時は九月。イズマ・コロニーに造られた夏は、気象管理局の運営計画に従って、つつがなく終わろうとしていた。
数千万枚もの鏡の集合からなる集光ミラーは徐々に日照時間を減らしていき、コロニー内は三〇度ほどの心地良い夏日から、朝方には爽やかな風を感じる初秋のそれに移ろった。
完全に調律された理想的な気候に、父祖の代から慣れ親しんできたサイド6市民は、ささやかな暑さの和らぐこの時期に、最も活動的になる。街には長期休暇で暇を持て余した学生たちや、バカンスを楽しむ人々が次々に繰り出し、通りにはオータム・セールの広告が並ぶ。
そんな折だからこそ、エグザベ・オリベ少尉とコモリ・ハーコート少尉が待つ、ある場所へ向かう少女達は、多忙を極める軍警の目に留まることなく、堂々と路地を歩けるのだった。
「マチュ」
「ん?」
「あのね、ずっと思ってたんだけど……もしかして、悩んでる?」
ニャアンはすらりと背が高い。小柄なこちらに話しかける時、必ず顔を寄せてくる。アマテはその愛くるしい仕草が好きだった。
だからだろうか。気が緩んで、つい弱音を吐いてしまう。
「シュネーと、ケンカした……かも」
「かも?」
「どうしても譲れないことがあって。自分じゃどうにもならないことだったの。でも、私のわがままを通すと、シュネーがとっても大変な思いをするかもしれなくて……それで、今さら、私ひどいこと言っちゃったのかなって、思った」
アマテの心中には、後悔が重くのしかかっていた。
現状を変える力もないくせに、わがままを言ってしまった。事実はどうあれ、そんな負い目があった。
「シュネーのマヴが言ってたこと、今ならちょっとだけわかる。背負わなくていいものまで、背負おうとしてしまう……でもそれを背負わせたのは、私なんだ」
そして優しく明晰な彼女は、その大きすぎる期待に、自分を殺して応えることができてしまう。
……そんなのって、悲しすぎる。
「マチュって、シュネーが大好きなんだね」
「まあね」
「シュネーも、マチュが大好きみたい」
「……だといいな」
「絶対そうだよ」
こちらを見下ろす金色の瞳が、靴の幅一つ分、近づいた。
「私、ずっと友達なんていなかったから、なんて言ったらいいか、わかんないんけど。きっと、お互いが好きだから、お互いのために傷つくんだよ。それってつらいけど……悪いことじゃない、と思う」
えっと、それでね。
「だから、ね。今はぎくしゃくしちゃってても、諦めないで、何回も話してみることが大事なんじゃないかな……多分」
「……そうだね」
アマテは深く頷いた。ニャアンのおかげで、傷つく覚悟がようやくできた。
結局、それしかないのだ。対話とは、必ずしも甘く優しいだけのものではない。どんなに互いを愛していても、避けられない痛みはある。
ジークアクスとの出会いをきっかけに始まった、あまりにも劇的で濃密な体験があってこそ、少女はそう思えた。
アマテは自らに語りかける。
信じろ。キュベレイとの決戦で、自分を信じてくれたシュネーを。
信じろ。あの子が信じる強い自分を。
それは、いかなる時もアマテの心に一本の芯を通す。
彼女が心の内にいる限り。
「ここが、待ち合わせ場所?」
「そ。ここなら人目につかないって、シュネーが貸してくれたの」
「スタンパの、クラブ……」
「シュネーが言ってんだし平気でしょ。てかなに、この貼り紙……」
艶々と黒く、圧迫感のあるいかにもな店構えの正面。本来なら重戦車じみた体格の黒服が、会員以外を爪弾きにするだろう重厚な両開きのドアには、A4の紙面が一枚、テープで雑に止められていた。
当CLUBは閉店いたしました。これまでご愛顧いただきましたこと、深く感謝申し上げます。
そんな、娼館まがいのナイトクラブにしてはあまりにも殊勝な一言が、オーナー、スタンパ・ハロイの名で残されている。これではまるで、寂れた商店街の個人商店だ。
「えっ閉店? ウソぉ!」
「入っていいのかな……」
「あ、鍵開いてる」
「マチュ!?」
ごめんくださあい、と声をかけつつ、重たい扉を押しやると、
「お待ちしておりました。マチュ様。ニャアン様」
「ワーッ!?」「ワーッ!?」
分厚い胸板を黒いスーツに無理やり詰め込んだ、身長二メートルに迫ろうかという偉丈夫がいた。
それにしてもでかい。本当にでかい。
アマテとて、見上げるような上背はジェリドのそれで見慣れてはいた。しかし目の前の、一房の銀髪を頭の後ろで束ねた壮年の男は、筋肉の付き方がまるで違う。さながら、博物館から逃げ出した彫刻が服を着て歩いているかのようだった。
彼はきっと兵士だ。それも現役の。
「オリベ様とハーコート様がお待ちです。僭越ながら、私めがご案内させて頂きます」
銀髪の男の広すぎる背中に付いて階段を下りていくと、次第に、違和感に気づく。
閉店の知らせが張り出されている割には、人の気配が多すぎる。
VIPルームに続く通路を通りながら、メインのフロアを横目で見た。正面奥には、煌びやかなDJブースとダンサー用のステージ。一段下がって、平時なら一般客がひしめくだろう広大なホール。壁際にはバーカウンターもある。
しかし、今のダンスホールには、所狭しと並べられた何十台ものPCとマルチモニターがフル稼働していた。それも、デスクについているのは例外なく、華やかな容姿をした少女たちだ。
アマテは、前の晩にニャアンと見たスパイ物の映画を思い出した。
まさかあれが、シュネーの言っていた友人たち?
「スタンパ氏は、諸事情により当クラブをシュネー・ヴァイス様へ売却しました。それに伴い、経営体制に少々の変更が」
「これが、少々……?」
「各ステーク・ホルダーとの利害調整、および対外交渉という意味では、当クラブの運営目的は共通しておりますゆえ」
「すごいですね。今までとは、その……やり方が全然違いますよね」
「難民の数に対して、正規の雇用は限られております。多くの若者が高い能力を活かせず、ギャングの斡旋する単純労働や性風俗産業へ流れざるを得ない構造を、シュネー様は以前より嘆いておられました。当クラブの現状は、彼の方の理想の結実なのです」
難民とはそもそも、ジオンに滅ぼされた四つのサイドから流れ着いた人々。高度な教育を受けたインテリ層だって、当然いないはずはない。
むしろ、高騰するシャトルのチケットを買える財力があったり、個人用の宇宙船を持っていたりする富裕層のほうが、生存率は高かっただろうと、アマテは素人なりに考えた。
教科書の記述でしか知らなかった戦争が、近頃、やけに生々しい感触を伴って、自身のすぐそばにある。
あるいは、知ろうとしなかっただけか。
なぜだか胸に苦しさを覚えて、ずっと握り合っていたニャアンの手の感触を確かめた。
「どうぞ、こちらへ」
銀髪の男が、VIPルームと銘打たれた重厚な扉を開ける。黒を基調とした豪奢な部屋だ。フロアを見下せるガラス張りの壁の前には血のように赤いソファが置かれ、エグザベ少尉とコモリ少尉がそれぞれ、落ち着かない様子で腰かけていた。
彼らの向かいに並んで座ると、男は部屋のワゴンから冷たいサイダーを注いで、二人の前に置いた。彼が流麗な所作で一礼し、部屋を出ていく様は、とても屈強な兵士のそれとは思えないほど様になっていて、なんだか圧倒されてしまった。
あの人がスパイをしたら、誰も彼を疑えない気がする。きっと、どでかい核弾頭を積んだ凶悪なモビルスーツを華麗に盗み出しちゃったりするのだ。昨日のスパイ映画のように。
「久しぶりだね、マチュ君。なんというかここは……凄いな、ハハ」
「聞いてよマチュ。私ね、二人で出かけようって言われて付いてきたの。そしたらこれ」
「うーわ……ザベちんさあ、マジで一回怒られたほうがいいよ……」
「えっ?」
「で、何の用なの?」
「ああ、すまない。とってもいい知らせを持ってきたんだ」
「いい知らせ?」
「大変に名誉なことだよ! 君のサイコミュ適性が、キシリア様の目に叶ったんだ!」
五年前。ジュニアハイスクールに上がりたての頃。呆然とする母と共に、ジオン公国の宣戦布告をテレビで見たことを思い出した。キシリア将軍の名を知ったのは、そのニュースが初めてだった。
キシリア・ザビは、開戦と同時に、
稀代の殺戮者に認められたことを、嬉しそうに語るなんて。エグザベ少尉が、急に、得体の知れない人物に思えてきて、気づけばアマテの表情は強張っていた。
「こーら、エグザベくん声がおっきい。マチュが引いてるじゃん」
「あ、ゴメン! えっと……この間の試合で、君はオメガサイコミュの真の力を引き出した。これは僕を含めて、フラナガン・スクールの誰にも成しえなかった快挙だ。キシリア様はその功績を認めて、君を軍に招きたいと仰せだ!」
「……見てたんだ。映像、残ってなかったでしょ」
「たまたま、ソドンが近くを飛んでいてね」
「……そう」
「ああ、あんまり実感ないよな! でもこれは夢じゃない。キシリア様は、
……ジオンが戦争なんかしたから、ニャアンは独りになったのに。
内心でそう吐き捨てて、気づく。
一緒に暮らすうちに、彼女の存在がいつの間にか、心の中でとても大きなものになっていたことに。
「とはいっても、マチュは実際難しいでしょ。学校を放り出すわけにはいかないし、親御さんの仕事だってあるんだから」
押し黙るアマテを見かねてか、コモリ少尉が、ジンジャー・エールのグラスを片手にエグザベ少尉をたしなめる。
「もちろん。だからその時には、マチュ君の学校に話を通して、表向きは、特待生待遇でのフラナガン・スクール編入という名目で進めるそうだよ」
ちりちりと、脳裏に情動が流れ込む。エグザベ少尉は、本心から善意の提案をしている。それがアマテの、複雑な心理を逆撫でするとは気づかないまま。
一方でコモリ少尉は、そんなすれ違いがあることを敏感に察したようだった。
「気持ちは嬉しいです。そんなに偉い人に評価されるなんて、思わなかったから。でも私、将来の夢、あるんで」
心理的な距離が、アマテの口調を否応にも固くさせた。でまかせだったが、しかしエグザベ少尉は信じたようだった。
「すまない。君に昔の自分を重ねて、舞い上がってしまった。僕にとって、キシリア様は命の恩人で……大切な主君だから」
ニュータイプなら嘘を見抜けてもおかしくはない。それでもすっぱりと勧誘をあきらめる潔さは、彼の人徳か。それとも、いつもの朴念仁か。
「僕の故郷、
「えっ?」
「ハハハ! ま、人生は何があるかわからないってことだ。将来の展望があるなら、そっちに進むのが間違いないと、僕は思う。でも、もし気が変わったら、いつでも声をかけてくれよ!」
君とマヴを組めたら楽しそうだ! そう言って、エグザベ少尉は爽やかに笑った。戦争で全てを奪われてなお、こんなにも真っすぐな人間性を持っていられる人が、一体どれだけいることだろう。
アマテは、いつの間にか半開いていた口を慌てて閉じた。
「なん、てーか……やっぱザベちんって凄いわ……」
「フッ。マチュもエグザベ君の良さが分かってきたようね」
「ホントだよ。こんな出来た人なかなかいないよ。コモりんマジで逃がしちゃダメだよ」
「二人とも、何の話をしてるんだ……?」
「この様子だと釣り上げるまでがしんどそうだけど」
「私、ハードルが高いほど燃えるタイプなの」
「わはっ! じゃあさ、この後どっか行く? 私たち適当なところで──」
いなくなるからさ──視界が闇に覆われた。
「え?」
停電? と言おうとした。
耳をつんざく大音響。閃光。目が眩む。回る。人体が正しく処理できる限界をはるかに超えた光と音は、強烈な吐き気を催させた。
誰かに腕を強く引かれた。ニャアンではない。ましてエグザベ少尉やコモリ少尉でもない。重機のような怪力で手首に食い込んだ指は、病的なまでに痩せていた。
爆音と光のせいで平衡感覚がおぼつかない。座っているのか、立っているのか、それとも転んでいるのか。ただ、腹には断続的な衝撃が走っている。
まさか、担がれているとか──思考を遮るように、頭に何かを被せられた。ひどく息苦しい。
吐き気が落ち着くにつれて、次第に、頭の冷静な部分が、恐るべき推理をする。
これはひょっとして、誘拐、ではないかと。
「暴れるなよ。
恫喝の声は、あどけなさを残した少女のそれで。
アマテはいよいよ状況が飲み込めず、身を固くすることしかできなかった。
「よもや強化人間か!? おのれバスク・オム、見境なしめッ!」
「マチュ! 頭下げて!」
銀髪の男の怒号が、凄まじい早さで左から右へ流れていく。コモリ少尉の声も聞こえた。
「いかん、撃つな! マチュ様に当たる!」
「でも!」
「
ショートパンツから出た素足に、かなりの風を感じる。それに時折、内臓が持ち上がる嫌な浮遊感がある。頭に袋を被せられていてもわかるほどに、誘拐犯の少女の身のこなしは人並外れていた。
陽光が温かい。瞬く間に外に出たようだ。
「ゲーツ!」
「馬鹿、名前を呼ぶな! ……そいつで間違いないんだな?」
「ぼくが間違えるはずないでしょ。こいつのゾクゾクする感じ、ものすっごいニュータイプだよ!」
「貴重なサンプルだ。いらん傷をつけるなよ、どこまで
「こいつがジークアクスとかいうのに乗ってたら、もっと遊べたのにさ。つまんないの」
尻と肩に衝撃が走って、アマテは呻いた。ごつごつとした地面は毛羽立っている。車のトランクルームにでも放り込まれたのだと、思う。
「あー、君、アマテ・ユズリハとか言ったっけ?」
乱暴な手つきで頭の袋が剝ぎ取られた。
額が触れ合うほどの至近に、死人のような青白い肌をした少女の顔がある。
少女の小さな鼻が、すん、と動く。
「女の匂いがする。へえ、大事にされてんだ……気に入らないな」
彼女の纏う気配は、少し変わっている。病院でふと匂う消毒液のようでもあり、血溜まりへ顔を突っ込んだように血なまぐさくもある。どちらにせよ根底に感じるのは、どこかざらついた、人工的なニュータイプの力だ。
怖い。混じり気のない、純粋な悪意の気配がする。
息が、できない。
「大人しくしてるうちは、こっちも優しくしてあげるからさ」
とりあえず、ポケットのスマホ捨てよっか。
アマテは、その言葉に逆らうことができなかった。