「…雨にうたれるのも飽きたとこだ、オレぁそろそろ戻るぞカリナ」
「……」
「手前がそこに居たいなら勝手にしな」
「……ああ、そうすることに…」
「いいや。戻ってこい、カリナ。
お前まで体調を崩したらどうするんだ」
その声は、シズクの声でもカリナの声でも無い。その場にいないはずの第三者の声。第三者の存在とはつまり、他にはここに連れてこられた意識のない女の子しかなく。
だからその声が意味することは。
「…!」
沈痛な面向きでうなだれていた狼は、その声を聞いて、はっと首を上げた。そうして、始めは歩くような早さで。次第にもうすこし足早に、その声の持ち主の方に行った。
「…ルーチェっ!意識を取り戻したのか!もう、立ち上がって大丈夫なのか?」
どん。
カリナの嬉しさが前面に出た言葉への返答は、ただその無言と共に出された、腕のみだった。その腕は、強く押し、狼を横に退かせた。
「おお、起きたのかい!
良かった。…ああ、心底良かったよ。誰かを助けられるならそれに越したこたねえ」
そうして、ほっとした感情を前面に出した英雄に向かって、つかつかと歩き続ける少女。その背姿をどこか、呆然とカリナは眺めた。
「へえ、そうかい」
様子のおかしさには気づいていたつもりだった。だがきっと、まだ本調子じゃないのだとか、英雄を前に殺気立っているとか、そういうことだと思っていた。だがそこでカリナはようやく、何かがおかしい事に気がついた。
「それが、こんな相手でも?」
そうして眼鏡を外して、その緑色の眼をシズクに見せびらかすように睨んだ。それに睨まれた瞬間。シズクの黒い眼に驚愕が浮かんだ。
否、驚愕というよりも、もっと。
おぞましいものを見た顔の顰め。
「……カリナ……この子……
いや、こいつ…お前、は……!」
「うぷっ」
…この女傑とカリナは、数日程度の付き合いでしかない。しかしだからこそ、この女性の感情と対応が、予想の外側から来たものであったことに、心底驚いた。
シズクは、嘔吐したのだ。
何かに耐えられず。
何もかもに、耐えられず。
「おえ、ええええええっ…!
げええ、げぼっ、げ、ええええっ!」
ただただ困惑して、両者を比べるように代わる代わる見るカリナをか、それともそうしている英雄を見てか。嗜虐心を満たされたように口を歪める少女は、ただただ悪辣で。そして、それでも可憐だった。そのアンバランスさがより一層、英雄に吐き気を助長させた。
暫く、激しい嘔吐は続いた。
その間、誰も何もできなかった。何かしようものなら、何かこの平衡が崩れるような気がして。
「……なんで…
なんでこんなことに、なっていやがる、お前は」
「なんでだと思う?
僕が聞きたいんだよ。だがまあ、お前のその反応からすると、お前もシロみたいだな」
「答えになってねェんだよッ!なんでオレは、こんなものを見なきゃならねぇ、畜生ッ!」
「なんでかなんて、分かりきってるだろう。歪んだ生をお前が享受したからさ、英雄さま」
「………」
二人の間のみで交わされる会話を、しかし眉を顰めて見るしかないのはカリナだ。
会話の内容は、何一つわかりはしない。だが代わりに、そのそれぞれの込められた感情や動きはわかる。だからシズクがその隻腕でルーチェに掴み掛かった時も、カリナは微かにしか動かなかった。微かに、脚を狼に変幻させる以外は。
「歪んだ生!?歪んだ生き方をした自業自得!?ふざけるな!これをしたのは誰だッ!」
「……これはてめぇが!てめぇが勝手にしたことだろうが!オレは、お前のせいで、お前の…!」
「……」
「そうだな。だから僕はお前を殺しに来たんだ。お前の『星』を、粉々に砕いて」
カリナの思考が、止まる。
言葉の意味がわからない、というただ単純なことと、それに伴う思考の鈍化と鋭敏化から。
(……待て、待ってくれ。
ルーチェが、英雄たちを不死にした?)
「さあ、星を差し出せよ。お前の望み通り、お前を殺してやるよシズク。
もう何もする気もないんだろ?雨なんぞにうたれて自己憐憫する以外はさぁ」
「…聴いていやがったのかよ、クソカマ野郎。いつの間にか、盗み聞きが趣味になったんだな?ゲロクソが」
「ああ、聞いていたよ。その汚い言葉遣いも、うちの犬が馴れ馴れしく、馴れ馴れしく!媚を売る様子もな!」
(不死にする、なんて荒唐無稽をどうやってやったんだ。それこそ、神と呼ばれるような存在しか出来ないはずだ。神の与えたような力…
『八つ星』の、ような…)
「……星なんざ、いらねえよ。
もうオレにはいらねえものだ。だから勝手に先に壊しときな。だが、その後。そのまま殺されてやるわけにはいかねェなぁ。ただ殺されるだけなんて、ムカつくからな」
(…馬鹿な。
それならつまり、ルーチェの『中身』は…)
「条件がある。従わねえならそれで構わねえよぅ、オレが今すぐ手前らをどっちも殺して全部水に流して終わりさ」
「内容は単純さぁ、カリナ。
……手前がオレを殺してみせろ」
は。自らの名前を呼ばれてようやく正気に戻った狼は、その発言にしかし、と、言葉を紡ぐのを躊躇った。何故躊躇った?
それは彼自身言語化こそ出来なかったが。
「…ッ!」
その姿を見て、更に、より一層。
苛ついたようにルーチェが睨んだ。
「やれ」。ただ、それ以外は必要ないとばかりに。
そう、されたなら。カリナにはそれを断る理由はない。ただ頷くしか求められてないならかくあるべし。
「………ああ、やろう」
「…フン、決まりだな。
なら、さあさっさと差し出せ」
「お前の星を、砕かせろ」
いつもより乱暴で乱雑な口調で。何かを踏み潰すように脚を踏み躙って、銀髪の少女は吐き捨てた。その眼からは、病的な光が溢れる。
…
……
──楽しい、楽しい。
生きていることの全てが刺激的な瞬間。オレのその魔法の時間は、終わった。最高の、旅の期間。その全てが楽しかった魔法より魔法だった刻。
だから残りはただ、長い残り時間をなんとか過ごすだけ。それまでの思い出すら褪せてしまわないくらいに。それだけでよかった。
良かったのに。
「さあ用意はいいかよぅ、わんころ。動くなよ。オレがてめえを叩きのめすのに、時間がかかるからな」
「……そうするわけには行かない。
既に言ったことだ。俺は…あんたたちを殺すことを目的にしてるんだ。これでも、な」
「はっ、その折れた槍でかよ?もうちょいマトモな武器を持ったらどうだ」
──何故だ。何故、オレを不死などにした。
なんでオレたちにこんなことをした。
星に願いを。この、かけられた願いを消せ。
そう、真っ先に願った。
だけどそれは出来ないらしい。
同じ仲間の星への干渉はできねぇってか。
「へぇ。いいじゃねェか。だがさっきの、考え込んでた時。ありゃよくなかったぜ。前も言ったろう?思考と感覚の両立だ。今はそれが出来てるが、常にそれを意識しな」
「……あんたを殺そうとしてる奴を、指導するやつがあるか。やめてくれ、そんなものは闘いじゃないだろう!」
「…闘い、たたかい。そうだなぁ。
続けとかなきゃ、な」
──食わなくたって飲まなくたって死なない。何もやらない、やる必要がない。たたかいだって、どう戦っても生き残って死なない。こんなにつまらないものも無ぇ。ドグならこれでも楽しむことは出来たかな?
「がはっ!…ははッ!悪くねえ!
いいじゃねえか、その動き!」
「ぐるる、るるっ…!
……シズク、あんた…っ!」
──だからオレは暇つぶしを寄越すように星に願ったんだ。なんでもいいから暇つぶしを。オレに、オレに合った暇つぶしを。ノヴァ、あいつは手遊びを幾つか教えてくれたがそんなの、クソの役にも立ちやしない。
だから、暇つぶしを。それだけの願いから始まった暮らしは、ただの戯れの真似事だ。本当にくだらない、ただの真似事。
英雄さま!これ、あげる!なんて。
…その、真似事の途中で渡された花も。
くだらないだけだった。
「…その弓は飾りなのかッ!?やることは一つだけだろう!その矢を射抜け!俺はそれを凌いで、あんたを倒す!あの時、撃ちそびれたものを今撃つだけだ!なぜ、それをしないッ!」
「……ハハ、自惚れるなよぅ、オレの矢を凌ぐなんてできるわけがねぇだろう」
──顔を見せねえとうるせえから。また会いに来てくれないとやだなんて、ほざくから。いつでも来ていただけたらなんて無責任に言いやがるから。たまーに、顔を見せてやる。それくらいの塩梅にしていた。
「英雄さまに頼り切りになることがよくないと分かっているから、わざと身を引いてくださってるんだよ」と勝手に思いこむやつもいた。
そんなんじゃないさ。
「だが…これを、御所望か?
なら見せてやるよう。見てえんならな。
ただの一本で十分だ」
「……『天をも穿つ矢』…」
「やめろよ、その呼び方。これにゃアルテミスの雫って名前がある」
──全ての村民が消えて失せた。鼻にこびり着く甘ったるい匂いと、散った花びらが、それの理由と原因、下手人を明らかにしていた。
花と幸福の園、ミーグメィルの常駐軍。
それの象徴だったんだから。
血に塗れた、それとは違う花びら。花冠で渡されたものと同じ花。家の裏手に沢山生えていると、自慢げに教えられた…
怒りのまま手にしたアルテミスの雫も、矢も、ただ力無く零れ落ちた。力が、抜けた。
なんで、こんなことをするんだ?
なんで皆が狙われなきゃいけなかった?
なんでこんな酷いことをする必要がある?
なんでオレはこれを未然に止めれなかった?
なんで……
「………」
この裏切りは、二度目だった。
この辛さは二回目のこと。
リーフィ。なんでお前が。
何故お前が、オレにこんなことを。
スノウ。なんで、お前が。
オレを不死身になんてしたんだ?
お前を、お前たちを、ともだちだと思っていたのはオレだけだったのか?
オレから、くだらない暇つぶしすら奪うほど、オレはお前たちに恨まれていたのか?
「……シズク?」
──そうだ。でも、だとしても失ったものはただの暇つぶしだ。だから、そう気にすることもない。だから……
なのに、なんで、こうも雨が降っている?
体温と一緒に全ての力が抜けた。
あの時の、不死になりたての頃と同じ。復讐の怒りよりもこの雨の冷たさが、頬を伝っていく。
この雨はなんで降ってるんだろう。
この雫はいつまで垂れるんだ。
なんだろうなぁ。なんでだろうな。
オレは、なぁ…
「…なァ、カリナ」
「なんだかオレはもう、疲れちまったよ…」
……一本のみの矢。二の矢いらずのそれは、一本も放たれはしなかった。
シズクは、引き絞った鉉を、そのまま緩めて。隻腕から弓を取り落とした。
カリナはその姿を見て、手を止める。
刹那。
巨大な氷の針が、彼女の首を貫いた。
最期の顔は、ただ、笑顔だった。
…
……
「…シズク……」
雨に流れて、血が失われていく。命が急速に失われることがわかる。そしてもう、この女性には、何も出来ないことも。
英雄と呼ばれる者の、呆気ない死。それはただ、狼の胸に風穴を開けるような虚無のみを残していた。
「カリナ」
横から飛んできたその凍針は、つまりこの狼を呼ぶ少女の声と同じ方向からのもの。
仰々しい杖の先から飛んだ、凍結の力。ルーチェは、戦闘を終えたばかりのカリナを鬼気迫るような顔で呼び、そして殴りつけた。
「何故、手を止めた?」
「…星は、砕くことは既にできていたんだ。何も、殺さなくても良かったのでは、と」
哀しげにそう言うカリナを見て、改めて激昂したように少女はもう一度カリナの頬を殴った。ぺちん、という音が似合うような非力なそれは、しかし身体の小ささの産物であり、込めた力は手加減など微塵もなかった。
「僕が、寝ている間に!よっぽどあの女に絆されたんだな、なぁ!!」
「そういうわけでは…」
「そういうわけだろ!」
明らかに冷静ではない様子の相棒を、カリナは改めて呆然と眺めるようだった。彼は、この彼女がいつも落ち着いてくれているからこそ、彼女だと思っていた。であるのに、今の彼女は、どうしたのだろう。
「随分と楽しく暮らしたんだな?随分と、快適な暮らしをしたんだろうな!良かったじゃないか!僕以外の主人ができて!」
「…俺は…あんたが、ドグを殺したことを悔やんでいたから。だから殺さずに済んだら、それが一番いいんじゃないのかと思ったんだ。あんたが、悲しむならと…」
「はっ、僕のためか!そう言えば、誰に尻尾を振っても許されると思ってるのか?馬鹿が!」
一線を越えた罵倒の数々、かちんと来なかったと言えば嘘になる。
だが、それよりもカリナを支配したのは、もっともっと大きな感情。
何故、こうも怒ってる?
とまどいだけが、ずっとあった。
「カリナ!お前は、僕のなんだ!」
「…俺は…俺は、あんたの」
「そうだ!お前は僕の下僕だ!
下僕が勝手に、僕以外に跪くな!
二度と、二度と僕以外に傅くなッ!」
はっ、はっ。息切れして、そこまで一気に吐き捨てて。そうして初めて、ルーチェの、理性的な部分は戻ってきた。
そしてそこで初めて。
カリナの顔を見た。
しまったと、口を抑えた。
「……俺は…」
「…俺は、あんたが前に、相棒と言ってくれたのが嬉しかった。認めてくれたような、そして俺とあんたが同じ認識を持ててることが嬉しかったんだ。……だが…」
「……自惚れだったか。悲しいな」
口元だけを歪める笑い。そしてそれはまるで、二人の間に入り始めた亀裂を、そのまま形にしたようだった。
…
……
雨が、ようやく止み始めていた。それは英雄の、降り続けていた雨がようやく止んだことを、指し示すように。
残る星は、あと五個。
しかして地は固まらず