「はぁっ、はあっ…!」
出生までを回想し、一際強い頭痛と吐き気を催してうずくまる。
そうしてしばらく、本当に長くしばらくそのままでいてから、ようやくチカチカと目の前に明滅があるままに立ち上がった。
そうして、シルヴィアの『星』の残骸を手に取ってから、ラスマキアの街を出始める。
浮浪者のような足取りはひたすらにゆっくりで、早くここからいなくなりたい、というその気持ちをそのまま裏返したよう。
「ううっ…」
…実のところを、言うと。
産まれて、存在した時点では自分が、『僕』であるという自覚は希薄だった。
ヒトの記憶とは、漸進性のある忘却だ。
自らが産まれたときは、それこそ記憶ははっきりしていたと思う。だが意識や感覚がそれを留めておくかは別の話で、幼児、赤ん坊の脳がそれらを記憶したままでいるのは困難だった。産声を上げた瞬間と、死に様の走馬灯が同時に訪れた、その衝撃だけは心に残っていたが、それのみ。
だから一番記憶に焼きついていたのは、僕の愛した女性の、狂ってしまったざまだ。
何処にいても、どの場にいても、彼女の目は、虚空に向けられていた。彼女の網膜にのみ存在する、『スノウ』に話しかけていた。娘に対する、『僕』よりもそちらに話しかけている時間が長かった。
初めの方こそそれでも会話が成り立っていたが、加速度的に狂気に陥り、晩年は会話どころか意思の疎通も行えなかった。
そしてその次に覚えているのは、自らが存在している世界の違和。自分が知っている世界と、どれだけ違うのか。自らが認識している世界から、何十年、それとも百年単位で経っているのか?
だけれどいつかはそんな疑念すらも忘れて。
僕はただ、狂った女の娘として暮らしていた。
自分の存在の歪さも、中身のことも忘れて。
…ヒトの記憶とは、漸進性のある忘却だ。狂い果ててしまったかつての英雄の威光など、時の流れと共に忘れられてしまうほど。
狂った女の、そのざまなど。
普通人から見ればどれほど厭われるものだったか。
「……痛っ!…つぅ…」
壁に頭をぶつけて、項垂れていたままの視界が上がる。道案内の看板に、ぶつかった。
ひゅっ、と息を呑む。
古く乾いた血に、塗れた看板。とうに風化しかけた血しぶきの跡に、記憶がフラッシュバックする。これだけは、全く風化してくれない。
誰の血だ?
そうだ。僕が殺した者の血だ。
なぜ殺した?
『あんなこと』が起きたからだ。
ずきん、ずきんと頭が痛む。先からずうと収まらない吐き気とともに、網膜と追想に自らの過去の幻影が映し出される。見たくもないと、瞼を閉じても焼き付いてしまって暗闇に映し出されて。
やめろ。やめろやめろ、と脳に訴えても変わらず。
追想の中の自分が脳天気に微笑む。
やめろ。ついていくな。その男たちに、無防備に。
『道を案内してほしい』なんて、そんな事を言うような者についていくな。そんな事を言っても、過去は変わらない。
役立たずの羊飼いの元にある羊を、狙わない狼がどこにいようか。
見目優しく取り入って。笑顔のままに牙を隠して。知らないものがあろうか、このような優しげな狼こそがどの狼よりも危ういということに。
狂った英雄の子孫など、どれほど邪険に思われていただろうか。どれほど、邪魔な存在だったろうか。
狂った女の娘、など。
どれほど、格好の餌食だったろうか。
どれほどこれが、溜飲を下げたろうか。
看板の先。
奥まった路地の裏で僕はその口を塞がれた。
………
「ひゅ、ひゅっ、ひゅっ…!
あっ、ええっ……」
内容物の無い胃液が喉を焼く。現在には存在しない痛みが全身を貫く。脳がそれを、再現してしまう。
『順番』を決める男たちのその会話すら、鮮明に覚えて忘れることができない。
網膜だけが、身体だけが再現するその光景を見て、目に映るその惨劇の虚像を見て、膝をつき崩れる。
………
僕が、『僕』であることを思い出したのは。
強い衝撃と激しいショックであったりだとか、いいや、そういうのではない。
この、今の僕の前にあった、人格が。
砕けて、死んだからだ。
壊れ果てた心の、廃人となった残骸を。
拾い集めたのが今ある僕だ。
壊れ果てた意思を記憶が継ぎ合わせた忌子。
不死。
不死身だけは残っている。
砕けた骨盤や、使い物にならなくなるまで裂け破れたものは傷一つなく治っていく。あらぬ方向に捻じ曲げられた四肢も、折られた歯も、その全てが。死ねず、死を否定していく。
魔力の行使を試してみた。
出力こそ相当劣るが、出来た。
だから目の前にいた奴らを殺した。
徹底的に、そうした。
お前らをけしかけた者はいるか聞いた。
要領を得なかった。だから殺した。
街ぐるみで、狂い始めているようだった。だからこの街のいたるところで殺した。途方もなく劣化していても、英雄と呼ばれたような力ならば、十分に可能だった。こんなことのために身につけた力では無かった。
(どうしてこんなことになったのだろう)
凶行に走りながら、心底に思った。自らの愛した女性の心が目の前で腐り落ちていくのを見つめさせられ続け。この身体は自らの娘を乗っ取ったものだと知らしめられ。
身体も、精神も、陵辱の限りを尽くされて。
それでもまだ死なない。死ねない。
死ぬことができない。
どうして、こうなったのか。誰かが僕の死を望んだ。だから僕は、こうなっている。
僕を不幸に貶めたのは、どいつだ?
僕の周りを、全て不幸にしたのはなんだ?
僕を殺すなど、願った奴は誰だ?
皆が。誰かの手に持つ、『星』の力。
皆の内の誰かか?いいや、そこはもう疑問形じゃなかった。確実にそれでしかない。
誰かが僕の死を望んだ。
だから僕はここにいる。
誰がそれを望んだ?それを確かめにいく。
それを憎む。違う。
必死に、憎みに行く。
(………)
僕が作り上げてしまったものを、僕が、僕で壊しにいく。狂気の自作自演。
自らに、星の力はまだ満ちている。
この身体に残る不死の跡こそがその証。
そしてだから、スノウ・ホワイトが初めに願った願いはまだ履行の途中だ。
『星を砕かせてくれ』という、原初の願い。
故にこそ僕にのみ、星は破壊できる。
復讐。
自らをこうせしめた『星』を全て砕く。
そうして、英雄となった皆をも殺しにいく。ああ。そんなことが愚かなくらいわかるだろうに。そんなことが、自分を救わないとわかっていただろうに。
「……わかっている……わかっていたんだ」
そうだ。多分、わかっていたんだ。
それは全部、自分のせいだと。
お前のそれが、焦りが、そうした独断が、傲慢がそれをそうせしめたことを。
それでも、それでも僕は。この痛みと憎悪に、身を灼け捧ぐことしかできなかった。それしかなかったから、僕はそれを選んだのだ。
少し前。君は僕に懺悔をしたね、カリナ。
僕の方こそ、謝らないといけない。
この復讐は、君のような真っ直ぐなものじゃない。
君みたいに突き進むものじゃない。
こうして、こうあらなければ自分が自分でいられないから、しているだけなのだから。
…
……
ようやく、ようやく這いずって這いずって、街を後にした。そこを出て、足がおもむくままにゆっくりと移動をしていく。最早歩く力もなく、ただ赤ん坊のように、四つ這いで。
「……くっ。ははっ、あっはは」
「…はっははは!はぁははは!はぁー…」
そうして逃げ出した先、自らが何処に辿り着いたのだろうと正気に戻って。
そうして、自らの滑稽さに笑い転げた。
君のことを、思い浮かべていたからだろうか?
そこは焼けた森の跡。
いつかは、翠玉の森と呼ばれていた、その森の中。
自らが、ラスマキアに存在する人々を鏖してからそこに自らの住居として、廃屋を組み直した。
これから出る、復讐と痛みの旅の準備地として。
旅路に出るには、研究が必要だ。
弱りきった自らのこの力だけではない。それぞれの英雄の力を持ち寄って投与を行う。それをせしめて、この身体が持つ力を最大限まで引き上げる。そうすることで初めて、この弱体化し切ったこの身体は復讐を行える土台まで上がることが出来る。
この身体に宿っていた魔力は幻覚の力。そんなちゃちなものを、それでも鍛え上げる必要がある。
そして、そのためには協力者が必要だ。
そう、悩んでいた時に。
血塗れの男がどさりと崖から落ちてきた。
それだけだった。
内心、それにびくつきながらも、意識を失って狼に変幻するそれを、ちょうどいいと思った。
そうだ。それだけだったんだ。
だからそこでの会話の全ても、行動も、馴れ合いも、触れ合いも、その全部が復讐のためだけの、過程でしかすぎなかったんだ。
それだけだった。
それでしか、なかったはずなのに。だから、その森を焼き払い、戻らないようにしていたはずなのに。
なのに今でもこの場所に縋り付いている。
未練がましくこの場所に戻りたがっている。
彼との出逢いに、浸りたがっている。
でもその滑稽に溺れながらも、だからこの場所でこそ、ずっと怯えて、逃げていたそれが出来そうだった。思い出の残滓に、ただ癒されながら。
震える手で粉になった『星』を取り出す。
そうしてシルヴィアの星を取り込む。
いつもの如く、今までの如く。
瞬間に、記憶が流れ込む。
この星の、所有者だった者の慚愧。
…
……
ごめんなさい。
ごめんなさい、ごめんなさい。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
わたしのせいでわたしがころしたわたしがわたしがころわたしがわたごめんなさいすのうごめんなさい
ちゃんと
うんであげられなくて
ごめんなさい
…
……
「…………ッ!」
狂気に満ちたその晩年。それは虚像に肯定され続けた幸福ではない。致死量の苦痛のその中、ひたすらに流れ込んできたのは無念と悔懇。
ただただ、何に向けてもない謝罪が、彼女の意味のない不死の、長い生涯のその全てを占めていた。
「…ごめん、ごめんよ…
謝るのは僕なんだ、アン…」
「僕が、僕のせいで、君を苦しめた……」
ごめん、ごめん。ごめんなさい。
僕が君にこんな地獄を与えた。
こんな闇に陥れた。
狂っておかしくなって消えかけて捻れて。
それでも君から死を取り上げた。
全部僕のせいだった。
そうだ。
今の僕の全ては、僕のせいだ。
「……それに気づくのが、遅すぎるんだよなぁ…」
それを認めることが出来たのは、こうして新たに大切なものが出来た時。復讐以外の物に、ようやく自分の生きる意味を見つけられそうになった時。
「ならばもっと、もっとはやく。
君に出会えてたら結末は違ったのかなあ。カリナ」
そう、呟いた。手に、小さな氷の針を生み出す。
そして、喉元を貫いた。
そうして、小さな音と共に前倒しに倒れた。
…
……
残る星は、二個。
もはや輝きを失ったもの。
邪に、輝き続けるもの。