療時間が終わってしまう。最低限の身支度だけして、スマホと財布だけ持って佐倉家を出る。
武見内科医院。
かかりつけの医療機関だ。腕は確かでいつもお世話になっている。ネットのレビューはなぜかいつも荒らされているけれど。
医者は人気商売とはよく言ったもので、ほぼ待ち時間がなく、ある意味助かっている。
今日もどうせ誰もいないだろうと、ろくに前も見ずに歩いていたら、出てきた人にぶつかった。
「すみません……、あれ、雨宮先輩?
なんで武見先生のとこに?」
「一葉か」
『おい、思いっきり知り合いに出くわしてるじゃねーか』
肩掛け鞄から、聞き覚えのある特徴的な声がする。
鞄の中に口元だけ白い黒猫が収まっていた。たぶん口調からしてオス猫だろうに重くないのだろうか。じゃなくて、しゃべる猫……認知世界で戦っていた、二足歩行の猫……。
『怪しまれないように、なんかいい感じに言い訳しとけ』
「持病の癪で」
「そうなんですね」
なんかもう、いちいち突っ込んで聞くのも面倒で、全てスルーすることにした。
あれで誤魔化せたのかよ、とか猫が喋ってるけれど聞こえない。
「あら、一葉くん。久しぶりって程でもないか。今日はどうしたの?」
武見先生とは長い付き合いだ。
母の件で僕が保護された病院に、武見先生は勤めていたのだ。佐倉さん家に引き取られて四軒茶屋に越してきたとき、見知った彼女が町医者になっていて、とても驚いた覚えがある。
「いつものです」
「うちは喫茶店じゃないんだけど。はあ。診察室にどうぞ」
こう見えて、武見先生は喫茶店ルブランで「いつもの」と注文して、ちゃんと出てくるレベルの常連だ。
互いの商売に払った金額は、さして変わらないんじゃないかと割と本気で思っているくらいには、僕もここの常連なのだけど。
「さっき、眼鏡の高校生が来たでしょう。あの人、ルブランに下宿してるんです」
「ふーん」
「この一年の間、保護者は佐倉さんってことになるので、何で来たかとか何買ったかとか佐倉さんに」
ということにして、情報を抜けないものだろうか。
認知世界でのことといい、絶対に正しい使われ方はしないだろうし。
「マスターさんをとられて嫉妬してるんだ?」
「……」
駄目だこりゃ。
この人はこの人で不思議なルールの中に生きている。
にやにやと意地悪な笑みを浮かべながらからかわれては、教えるつもりはないと言外に言われたようなもの。そんなんでいいのか説明責任。
「ホントにいつものね。風邪よ、風邪」
的確な診察と適当な診断を済ませた武見先生は、怪しげな薬を渡してくる。
これもお決まりの展開ではあるのだけど、いつ見ても成分名も薬名もよく分からない薬だ。
新薬開発がやりたいなら普通に薬学系に進めばよかったのに、純正の内科医なのが謎だ。
「お大事に」
ぽーい、と追い出されてしまった。
仕方がないので帰ることにする。
途中ルブランをちらっと見たら営業中になっていたので、家には双葉だけだ。
どうしたものか。
謝罪のメッセージだけでは、双葉が何を考えているのかわからない。朝はすぐに双葉のところに行こうとしたのに、今は少し躊躇ってもいる。
気まずい、というか、はっきり言うと不安だ。謝るだけとか、双葉らしからぬメッセージだし。
多分何か佐倉さんが介入したんだろうな、と思いつつも、ちょっと心当たりが多すぎてどれのことやら。
悶々と考えているうちに、着いてしまった。ただいまと言っても、昨日と同じで返事はない。
どうせ消すのだからと、電気もつけずに双葉の部屋の前へ。
「双葉、起きてる?」
自分の部屋にいるだろう双葉に声をかけた。
声は返ってこない。けれど、衣擦れの音と何か物が落ちる音がした。それから何かを引きずる音。
カチャン、と鍵があいて、ほんの僅かだけ岩戸が開かれた。1センチにも満たない隙間からは中をうかがい知ることもできない。
「…えっと、」
僕はまだ、双葉の部屋に入ることを許されている、らしい。
風邪をうつしてもいけないと躊躇していると、痺れを切らしたらしい双葉が戸をもう少しだけのける。片方だけのレンズ越しの視線が、所在なさげに彷徨って床に落とされる。
「……」
互いに無言。
ややあって、動いたのは双葉だった。
隙間からにゅっと手だけ伸びてきて、陽の光を知らない白磁の腕が僕の服をつかんだ。
「…、たの」
掠れた小さな声。
とても聞き取れないようなそれは、双葉が自分自身に話す言葉だ。
猫がのどを鳴らすみたいな、自分を宥めるための音。
「心配したの。すごく。
でも、心配だけじゃなくて」
続く言葉は僕宛てだ。
「昨日、そうじろうに怒られた。
わたし、一葉のこと何でも知ってなきゃ怖い。怖くて、盗聴した。一葉はわたしのお願いは何でも聞いてくれるから、断らないの知っててお願いした」
服がシワになるくらい握りしめられる。俯いた双葉の顔は見えないけれど、ポタポタと落ちる雫の音が耳に届いた。
「わたし、聞くの我慢しようと思った。
そうじろうが言うみたいに、一葉がわたしに隠したいことがあったとき、ちゃんと待ってなきゃいけないから。
でも、できなかった。一葉が中学生のころまで普通だったことなのに、できなくなっちゃった」
どうしよう、どうしよう。
しゃくりあげる双葉の肩を抱くこともできず、ひやりとした双葉の手に自分の手を重ねる。握る手から、ほんの少し力が抜ける。
確かに、佐倉さんの言うことは正しい。
正しいから双葉も僕も、従うべきだ。そんなこと知っている。理解できる。
けれど。
正しいことだけしても、顧みられないことばかりだ。正しいことだけを言った双葉を誰が守ったというのか。
進んで悪いことをするわけじゃない。生存に必要なことを、やむにやまれず選ぶのだ。
「ね、双葉。謝らなくていいよ。
僕も望んでそうしたんだから。店に仕掛けたのは僕だし、共犯だろ?」
「……うん」
「むしろ謝るのは僕の方。
双葉に言ってないことが沢山あって、だから不安にさせた。僕はずるいやつだから、今でも双葉に秘密を通そうとしてる」
元はといえば、僕が双葉を遠ざけてばっかりだったのが悪い。
ここのところの数日間は、色々なことがありすぎた。それに加えて僕が勝手にやり始めたことだってある。大きな変化の予感は双葉も同じように感じているはずで、双葉が不安に思うのも仕方ない。
武見先生が言っていたみたいに、佐倉さんの元に新しくやってきた雨宮先輩に嫉妬しているのもあるかも。
「だから、おあいこ。
双葉の安心だけ考えるなら、ずっと一緒にいればいいだけの話なのに、僕の都合で好き勝手してる。なら、双葉だって好きにしていいと思う」
僕も双葉も似たようなものだ。
いつだって何かしなきゃいけない気がして、あちこちに手を出して、手痛い目をみる。昔からその繰り返し。
「できないよ。
わたし、一葉にも、そうじろうにも、嫌われたくない」
するりと手が引っ込んで、すばやく身を引いた双葉は自室の奥に逃げ込んだ。
僕はつい追いかけて、双葉の部屋に入る。その拍子に蹴飛ばされた空のペットボトルが軽い音を立てて転がった。
モニターの光に照らされた部屋で、双葉は饅頭みたいに布団をかぶっている。
「一葉、来て」
逃げられたというか、誘い込まれたらしい。
観念して双葉のベッドに近寄ると、待ち伏せしていた双葉が布団で襲いかかり、僕もろとも包まった。
温かい。どこか張り詰めていた神経がほぐれて、眠くなってくる。
「わたし、考えた」
背に覆いかぶさっている双葉が、耳元で囁く。
「一葉は、これからもわたしに黙って危ないことするんだ」
「うん」
「わたしのために、わたしのためじゃないって言うんだ」
「…うん」
「一葉は強情だから、わたしが何を言ってもやめる気なんてないの」
「……うん」
よくご存知で。
双葉は少し口ごもる。次の言葉を探しているみたいに、数秒の沈黙。
「だから、やめなくていいけど、連絡はして。そのとき教えられなくても、大丈夫になってからでいいから。秘密なら秘密って伝えて。
お願いだから、何も言わないのだけはやめてほしい」
「うん、気をつける」
流石に懲りた。
なんてのは喉元過ぎたら忘れちゃうかもしれないけど。
「でもね、一葉がそうしてくれても、わたし、多分また一葉に八つ当たりする」
「奇遇だね。僕も多分またおんなじように双葉に心配かけるって思ってた」
「いいよ、一葉。わたしが許す」
「懲りずにまた怒って」
「うふふ、任された」
◇
店を閉めて帰ってきたら、一葉が部屋にいない。慌ててあちこち見て回ったが、どこにも見当たらず、もしかしてと双葉の部屋の前で立ち止まる。
「おい、双葉起きてるか?」
こりゃ寝ているな。物音一つしない。
陽の光も浴びずに過ごしているからか、双葉の睡眠は不規則だ。まず間違いなくこの中だろうなと思いつつも、これでもかと侵入を拒否する表示がされた扉には、きっと鍵がかかっている。
「……おっと」
予想に反して、最近では珍しく鍵が開いていた。
巣とでも呼ぶのがいいだろうか。衣服や空になったペットボトルやらが乱雑に散らされている。ここ一週間ほど兄の手が入っていないせいで、足の踏み場を探すのにも苦労しそうなほど。
唯一ものが置けそうなくらいには整っているデスクの上には、雑に開封された薬の袋とカップ麺の残骸。
そんな部屋の端、ベッドの上で二人、くっついて眠っているのを見つけた。
「……はぁ」
少し見ないうちに、仲直りは済んでいたらしい。
店の営業中、色々と気を揉んでいた自分が少し馬鹿らしく思える。
来た頃ならいざ知らず、一人用のベッドに収まるのは、少し無理がある気もしないでもない。
コードの束やゲーム機が転がっているせいで、もとより自由なスペースは小さいというのに。
それは気持ちよさそうに寝ているのを起こすのも気が引けて、元通り扉を閉めた。
※土日が休みだと勘違いしていた件で台詞を修正しました
一葉の読みですが、私は一葉という文字列として捉えているので音は問いません。何を当てても正解です。 気になるのであれば決めましょう。投票で多かったのが公式見解ということで、よろしくお願いします
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カズハ
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ヒトハ
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イチヨウ
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