色んな人の視点が混ざって面倒だと思いますが、許してください。
それと、次から一気に時系列が飛びます。
「はいはい、お疲れさん。感動の幕引きのところ悪いけれど、長居は無用よ」
月面での余韻に浸る間もなく、空間が裂けた。ヌッと現れたのは、胡散臭い笑顔を浮かべた八雲紫だ。彼女は「スキマ」を広げると、私と桂花をまるで荷物か何かのように、ひょいと月の海へと放り投げた。
行きと同じように、視界が反転し、無重力の浮遊感が消える。次に私の背中を受け止めたのは、硬い神社の石畳と、懐かしい土の匂いだった。
「……あら? お帰りなさーい!」
「おっ、主役の帰還だぜ! 遅いんだよ巫女ー!」
月面とは正反対の、耳をつんざくような喧騒。そこには既に、どこから嗅ぎつけたのか、いつもの連中が集まって出来上がっていた。あちこちに吊るされた提灯の明かりが、夜風に揺れているのがとても綺麗だった。
◆◆◆
「かんぱーい!!」
その言葉とともに、博麗神社の境内は、異変解決を祝う宴の熱気に包まれ始めた。一升瓶が空を飛び交い、肴の焼ける香ばしい匂いが漂う。いつもなら眉をひそめる騒ぎだが、死力を尽くした戦いの後では、この騒々しさが生の実感として心地よかった。
「ほら、霊暮。お前も飲め飲めー」
「おっと、ありがと」
ボス狼から注がれた酒を煽る。五臓六腑に染み渡る酒精が、強張っていた神経を一本ずつ解いていくようで…要するに、なんだか気持ちがフワフワする。
「……ふふ、美味しそうに飲みますね」
ふと、横から鈴を転がすような声が掛かる。私の隣には、いつの間にかお母さんが優雅に腰を下ろしていた。
「お母さん、いつの間に隣に…」
「そりゃ、娘が無茶したんです。真っ先に労ってあげたくてですね、居ても立ってもいられず…ほらほら、飲んでください。少彦名神の力で作ったお酒です、美味しいですよ」
お母さんは、そう言いながら私の杯に酒を並々と注ぐ。その手つきは慣れたもので、月面で見せた、あの恐ろしいまでの力強さは微塵も感じられない。ただの、心配性の母親の手だ。
「別に、無茶なんてしてないわよ。……まあ、ちょっと危なかったけど」
「『ちょっと』ですか? 随分と苦戦しているように見えましたが…」
彼女はくすりと笑い、自身の杯にも酒を満たすと、月に向かって軽く掲げた。
「それはともかく。お疲れ様でした、霊暮。……見事でしたよ」
その一言が、どんな称賛よりも胸に沁みた。私は照れくささを隠すように、酒を一気に呷る。
「……私は私の仕事をしただけよ」
「それでも、です。貴女は自分の力で道を切り開き、そして、迷える魂を救った。……立派になりましたね」
母の瞳が、優しく細められる。そこには、慈愛と、そしてほんの少しの寂しさが宿っているように見えた。私は、空になった杯を弄びながら、ぽつりと呟く。
「ねえ、お母さん。……あの時、手を貸してくれてありがと」
「お礼には及びません。私は、貴女が呼んでくれたことが、何より嬉しかったのですから」
彼女は、そっと私の頭に手を置いた。懐かしくて、温かくて、そして何よりも安心できる、私の帰るべき場所。
「……でも、次は一人でやってみせるわ」
「ふふ、頼もしいですね。ええ、期待していますよ」
私たちは顔を見合わせ、小さく笑い合った。周りでは、酔っ払った妖怪たちが騒ぎ、歌い、踊っている。そんな喧騒の中心で、私たち親子の間だけには、穏やかで静謐な時間が流れていた。
ふと、視線を感じて顔を上げると、少し離れた場所で、紫がこちらを見てニヤリと笑い、杯を掲げてみせた。……やれやれ。あいつも、随分と上機嫌なようだ。
私は、飲み干した杯を置くと、母さんに小さく手を振ってその場を離れる。向かった先は、神社の鳥居の陰。そこで優雅にを月見酒と洒落こんでいる隙間の妖怪の元だ。
「……随分と上機嫌じゃない。紫」
「あら、主役のお出ましね。お疲れ様、霊暮」
紫は月を見上げるのをやめると、手に持っていた杯を私に向けた。
「貴女の異変解決、特等席で見せてもらったわ。なかなか面白かったわよ」
「何言ってんのよ……それより、気になってたんだけど」
私は空を見上げた。私が異変解決に出向いてから、宴会が始まるまでに随分と時間が経っているはずだ。時計などないが、体感ではとっくに夜が明けていてもおかしくない。けれど、頭上の空は依然として暗く、星々が瞬いている。
「なんでまだ、夜が明けてないの? もう朝になってもいい時間でしょ」
「ふふ、お気づき?」
紫は扇子で口元を隠し、悪戯っぽく目を細めた。
「簡単よ。私が昼と夜の『境界』を弄って、夜を少しだけ引き留めているの」
「……はあ? 何のために」
「無粋なことを聞くわね。貴女がヨモツと約束したのでしょう?『朝ごはんまでに帰ってくる』って」
彼女はさも当然のように言ってのける。…約束したのはそうなのだが、その約束のためにわざわざ夜に留めるなんて、ほんと滅茶苦茶なやつ。
「感謝なさいな。おかげでこうして、貴女は約束を守れるうえに、心行くまで勝利の美酒に酔えるのだから」
「……はいはい。ありがたく飲ませてもらうわよ」
私は肩をすくめ、彼女の隣を通り過ぎた。その足で向かったのは、宴会の喧騒から少し離れた、静かな縁側だった。
そこには、一人でちびりと酒を舐めている少女がいた。元・月の罪人、桂花だ。ボロボロだった服は紫の手回しで小奇麗な着物に変わっていたが、その背中はどこか小さく見えた。
私は、近くにあった徳利を片手に、彼女の隣へと腰を下ろした。
「……地上の酒は口に合わない? 」
「……不味くはない。ただ、雑味が多い」
桂花は月を見上げたまま、ポツリと答えた。
「それが『生きている』って味よ。清浄すぎる月にはない味でしょ。……で? これからどうするの」
単刀直入な私の問いに、彼女は杯の縁を指でなぞりながら、ため息交じりに答える。
「……月に帰る場所はない。かといって、行く当てもなし。どうしたものか」
「なら、しばらくここで居候でもする? 掃除に薪割り、やることは山ほどあるわよ」
「ふん、私を下働きにする気か。……だが、悪くない提案だ」
彼女は少しだけ口元を緩めたあと、杯の中の揺れる液面を見つめ、独り言のように続けた。
「……私は、ここで身体を慣らしたいのだ」
「慣らす? 何に」
「『穢れ』に、だ。……この地上に満ちる、生と死のサイクル。お前たちが生きるこの泥臭い空気に、身を浸したい」
桂花はそこで言葉を切り、ぐっと言葉を飲み込むように間を置いた。
「……それに、今のままでは、とても会わせる顔がない」
彼女が誰のことを言っているのか、私にはすぐに分かった。彼女が千年の間、焦がれ続けた××様とやらだろう。
「会いに行かないの?その月の賢者様とやらに」
「っ!? ば、馬鹿を言うな!!」
桂花は弾かれたように顔を上げ、耳まで真っ赤にして狼狽えた。手元の杯から酒が零れ、着物の裾を濡らす。
「い、いきなり会えるわけがないだろう! 私のような敗残者が! それに、あの方は……その、なんだ……ま、眩しすぎるのだ!」
「……あんた、そんな性格だったっけ?」
「う、うるさい! 想像してみろ、千年の想いを抱えて、のこのこ会いに行って、『あ、どうも』なんて言えるか!? 私はその場で恥ずかしくて死んでしまう! 舌を噛み切って死ぬぞ!!」
バンバン、と縁側の板を叩いて力説する桂花。先刻まで世界を終わらせようとしていた威厳はどこへやら。私は苦笑するしかなかった。
「じゃあ、どうするつもりよ」
「……遠くからで、いい」
桂花は、急にシュンと声を落とし、闇に沈む遠くの山並みへと視線を向けた。その瞳は、恋する乙女のように潤んでいる。
「今はまだ、遠くから眺めているだけで十分だ。……風の噂で、あの方が息災だと聞くだけで、私は……」
彼女は言葉を濁し、照れ隠しのように酒を一気に煽った。そして、むせ返りながら、涙目で私を睨む。
「……と、とにかく! 私はしばらく地上に留まる! 穢れに塗れて、地上の民になるまで、あの方の前に出るつもりはない! 分かったか!」
「はいはい、分かったわよ」
穢れに塗れるなら、この神社ほど都合のいい場所は無いだろう。もしかすると、お母さんはその月の賢者やらの居場所も知っているかもしれないし、そのうち聞いてみるか。
私は笑いながら、彼女の空になった杯に新しい酒を注いだ。長く引き延ばされた夜の下、私たちの新しい日常は、こうして騒がしく幕を開けたのだった。
――そして、季節は巡る。
一度、二度、三度。
桜が咲き、蝉が鳴き、紅葉が散り、雪が降る。
幻想郷の四季は美しく、そして残酷なほど正確に時を刻み続けた。
あの日、月を貶めた巫女の噂は、いつしか伝説となり、日常へと溶けていった。
霊暮は、博麗の巫女として、人間と妖怪の境界を護り、時に笑い、時に怒り、そして多くの「友人」たちと酒を酌み交わした。それは、私の最も輝かしく、騒がしく、愛おしい日々だった。
けれど、知っていた。「始まったものは、必ず終わる」という理を。誰よりも知っていたのは、私自身だったのだから。
◆
雨が降っていた。私たちの神社を濡らす、冷たく重い雨だった。
先代巫女――霊暮様が亡くなられてから数日が過ぎた。本来ならば、神社の境内は悲しみに暮れるべき場所だ。しかし、私の胸中に渦巻いていたのは悲しみだけでなく、熱く燃え上がる「野心」だった。
(博麗の血は途絶えた)
私は、濡れた参道を登りなながら、独りごちる。
霊暮様には子がいない。弟子も取っていなかった。つまり、継承者は不在ということだ。ならば、次は何処の誰が選ばれる? 幻想郷の要である大結界を維持し、異変を解決する力を持つ者。
(私しか、いないではないか)
博麗に仕える家系に生まれ、幼い頃より法力を磨き、霊暮様の背中を誰よりも近くで見てきた。今の博麗神社はあまりに「ぬるい」。妖怪どもが我が物顔で出入りし、人間と馴れ合う様は見ていて反吐が出る。私が神社を継げば、こんな茶番は終わらせる。結界の管理者としての権限を使い、境内に巣食う妖怪を一掃し、人間が妖怪を支配する――本来あるべき「正しい幻想郷」を造り上げることができる。
「……機は熟した」
私は拳を握りしめる。 今日、新たな巫女――いや、新たな管理者が決まるだろう。
「――他に、誰がいるというのだ。この幻想郷を背負える者は、私しかいない」
だが。鳥居をくぐり、雨の向こうから現れた「それ」を見た瞬間、私は呼吸を忘れた。
「……嘘、だろう?」
そこにいたのは、霊暮様だった。いや、違う。豪奢な長髪、整った顔立ち、その姿は確かに亡き先代そのものだ。だが、纏っている空気がまるで違う。霊暮様が太陽のような、あるいは焼き尽くす炎のような激しさを持っていたとすれば、目の前の人物は死のような静寂そのものだった。
どこか儚く、今にも雨に溶けて消えてしまいそうな、寂しげな瞳。性別すら曖昧に見えるその人間は、何処の馬の骨とも知れぬただの人間だった。
「お前が……新しい、巫女か?」
私の問いかけに、目の前の女は静かに頷く。名乗ったのは「博麗の巫女」とだけ。個人の名は捨てたかのような響きだった。
失望が、怒りに変わる。
こんな、魂の抜けた人形のような奴に何ができる。霊暮様と似たような顔を持っているだけで選ばれたのか? ふざけるな。私の身体から、抑えきれない霊力が溢れ出した。
「貴様ごときでは、博麗の名は背負えない……!」
私は印を結び、破魔の術式を叩きつけようとした。殺すつもりはない。ただ、その分不相応な場所から引きずり下ろしてやるだけだ。だが。
「……面倒ですね」
女が、そう呟いた瞬間だった。私の術式が霧散した。弾かれたのではない。防がれたのでもない。まるで、最初からそこに術など存在しなかったかのように、術が空気のように溶けていった。
雨の音さえも止まった静寂の中、女は私を見ることすらせず、濡れた参道をゆっくりと歩いていく。
「お茶を淹れます。貴女もどうですか?」
その背中に、私は一歩も動けなかった。雨の音だけが、鼓膜を叩いていた。
「……入らないのですか? 身体が冷えますよ」
縁側の向こうから、鈴を転がすような、しかし抑揚のない声が届く。私は金縛りが解けたように、ガクリと膝をつきそうになったが、なんとか踏みとどまった。逃げるわけにはいかない。私の野心が、矜持が、この得体の知れない女の正体を暴けと叫んでいた。
私は震える足を叱咤し、濡れた参道を歩いて、社務所へと上がった。
居間には、囲炉裏の火が爆ぜる音だけが響いていた。女は、慣れた手つきで急須に湯を注ぎ、湯飲みを私の前に差し出した。立ち上る湯気が、彼女の顔を白く曇らせる。その顔は、やはり憎らしいほど霊暮様に似ていた。だが、纏う雰囲気は真逆。
「……何故だ」
私は、出された茶には手を付けず、低い声で問うた。
「貴様のような化け物が、何故、私を殺さず招き入れた」
「化け物に、殺すですか」
女は少しだけ首を傾げ、自分の手を見つめた。
「酷い言いぐさですね。別段、貴女を害する意思はありませんよ。招き入れた理由は…そうですね、知りたいことがあったからでしょうか」
「知りたい事だと?」
「ええ。貴女は、先代――霊暮のことを、よく知っているのでしょう?」
女の瞳が、私を射抜く。その瞳には、敵意も殺意もない。あるのは、純粋で、そしてどこか切実な渇望だけだった。
「教えてください。貴女から見た彼女が……博麗霊暮が、どんな人物だったのかを」
私は呆気にとられた。命のやり取りをした直後に、茶を飲みながら昔話をせよと言うのか。この女は、狂っている。…いや、この女にとって、私は脅威に足りえない、それだけなのだろう。
「……話してどうする。霊暮様はもういない」
「ええ。だからこそ、聞きたいのです。これから、彼女を覚えてる人はどんどん減っていくでしょう。ですから、私だけでも覚えておきたいだけなのですよ」
女は自嘲気味に呟き、茶を一口啜った。
「……ふん。あの方は、太陽のような人だった」
私は、吐き捨てるように語り始めた。語らずにはいられない、奇妙な圧力がそこにはあった。
「強く、激しく、そして誰よりも奔放だった。妖怪だろうが神だろうが、気に食わなければ殴り飛ばし、気に入れば酒を酌み交わす。私としては、ぬるいだけだったが」
「ぬるい……」
「そうだ。人間と妖怪は相容れない。支配し、管理するのが博麗の務めだ。だが、霊暮様はそれを拒んだ。強大な力がありながら、あの方は妖怪を滅することなぞ、一度ともしなかった。それどころが、自分の命を使ってまで、強大な妖怪に名を与え、封印したと聞く。殺すだけなら、いかようにもできただろうに」
私の言葉を聞きながら、女は目を伏せた。その横顔に、ふと、霊暮様の面影が重なる。だが、霊暮様なら面倒くさそうに鼻を鳴らしただろう。「私は私のやりたいことをするだけよ」と。しかし、目の前の女は、ただ静かに頷くだけだった。
「……おい、聞いているのか」
私の苛立ちに、女はゆっくりと顔を上げた。その瞳は、やはり深海のように暗く、何を考えているのか読み取れない。
「聞いていますよ。……お茶、冷めてしまいますね」
彼女は、私の熱のこもった演説になど何の意味も感じていないかのように、急須を傾け、新しいお茶を注いだ。トクトク、という水音だけが、部屋に響く。
「貴女の言う『正しさ』も、あの方の『強さ』も、私には過ぎたものです。私はただ、雨が止むのを待っているだけの、しがない留守番ですから」
その言葉の意味を、私は理解できなかった。ただ、彼女の纏う静寂が、私の焦燥を冷ややかな水のように鎮めていくのを感じて、私は不愉快そうに舌打ちをした。
「……不味い茶だ」
私には、そう吐き捨てるのが精一杯だった。
「ふふっ」
彼女はそんな私を見て、口元を抑えて、初めて笑ってみせた。