時はルーチェたちが、まだひぃこらと歩いている時に遡る。カリナはその速力で確かに走り続け、そしてルーチェの予想通り、彼女らが着くよりもずっと早く目的地に着いていた。
(ここが、か)
きょろり、きょろりと周りを見て。
一鼻、吸って。その過剰な花の匂いに顔を顰めた。だがしかし、香りに慣れればそれもまあ悪くは無いようで。
花と幸福の園、ミーグメィル。着いた時の感想は、拍子抜け。存外普通な場所じゃないか、というものだった。
自ら楽園を騙るにしては平凡で、そして禁足地であるという事実を鑑みての感想はしかし、やはりどうにも普通なように見える。
そう。因縁や英雄のどうこうを除いておいて、ここは禁足地とされ、普通の人々が寄りつく場所ではないのだ。
何故なのか?その理由はわからない。『分からない』ことが一番の理由。分からないとはつまり、ここに行った余所者は誰も、戻ってこないということ。
(……)
だから、油断はするべきではないのだろう。そうでなくても自分はこの園のトップを殺しに来た者。用心しすぎるということはないのだろうと、離れた場所で人姿に戻った時。異常な匂いが鼻をつんざく。
「ぐッ…!」
なんだ、この匂いは。甘ったるく、ぴりりと脳が痺れるようで、自然臭のようで香のよう。矛盾している性質を幾つも持ち合わせた異常。だがそれの何が一番おかしいか。異常な匂い。常とは異なる匂いを、獣状態の時には嗅ぎつけれなかったこと。
そして。
その匂いを嗅いで、『まあいいか』と思ったこと。
(おかしい…常とは異なる匂いを嗅いで、なぜ俺は、それをどうでもいいものと思った?俺が惚けただけならば良いが…)
ちらりと、隣にいない誰かを見る。今はそこに居ない彼女を。狭い見識の自分を補ってくれるのはいつも彼女だった。
沈黙と共に、ひとまず彼女ならどう言うかと想像して、ひとまず鼻から下を布で覆ってみた。さしたる効果があるとは思えないが。
「……」
きっかけに、ふと、思い出す。何故俺は、ルーチェを怒らせてしまったのだろう。それは未だにわからなかったし、答えが出るようなものでない気もした。そして誇りを傷つけられる事を言われても、憤りが浮かばず、ただ困惑と落胆だけをしている、自分の感情の正体も。
(…いや、今はいい)
首を振るって、一度思考を途切れさせる。妙な匂いがしたとて、ここに入らないことは出来ない。たとえどんなことがあろうとこの中に踏み入れるしかないのだから。
そうして彼は花と幸福の園の中に入っていく。
迷いと疑念に、囚われたままに。
…
……
ひそひそ、ひそひそ。
遠巻きな視線を感じる。
囁き声も、常に聞こえてきた。ここに入ってから、常にそうだ。閑散とした人通りの中、しかし常に何処かから見られている。だがその視線は何かしら意図があるというわけではない。だから、無視をした。
ここの異常さとはつまり、この人々の疑心だ。花の香りと、見てわかるほどの緑の豊かさとは全く持って裏腹にここの街に安息とやすらかさは微塵も存在しない。ただ何かに怯えたように、周りを見張る目がそこかしこに、根のように張り巡らせられている。
牧歌的な、雰囲気なのだ。
それさえなければ、故郷を少し思い出すほど。
まあ、その感傷はどうでもよく。
ひとまずは腹拵えと、そこらの店に入る。
「腹を満たせるなら何でも良い。
何か食べ物を出してくれ」
「は…はい、ただいま…」
常にびくついたような対応をする店主が特徴的な店だった。いくら待てどもしかし、料理は出てこない。彼は彼のその鋭敏な鼻と耳から、なるほど飯は出てこないだろうと確信していた。
なぜならば。
代わりに来たものといえば鉄の匂い。
がしゃがしゃと動き回る鎧と武具の音。
そうしてばん、と強く扉を開いたのは高圧的に、威圧をすることに手慣れている様子の兵士たちだった。そうだ。調理や用意の代わりに聞こえてきたのは、自分を密告する店主の声だったからだ。
早速、それら兵士の二人はカリナに手に持つ斧槍の柄の部分を突きつけてくる。そうして彼らはじっとりと、黒い男を見つめた。
「貴様、余所者だな」
「驚いたよ」
「?」
「ここは、随分とサービスがいいんだな。
国仕えの兵が配膳までしてくれるなぞ」
カリナの能天気に応える様子に、即座に二人の兵士はその首に向けて刃を構えた。それ以上ふざけた対応をすれば、という最終通告だ。
それに向けて。
カリナはくあ、とあくびをした。
「こいつ…!」
「いい度胸をしているな。
ならば望み通りお前をこの場で…」
ばきばきばきっ。
そしてその、あくびのまま。口を大きく開けて、その閉じる動作で。首元に突き付けられた斧槍の先、刃に思い切り、思い切り噛み付いた。
「…なっ!?」
そのままぶんと首を強く振り抜いて、刃と木の柄の接合部の根本のところから、べきり、とへし折った。
ぺっ。じゃらじゃらがらん。床に、先まで首に突きつけていた筈の凶器がばら撒かれて、兵たちの中に恐怖が生まれた。
「やりたいなら、やろう。だがこれで怖気付くくらいなら去れ。無理矢理に戦わせる趣味はない」
狼は確かに善意のつもりでそれを言った。だがしかし、そのような言葉はつまり正面から臆病者と謗られたようなもの、であることに気付くほどの含蓄はまだカリナには無い。
結局、それに激昂した兵はそのまま拳を向けてきた。
「……ハ、ァ」
…その、吐息は溜息ではない。
もっともっと、狂熱の籠った息。
まず、後ろにいた方の一人が驚愕に目を剥いた。自分の脚が、よくわからない黒い影のようなものに飲み込まれていっていたから。パニックに陥り、脚を引き抜こうとした横面に、低い声がかかる。
「安心しろ。別に底なし沼というわけではない。
足も着くし、すぐに抜ける」
そう言葉を投げかけられた時には既に、もう一人の兵は片手で持ち上げられ、そのままぐったりと動かなくなっていた。
ゆっくり声をかけて来た大男に、腰を抜かす。
「ひっ、ひ…!」
「逃げるのか。ならば、他の奴らも連れて来てくれ。お前たちだけでは物足りない」
ぶん。手に持っていた兵を投げ捨ててからそう口にする。腰を抜かしながらも四つ足で必死に去っていく様子を見ながら、カリナは満足そうに頷いた。
「おおい、店主よ」
びくつきながら姿を隠す店主の方に歩いていき、その震えたぎる手に、無理矢理金を握らせる。感謝をしたい、と。
そうだ。こうして何もしてないのに周りから敵愾心を向けられるなら、穏便な手段は、はなから存在せず、こうしなければ英雄には辿り着けなかった。
結局は単純な事だ。今までと同じような事。目的のために自分ができるのはこんなことしかない。ならばそのきっかけを作ってくれたのなら感謝をしたい。
そして、何より。
「たまには、こういうのも、いい」
そう言って、カリナは笑った。
幽鬼のようなその見た目に相応しい、陰気で恐ろしい笑み。その内側にある修羅が、色濃く出ている時の、それだ。
カリナは待つ。
先の兵が握っていた、先端の刃が噛み切られた柄を拾い上げて、その柄を手刀で何度か折り、一番手慣れた、短槍の長さに調整して。
(……)
そしてその先端に、懐にしまっていたある刃をくくり付けた。ただ一つ残っていた、鋭い破片を。ある矢の先を。
…
……
はじめに、最初の倍の人数が制圧の為にやってくる。
それをまた三人倒して、一人を帰させる。
そしてその次。
更にそれの倍以上の人数が来た。
再び一人のみを残して帰させる。
そんなことを繰り返すたび、浅ましい本性が、露になる。そのことを彼自身疎んでいるような本性。それは自分自身よりも明確に弱い者を痛ぶることに、強者と戦うとは別の快楽が存在すること。普段の寡黙で陰鬱な様子はつまり、彼の昏い凶暴性の『蓋』なのだ。
「くっ…ははっはは」
槍を突き出して来た兵の手の甲を、蛇のような軌道の槍が叩き割り、悲鳴が上がるより先に次の兵の足を、払ったままの勢い余り蹴り砕く。認識も追いつかないうちに次の兵の兜がかち割れた。どれも死んでこそいないが、しばらくは戦線に復帰はできないだろう。
「な、なんだ…なんなんだ、こいつッ!」
遠巻きに眺めていた人民の目が、異物感故の排斥から恐怖へと変化していく。いつも居丈高に偉そうに、そして圧殺するように暴力と権力を押し付けてきていた王直の兵たちが、十数人束になってかかって、なお敵わない。むしろ葦のように刈り取られていくだけのその様子は、今までにはありえない常識だった。
しばらくして。
一滴のみ頬に返ってきた血を邪魔げに拭いて、周りに広がる累々とした様子を、自分がやったにも関わらず忌々しそうに眺める男だけが立ち尽くしていた。そろそろ別の味のものが来ないものか、と。
だから、その軽い足取りの兵を見た時。『英雄』では無さそうだ、という落胆と共に、カリナは少なからずの高揚があった。
倒れた兵の内、まだ意識があり顎が砕けてない希少な者が、ただ助かったと言わんばかりに声を震わせる。
「ティータ様…!」
「黙れ。女王さまに仕える身が、ただ一人に制圧されるとは何事だ?恥を知れ愚か者ども」
大仰な鉄仮面の奥底から響く声はくぐもっていて、しかし確かに女性のもの。細身の革鎧が滑らかに動く様子は見掛け倒しなどではないということを十全に示す。
ティータ、と呼ばれたその女兵士は意外にもその腰の細剣を抜くことは無く、代わりにカリナに向けて柔和に話しかけてきた。
「貴殿、済まなかったな。
こちらが無礼を働いた事の謝罪はしよう。
だから一度話させてはもらえないか?」
じゃきん。
狼はその申し出に、槍の刃先を向けた。
「おや。とりつく島もないか」
そうではなかった。だが今、彼が話を求めているのは、この槍先に付いている刃のことを知っている者だけだった。だからそれを目の前に示した。
「『これ』を知っているか?一度も打ち出されなかった矢だ。ある者が、復讐をも行えず抱えていた矢だ」
「ふん、何を言っているかわからん。
所詮は外から来た、野蛮人か」
するり、と抜剣の音すらほぼ無く、腰からレイピアを引き抜くティータなにがしを改めて見る。否、先からとうに観ていた。話しかけてきている間にも全くもって、こちらへの敵意を隠そうとしていないことも。
さあ。目の前の戦士は今までに蹴散らした者どもとは比較にならない。声音、動き、装備の摩耗とそれへの確かな手入れからもわかる。蹴散らした兵士。これまでにルーチェたちに送られてきた刺客。明らかに、それらより強い。比べものにならない。
比較すべき相手はそれこそ、己自身。
カリナと比べて、ようやく遜色が無くなる程のもの。
(…少し前までの俺なら負けていたな)
刃の視認から、目を離してもいないのに、その切先が喉元を狙い、完全に避けたはずなのにも関わらずその煌めきが自らの頬を裂いた時、カリナはらしくもなくそう思った。
だが、それでも、及ばない。
今の彼には、遠く、遠く。
風の切る音は嘘をつけない、音を聞け。刃が消えた訳ではない、その光に消える瞬間を見極めろ。俺が彼奴なら、このタイミングで攻撃をするか?予測をしろ、脳を回して身体を動かせ。
ある英雄の教えだ。師の真似事を、戯れにした者の。
(いいかカリナ、手前みたいな手合いは、獣の感覚と人間としての思考を脳が同時にさばききれねぇのよ)
人と獣との感覚に専念をするのは危うい。獣の感覚に頼れば、人の知恵に騙される。人の感覚のみに頼れば、ただ力に首を裂かれる。
だからどちらも、どちらもの感覚を鋭敏にするのだ。片方を0と100、100と0にするのではない。人、獣。50と50。場合に応じて、70と30。20と80のように、認識を変えていけ。そうして柔軟に世界と応じろ。そうして闘え。それが出来るということはつまり、お前のような半端者にしか出来ない強さなのだと。
きっと、この旅を始める前の彼がこの教えを受けただけでは、頭でっかちになり知識に潰されて死んでいただろう。だが此処に至るまでの、絶え間なく死が襲いかかる環境と、三柱の英雄たちとの出会い、そして相棒の存在が生んだ認識が、彼の強さを引き上げた。
どれほどと言われれば、このティータという女傑と戦うにあたり、『殺さずに無力化する余裕がある』ほど。
短槍の、刃でない部分が、彼女を殴る。
それは確かに、斬撃や刺突よりかはましだが、それでも息のできなくなるような一撃。そうして出来た咄嗟の隙に、一、二、三発と。拳が撃ち込まれた。どれもが腰の入った、申し分のないもの。
「……かっ…!」
身体をねじり、また咄嗟に後ろに跳び衝撃は殺した。そうしても耐え切れない衝撃に、ティータは鉄仮面の奥から反吐と血が混じった液体を漏らし崩れ落ちる。
カリナもまた傷こそは負い、息は切らしてはいるが、明らかに敵対者の方が立ち動けないほどの傷を負っている。
「…まだだ、まだ私は戦えるぞ、蛮人め…!」
「ああ、そうでないと面白くない」
それでも食いしばり、少しでも気道を確保しようと、仮面を外し投げ捨ててでも立ち上がる姿に、ぎしりと笑う狼はそこで一瞬鼻を鳴らした。
(おかしい)
それは、それこそ思考が獣と人間の、半々だったからこそ気付けた違和感だった。そうだ。先の攻撃は如何に鍛えていようとも人の身で耐えて立ち上がれるものではない。
(絶対に、おかしい)
この違和感には、既視感がある。それは龍の都、リェン・ランでの出来事。一度確実に倒した者が立ち上がる瞬間。青い嵐を他称された者。だがあれほどの力ではない。あの力ではない。いや違う、ただなんだ、それよりも、そんなことよりも。もっと。
この、香りはなんなんだ。
「ごめんなさいねぇ。この子たち、わたしの大事な家族たちなの。だからこれ以上は勘弁してくれないかしら」
仮面を外し、その半分が焼き爛れた顔をあらわにしたティータの背中をそっと抱き留める女性。その動きが早かった訳でも無ければ、抱きしめた動きが異常だった訳でもない。遠巻きに眺める人混みの中からゆっくり悠然と出てきて、そっと抱き留めた、それだけだった。
その花の匂いが、ただそれだけが強く。
「別に…先に喧嘩を売られたからには、俺は買っただけだ。俺が殊更にあんたらを叩きのめす必要はない」
「ありがとう。優しいわね〜」
「……」
恐ろしい。
何が、恐ろしいのか。
それが自分でも全くわからないことが、恐ろしい。
そうだ、強いて理由をつけるなら。
優しく蕩けるような声、口調。美人で、母を思い起こさせるような笑顔。女性らしい、胸部と臀部の大きい身体。ふわふわと、素朴に自然に流されたくるまりのある髪。
この疑念に溢れた花の園で、こんな存在はあり得ない、ということ。確信は緊張に代わり、緊張はまた強張りになる。
「…リーフィ・グリーン。
この花と幸福の園の女王か。あんたがそれか」
「ええ。そうよ」
英雄はそれににこやかに答える。
そして。
「はじめまして、よね?こんにちは」
頭をぺこりと下げてくる。
禁足地の女王、虐殺を行う王とは到底思えない存在。
彼女が一つ行動をする度に花の匂いが香る。
そしてそれらが、彼らに多幸感をもたらす。
香り。
そうだ、これがおかしい。
『多幸感』?こんな所で何故?先までの緊張は?
あの女王の懐にいるティータの顔を見ろ。
苦痛を忘れて、多幸感に蕩けた顔だ。
俺も、ああなっていたのだろうか?
カリナは自らの、先にレイピアで切り裂かれた頬を自分の爪でがりがりと引き裂く。血の匂いと激痛が正気を思い出させた。
そして槍を突きつける。そして少しも動きを見逃さないように。
その、筈だった。
「…その、槍の先…『天垂れ』。
懐かしいものを、持ってるのね〜、あなた」
「…そう。
遂に来たのね。シズク。貴女の復讐が…」
ゆっくりと、こっちに歩いて来たのだ。
感覚も、知能も、それを眺めていた。
先までの少しも見逃さないというそれをすっかり忘れ。目の前に来たその女王が、そっと手を伸ばしてきた。
その手には、敵意も無ければ害意も、全くなかったのだ。
とん、と。触れる額に指先だけが触れた。
瞬間、カリナの身体中から、鮮血が吹き出した。
「ッ………!?」
見せかけ、まやかし、どちらでも無い。
骨に到達するほどの傷が、同時に出来た。
「
リーフィ・グリーンがそう呟いた。
彼を『こう』した、力の行使なのだろう。
カリナはそれでも立とうとした。
それは意地と、憎悪だ。
だがそれすら虚しく。
彼の今にも崩れそうな脚に茨が纏う。
「抑えていてね〜、みんな」
敵意はないまま。害意も微塵もないまま。
先ににこやかに挨拶した延長線のまま。
茨が、カリナの左眼を貫いた。
「が…っ、ぐあっあああああッ!』
溶岩が流れるような熱さを感じた。それは流れる自らの血によるものだ。そして、どうしようもない暗闇がそれと共に、くる。
「…がっ、はぁっ、はぁっ…!」
「ごめんなさいね〜、異邦人さん。
わたしも、あなたへの恨みは全くないんだけれど。
でも、それを持っているのが怖いから」
「…もう片方も、やっておくわねぇ」
半分しか無くなった視界が捉えるは、のたうち動く茨の枝。それが徐々に、徐々にこっちに近寄ってくる。
それが、最後に観た光景。
「……ッ!ぐっ…」
「………あああああぁッ!!」
…
……
「まだ生きているとは…凄まじい生命力ですね」
「……牢に入れろ。厳重に縛った上でな。
その上で拷して聞き出してから殺すぞ。
リーフィさまへの侮辱はこのまま死なせては晴らせん」
「は…はっ、ティータ様…」
「…ふん」
「………」
そう、光を失い。死牢に連行される、黒い異邦人を。
目深に被ったフードの奥から眺める者がいた。