ガラスの自動ドアが開くと、ひんやりとした空気とともに海の香りが漂ってきた。エントランスホールには巨大な円柱型の水槽がそびえ立ち、青白い光が水のゆらめきと共に辺りを満たしている。大小さまざまな魚たちが緩やかに泳ぎ、その合間をクラゲがふわりと漂っていた。
「わぁ……」
燈が息を呑んだように目を見開いた。その瞳には、水槽のきらめきが映り込んでいる。
「ともりん、めっちゃ嬉しそうじゃん」
愛音がニヤニヤしながら、燈の顔を覗き込んだ。
「……うん、ここ……好き……」
燈の声は小さかったが、その表情は隠しようもなく嬉しそうだった。
「年間パスポート持ってるんでしょ? どんだけ来てるわけ?」
立希がからかうように言うと、燈はほんの少し首を傾げる。
「……たぶん、十回以上……」
「えっ、思ったよりガチ勢じゃん!」
愛音が驚いたように笑う。立希はそんな二人のやりとりを見ながら、ふと自分の胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。燈がこんな風に心の底から嬉しそうにしているのを見るのは、あまり多くない。彼女が楽しそうにしているなら、それだけで来た甲斐があった気がする。
「で、今日はどこ行く?」
水槽に顔を近づけていた愛音が、くるりと振り向いた。
「燈、どこ行きたい?」
立希が尋ねると、燈は少し考えるように視線を泳がせ、それからぽつりと言った。
「……チンアナゴ」
「チンアナゴ?」
「なにそれ?」
愛音がきょとんとした顔をする。
「砂の中から……ひょこひょこ……出たり入ったり……する……」
「え、知らないけど……ともりんっぽいね」
愛音はスマホを取り出し、展示エリアのマップを開き始める。
立希はその様子を横目で見ながら、少しだけ胸がちくりと痛むのを感じた。燈の言葉を愛音はすんなり受け止め、軽い調子で「らしい」と言ってみせる。あまり深く考えずに、すぐに理解しようとするその距離感が、妙に近く見えてしまった。
(……何、くだらないこと考えてんの)
気持ちを振り払うように、立希は「燈、行こう」と先導する。
チンアナゴの展示を堪能した後、一行はクラゲトンネルへと足を踏み入れた。青い光に包まれた回廊の両側には、大小さまざまなクラゲがふわふわと浮かんでいる。ゆったりとした水の流れに身を任せるように漂うその姿は、どこかこの世のものではないような幻想的な雰囲気を醸し出していた。
「おお、めっちゃ幻想的じゃん……!」
愛音が思わず息を漏らす。
「……きれい……」
燈も、ゆっくりと水槽に手をかざすように見入っている。その瞳には、クラゲのゆらめきが映り込み、まるで同じ流れに溶け込んでしまいそうなほどだった。
立希はそんな二人の様子を横目に見ながら、クラゲの動きに目を奪われていた。ゆらゆらと流れるようなその姿は、まるで時間の流れが違う世界の住人みたいだった。
「クラゲってさ、何考えてるんだろうな」
ふと、立希が口にする。
「何も考えてないんじゃない?」
愛音が軽く言うと、燈がゆっくりと口を開いた。
「……でも……クラゲも……流されるばっかりじゃなくて……ときどき……動く……」
立希は思わず燈を見た。その横顔は、水槽の青い光に照らされてぼんやりと柔らかく見えた。
「……そういうもんかね」
燈はこくりと頷いた後、ぽつりと呟いた。
「……クラゲ、いいな……」
「ともりんっぽいね」
愛音がふっと笑いながら言う。
「は?」
立希が思わず眉をひそめる。
「いやいや、だってさ、ともりんってクラスの子たちに"何考えてるかわかんない"って言われてるじゃん? "高松燈は不思議ちゃん枠"みたいな。でもさ、クラゲもそうじゃない? 何も考えてないように見えるけど、実はちゃんと動いてるっていう」
「そうかな……」
燈は愛音の言葉に反論することなく、静かに水槽を見つめたまま頷いた。
立希は少し驚いた。普通なら「不思議ちゃん」と言われることを嫌がる人もいるのに、燈は気にしていないようだった。それどころか、むしろ受け入れているようにさえ見える。
「でもさ、ともりんが"何考えてるかわかんない"とか言われてるけど、私にはちゃんとわかるけどね」
愛音は肩をすくめながら、得意げに言った。
「ともりんは"不思議ちゃん"なんじゃなくて、考えてることがみんなとちょっと違うだけ。それって、別に悪いことじゃないでしょ?」
燈は愛音の言葉を受けて、ゆっくりと瞬きをした。
「……あのちゃんは……いつも……そう言う……」
「そりゃそうでしょ。ともりんの考えてること、ちゃんと聞けばわかるもん」
愛音がさらりと言ったその一言が、どこか立希の胸に引っかかった。
燈はクラスでは"不思議ちゃん"と呼ばれている。でも、それを理解しようとする人は少ない。大抵の子は「変わった子」として距離を置くか、興味本位で珍しがるだけだ。でも、愛音はそうじゃない。燈の考えを「聞こう」とするし、「わかる」と言う。
その距離感が、立希には少しだけ羨ましく思えた。
「ともりんも、クラゲと一緒で、流されてるように見えてちゃんと自分で動いてるんだよ」
愛音の言葉に、燈はふわりと微笑んだ。
「……クラゲ……いいな……」
その表情は、まるで水の中にいるクラゲのように、どこか自由で、どこか儚かった。