夜の帳が下り始めた帰り道、立希は静かに歩いていた。路肩に植えられた街路樹の葉が風に揺れ、コンクリートに映る影が伸びたり縮んだりを繰り返している。隣を歩く燈の姿を横目に捉えながら、立希は無意識に指先をこすり合わせた。胸の奥がざわつく。この感覚は、いつもの「バンドのことで悩んでいる」とは違う。
燈は相変わらず無表情で、ふわりとした歩き方をしていた。立希は、そんな彼女がどこか夢の中にいるように思えてならなかった。いや、実際に燈はよく夢を見ているみたいなところがある。バンドのこと、詩のこと、あるいは——仮面をつけた人形の夢とか。
「……ねえ、燈。」
立希は歩みを止めた。二人は燈のマンション前にある歩道橋の上にいた。地上には車のヘッドライトが流れ、白い軌跡を描いている。
燈が立希の方へ顔を向ける。
「今度、水族館に行かない?」
言葉を口にした瞬間、立希は自分の鼓動が跳ねるのを感じた。心臓の音が耳に響く。これを言うのに、どれだけの時間をかけて考えてきたことか。練習が終わるたび、どうやって誘えばいいかシミュレーションして、あれこれ考えて、結局全部まとまらなくて——でも、こうして口にしてしまえば、あっけないほど簡単だった。
燈の顔は変わらない。いつもの静かな、感情の読み取れない表情。
(反応、薄い……?)
立希は息を詰めたまま、燈の次の言葉を待つ。長い沈黙が降りる。時間の流れがゆがんでいくような感覚に囚われる。
「……あのちゃんも一緒に行っていい?」
その一言に、立希の思考が止まった。
「……え?」
思わず間抜けな声が出た。自分の中で練りに練った計画が、一瞬にして崩れる音がした。
燈は相変わらず無表情のままだった。
「水族館、行きたい。でも、あのちゃんも一緒に行ったら楽しそう。」
「……ああ、うん……まあ……」
立希は、気づいたときにはすでに「いいよ」と言っていた。喉の奥に残った違和感をどうすることもできず、苦くて重いものが胸に広がっていく。
——なんで、こうなった?
燈が愛音を誘ったら、もう「デート」ではなくなる。バンドメンバーで遊びに行くだけだ。そんなの、ただの水族館見学じゃないか。
でも、「嫌だ」とは言えなかった。
燈が愛音を誘うことを拒否する理由なんて、立希にはない。言えたとしても、それはただのわがままだ。
「じゃあ、決まり?」
燈が首を傾げる。立希はこくりと頷いた。
「……ああ、決まり。」
燈は「よかった」と言うように、小さく瞬きをした。それだけで、またふわりとした雰囲気に戻り、マンションへと歩いて行く。
立希はその背中を見送りながら、なんとも言えない気持ちを抱えたまま、歩道橋の欄干に肘をついた。
(……はあ。)
どうして、こうなる? どうして、いつも自分はこうなんだ?
ベッドの上での葛藤。部屋の天井を見つめる。
白い天井に、何度も「なんで」をぶつける。
「……なんで、こんなことになったんだよ!!」
思わず枕を殴る。
横になっても、うつ伏せになっても、何も変わらない。もやもやした気持ちは消えないままだった。
(私、水族館に燈を誘ったんだよな? それなのに、どうして愛音がついてくるんだ?)
一人で行きたかった。燈と二人で、水族館を回って、ペンギンを見て、燈がどんなふうにそれを詩にするのか、そんなことを話したかった。
けど、愛音が来るなら、もうそういう空気にはならない。燈と二人きりになれる瞬間なんて、きっとない。愛音は騒がしいし、燈も愛音にはよく話すし、私の入る隙間なんて、なくなるんじゃ——
「……っ!」
考えれば考えるほど、胸が苦しくなる。
愛音が来るのは、断れなかった自分のせいだ。でも、「ダメ」なんて言えるわけがない。燈が「愛音と行きたい」と言ったのを、無理に拒否するのは、違う。
でも、それなら——
(私は、どうしたかったんだ?)
「燈と二人で行きたかった。」
声に出してみる。
口にした途端、胸の奥がぎゅっと縮こまる。どうしようもなくて、どうにもならなくて、枕を抱えたまま、もう一度天井を見上げた。
「……私、バカみたいだ。」
ただ、燈を誘いたかっただけなのに。こんなに苦しいのは、なんでだろう。水族館。楽しいはずの場所が、今は少し遠く感じる。
でも。
燈は、行きたいと言った。それなら、行くしかない。
たとえ、愛音が一緒でも——
「……はあ。あいつ断らないかな」
立希は大きく息を吐いて、枕に顔をうずめた。
目を閉じると、どこか遠くで、ペンギンが泳ぐ光景が浮かんできた。