※ハジメ×檜山要素あり
※pixivにも投稿しています
その日、大学から帰宅途中の檜山大介の心は夏の空に浮かぶ入道雲のように浮かれていた。
都心部に比べて、自然が多いこの地域。丘の上にある駅の周りには様々な娯楽施設やショッピングモールがあり、マンションや建てられて年数は経っていないであろう住宅街を見渡すことが出来る。ここからすこし、離れた下り坂を下れば檜山の住んでいるマンションに行ける。
東京の郊外から少し離れた場所なため、この付近は森や木々などの自然が多い。近年ではこの地域は住宅開発とモール開発が行われて、近代的な人工物と自然とが織り交ぜられた光景が広がっている。真夏の青空に広がる入道雲とその下にある街並みが、檜山の心と記憶に打ち付けられた。
夕方とは言え、この時間帯はまだ明るい。強い陽ざしが檜山の体力を奪うが、家に帰る足取りはどこか楽し気で、体に感じる疲れよりも精神的に前向きだったから何の苦にもならない。いつもの檜山だったら帰る途中でモール寄り道してゲームセンターなり、映画なりに行って楽しもうと行動するのだが、その足は自然と自分の住む家へと向かっているところだ。
なぜなら、今日はとても幸せな日だったから。心に満たされた幸福は胸の内に溜めておけば精神的に充実するのだが、溜めるだけでは本当の幸せとは言い難い。本当に心にもたらされる幸福とは他人と共有し、分かち合う事で自分の幸せを肯定してもらう事。つまり、今の檜山には胸に秘めた幸福感を共有し、喜んでくれる親友がいるという事なのだ。共有し、肯定してほしいからこそ、今の檜山は真っすぐ、寄り道もせず自分の住むべき場所へと向かっていたのだ。
マンションの前にたどり着く。エントランスに入ると前には自動ドアとその横にオートロック解除のための機械がある。専用のICカードを使用して、ピピッと音が鳴った後に自動ドアがスッと開く。機械によるこすり合わせてガタガタとならずにすべるように動くドアが、このマンションが新しい建物であることを伝えている。
エレベーターに乗り、自分の部屋に向かって歩き、ドアの前に立ってインターホンを押した。少しばかり待った後、部屋の中でバタバタと足音の主がドアの前に立つと音が止んだ。
ドアが開かれた人物が笑顔で向かい入れた。
「お帰り檜山くん」
「おお、ただいま。ハジメ」
※※※
食事の後はどうしても寝っ転がりたくなる。満腹感によって満たされた腹を抱えたらすぐにエネルギーを消費するのではなく、惰眠をむさぼるのだ。これほど気持ちのいいものはないと思いながら、手に届く範囲のあるリモコンに手を伸ばして、最新の大型テレビを点けて、チャンネルを今流行のドラマに切り替える。
「すぐに寝っ転がったら牛になっちゃうよー」
「良いんだよ。俺はどんな食っても太らない体質なんだから」
食後の食器を片づけるハジメに対して、屁理屈で返す檜山。
画面の向こうでは今流行の俳優が流行の女優と何処かで見たような陳腐なドラマを演じている。檜山としては退屈と言った感じだが、近くにいるハジメに目を向けると同じように退屈そうだった。
「……面白いの? これ」
「面白い……らしいんだよな。一応、香織は見ていて泣けるとは言ってたんだけどな」
「はぁー……何というかあの人の感性だったらこんなもんでも感動モノなんだろうね……」
「い、一応俺の彼女なんだけど……」
当時、檜山が通っていた高校でマドンナと呼ばれていた少女がまるで残念な人扱いされていることに檜山は苦笑いしながら冷や汗を垂らしていた。そこで、香織と聞いて檜山は今日の事を思い出す。部屋についたらすぐにハジメが食事だと言ってきたので忘れていたのだ。
「あ、そうだ。俺さあ、今度の夏休みに香織のお爺さんの家に行くことになったわ」
「えっ!? それってすごくない?」
期待通りの反応が帰ってきたことに檜山はニヤリと笑う。
ハジメも驚いていたが、それはハジメだけでなく檜山も香織の両親について知っていたからだ。特に父親の方がまだ、娘離れできない上に近づく男にはまるで視線で人を殺せるのではないかと言うくらい、敵意を向けてくるのだ。つまり、香織を攻略するという事は父親も攻略するという事に繋がるのだ。
そう、檜山はそれをやり遂げたのだ。
「おうよ! こちとら毎回、あいつとのデートを重ねたり、ご両親にも何度か会っていたからな。今じゃ、香織の父親とも……ダチっていうの? まあ、そんくらい仲良くなっちゃってさぁ。もう、ここまでくると卒業の後に結婚しちゃう勢いだぜオイ!」
「本当にすごいよ! 外面がいいだけに無自覚で人を悪意のある視線に巻き込むナチュラル鬼畜でそのくせ、ラノベ主人公張りの周りの異性への好意に気付かない鈍感ぶりをいかんなく発揮しているのに高校当時はマドンナとかいうブランドを振り回したクッッッッッッソめんどい役病神を誰にも背負わないように君は自分を犠牲にして……すごいよ檜山くん!」
「あの、ハジメさん。一応、俺の彼女なんですがそれは」
長々とした長文を一言一句間違えることも噛むこともなく、喋り切るハジメ。言ってしまえばそれだけ恨みが深いと言えなくもないだろう。檜山が香織の話題を上げたことで、今日にいたるまでの事を思い出していた。
高校時代、檜山とハジメの関係はいわゆる『いじめっ子』と『いじめられっ子』の関係だった。いじめと言う関係についてのきっかけは、オタク気質で大人しい少年だったハジメをヤンキー気質の檜山が、気持ち悪いだのなんだのと適当な理由を付けてからんだことが始まりだった。なぜ、オタクと言うだけでイジメが始まったのかは、きっとお互いに分からないだろうが、当時の葉山からしたら攻撃しても反撃しない草食動物のような相手である事とただ、面白そうだったから。理由はそれだけだろう。深い物なんて何もないのだ。
だが、それ以上に檜山がハジメに強烈に敵意を向けていたのは、それだけではない。先ほどの話に出てくる高校当時の少女・白崎香織が嫉妬の炎を燃え上がらせる薪となっていたのだ。彼女は学校の二大女神と呼ばれる少女であり、男女共に人気があり誰からも慕われていたのだ。そんな彼女は頻繁にハジメに親しく接したために『趣味の合間に人生』を座右の銘に上げていて、適当な生き方をしていると周りに思われていたハジメは白崎香織の優しさを無下にしていると思われ、クラスメイト(檜山を含む)に嫌われていたのだ。
それからこの頃の学校生活は何事もなく、何のトラブルもなくクラスメイト全員は卒業し、それぞれが新たな道を歩んでいた。
(まさか、それで香織と付き合うことになるとはなー……)
実は、この話には続きがある。高校を卒業した檜山は、進学した大学で香織と再会した。大学生活を送っているうちにクラスのマドンナの事を記憶に追いやられていたが、彼女と再会することで当時の熱を取り戻したのだ。だが、あのハジメに対するべったりぶりを考えると付き合っているのが自然だろう。そう思っていた時にハジメの話題を上げると……
「フられたァ!?」
「うん……白崎さんとはいい友達でいたいからそんな風には見れないって……」
付き合うと思っていたら、そうでもなかった。それどころか、あれだけ行為を向けられてもむしろハジメ本人としてはうっとおしいと思うくらいだったのだ。
それから、数日たった後からハジメとも再開し、その時のハジメのセリフを聞いて……
「あー……興味すらないよ。むしろ付きまとわれてすっごい迷惑だったカンジ? 付き合いたいなら告ったら?」
檜山は苦笑いをするしかなかった。檜山にとってハジメをイジメる理由として、香織に好かれていると言うのが癪に触っていたのだが、その理由を聞いた途端に「あれ? これゲットできちゃうチャンスじゃね?」と思って、告白が成功。周りが憧れる少女をゲットできた事とハジメの思わぬ一面を見れたことで彼の中にあるマイナスな面が氷解したようなものだった。
(あー、なんだかどんどん思い出してきたわー……)
テレビを見ながら、寝っ転がる。香織の事を考えていると、段々とそれに引きずられるように記憶の中の思い出が顔を出し始めた。今の生活に至る檜山の生活を。
高校当時の檜山の人物像は、ハッキリ言って言葉で表しても、一目で見てもいい印象を与える人物で放った。学生でありながら、授業を真面目に受けず、服装も気崩し、髪を染めてまさにヤンキーと言った風貌で外見的な意味では悪印象を与えるのには十分だった。なら、内面はどうかと言われたらこちらも褒められたものではなく、弱気をくじき強さに媚びる、未来に対する明確なビジョンなどなく、ただ今だけを楽しめればいいと言う性格面でもダメの一言だった。まさに自他ともに認める不良だったのだ。
そんな檜山も受験のシーズンともなると流石に大学進学のために服装を正して髪の色を元に戻すなど、授業態度を改善。勉強もやろうと思えばそこそこ出来たので、一年近く『真面目な態度』を貫き、そこそこいい大学に進学することに成功。それからは高校とは違い、自由に過ごせる時間を手に入れ、バラ色のキャンパスライフを送る……はずだったのだ。
本来なら、高校生活のようにある程度厳しい校則があると言うなら、まだそれに従うというだけで何も考えずに過ごす事なら、誰でも出来る。問題なのは、規則や親によって縛られていた檜山が『自由に過ごせる時間』をもらったがために悪い意味で持て余してしまったのだ。同じ学年相手に喧嘩を売る、気弱な奴を見つけては『イジリ』、単位が取れればいいなら授業はまた今度にすればいい……自由を手にした結果、檜山は受験の時の熱を失い、堕落した。
しかも、檜山がイジっていた少年が自分の親を連れてきて「自分は檜山くんに虐められていた」と高校の事を含めて、これまで行っていたことが周囲の耳に届いたのだ。もちろん、檜山の親にも。
――なんで、なんでだ。だって『アイツ』だったら。
これは檜山自身にとっても衝撃な真実だった。狭い世界では通じていた攻撃的な『自分』は全く通らなかった。弱いと思っていた相手は暴力とは全く違うもので反撃してきた。比較対象が彼の中にある高校に居た『キモイ糞オタク』しかいなかったという浅い経験がつついた相手が反撃してくるのなんて予想できなかったのだ。
そして、それからの檜山の生活は激変した。自分の息子に失望した親、今回の一件で周りに知られてしまった檜山大介と言う人間性。人として最低な行為を行った檜山に対して、親の方は失望の色をあらわにしていた。学校でも家でも疎ましく思われた檜山はいつしか、自分と言う人間が嫌いになっていた。
そうなれば教室にもいづらくなるから、授業に出る頻度が減る。そのうえ、ゲームセンターに出入りを繰り返し、自分の殻にこもるようにするから……気づけば、檜山はもう戻れないところまで来ていた。やり直すと言う気もなくなっていた。人間としての再起も不可能ならいっその事、流されるままに……
そう思っていた時だ。ハジメと再会したのは。
ある日、大学に来たが、来たとたんに授業を受ける気をなくしてしまい、学食ですませようと学校内のレストランに足を運んだ時だった。レストラン内のいくつものテーブルに様々な生徒が座っていて、各種レストランのメニューから選んだ食事を済ませている中で、ゼリーで済ませようとした少年を見かけたのだ。
檜山は「よう」と一言呟いてから、その椅子座った。ハジメと再開するのは高校の時以来だ。なにより、二人の間は良好とは言い難い関係なのだ。
でも、何か話したかったのだ。
話し相手がほしかったのだ。
以前は見下していたと言う気持ちもあり、その考えのおかげかハジメには自分の心の内をさらけ出せたのだ。一しきり自分の心の内を吐き出した檜山が、その後にハジメの口から聞いた言葉が、
「ねえ、檜山くん。僕と一緒に住まない?」
「……は?」
これだった。
その一言がきっかけになって、檜山の環境はガラリと変わった。
ハジメは檜山を実家から連れ出して、自分の住んでいるマンションにルームシェアの手続きを進めて、強制的に二人暮らし。しかし、完全にタダで済ませるわけではなく、知り合いのバイト先で働かせて少しばかりハジメの方に入れること(余ったお金はお小遣い)。
また、だらしない生活態度を改めるために幾つか。まずは食事生活の改善である。朝はしっかり食べさせ、お昼は食事バランスと檜山の体調を考えたお弁当、夜もバランスを考えた食事を用意するが、流石に夜のくらいの食事くらいは檜山が喜びそうなものを用意。余談だが、高級デパートでしかお目にかかれない国産の黒毛和牛とやらをすき焼きに出したら、檜山は泣きながら食っていた。
勉強の方もハジメはつきっきりだった。檜山は基礎の部分は出来ていたので、あとは応用の部分を教えるだけで十分だった。あとは、ちゃんと単位を取れるように授業には小まめに出ろとくぎを刺しておくだけだったが、たまに行くの渋るときもあった。その時はケツを蹴り上げられて外に出される時もあり、檜山も内心、「アイツにあんな一面があったのか……」と驚いたものだった。
香織に関しては……もうこれ以上、ここで上げる必要はないだろう。何せとっくに終わった話であり、結実した恋なのだ。
いつの間にか檜山は、ドラマを見る事よりも、短い間ながら自分に起きた出来事を振り返ることに集中していた。本当に色々な物が変化したと思った。変化したと言えば、自分の中にもある。それはハジメに対する印象だ。
檜山にとってハジメは『キモイ糞オタク』と言う印象しかなかったし、高校を卒業すれば記憶の片隅に置かれるような存在だった。それが、再開して彼に対する印象はガラリと変わった。いつも細かいところに口出ししてくるが、それは檜山を想っての事であり、しつこくてもハジメのアドバイスはどれも的確に檜山に役立つアドバイスをしてくれるのだ。普段の生活でも、勉強の時でもハジメと言う存在が檜山にとって精神面でも日常的な意味でも心の支えになっていた。
なによりも、そんな風に相手にしてもらったことを感謝できるという点が、檜山にとって自分が変わったことを実感させていた。
「あ、そうだ檜山くん」
ハジメの声が、キッチンの水の出る音と食器をスポンジでこする音と共に聞こえてくる。
「バイトの方はどう?」
「おう、まあまあだわ」
檜山の元気のある声が、勤務しているバイト先でうまくいっていることが表れていた。
実は、檜山の勤務しているバイトは今住んでいるマンションに入る前から働いている場所なのだ。マンションに入る前にバイトで働いている事については、どうでも良い事かもしれないが、問題はそれ以前の檜山の生活態度だ。入る前の檜山の人間性ではどこに入ってもうまくやってはいけないし、マンションに入ってから自分を見つめなおしたのならそこを辞めて別の場所へ働くのもありかもしれない。なのに、昔の彼から今の彼に至るまでに働いている場所を変えない理由は……
「どう? 特に対人関係にトラブルとかない?」
「まーな。先輩とかよくしてくれるぜ」
「一応、僕が紹介したところだからさ。何かあったらすぐに言いなよ。一応、父さんの知り合いの会社だからさ」
つまりはそういう事である。檜山が働いている場所はハジメの父親が運営しているゲーム会社でバイト、母親の方では漫画のアシスタントを任せられているのだ。どちらも仕事内容としては、なるべく漫画やゲームの事について知らない檜山でも出来るような雑用を選んでもらっているのだ。
しかも、ハジメは檜山を親に紹介するときに高校時代の事を話さなかったので、親の方としては檜山の印象は単に『やる気のある若者でハジメの友達』と言ったものだった。なにより、檜山は言われたことを忠実にこなしていた為に親の方はどちらとも好印象だった。まあ、その時は単純に崖っぷちだったからこのチャンスを逃したくないと言う彼なりの足掻きもあったかもしれないが。
しかも、この努力が功を奏して、いまでは「君、うちの会社に来ない?」などと呼ばれる始末。生活面だけでなく、安定した将来までもハジメが整えてくれたのだ。
(……なんか、変わったなぁ……俺もアイツも)
思い返してみても本当に激動、もしくは激変と言ってもよかった。今の檜山には勉強面でも将来的な面でも不安な要素が一つとして無く、むしろ以前のような自分の人間性が信じられないくらいだった。それくらいに自分と言う人間の変化に驚くと同時にこれが成長という物なのかと感慨深くなっていた。檜山はいつのまにか、そんな自分が好きになっていたし、今の自分以外の人間性に変化することも考えられなかった。
部屋の中でピピッと電子音が響く。
「お風呂が沸いたみたいだね。檜山くん先に入ってきなよ」
「ん……分かった」
寝っ転がっている体勢から起きて、檜山は風呂場に向かう。着替えは風呂を出た後で言いだろう。あとで、ハジメに「裸で歩くなよ……」と目で言われそうだが。
きっと、この生活はずっと続くのだろう。今日のように学校に行きながらもハジメの両親の仕事場で働かせてもらい、仕事としてのスキルを身に付け、そしていつかは香織と結婚して一般的な幸せな家庭を築き、将来の子供のためにあくせく働く社会の歯車になるのだ。
(今の生活が続いて、将来も……)
自然と檜山の顔がほころんだ。
(そうだ。ずっと続いていくんだ)
そう、ずっと。
これから先もずっと。
ずっと今の生活を……。
これからも……。
(これから……これから?)
ふと、脳裏に影がよぎる。今の自分の生活についてだ。
勉強も恋も将来もこのままいけば順調だ。そこについては何ら不安はない。なら、この生活はいつまで続くのだろうか。卒業するまでだったらすぐにでも予想できる。勉強して、バイトして、たまの休日は趣味か香織とのデートを楽しんで……それが卒業まで……
(……あれ? ちょっとまてよ。俺ってこの生活を……)
「ねえ、檜山くん」
ふいに、まるで自分の考えを中断させられるかのようにハジメの言葉が檜山に向けられた。
「……『これからもよろしくね』」
※※※
寝る時間になり、ハジメと檜山は寝室に向かった。ハジメが借りているこのマンションの一室は洋室と和室に分けられており、和室を寝床としている。彼らとしても日本人。畳に布団を敷いた場所が体になじむのだ。
二人分の敷布団をくっつきすぎない程度に横一列に並べ、一番下に毛布と掛け布団を置く。ただし、最近は熱くなってきているんで、掛け布団一枚で十分だ。
「じゃあ消すよ」
ピッとリモコンを操作して、部屋の電気が暗くなる。檜山は祖母の家に行った際に天井にぶら下がるコードを引っ張って、明かりを消していたから今のリモコン操作を見て、これが近代化かと一人で納得していた。
部屋も暗くなり、静寂が訪れる。後に聞こえるのは外からわずかに聞こえる音と寝室内の音。そして、自分の鼓動だ。
いつまで、いつまでこの生活を……先ほどから檜山の頭の中にある単語はこれだけだった。
確かに今の生活には何ら不安はない。それどころか充実しているし、今の生活もそれを維持している自分が好きだった。なのに、なのに……ぬぐえない。取っ払うことが出来ない。どうしても、どうしても言いようのない不安に頭をかきむしりたくなる時があるのだ。
(……なんでだよ。なんで……)
静かな暗闇の中で、檜山は目を覚ましていた。いや、振り切れない不安が、その意識を眠らせてはくれなかったからだろう。
もう、あの頃の自分はいやしないのだ。もう自分はあんな漠然とした人生を送ってはいないのだ。自分は……自分は……
(俺は、俺はもう情けない自分なんかじゃないんだ。だって、だって俺は……)
檜山は何度も何度も今の自分の環境を頭の中でグルグルと巡らせる。
立派なマンションにだって住んでいるし、勉強面でもバイトの面でもうまくやれている。それでいて、自分をさせてくれる美人な恋人がいて、これ以上ないくらいに満たされているのだ。
なにをそんな不安に思う事がある。
なにをそんなに敵視しているのか……その気持ちが未だに分からないのだ。
だって……
(そうだよ。俺は『自分』でこの『幸せ』を……?)
瞬間、檜山に言いようのないものが頭の中をよぎる。
違和感があったのだ。点と点がつながらない不条理、理不尽……そのどれとも繋がらない概念。しいて言うなら、論理的ではないと言ったところだった。
イコールと思えないのだ。今の自分と今の幸せが。確かに檜山は幸せをつかんだ。でも、その幸せは本当に自分一人でつかめたものだろうか。檜山が掴んでいることは間違いではない。でも、そうなるまでの過程で『自分』はどうやって今の幸せをつかんだ?
「檜山くん」
暗闇の中で、光が射したように感じられた。横を振り向くとそこにはハジメが居た。起きていたのか。
「手をつないでよ」
いきなりだった。掛け布団がもぞもぞと動いているかと思いきや、そこからハジメの手がひょこっと伸びて、檜山に向けられている。こいつは一体何を言っているんだ。何をしようとしているんだ。いや、それよりも……
――なんで自分はこの手を迷う事なく、つなぐことを選んだのだろう。
気づけば、檜山の手はハジメによって握りしめられていた。そっと伸ばした手の五本指を包み込むように。握手だとかいわゆる恋人つなぎでは無い、相手からの一方的なつなぎ方だ。これじゃあ、まるでやられるがままではないか。対等な関係じゃないみたいだ。
ハジメの目が檜山を射止める。
(……!?)
背筋が震えた。それと同時に檜山は理解した。ああ、これは復讐だったのかと。
こいつはきっと、高校の時から自分の事が気に食わなかったのだろう。だから、大学で落ちぶれていた自分を見て、チャンスだと思っていたに違いない。思えば、これまでの事だってそうだった。檜山が一人で成し遂げることが出来た物なんて一つとしてなかったのだ。勉強もこいつが教えてくれたし、恋だってハジメのおこぼれと言っていい。就職先だってハジメが用意してくれたのだ。どこまで行ってもこいつは、自分にとって気に入らないから徹底的につぶすよりも飼いならす方を選んだのだ。
屈辱に思う感情は檜山にはなかった。なぜなら、もう自分が一人で生きていけるとは思っていなかったし、もうだれも頼れないのだ。恥だろうが、頭にこようが、それは自分のために何もしてこなかったからだ。自分への罰なのだ。もう、自分には何にも感じる心がなかったのだ。
「ねえ、檜山くん……」
――ずっといっしょだよ
なによりも、繋がれた手のぬくもりに安らぎを感じている時点で……