獣人は窮地に立たされていた。攻撃が腹部に当たり損傷している。臓器まで傷は達していないようだが、出血がひどい。処置をしなければ10分も持たずして死ぬだろう。
「あなた、魔法は使わないのかしら? 」
イロハが大剣を獣人に向かって向ける。トドメを刺そうと思えば今すぐにでも刺せるだろう。だが、そうしない。彼女はこの状況を楽しんでいるのだ。生き物の本来の、100パーセントの力は絶命の危機に瀕して初めて出されるのだ。イロハは期待していた命の散り際に獣人が放つであろう渾身の一撃を。
「……、使って欲しいの? 」
獣人はイロハに返す。実は獣人はこの短い生涯において一度も魔法を使ったことがない。発動の仕方は知っている。しかし、その魔法を使うには莫大な魔力を消費するだろう。それを獣人は本能的に理解していた。
「ええ、もちろん」
「君は変わってるね」
獣人は傷口を見る。出血はおさまっていない、むしろ悪化している。意識はもって数分、いや、2分もないだろう、感覚でわかる。
イロハは大きく飛躍して獣人に斬りかかる。大剣を軽々と持ち上げて振り落とす。避けられない、出血によってもうろうとし始めた意識の中、獣人は死を覚悟する。
獣人は目を開く。そこは海辺だった、深いような浅いような色をした青い海が目の前に広がる。砂浜、奥が見えないほど広がっている。水平線は目を見張るほど美しく一直線に光っている。この景色はずっと見ていられる。獣人はこれを誰かに見せたいと思った。誰かはわからない、けど大切な誰かに見せたい。
「僕の……、大切な人……」
獣人は大切な人の名前を思い出そうとする。頭の中の記憶を辿る。だが、記憶の中の誰かの顔にはモヤがかかって思い出せない。どうしてだろう。獣人はゆっくりと歩いて海に足をつける。冷たい、とても、冷たい。透き通った海はキラキラと光が反射して眩しい。獣人は空を見上げる。空は蒼い、雲ひとつもなく太陽が元気よく輝いている。空は迷いひとつなくずっと、どこまでも広がっていた。獣人は目をつぶる、ブワッと風が獣人を覆う。この風に身を任せればどこへでもいけそうだ。どこか、獣人の知らない遠い場所へ。
「ここは」
次に獣人がいた場所はコンクリートでできた高い建物が並ぶ場所。獣人はこの場所を知っているような気がした。ゆっくりと歩いていく。気になった建物の中に入る。たくさんの椅子、大きなスクリーンに流れる映像……。映画というものだろう。それを見る自分とモヤのかかった誰か。スクリーンの中の人物はいう。
『必ず帰ってくる……約束だ』
けど、獣人は映画の結末を知っている。主人公は自分を犠牲にして地球を守る、自分の愛する人を残して……。スクリーンが白く光る。獣人はまたしても別の場所にいた。大きな塔の最上階、そこからは赤色に染まっていく街が見える。青から赤、赤から黒、空の色は変わる、毎日、変わっていく。毎日同じように見えて少し違う。この場所も獣人は知っている。獣人は外の景色に見とれる。不気味なほど赤い街、どこか懐かしい気分だ。
「……」
気づけば獣人は森の中にいた。森には湖がありその近くにはポツリと小屋が立っていた。この小屋は獣人が育った場所だ。でも、退屈だった、変わりようがない退屈な毎日。空を見上げて遠くへ飛んでいく鳥を羨む日々。けど、そんなある日、大きな音とともに世界が変わった。遠くに大きな建物が見えるようになった。そして、そこに向かって旅立った。知らないものがたくさんあった。知らない食べ物、知らない文字、知らない生き物、それを全て知り尽くすまで死にたくないと思った。
獣人は自分がよく知る場所にいた。コンクリートの建物が並ぶ街の中に佇む家、獣人が住んでいた家。思い出せない大切な誰かと住んでいた家だ。ある日出会った誰か。捕まえて閉じ込めた、逃げないように、ずっと一緒にいられるように。最初は反抗的だった、だから犯したり、殴ったり酷いことをした。それなのに自分に懐いてくれた誰か。獣人は涙を流し呟く。
「僕は……誰を……忘れてるんだろう……」
次回更新は木曜日となります、申し訳ありません。