「ヴぅ……」
ここは、何処だ。
肌の感覚が失われ自と他の境界線が曖昧になる。全身に激痛が走っていることすら、他人事のよう。垂れていく血液も無くなり、体温が急激に低まる。
意識が遠い、自分が、希薄になっていく。その意識の手放しの心地良さに身を任せればきっと、二度と戻ってくることは出来ないのだろう。
手、脚が拘束されている。
これ以上引っ張れば、そのまま骨や関節が壊れる程の強さで。そう、される時も意識こそ残っていた筈だが、しかしカリナはそれの認識を今になってようやく行った。
それの最大の理由は。
(…目が、目が、見えない…)
完全に潰れた目の感覚。
空虚なまでに失われた光の喪失感。
それには途轍もない絶望感が付随する。
当然のように享受していた視覚という祝福を、根こそぎ奪われ、そして二度と得られない。それを指し示すには十分すぎる暗闇。
だがその絶望に身を浸せば、それまたこのまま死に向かうことになる。
だから、人間的な思考に身を浸すよりももっと獣的な思考を優先する。
死にたくない、死ねない、死なないために。どうする?どうしたらこの状況から生き残ることができるか。
刹那、耳元に通信の音。
(……!)
これは、ウィン・J・エアルフが此方に無理矢理押し付けて渡してきて、そのまま耳元に付けぱなしだったもの。使い方も正味、いまいちわからないまま放置していたもの。
しめた。これは、とりあげられなかったらしい。かかってきたものと会話するだけくらいならば、まだ、出来る。
『…あ!そ、その…カリナか?
ええと、そのう…』
良かった。これで助けを求めればいい。
この、今通話に出てくれた相棒に、助けを求めれば。そうすれば彼女が来てくれるまで耐えることさえ出来れば自分は生き残ることができる。ああ、助かった。
「…よかった、繋がった、か…」
さあ、言おう。助けてくれ、と。
早く、この場から助けてくれと。
「…来るな……!あんた、ここに来てはだめだ…!ここは恐ろしい場所だ…!」
その声が、何処まで届いたろうか。
途中で、拘束されたままのカリナの頭部は思い切り殴打された。きっと監視をしていた衛士が、不穏な様子に気がついてそうしにきたのだろう。それと同時に通信機器もどこか遠くに飛んでいき、何処にあるかわからなくなった。
ごす、ばき。
音が耳の中に響く。
これで、助けを呼ぶ方法は無くなった。だがそれでよかった。
逃走本能よりも、獣の本能よりも、それでも優先しきれない、人の知能。ルーチェに助けを求め、そして彼女をこんな危険な場所に突貫させるならば、ここで自分が逃げられない方がいいと思ってしまった。
べき、がつり。
ならば、危険であることを示して、対策を講じさせる。頑固で偏屈な彼女のことだ、ここに来るのをやめるなんてことはしないだろう。それでも上手な対策を巧くしてから、ミーグメィルに来ることになるはずだ。
それに貢献できたなら、それで良かった。
ぐち、ごきり。
全身の痛みと、視界の無さが更に次の拷問の痛みと恐怖を数倍に押し上げる。
それでも、彼は一度も後悔をしなかった。
しかし、恐ろしい場所だ。
景色こそ、分からない。
だがそれを匂いが教えてくれる。
狼が今いる場所の、事実を。
どこが、楽園だ。なにが、花の園だ。
今いる場所はそんなものよりずっとずっと濃い、血の匂いがしている。使い古された、古い鉄と錆の匂い。
じっとりじっとり染み付いた、血の匂い。
耳が教えてくる。ここは恐らく、地下牢だろうか。階段を降りてくる何者かの音。そしてその音の響き方は篭っていて、悄然としたもの。
「おい、交代だぞ」
「交代?もうそんな時間か?まあそれなら早く代わろう。こんなとこにいたら気が滅入る」
「ああ、そうしよう。にしてもお前、どっ」
どず。
この音は、カリナから鳴った音では、ない。
「…ひっ?お前なに」
どす。もう一度、冷徹な音。
そして、しばらくの無音。
「いけませんねぇ…私が服装を拝借しただけの侵入者であることなど、少しでも観察すればわかった筈です。油断のしすぎではないでしょうか」
色濃く匂う真新しい血の匂い。自分以外の血の匂いと、その滔々と話す声が伝えてくる。
侵入者が、ここの地下牢に足を踏み入れ。そして今目の前にいた兵士たち二人を瞬く間に殺した。背中からの不意打ちで、心臓を貫いて。
その声は、聞いたことがあった。
低めの女性なようでもあれば、高い声の男でもあるような中性的な声。そしてまた、その肌がひりつくような、ねとりとした殺意も。
目が見えていれば、きっとその紺色の髪色を編んだ異国風の雰囲気と。慇懃無礼なその笑顔も見えたのだろう。
その者に名前はない。
ただ代わりに。
「こんばんは、カリナ。どうにも我慢できず、逢いにきてしまいました」
「……『青嵐』…」
ただ、そのあだ名だけがある。
…
……
「……何故、お前が…」
「弛まぬ努力の賜物ですよ。昔からそれだけは得意なんです。ああ、何故生きてるか、という質問でしょうか?」
「…言葉通りの…意味だ。
何が、目的だ。お前…」
「くく。それは、あなたが一番分かっているのではないですか?カリナ」
牢屋の扉をこじ開け壊す音と共に、剣を引き抜く音。青嵐からは、常にそのじっとりとした、毒のような殺気が放たれている。
「……ならば、さっさと殺せ。
今の俺に、抗う手段は無い」
「おや。諦めるのですか?」
「事実だ。ここから抜け出す手段はないし、万が一逃げたとして、お前と戦う余力は…無い…」
「………」
はぁ、とため息の音。
失望が多分に含まれた声にも近しい息。
「そうですか、では…」
ぎりり、と引き絞った弓のように剣を持つ手を後ろにゆっくりと引く、青嵐。
カリナはただ、錠牢に拘束されたまま。もう見えない目の瞼を閉じて…
刹那。関節をつぶさに外し、錠から抜け出したカリナの右手が青嵐の肩をかすめた。
「…クソッ!」
「ほう」
すんでの所で、半身になった青嵐はそれを避ける。肩は皮がえぐれ、血が出るだけの傷だったが、ほんの少しでも反応が遅れれば、抉れていたのはきっと、致命的な臓器だったろう。
『本当に、諦めなぞしてしまったのか?』そんな、執着に近い、根拠も何もない感情から来る警戒が、青嵐の命を救っていた。
(……考えろ。考えろ、考えろ!どうすればこの場を生き延びる。どうすればこの男を倒す手段がある?足掻け、少しでも考えろッ!)
助けに来てもらう手段は、もうない。自らで、放棄をした。だからといって、死ぬ気など微塵もない。死んでたまるか。絶対に生き延びてやる。そう、ずっとずっと思っているからこそ、兵士二人に拷されていた時にも微塵も動じずに手の関節を丁寧に、丁寧にほぐして手錠を抜け出していたのだから。
「く」
「くくく、くっくくくくく…!
良い!とてもやはり、良いですよ貴方は!私が惚れ込んだのはやはり間違いではない…!」
「…こちらは迷惑だがな…」
「おや、そうですか?では…」
不意打ちは、失敗した。錠から抜け出しているのもまだ右手のみ。だがそれでもまだ、ここからどうにかなる方法がある筈だ。絶望に身を浸すな、考え続けろ。
「では、逃げましょう。カリナ。
鍵は先ほど奪ってきましたので、これ以上無理に身体を痛めつけることもありませんよ」
がちゃん。ごとん。彼を拘束していた四肢の拘束が、次々と取れていく。
それには、カリナも、思考が止まった。
「何を呆けているんです。ほら、急いで」
よいしょ、と。手すら差し伸べてきた、目の前の敵…敵なのか…を、見えない目で、ただ訝しげに見た。
「…俺を殺しにきたんじゃ、ないのか…?」
「今の貴方を?まさか。こんな情けのない貴方を殺して何が楽しいのです。いいから足を動かしなさい。私とて、あの女王が来たらと思うと身が震えます」
「……あ…あ。…?」
初めこそ、油断をここで誘ってから殺しにかかってくるのかと、思った。しかしそうですら無いことは、その毒気がない話からわかる。
そうして、よいしょと担がれて、青嵐の肩に手を回して。そこで初めて正気を取り戻す。
そしてまた、その手にかかる感覚の不自然さに正気を失いそうになった。
「……この感触…お前、女…か…?」
「いいえ。一応、男ですよ。だった、と言った方がいいかもしれませんが」
全くもって忌々しい、というように、息を吐く青嵐。どうにもやはり、その様子には害意や殺意は感じられない。
「元々、男らしくもない弱々しい身体だったのですが、ドグ・シアンの力を受け取った時に性別が混じったようで。どちらとも違う、面倒臭い身体になりました。おかげで基本の肉体鍛錬すら、倍大変です」
まあだからこそ、女のしなやかさ、男の頑強さのどちらもを享受した強さになることができているのだが、それはそれだと言って。
「つまり私は貴方と同じ、半端者ですよ。そしてその上で貴方は強い。だから私は貴方が好きだ」
「……」
それの形がつけ狙われる形であるならば、迷惑千万極まりないと言いたいところだが、しかしそれのお陰で今回は助かってるのだから文句は言えない。
ふと。カリナは一つ、思い出した。
「あの時…俺を、見ていたのは、お前か…?」
「あの時?」
「ああ。…視線を、感じていた…深く、フードを被った誰かが、負けて連れ去られる俺を、見ていた。お前では、ないのか…?」
「ふむ。しらばっくれるわけではなく、本当に、知りませんね、それは。私はついさっきここに着いたばかりなのですよ。だからこそ女王に気取られず、行動をできているのですから」
「……そう、か」
ならば、ならばあの人物は誰だったのだろう。きっと誰か、知っている者ではあった筈なのだ。それが誰かまでは、あの状態の自分には分からなかったが。
「あれは、誰だ…?」
…
……
「ご苦労さま〜、ティータ。
今日は大変だったわね。ゆっくり休んで?」
小さな、古びた玉座にそっと座るリーフィ・グリーン。英雄はその行動に相応しく無いように優しく、今日怪我をした家族に向けて話す。
鉄仮面を付けた、浮かない様子の女騎士に。
「…はい。リーフィさま。その…」
「なあに?」
「………」
「用が無いなら後でいいかしら」
「…は」
ぐっ、と何かを耐えるように頭を下げたティータに向けて、リーフィはあたふたと弁解するように口を開ける。
「ごめんなさいね、久しぶりに、古い友人が来てくれたの〜、そっちとお話ししたくって」
「古い友人、ですか?」
「ええ。草花のみんなが、教えてくれた」
瞬間。
ごおん。扉が壊される音。
巨大な扉が粉々に砕けていく様は、とても有り得はしないような光景で。
そしてだからこそ、感じるものだった。『英雄』の関わる譚であるならば、このような描写はきっと、過剰では無いのだろうと。
瓦礫を踏みしだきながら、その人物は入ってくる。申し訳なさそうに、頭を掻きながら。
「す、すまない!手荒なことはするつもりは無かったんだが…どうしても周りの人たちが通してくれなくて」
フードを目深に被った、人物だった。
そして巨躯の男。それは縦に大きい、というだけではない。がしりと、圧を与えられるように強く、太く、強靭な身体、という意味。
服の至る所が切り付けられて破れた跡がある。しかしその奥から覗く肉体には傷の一つもない。その、異常なまでの頑強さ。
「ちょっとだけ、通るつもりだったんだ。そしたら…その、力の加減も忘れてて。ごめん」
フードを外し、その中から顔が見える。
短く切り揃えられた髪に、気弱そうな目元。気まずそうに口を歪める様子には、プライドや誇りというものはだいぶ少ないようだった。
「いえいえ〜、こっちこそごめんね?わたし、あなたが来るってわかってたならちゃんと皆にそう伝えておくべきだったわ〜。というか、迎えに行きたかったのに」
「いやいや!俺も急だったからさ!」
わたわたと手を前に会話している気弱な男。貴様、何者だ、といつもならば剣を引き抜き詰問しているべき立場である、女王の護衛、ティータ。しかしそれはただ出来ず、脚を震わせるばかり。
この女騎士は強者と言って差し支えのない。であるからこそ、それは、強者故に気付いてしまい、どうしようもなく背筋が震える。
その男の、規格外さに。
その男の存在の強度そのものに。
それが、『英雄』と呼ばれる存在の一柱であることに。
「…久しぶりだな。リーフィ。ちょっとだけ、話が出来ないか?俺の、恩人がここの地下に居るはずなんだ」
「ええ、是非!お茶も用意しましょう。
ゆっくり話させて?久しぶり、ノヴァ!」
ノヴァ・ブラウン。
彼は、その人畜無害なままに笑顔を浮かべた。
そうして、二柱の英雄が相対する。