7月30日
「この箱を開けてはいけないわ」
パンドラに告白をし、了承をもらった日の夜。突如彼女は俺の家を訪ねてきた。そして、そう言いながら、ボーリング玉がすっぽり入るくらいの大きさの箱を手渡してくる。
その箱には装飾がなく、全体が真っ黒で、手に持つとずっしりとした重みがあった。大体4〜5キロ程だろうか。そして、中央には頑丈そうな錠がついており、しっかりと鍵が掛けられている。まるで中身を厳重に封じ込めるかのように。
「突然どうしたんだい? それに、この箱は一体……?」
予想外の出来事に戸惑いながら俺は問いかける。しかし、パンドラは俺の言葉に答えることなく、ふふふっと含み笑いを浮かべるだけだ。その笑みはどこか悪戯っぽくもあり、意味深な雰囲気を醸し出していた。
そして、彼女はまるで当然のように俺の家へと上がり込んできた。
「散らかっているわね」
玄関を抜け、部屋へと足を踏み入れた途端、彼女は開口一番にそう言った。その声には、呆れ半分、諦め半分といった感じの響きがあった。
「…………今片付けようと思ってたところだったんだよ」
言い訳じみた言葉を口にしつつ、俺はちらかった部屋を見回す。確かに床には雑誌や着替えが無造作に置かれ、机の上には食べかけのスナック菓子やペットボトルが雑然と並んでいる。彼女の指摘はもっともだった。
そんな俺の様子を見て、パンドラはくすっと笑う。そして、突然こう問いかけてきた。
「夕飯はある?」
「え? ああ、あるけど……食べていくか?」
「ええ……そうね、いただこうかしら」
そう答えた彼女は、まるで自分の家のようにふるまい始める。そして、まるで当然のことのように俺のベッドへと腰掛けるどころか、完全に寝そべってしまった。
「……なあ俺たち、今日付き合い始めたばかりだよな?」
思わずそう尋ねると、彼女は少し首をかしげながら「なんで?」と素っ気なく返してきた。
「いや普通…………もうちょっと、遠慮するものじゃないのか?」
彼女は俺の言葉に対して少し考えるそぶりを見せたが、すぐに「そう?」とだけ言って、再びベッドに身を預けた。その無頓着な態度に、確かに変わった感じの娘だったけど……ここまでだったかぁ……いやまぁそこまで心を許してもらっていると考えるべきだろうな。
そんなやり取りをしながら、俺は部屋の片付けを進め、夕飯の献立を考える。今日は……生姜焼きにしようか。
「パンドラ、肉は食べれる?」
「ええ、大丈夫よ」
彼女の了承を得て、さっそく調理に取りかかる。食材を取り出し、まな板の上で包丁を走らせながら、ふと考える。誰かに手料理を振る舞うのは、これが初めてだ。しかも、今日は初めて扱う食材がある。少し緊張するな……。
やがて料理が完成し、俺はパンドラの前に皿を置いた。
「さあ、召し上がってくれ……多分、美味しいと思う」
彼女は無言で箸を取り、一口食べる。そして、しばらく咀嚼した後、ぽつりと呟いた。
「……少し、濃いわね」
「本当?」
俺も自分の分を口に運んでみる。確かに、少し味が濃いかもしれない。ああ、失敗したな……と思った瞬間、再びパンドラの声が聞こえた。
「でも、不味くはないわね」
その言葉に思わず彼女を見る。しかし、彼女は特に表情を変えることなく、淡々と食べ続けている。
「……どうしたの?」
俺がじっと見つめていたせいか、パンドラが首をかしげながらそう聞いてくる。
「いや、なんでもない」
そう答え、俺も再び食事に集中する。
静かな食卓だった。
〜~〜
7月31日
今日はパンドラとデートの予定である。俺は年甲斐もなくウキウキとワクワクが抑えきれずにいる。そんな俺の様子を見て彼女は、「そんな大した事では無いでしょう」なんて言っているが、俺は彼女が内心、楽しみにしているのを見抜いている。ニヤニヤと彼女を見つめていると、「鬱陶しいからそのニヤケ面をやめなさい」なんて言われてしまった。
そんなやり取りをしながら、家を出る。目的地は、水族館だ。
水族館までの道中は特に何もなかった。強いて言うなら、真夏の強い日差しで、目的地につくまでにパンドラが若干グロッキー状態になってしまった事だろうか。彼女はその白い肌が示す通り、普段あまり外に出ない。だからか、真夏の炎天下の中での外出は堪えたのだろう。
彼女はしおらしい様子で、「ごめんなさいね」なんて謝ってきた。そんな彼女の様子を初めて見たので少し驚いたと同時に、こんな様子の彼女も良いなと思ってしまう。そんな思いを見透かされないうちに、慰めの言葉をかける。
そんなこんなで、目的地である水族館に到着する。人は思っていたよりも居なかったのでスムーズに入館することが出来た。水族館の中は空調が効いており涼しく、パンドラの体調も戻り、いつもの調子を取り戻して来た。色々と生き物を見て回る。
そして、ダンスクラブの踊りを共に眺めながら、少し疑問に思っていた事を問いかける。なぜ、遠くから見てばかりいた俺なんかの告白を受け入れてくれたのかと。
それに対して、彼女は「さぁ?」なんて素っ気なく答える。俺がその返答に何か言おうと口を開いた瞬間、彼女が口を開く。
「理由なんて、いる?」
「貴方は私が好き。私は貴方を好きになる。それで良いでしょう?」
俺は思わず閉口する。そして再び口を開き、こう言った。
「そろそろ、オルカショーの時間みたいだよ」
俺はヘタレだった。
〜~~
帰宅した。パンドラは今日も夕飯を食べていくみたいである。今日は……ハンバーグにしようかな。彼女は、また肉?と文句ありげだったが、仕方がない。なんせ大量にあるのだから。凍らせてあるので腐らないとは思うが、早めに消費するに越したことはないだろう。
今日も静かな食卓だった。
〜~~
8月1日
今日は家で過ごすことになった。なのでパンドラに渡された箱を観察してみる。
この箱は何なのだろう? 直接彼女に聞いてみても、「絶対に開けてはいけない」とか、「開けたら不幸になる」とか、そういったことしか言ってくれない。
錠があって、開けようにも開けられない。なんて言っても、ふふふっなんて笑うだけ。
彼女は変人だが、この箱のことになると一等変になる。不思議だ。
しかし、箱を見ていると少し頭痛がする。呪いの箱か? それなら、彼女が箱のことになると一等変になるのも納得がいく。お祓いに行ったほうが良いだろうか? なんて益体もないことを考える。
気が付いたら、お昼になっていた。昼食はミートスパゲティにしよう。
こんなのんびりした日も悪くない。そうやって、一日が過ぎ、夜になる。
夕飯に回鍋肉を作る。彼女は今日も食べていくみたいだ。
今日も静かな食卓だった。
〜~~
8月2日
今日はパンドラとデパートへ買い物に行く。目的は、肉料理のレパートリーを増やすための調理器具や調味料の購入だ。
真夏の太陽が照りつけ、アスファルトがじりじりと熱を持つ。道端の木陰を選んで歩いていると、突然、どこかの家の門の前に繋がれた犬が吠えかかってきた。
「なんだよ、びっくりするじゃないか」
俺が思わず後ずさると、犬はさらに勢いを増して吠え立てる。
「躾がなってないよなぁ……」とぼやく俺を、隣でパンドラがニヤニヤと見つめている。「普段は強気なくせに、犬相手には腰が引けるのね」「うるさいな……」
悔しいが、反論できない。いつもは俺がからかう側なのに、今日は逆だ。なんだか妙にくすぐったい気分になる。
デパートに着くと、パンドラは迷いなくアパレルショップへと向かっていった。その足取りには迷いがない。俺は思わず苦笑する。やはり、今日も彼女に振り回されるのか。
女性向けのアパレルショップに足を踏み入れた瞬間、場違いな雰囲気に気づく。店内は柔らかい照明に包まれ、淡い色合いの服が整然と並べられていた。香水の香りがほんのりと漂い、心なしか空気まで甘ったるい。俺は完全に浮いている。
店員さんや他の客がちらちらとこちらを見る。俺はそっと視線を逸らしたが、店員さんに「彼女さんへのプレゼントですか?」なんて聞かれ、曖昧に笑い誤魔化す。恥ずかしい。だが、当の本人はそんな俺の困惑などお構いなしに、思うままに服を手に取り、鏡の前で合わせては、また次の服に手を伸ばしていた。
それから約一時間。やっとのことでアパレルショップを後にし、目的の調理器具と調味料を扱う売り場へと移動する。開放感に思わず深呼吸しながら、圧力鍋やスパイス類を物色し始めた。ステンレスの鍋が棚に整然と並び、スパイスの小瓶がずらりと並んでいる。黒胡椒、ナツメグ、クミン……見ているだけで料理の構想が浮かんでくる。
一方のパンドラは、退屈そうだった。先ほどまであんなに夢中になっていたのに、今は暇を持て余しているのが明らかだ。棚にもたれかかりながら、時折欠伸をしていた。しかし、先ほどあれだけ待たされたのだし、俺も少しは良いんじゃないか?などと思うも、さっさと用事を済ませる。これが惚れた弱みというものだろうか?何か違う気がするが。
圧力鍋とスパイスを数個購入し、帰路へ向かう。その道中、公園があり、そこに寄ろうとパンドラが言い出したので、寄ることとなった。公園は閑散としており、人っ子一人いない。二人でベンチに座り噴水を眺める。
「ねぇ」
突然、パンドラが話しかけてくる。彼女からこうやって切り出すのは少し珍しい気がする。一体どうしたのだろうか?
「キス、しない?」
………………………
予想だにしない言葉が発せられ、思考に空白が生まれる。狐につままれるとはこのことだろうか。なんて思わず考える。
彼女を見やる。頬を赤く染め、珍しく照れている様子。それを見て、あぁ冗談とかではなく、本気なのだなと感じる。これは…なんて返事すれば良いのだろうか?喜んで?いや、キモすぎる。是非?これもない。あれやこれやと考えが巡る。そして、業を煮やしたのか彼女は俺の頭に手を回し、彼女からキスをしてきた。
唇が離れ、透明な橋が彼女と俺を渡す。
「意気地なしね」
言われてしまった。結構いや、かなりグサリときた。
「ふふっ」
パンドラは笑っていた。俺も釣られて笑った。俺は今、確かに幸せを感じている。
初キスはレモンの味がするというが、生憎緊張でなんの味もしなかった。
帰り道、お互いに少し照れくさくて、ほとんど会話はなかった。家に着いても、どこかそわそわしたまま料理を始める。今日は……角煮にしよう。買ったばかりの圧力鍋も試してみたいし。
夜の食卓は、いつもより少しだけ賑やかだった。
〜~~
8月3日
今日も出かけることにした。向かう先は鳳凰の庭園。荘厳で美しいと噂の場所である。だが、出発前から落ち着かない。昨日の出来事が頭から離れないのだ。パンドラと過ごしたあの時間、触れ合った唇の感触、彼女の囁くような声――。思い出すたびに胸がざわつく。
一方で、パンドラはいつも通りの様子だった。何事もなかったかのように、涼しい顔で身支度を整え、俺に視線を向ける。
「行かないの?」
そんな態度が妙に悔しい。まるで俺だけが意識しているみたいじゃないか。ならば、今度はこちらから攻めてみる。
俺はそっと手を伸ばし、彼女の頭に手を回した。驚いた彼女が軽く身を引くのを逃さず、そのまま自分の元へと引き寄せる。そして――唇を重ねた。
一瞬、彼女の肩がぴくりと揺れる。けれど、次第に力が抜け、俺の動きを受け入れた。
「やればできるじゃない」
唇が離れると、パンドラは少し上気した顔で微笑む。彼女の言葉に、俺は何も言えず目を逸らした。やはり、俺は彼女には敵わないらしい。
〜~~
庭園への道すがら、俺はどうしても気になることを口にした。
「なあ、パンドラ。あの箱のことなんだけど……」
パンドラはちらりと俺を見やるが、表情は変わらない。
「それは秘密よ」
淡々とした返答。これまでと同じ。いつもの彼女の態度。何かを隠しているようにも見えるし、単に俺をからかっているようにも思える。
「……やっぱり、あの箱には何かが憑いてるんじゃないか?」
「ふふ、何かって?」
その微笑みが妙に不気味で、俺は頭を振って余計な思考を追い払った。考えすぎだ。けれど、じわりと頭痛がする。何かが引っかかっている気がしてならない。
〜~~
鳳凰の庭園は噂に違わぬ美しさだった。
入り口をくぐると、目の前に広がるのは整然と手入れされた花々。紅蓮色のカンナ、深紅の薔薇、青紫の藤が調和し、絵画のような景色を作り上げている。中央には巨大な噴水があり、太陽の光を受けて水滴が煌めいていた。
「……すごいわ」
パンドラが小さく息を呑む。珍しく彼女が言葉を失っているのを見て、俺は思わず笑みをこぼした。気に入ってもらえたのなら、それでいい。
庭園の管理人であるほーちゃんさんが、誇らしげに胸を張って説明する。
「この庭園の維持管理には、月に何百万ルピものルピが掛かっているんですよ!」
「何百万……?」
思わず額に手を当てる。まさに金の暴力。いや、これだけの美しさを保つためなら、仕方ないのかもしれない。
「おかげで、こうして素晴らしい庭園を見られるわけだしな。感謝しないとかな」
俺がそう言うと、パンドラは小さく微笑んだ。
庭園の象徴である鳳凰像の下に立つ。
黄金の翼を広げた鳳凰は、まるで今にも飛び立とうとしているかのようだった。陽光を浴びて、その姿は神々しく輝いている。
俺はパンドラを正面から見つめ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「愛してる」
風が吹く。木々の葉がそよぎ、噴水の水面が揺れる。
「なんだか、今日はやけに積極的ね」
パンドラは微笑むと、今度は彼女から唇を寄せた。
柔らかな感触。甘い吐息。
俺たちの間に、透明な橋が架かる。唾液が混ざり合う感覚が妙に生々しくて、どこか恥ずかしくなる。けれど、それ以上に心が満たされていた。
唇が離れた後、パンドラは頬を染めながら、囁くように言った。
「わたしもよ」
この庭園の美しさも、陽の光も、今この瞬間のすべてが、彼女の言葉でかすんでいく。
今、確かに俺は――この世界で一番、幸せだ。
〜~~
家へ帰り、夕飯の支度をする。
今日は…ビーフシチューならぬ、ミートシチューにしよう。
今日は、賑やかな食卓だった。
〜~~
8月4日
今夜から嵐が来るらしい。午前中はまだ穏やかな天気だったが、昼前には空がどんよりと曇り、湿った風が肌にまとわりつくようになっていた。遠くで雷鳴が小さく響き、嵐の前触れを告げている。
外は危険だし、大事を取って外出は控えることにした。だが、こうして部屋に閉じこもっていると、やることがなくて暇を持て余してしまう。そして、自然と考えがあの箱へと向かってしまうのだった。
ボウリング玉がすっぽり収まるほどの大きさで、重さは4~5キロほど。装飾の一切ない、漆黒の外装。そして何より、しっかりとした錠。
何の変哲もない箱――のように見えて、どうにも不穏な雰囲気を感じさせる。重さのわりに、中で何かが動く気配はない。それなのに、手に取るたび、妙な違和感が背筋を撫でるように広がる。
そもそも、何故パンドラがこの箱を俺に渡したのかすらわからない。
「絶対に開けてはいけない」
彼女はそう言った。ならば、最初から自分で管理すればいいはずだ。なのに、何故俺に? 何故、わざわざ俺の手元に?
わからない。
頭が痛くなる。
パンドラに問いただしても、彼女は肩をすくめ、少し微笑んで、「さて、ね……」とだけ言う。その表情が、無邪気なのか、何かを秘めているのか、見極めることができない。
彼女はいい女だが、それと同時にやっぱり変な女だ。そうやって思考を巡らせているうちに、気づけば昼近くになっていた。
腹が減った。
「……ミートパイでも作るか」
冷蔵庫を開ける。肉の在庫も順調に減ってきている。今日の夜にはすべて使い切ることになるだろう。
〜~~
夜。風が窓を叩く音が強くなる。
ビュウビュウと荒れ狂う風が、建物全体を揺らすような錯覚を覚えさせる。雨粒が窓ガラスを鋭く打ちつけ、たまに雷が空を裂く。轟音と共に、部屋の明かりが一瞬だけ揺れたように感じた。
思っていた以上に荒れ模様だ。これは明日まで続くだろうな、とぼんやり考える。
「夕飯……すき焼きでいいか」
肉をすべて消費できるし、冷蔵庫の整理にもなる。ただ、真夏にすき焼きというのは少し暑苦しいかもしれない。だが、こういう天気の中で熱々の食事を囲むのも悪くない。
そんなことを思いながら、準備を始める。
しばらくして、テーブルに湯気の立つ鍋が置かれた。甘辛い割り下の香りが部屋に広がり、食欲を刺激する。パンドラは湯気の向こうで、静かに箸を持ち、ひと口肉を口に運んだ。
「ねぇ」
彼女がふいに口を開いた。
「ん?」
顔を上げると、彼女はじっとこちらを見つめていた。蒼玉のような瞳の奥に、何かが揺れている。
「……あの箱のことだけど」
思わず息を呑んだ。
パンドラから箱の話を切り出すのは初めてだったので、魂消る。
「……あの箱は、もともと貴方のものよ」
ゆっくりとした口調で、彼女は言う。
「錠も、開けようと思えば開けられるはずだわ」
――何?
理解が追いつかない。何故、今、そんなことを言い出す?
「……それは、どういう意味?」
問いかけるが、パンドラは視線を逸らし、それ以上何も言わなかった。
沈黙が落ちる。
鍋の中で、煮込まれた具材が静かに揺れていた。
わからない。
わからない、わからない、わからない。
また頭が痛くなった。
〜~~
8月5日
嵐は止む気配を見せない。窓の外では、容赦のない風が木々を揺さぶり、雨粒が窓ガラスを激しく叩きつけていた。空を裂くような雷鳴が轟き、一瞬、部屋の中が青白く照らされる。照明の灯る静かな部屋と、外の荒れ狂う世界との対比が、妙に現実離れした光景に思えた。
今、俺は一人だった。パンドラの姿はどこにもない。付き合い始めてから、彼女がそばにいない夜を過ごすのは初めてだった。普段なら、彼女の存在が部屋に満ちていた。軽口を叩き合い、時に甘い言葉を交わし、時に意地悪にからかわれる。だが今、そこにいるのは俺だけ。俺と──目の前の箱だけだった。
箱を見つめる。視線を向けた瞬間、頭が鈍く痛んだ。まるで箱そのものが、俺の思考に爪を立てるかのように。手を額に当てると、指先が震えているのがわかった。異常なほど冷たい手のひら。掌には、黒い鍵が握られていた。いつの間に──?
喉が詰まるような感覚が込み上げる。吐き気がした。鍵を落としそうになるが、どういうわけか、手は意志に反してしっかりとそれを握り続けていた。
錠に手をかける。金属の冷たさが指に伝わる。開けてはいけない。心の奥で警鐘が鳴る。だが、手は止まらなかった。
鍵を差し込む。本当に?そんな問いが浮かぶ。だが、それすら虚しく思えるほどに、指は迷いなく動いていた。
鍵が回る。カチリ、と微かな音を立てた。そして、錠はあっさりと外れ、床に落ちる。
箱を開ける。時間が引き延ばされたかのような感覚に陥る。今ならまだ、蓋を閉じて、何もなかったことにできるのではないか?そんな考えが頭をよぎる。しかし、指が僅かに力を込めるだけで、蓋は音もなく開いていった。
そして、中身を見る。瞬間──俺は、息を呑んだ。
そこに居たのは、パンドラだった。いや、違う。彼女の頭部だった。
理解が追いつかない。目の前の光景は、あまりに異常だった。彼女の艶やかな髪が、箱の縁に流れ落ちている。閉じられた瞳は、深く眠っているかのようで、皮膚は血の気を失い、蝋のように青白い。だが、それは確かにパンドラだった。俺が愛した、俺を翻弄した、あのパンドラの顔だった。
これは、一体……?まるで、世界の関節が外れてしまったかのようだ。現実がひしゃげ、軋み、崩れていく感覚。頭が痛い。激痛が脳を突き刺す。
現実を直視してしまう。否応なく、認識してしまった。もう、目を逸らすことはできない。綺麗な夢は、敢えなく消え去った。
そうだ──そうだった。
俺は……彼女を……。
雷鳴が轟く。閃光が箱の中身を照らす。
そして、見た。
彼女がニヤリと笑った。その顔を。
〜~~
8月??
「ええっと隣室から異臭がするとの通報があり、管理人が遺体を発見。発見時、ドアノブに首を括っていたと……これは自殺ってことで、事件性はなさそうと見て良いですかねぇ?」
「あぁだろうなぁ……しっかし、まだ若いってのになんでまた……」
「まぁ色々とあったんでしょう。世知辛い世の中ですし。それよりも、遺体が大事そうに抱えてた箱、何なんですかね?中にはなぁんにも入ってないですし……」
「さあなぁ……人は死ぬ間際、何を考えるのかなんて、俺たち生者にゃわかるもんじゃねぇよ」
「……まぁ確かに、そうですねぇ」