カリナは、まだ鳴り続ける耳障りな雨の音と共に目を覚ます。数日ぶりの久しい睡眠。彼の中の疲労が、溶けほぐれたようだった。
「おう、起きたか」
そしてそんな彼に声をかけるのは、黒い髪を墨のようにたなびかせる一人の女性。のそりと、片方しかない腕で首をさすりながら、気怠げに。
不思議な感覚だ。
見た目も、肉体の力も、二十代前半。であるのに立ち振る舞い、雰囲気は老練のそれだ。多かれ少なかれ不死の英雄たちはそうなのだろうが、この女性に於いては、それが特に顕著だった。
「何をじろじろと見てやがる」
「む、気を悪くしたなら済まない」
英雄、シズク・カラスハは何も答えず、ただ飄々と笑って背中を向ける。そこに警戒などはない。隙だらけの背中だけが目の前にある。だからといってどうというわけでは無いのだが。
「食え。足りなかったら言いな」
ついて行った先で、そうぶっきらぼうに差し出されたものは、朝餉だった。澄んだ色の汁物に、ただ盛られた米と鳥の肉を焼いたもの。簡素ではあるがどれからも真新しい湯気が立っていて、その匂いもまた、甘く香ばしい。
その光景にただ、信じられないような面向きでカリナは英雄をまたじっと睨む。
「毒なんざ入れてねェよ」
「それは、そうだろうが」
「あァ、味が心配か。ま人並みに食える物ではあるさ」
「そうではなく、何故…」
「いいから食え。それ以上の無駄口で冷まそうもんならはっ倒すぞ」
有無を言わさず、食わない限りはもう話さんという眼光。ならば確かに、食べないことも礼に失すると思い、ただ目の前の飯をかっくらった。
人並みに食えるもの、などとはとんでもない。凄く、旨かった。あまり味に関心のないカリナが目を剥く程に。それは技巧なのか、素材なのか、状況によるものか。要因はわからないが、ただ、旨かった。
あっという間に平らげる。お代わりまでした。気付けば近くにシズクの姿は無く、食べ終えたほどに戻ってきていた。
「…驚いた。本当に旨かった」
「ハ。なに、料理の真似事さ。まあ、それで餌付け出来んなら悪かねえか」
そう笑うシズクの手には注射の針と、細々とした器具。くあ、とあくびをしてから彼女自身もゆっくりと食事をとり始めた。
「あの子にゃまだ意識が無いようだから、栄養と水を打ち込んどいた。食える状態だったなら食うのが一番いいんだが、まぁ言っても仕方ねぇ」
「…重ね重ね感謝する、シズク。
何から礼を言ったらいいものか」
「ふん、存外普通の反応だなつまらねェ。…そうだな、なら礼の代わりにあの子の名前を教えろ。いつまでもあの子、呼ばわりじゃ締まりが悪ぃ」
「…ルーチェ。そう名乗っていた」
「ルーチェか。ああ、いい名前だ」
ずず、その言葉で一度会話が切れる。ただ暫く汁物を吸う音、咀嚼の音が響く。元来無口なカリナと、きっと、必要なこと以外はあまり話そうとしないたちなのであろうシズク。
二人はずっと、沈黙の中にいた。
「ちと面貸しな」
唐突にシズクの声。それを断る理由もなく、ただカリナはその後ろをついていく。奇妙なことだが、既にそんな距離感が彼らの間で出来ているようだった。
面を貸せ、と言われそのまま出た先はまだ豪雨の降り頻る屋外。外の空間の、その真ん中にシズクが立ち尽くす。ざぁぁ、と音を立てる中に一つ静寂が出来るように。
「…傘でもさしたらどうだ」
「こんなんでカゼひくような半端な身体じゃねェだろ。オレも、手前も」
「それはそうだ…っ!?」
語末に、驚きと共に引き退いた理由は、先までただゆっくり立っていただけのシズクが恐ろしい勢いでカリナに向けて目突きをしたからだった。鼻の先が掠めて皮が剥げるような、速度のそれ。何よりも恐ろしいのは殺意などの気配を全く感じず、故に察知できなかったことだ。
「へぇ、さすがに避けたかい。
だが駄目だ、感覚に頼りすぎだ」
ぐるるる、と、喉の奥からの唸りが返事にする。獰猛に飛び掛からないのはそれまでの恩と、飄々とした笑顔のままを怪訝に思ったから。
「手前みたいな手合いは、獣の感覚と人間としての思考を脳が同時にさばききれねぇのよ。だから一度気配と感覚で大丈夫だ、と思うと思考にばかり集中して、感覚を放棄しちまう。気ぃ付けろよ」
「…なんのつもりだ…攻撃をしておいて、そんなつもりではなかったでは済まさんぞ」
「おう、冷たいこと言うね。最初に殺意を向けてきたてめェをそんなつもりじゃなかったで済ませてやったのがオレだろうに」
「……」
それを言われると、弱い。カリナは完全に臨戦態勢だった身体の力をほんの少しだけ緩めた。全身を叩く雨粒の感覚を強く感じる。
「不死なんて暇なもんでな。オレはそれをなんとかする為に色々と真似事をしたのさ。料理の真似に、医者の真似事、いろいろよ」
「真似事、ってのが良いんだ。よく暇が潰れてな。なににせよ、そこそこ上手くなる為に時間が必要だから。だから此処でのてめぇとは…」
宿敵の真似事、とも違ぇか。強盗、違ぇな。
しばらくそうひとりごち、納得したように頷いた。
「ハ。師匠と弟子の真似事、ってとこか?」
「俺に師などいらん」
「だろうな。オレにもいらねぇよ。
だから、真似事でちょうどいいの、さっ」
ず。
びたぁん。
虚を突かれた瞬間に地面に思い切り叩きつけられる。会話のその隙間を縫うような片手はカリナの、それこそ感覚をすり抜けての投撃だった。
受け身こそ取れずとも、叩きつけられた衝撃をものともせず身体を捻り即座に立ち上がる姿は、獣のままだ。
「おう、いいねぇ。なら今から殺さない程度に、オレは手前を投げたりぶっ叩いたりし続ける。だからそれに、必死に対抗してみな」
「…ぐ…ッ、ぅるるる…』
「ああ。そういや、オレを殺したいらしいな?
いいぞ、出来るもんなら今やっちまえ。
まあできないだろうが、練習にもってこいだろ」
…ざああ──
雨が、降り続ける中。
断続的に地面が揺れた。だぁん、びだん。
地面ごと割れるような、衝撃。
その度に、まだ意識の無い少女が眉を顰めた。
…
……
「……つ」
半獣としての、面目躍如というべきか。カリナの風体の大きさといかめしさに似合わず、身体の柔軟さは幼子や猫も驚くようなものだ。
しかしそれでも、ああまで連続に投げられてしまえば受け身も立ち上がりも間に合わないこともある。
何故自分はああまで攻撃を通してしまったのか。目を閉じて考えるが、元々、理屈で戦うことは出来ていない。ならば身体で覚えるしか、ないのだろう。
下手な考えは休むに似たり、と思い。未だ目を覚さない少女の前で彼はある本を開いた。
それは、過去の英雄譚の記。作り話より、作り話じみた実話だ。ぺら。ぱらり。小さな灯りの前で、捲る。
捲る音と、外の雨音。
そして、どれほど読んでからのことか。
静かに近づいてくる足音。
「へェ、読書かい。
思ったより勤勉なんだな手前ェ」
「…灯りで起こしてしまったか?すまない」
「ああ、いいんじゃねえか?人間、食べて寝て、ようやく人らしいことができるもんだ。それをやることを咎めはしねェよう」
そうして、ちらりと横になったままの少女を見る。
ルーチェはまだうなされ、意識は無い。
交互に少女と狼を見て、シズクが笑う。
「いい番犬じゃねえか。
万が一にでも襲われねえように、ってか?」
「……」
「手前の妹、って感じじゃねえよなァ。親子…ハハッ、さすがにねえだろう。しかしじゃあ、どういう関係なんだ?」
「…答える必要は…いいや、あるか。
しかし一言で答えることが難しくてな。なんとも、言えないんだ。強いて云うなら、それこそ…」
「共犯者、もしくは相棒、かい?
よくわかんねェなあ、てめぇらは。
まあ、ルーチェちゃんが起きたら聞いてみるか」
起きたら、目覚めたら。
ルーチェは、まだ目が覚めない。
カリナはそれに、不安を感じていた。
体温と息はまだ感じるけど、それ故に。
「そうさな、こらただの妄言だが。肉体の消耗より、もっと治しにくい所が削れてんのかもな。それをゆっくり治してるのかもしれねぇ」
不安を感じ取ってか、はたまたただのお節介か。
シズクはそう、肩を掻きながら話す。
「もっと大事な所とは…?」
「言ったろう、ただの妄言さ。
あとは手前で勝手に考えな」
ふうむ、と息を吐き。結局はわからないことであり、自らを困惑させるだけの邪推にしかならないと気づいて、再び読書の手を進める。
シズクもまた、暇そうにあくびをしながら、そこに居座っていた。しかしそれにも飽きたようで、いつしかぐいと横に座り、英雄譚の中身を横から見て、勝手に読みはじめた。
「…へぇ!はっ、ははっははは!オレの武器に『天をも穿つ矢』と来たもんか!この手の英雄記にゃ誇張がつきものとは言え、まあ盛られたもんだ!くく、そんなもんをバカ真面目に読むてめえも面白いがな」
「……なるほど。これはうがつ、と読むのか」
「ン、なんだ読めねェのか?」
「字が分からないんだ。
俺はまだ頭が悪いものでな」
「く、『まだ』か。
ははっ、見返してやる気満々ってとこかぃ」
「ううむ、見返す、というよりは…
…俺は狭い世界で生きていたから、俺は俺を成立させる強さの為にこういうものは要らないと思ってたんだ。だが…」
言葉にするのは、苦手だというように首を何度か傾けて、そしてゆっくりと噛み潰すように、なんとか言葉を紡いでいく。
それを英雄は、嗤いもせずただ見ていた。
「だが最近、そうではないのだとつくづく思い知ってな。知は力になり得るし、そして俺はそれを持たないことを、不足たると思い始めた。だから身に付けたいんだ。…少しでも、こいつの役に立つ為にも」
「は、なるほどな。いいじゃねぇか」
ぼそりと呟いてから、それからもうんうんと苦戦しながら分からない文字を見よう見まねで書き残すカリナの姿を見て、シズクはのそりと立ち上がった。
「カリナ。軽くでいいなら文字を教えてやるよ」
そして、そう、言う。
男はその日、何度目となるかの、同じ質問をする。
そしてまた、何度目か分からない、同じ答えをされる。
「何故?」
「何度も同じこと言わせるなめんどくせぇ。
暇つぶし。ただの、真似事だよ。
先生の真似事なんざあまりやったこたねぇがな」
「……ふむ。それなら、是非。頼む」
……そうして、微かな灯りの中。
仄かな教室が、しばらく開かれた。
それで何がどう、というわけではない。
ただそんな奇妙な関係は、真似事と共に続く。
真似事は、しばらく続く。
ルーチェの意識は、もうすぐに戻る。
ざああ──
外に降る雨は、まだ止まない。