ブラック・ジャックならピノコが好き。
あれが平然と学校図書館などにおいてあるのがクール・ジャパンとしか言いようがないと思うので初投稿です。
6月22日(水)
後方から軽い足音が聞こえてくる。そのうち、すぐ隣に見慣れた赤のリボンが現れた。
予想どおり。前にも同じようなことがあったので、今日はそこまで驚かない。
「おはようございます」
「おはよう」
芳澤さんはこちらに身を寄せる。今日は以前より近い。傘のぶんの距離だ。
見上げた空はどんよりと分厚い雲に覆われているものの、今のところ雨粒は落ちてきていない。
「降りますかね?
天気予報では保つという話でしたけど」
「予報で降らないって言ってたなら降らないんじゃない?」
長年の蓄積というのはすごいもので、天気予報みたいな人なんて表現もとうの昔に死語になっている。まあ、外れるときは外れるから折りたたみ傘は手放せないけど。
それにしてもいいタイミング。ちょうど芳澤さんと話がしたかったのだ。
「あのさ、もしよかったら放課後どこかに行かない?」
「いいですね。どこに行きましょうか?」
どこというほどちゃんとした宛はない。放課後には娯楽施設の類は大体閉まっている。
以前、二人で吉祥寺に行ったときはいい感じの喫茶店に入ったし、今回もそういうのでいいと思う。それなら、ルブランが載ってた号の喫茶店特集で知った店がいくつかある。
「喫茶店でお茶とか? 駅の向こう側のところとかどうだろう」
「はい、ぜひ行きたいです。
あそこ、確か期間限定メニューがありましたよね。更新されてからまだ行ってなかったので楽しみです」
正解だったみたい。芳澤さんは満面の笑みを浮かべている。
さくらんぼを使った期間限定メニューがあるとか何とか。こっちは喫茶店に行く習慣がないから、細かいことは把握していなかった。
どこを指定しても喜んでみせてくれそうではあるけれど、この反応は本当に行きたかったやつだと思う。双葉ほど分かりやすく態度に出さないから、ちゃんと見ていないと芳澤さんの好みは分からないままな気がする。
「よく行くの?」
「たまにですよ。あのお店のティラミスは絶品なんです」
「看板メニューってとこか。うちはカレーだからなぁ」
やはり、喫茶店の看板メニューといえば、お茶菓子と呼べるようなものが一般的に思える。
カレーはカレーで喜んでくれたけれど、普通に一食分になってしまう。コーヒーだけでもいいけど、ルブランに来てカレー無しは個人的に納得いかないので気軽に誘いづらい。
「はい。ええと、敵情視察は大事ですね」
「ルブランはそういうのじゃないって」
他店と競おうという発想がないというか…道楽でやっているお店としか表現しようもない感じの売上だし、佐倉さんもそれを良しとしている。
他店の研究をして新規メニューを出すなんてことは、今までなかったし今後もないだろう。
「でも、将来お店を継ぐんじゃないんですか?」
「その発想はなかったかな」
ルブランを継ぐなんて考えたこともない。収益がどうこうの話じゃなくて、あそこは佐倉さんのものというイメージが強すぎて、佐倉さん以外が店に立っている姿があまり想像できない。
「そういうものですか。何だか少し寂しいですね」
「寂しい?」
「お父さんもお気に入りの喫茶店があったんですって。
どうも後継ぎさんが別のお仕事で忙しかったらしく閉店したそうです。私たちが大きくなったら連れていきたかった、なんて話を今でもたまにするので、どんな素敵なお店だったんだろうって」
喫茶店に限らず、良い店でも土地の新陳代謝に追いつけずに無くなってしまう店は多い。
実物がもうない以上、人の記憶と想像のなかのお店は、本物以上に素敵な空間になっているに違いない。芳澤さんが喫茶店巡りをするのは、それが理由の一つなのかもしれない。
「良いものが良くあり続けるのは難しいですね」
「だから、良くなろうとする人は良い人なの?」
一度、手が届いたことでも維持するのは簡単ではない。
その前提で話しているなら、芳澤さんの言葉は思ったよりも前向きな意味を含んでいないのかもしれない。
「結果を出し続けるのは簡単なことではありませんから。…なんて、今の私が言うのは格好悪いですね」
「そう? “かすみ”は頑張ってるでしょ」
競技成績のことを言っているのだろうけど、僕からしたら芳澤さんは遥か上を行っているので、1位でも3位でも8位でもさしたる差はなく思える。本人を前にして、とても言えないけど。
「一葉くんは優しいですね。油断するとダメダメにされそうです」
「何それ」
そこまでのことを言ったつもりはないのだけど。
ここしばらくはいつもこんな感じだ。なんとなく噛み合わないまま歩いて、学校に着いた。
「樋口、ノート見せてくれ。次当たる番なんだよ」
前回の授業をほとんど睡眠時間に充てていた矢嶋が眼前で手を合わせている。いくら勉強が嫌だとしても、寝てたのが悪いと思う。せめて最後の5分は起きてまとめを聞くなり黒板の写真でも撮るなりすればいいのに。
というか、こっちに来る前に、確実に貸してくれる芳澤さんに頼みに行くのではなかったのか。
「今日は僕に頼むんだ」
「毎週芳澤さんに頼むのは、さすがに気まずいだろ」
と、芳澤さんの隣の席の人に頼むのは良いらしい。思いっきり聞こえてると思うけど。
案の定、芳澤さんは少し困った様子で提案した。
「あの、大丈夫ですよ? ノート貸しましょうか?」
「女神様!」
「うわ…」
貸しましょうかと本人に言わせるための茶番だったらしい。悪質度が格段に増している。
まあ、どういう経緯を経ても人がいい芳澤さんはノートを見せてあげるので、結果は同じと言えた。
「やっぱ芳澤さんのノートだよな。字綺麗だし」
「遠回しにお前のノートは読めたもんじゃないって言ってる?」
「うん。速記でもしてる感じ?」
「さっき借りようとしてた人の発言で合ってる?」
双葉よりは読める字だと思うし、提出するやつはもう少し慎重に書いている。
はじめからこっちに用はないと白状した矢嶋は、指折り数えて当たりそうな問題の番号と解答だけ写している。せめて問題文も一緒に写せばいいのに。
「九死に一生を得た。マジ感謝」
「どういたしまして」
「自分から死にに行ってよく言うよ」
付き合っていられるか。
視線を教室内に彷徨わせると、珍しいものを見つけた。
眼鏡ちゃんが派手派手しい女子集団に紛れている。昨日の一件で奮起したようで、早速みんなの輪に入ってみたらしい。よりによって一番馴染む難易度が高そうなグループに突撃するとは、なかなか勇気がある。まあ、たまに芳澤さんも混ざっているグループだし、そこまで排他的ではないのかもしれない。
放課後。
訪れた喫茶店は、ルブランと少し似た雰囲気があるお店だった。軽く調べた感じだと、この辺りで数店舗ほど展開しているらしい。価格帯は少し高め。都会らしく土地代もそこそこ入っているとみた。
「2種のさくらんぼの食べ比べゼリー…でもここに来てティラミスを頼まないなんて……」
芳澤さんはメニューとにらめっこしている。
両方頼んでもぺろりと平らげそうだけど、芳澤さんの中では一つだけ注文するということで決まっているみたいだ。
「期間限定の方、来月には変わっちゃうんでしょ?」
「そう、なんですけど…いえ、そうですよね」
ティラミスにも未練があるらしい。期間限定メニューと張り合うほどの常設メニューって一体どんなものだろう。興味がわいてきた。
「じゃ、半分こにする?」
「…! はい。そうしましょう!」
店員さんに注文を伝えて、取り皿を貰えるようにお願いをしておいた。
「楽しみですね」
ポニーテールが機嫌よく揺れる。
「芳澤さんは、その…デート楽しい?」
「はい!」
言い切ってから、芳澤さんは少しだけ困った顔をした。
「不安にさせてしまいましたか?」
「逆で、いや…不安なのは、うん。僕が“かすみ”に何かできているかなって思うから」
芳澤さんには何ら瑕疵はない。ただ、勝手にこちらが不安になっているだけという話。だって、芳澤さんから好かれるようなことは何一つできていないと思う。不釣り合いなのだ。何もかも。
「私に何かしなきゃって思ってくれるのは嬉しいです。
でも、何もしなくて大丈夫ですよ。恋人の振りも私から言い出したことです。それに、一葉くんは私を一番にできないでしょう?」
何と答えても酷い気がして、答える言葉を探していたら、芳澤さんはくすくすと笑い出した。
「もう、充分すぎるほど貰っています。
あの子の代わりにすることを、一葉くんは許してくれるでしょう? それ以上は望みすぎです」
「もっと欲張ってもいいでしょ」
「ダメです」
ダメダメにされそうなんて言ったり、欲張るのをダメと言ったり。芳澤さんはアスリートだけあって、自制心が強い。…あるいは。
芳澤さんは悪戯が見つかった子どもみたいに、肩をすくめた。
「私の一番はあの子で、一葉くんの一番は双葉ちゃん。そう考えたらおあいこです」
片割れへの配慮か。
自分が一人、幸せになるのは許せない。けれど、最愛の片割れが幸せでないのも許せない。妥協点として、この立ち位置を選んだのはきっと“かすみ”ではなく、“すみれ”の方だ。根拠はないけれど、強くそう感じた。
「お待たせしました」
注文した飲み物とデザートが届いた。
芳澤さんは卓の上と自分たちを写真に収めた。後で送ります、と言って、スマホをしまう。
「写真、うまく撮れた?」
「どうでしょう。普段はあんまり撮りませんから」
「そうなの?」
「はい。今日は思い出として撮っておきたいな、と。誰かにうまく撮るコツを聞いておけばよかったですね」
芳澤さんは、さくらんぼのゼリーを取り皿に分け始める。ぼけっとしていては全部やらせることになりそうだ。ティラミスを半分くらいに切って、芳澤さん用の取り皿に分けた。
「何ていうか…すごくふわふわで」
「いいですよ、崩しちゃって。口に入れば一緒ですから。写真は綺麗な時に撮りましたし」
取り分けたはいいけれど、見た目に器用さの差が如実に表れている。
芳澤さんはさらっと崩れ方がひどい方を回収した。
「一葉くんは、双葉ちゃんのことが“好き”なんですよね?」
「…うん」
この好きというのが、家族愛的な好きを指していないだろうことは声音から感じ取れた。
「でも、本当にそうなのか分からない」
「? 好きだと思ったら好きじゃダメなんですか?」
それが最も簡単な定義だと思うけれど、いまいち理解しがたい。
まず動いてみろと言われる体育の授業みたいなもので、とても不得手だ。頭で理解する前に、感覚的に体を動かすというのは何が起こるか予測困難で恐ろしい。
「僕が双葉が一番に置いているのは、単なる順番の話なのかもって」
「順番ですか?」
スプーンの上の赤いゼリーから視線を上げて、芳澤さんはこちらをまっすぐ見た。
「今からすごく偏ったことを言うね。
生き物の本質を遺伝子の乗り物と捉える考え方があるの。批判も多いけど」
少し古い話だし全面的に信用できるものではないけれど、文として面白いし、論として使えそうな本。今でも通用する部分もあると思う。
「たとえば、働きバチは全部メスだけど、タマゴは産まない。
働きバチは遺伝子的に父の全てと母の半分を受け継ぐから、自分がオスと交配して自分の半分の子を生むより、自分と3/4同じな姉妹を育てたほうが、自分と同じ遺伝子が残る可能性が高い」
「…難しいです」
複雑な話だけど、これがあの本で言いたいことを示す一番重要な例だと思う。
昆虫の話題は面白いけど、人に話すと興味より嫌悪感を引き出すことも多い。小さいのによくできていて美しいし、面白いのに。
「もっと身近な話をするなら…虫より犬や猫を、犬や猫より人を、他人より自分の家族の方を大切にする人が多いのは、自分の遺伝子と近いものを生存させようとするから、みたいな感じ」
個体がとりわけ気に入っている犬が嫌いな親族より優先されることはある訳で、脳の発達した生き物では、必ずしもこれだけで説明できない部分がある。
けれど、根本にこれがあるから、発達した脳で考えたこともこれに拠るはずだ。
「命が平等だって言われていても、遺伝子が近いものが優先されるなら順番は発生する。
双葉が一番好き、というのは…そういう順番だからかもって話」
一卵性で遺伝子が全て一致する芳澤姉妹と違って、僕と双葉は二卵性だから同じなのはおよそ半分だけど、僕が知る限りこの世の誰よりも近いのは確か。
だから、生き物の機能からして他の誰よりも双葉が優先される。
「確かに偏った話ですね」
「うん、この話の終点って、生き物は繁殖のために存在していて自由意志は一個もないんじゃないかって発想になるしね」
それは必ずしも正しくない。
認知世界においてもう一人の自分、またはペルソナが存在するのだから。あれは肉体に依らない人の意思そのものだと思う。
「はい。新体操を頑張るのは私の意思じゃないって事になってしまいます」
「この論の厄介なところでさ、自分の能力を高めようとする個体は異性を獲得しやすくて遺伝子を残しやすかったって言ってくるんだよ。努力することも含めて、すべて無意味だと思い込まされそうになる」
結果を見てから説明をするかたちになるし、検証しようもない。説得力はあるくせに。
結局これは乗り物の仕様書に過ぎないのだと思う。生き物は神秘的なものではなくて、ただ殖える能力を備えたタンパク質でできた機構。そういうものと分かった上で、どう操縦するかという話。
「つまり、どこまで自分の意志で双葉が好きなのか証明のしようがない」
「怖がりなんですね。好きって気持ちにも正体が欲しいと見えます、ふふっ」
笑われてしまった。
仕方ない。その感覚のほうが正しいことは知っている。感覚に任せることができないから、頭で理解しやすいように加工した結果、歪になっているのも分かる。
「一番でなくても、私を大事にしようとしてくれているんですよね」
「いいの?」
「はい。ダメなところも許しちゃいます。特別ですから」
芳澤さんはティラミスも口に運んで、頬をほころばせた。おすすめするだけあって、甘さが絶妙でとても美味しい。
「双葉についてなんだけど、僕らを応援するって立場を選んだみたい」
「意外です。一葉くんを手放したくなさそうでしたから。
そういうことならネタばらししちゃいましょうか?」
「その方が気が楽かな」
しこたま怒られよう。
芳澤さんがいいなら、ネタばらしを渋る理由もないし、するなら早いほうがいい。
「ごめんなさい。私、余計なことをしましたね」
「いいよ。何もなかったら、こんなに色々考えなかった」
人の気持ちも、自分の気持ちも。
「あの、双葉ちゃんに本当のことを話したら、恋人の振りはおしまいですか?」
「…急にやめたら周りに色々思われそうって話?」
芳澤さんは目をぱちくりさせた。その後、堪えきれずに笑い出した。
「そうですね。はい、そういうことです」
彼女は“かすみ”としてこう答えたに違いなかった。
芳澤さんは…いや、“すみれ”は思ったよりも嘘つきなのかもしれない。いや、その表現は的確ではないか。好きとかそういう気持ちが分からないというのは“かすみ”だったというだけの話だ。
一葉の読みですが、私は一葉という文字列として捉えているので音は問いません。何を当てても正解です。 気になるのであれば決めましょう。投票で多かったのが公式見解ということで、よろしくお願いします
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