その日は、朝から、妙に空気が重い日でした。
雨が降っているわけではありません。空は晴れているのに、光がどこか鈍く、世界全体に薄い膜が張ったような、そんな閉塞感。私は、羅万館のカウンターで、古くなった時計のネジを、キリ、キリ、と回しながら、窓の外をぼんやりと眺めていました。
何と言うのでしょうか。音が遠いのです。外からは鳥の鳴き声はせず、風が吹いているのに、葉擦れの音が、やけにぼんやりと聞こえると言いますか…こんな空間に居たら、気が滅入って、体調が悪くなってしまいます。
「……美味しくないですね」
私が、淹れたばかりのお茶に口をつけ、そう独りごちた、その時でした。私の向かいの席、誰もいなかったはずの空間が、音もなく裂けました。紫のスキマです。
「ええ。今日の空気は、まるで味がしないわ」
紫はいつものようにスキマから現れましたが、その表情には、いつもの飄々とした笑みはありません。扇子を閉じたまま、どこか疲れ切ったような目で、私と同じように、窓の外を見つめていました。
「……いらっしゃい、紫。何か飲み物は如何ですか?」
「珈琲をお願い」
(紫が珈琲飲むの、なんだか珍しいですね)
ミルに豆を放り込み、指先をくるりと回すだけ。能力が刃を高速回転させ、一瞬で抽出までを完了させます。コポコポと、黒い液体が注がれる音だけが、静寂の中に響きました。私がそれを差し出すや否や、紫はスプーンを手に取りました。カチャ、カチャとゆっくりとした手つきで黒い水面をかき混ぜ始めます。挽きムラなんてないのですが。
「……里が、変なのよ」
しばらくの沈黙の後、彼女が、ポツリと言いました。
「変、とは?」
「厭世観が漂ってるって言ったところね。とにかく、里の空気が重いの。今まではこんなことなかったのだけど…」
紫は、スプーンを置き、深く息を吐きました。
「おそらく、異変ね。原因は調査中。どうせ、なんらかの妖怪の仕業だと思うけどね。問題なのは、原因よりも現状よ。……とりあえず、最悪の事態を回避するためにも里の閉塞感を打破しないといけない」
紫はそう言うと、カップを持ち上げ、黒い水面をじっと見つめてから、すっ、と一口啜りました。途端に、彼女の眉が不快そうに歪みます。
「……苦いわ」
「…あぁ、そういや、紫は砂糖を入れるのが好きでしたね」
なるほど、道理で何も入ってない珈琲をスプーンでかき混ぜていたというわけですか。私は苦笑しながら、小皿に乗せた角砂糖を、彼女の目の前にことりと置きました。
「もう、入れておいてよね。てっきり、入れてくれてると思ったのに」
紫はそこで初めて、自分が「無いもの」を必死にかき混ぜていたことに気づいたようで、自嘲気味に口端を吊り上げました。彼女はたくさんの角砂糖を躊躇なくカップに放り込むと、またカチャカチャと、今度は意味のある音を立てて混ぜ始めました。
「…それで? 里の閉塞感を打破しないといけない、でしたね」
「ええ。今の里には『希望』が消えてしまっているの」
紫は、甘くなった珈琲を一口すすり、ようやく人心地ついたように息を吐きました。
「希望、活力、明日への期待。人間が生きていく上で不可欠な心の燃料が、なくなってしまった……今の里の人間たちは、中身の空っぽな人形のようなものよ。このままだと自死する人間が出てもおかしくない」
「……なるほど」
「そこで貴女の出番よ、夕雲。澱んだ里の空気を『回して』欲しいの」
紫はカップを置き、真剣な眼差しで私を見据えました。
「なるほど、空気を回すですか…」
その言葉から私の脳裏に浮かんだのは、里の上空に目に見えない巨大な扇風機が、強制的に空気を撹乱させるもの……うん、造作もありませんね。
「出来る気がします。その仕事承りました」
私がそう請け負うと、紫は「頼んだわよ」と短く言い残し、スキマの中へと姿を消しました。 私は飲み干した紅茶と紫の珈琲をシンクに置き、いつもの黒い前掛けの紐をきゅっと締め直します。さて、一仕事してくるとしましょうか。
羅万館を出て、私は人間の里へと足を踏み入れました。通りを歩いてみると、紫の言葉通り、重く湿った沈黙が肌に纏わりつきます。行き交う人々は皆、足元を見つめ、まるで見えない重りを背負っているかのよう。活気あるはずの大通りも、今はお通夜のように静まり返っています。
「……確かに、これは早急な対処が必要ですね」
私は、大通りの真ん中で足を止め、頭上を覆う鉛色の空を見上げました。右手をゆっくりとかざします。イメージするのは、天地をかき混ぜる程の巨大な扇風機
「――回りなさい」
指先で空気を掴み、大きな円を描くように動かします。私の能力が、大気の流れに干渉し、停滞していた里の空気を、強引に回し始めました。
ゴウッ!!
つむじ風のような突風が、私の足元から巻き起こり、里の大通りを一気に吹き抜けました。路地裏に溜まっていた澱んだ空気が巻き上げられ、遥か上空へと放り出されていきます。代わりに、新鮮で、少しばかり刺激の強い新しい風が、家々の隙間にまで流れ込みました。
風に打たれた人々が、ハッとしたように顔を上げます。死んだようだった瞳に、少しずつ光が戻り、止まっていた足が動き出し、沈黙していた口が開く。里全体が、大きな深呼吸をしたかのように、ざわめきを取り戻していきました。
「ふむ、まずはこんなものでしょう」
私は、その様子を満足げに見回して頷きました。空気が動き、循環が始まりました。これで、あの息の詰まるような「閉塞感」は打破されたはずです。
私は、ざわめき始めた里に背を向け、羅万館への帰路につきました。帰り道、頬を撫でる風は、来る時よりも少しだけ強く、なんだか熱を帯びているように感じられました。ですが、その時の私には、それが心地よい疲労感のように思え、深く気にする由もなく。
店に戻ると、そこにはいつもと変わらない心地よい静寂。私は、いつものカウンターに座り、淹れたての渋いお茶を一服。窓の外では、夕闇が迫っています。里の方角から、微かに、祭囃子のような音が聞こえてくる気がしましたが、きっと気のせいでしょう。こうして、私の賢者としての一仕事は、無事に終わった……そのはずでした。
◆◆◆
そして、翌日。
羅万館の日常は、相変わらず穏やかなものですが、昨日とは違う安らぐ沈黙。私は、古くなった映写機のメンテナンスをしながら、のんびりと店番をしていました。
その時、私の目の前の空間が、音もなく裂けました。昨日と全く同じ状況。そこから顔を出したのは、やはり紫。私を褒めにでもやってきたのですかね、それとも異変解決の報告とか?
現れた紫は、扇子で口元を隠してはいましたが、その目は全く笑っていませんでした。むしろ、呆れと非難の色が濃厚に滲んでいます。
「……夕雲。貴女、少し張り切りすぎたんじゃないかしら?」
「おや、紫。何か不手際でも?ちゃんと里の空気を撹乱させましたとも」
「撹乱させすぎなのよ」
私が「はて、どういうことか?」と首を傾げると、彼女はスキマを広げ、里の様子を映し出してみせました。
そこに映っていたのは、信じがたい光景。
着物を乱し、手ぬぐいを振り回し、狂ったように踊り狂う里の人々。その顔には、満面の笑みが張り付いていますが、目は笑っていません。そして、彼らが叫んでいる言葉が、轟音となって私の耳に届きました。
『ええじゃないか! ええじゃないか!』
「……なんです、これは」
私は思わず言葉を失いました。
「見ての通りよ。希望も、明日への不安も、全部忘れて、ただ刹那の快楽に身を任せる。秩序なき祝祭、破滅への踊り」
紫は、ため息交じりに言いました。
「貴女が回した風が、空っぽだった彼らの心に火をつけてしまったのかしらね……もう少し、ゆっくり回して欲しかったわ。これじゃあ換気扇じゃなくて、火に風を送っているじゃない」
「……面目次第もありません」
私は、がっくりと肩を落としました。まさか、あの程度の「循環」で、ここまでタガが外れてしまうとは。人間の心の空洞は、私が思っていたよりもずっと深かったようです。
「まあ、起きてしまったことは仕方がないわ。それに……怪我の功名、とも言えるのよ」
紫は、ふわりと微笑みました。
「貴女が盛大にかき回してくれたおかげよ。昨晩の丑三つ時、里から感情が完全に失われていることが確認できたわ。今までは里全体を覆う鬱屈とした空気に紛れて判別がつかなかったけれど……これだけの熱狂があれば、丑三つ時の人間の不自然さが、嫌でも浮き彫りになるものね」
「……私の失敗が、役に立ったと?」
「ええ。貴女のおかげで、犯人の手がかりが掴めた。その点においては……よくやったと言えるわね。自死する者も出なさそうだし、撹乱自体は上手くいっている。ただ、踊りに熱狂しすぎて、里の運営が死んでいるのは気になるけど…それはこちらで手を打つわ」
紫はパチンと扇子を閉じ、私を指差しました。
「というわけで、夕雲。貴女には責任を取ってもらうわね」
「……責任、ですか?」
「ええ。お仕置き、というわけじゃないけれど。……この異変の調査の続きとその解決、貴女に一任する」
彼女の瞳が、賢者としての冷徹な光を帯びます。
「この騒ぎに乗じて、宗教家たちが動き出している。神子も、白蓮も、そして勿論、霊夢もね。彼女たちがこれ以上、里を掻き回さないように監視しつつ、異変解決へと誘導させて頂戴。頼んだわよ、夕雲」
紫はそう言い残すと、スキマの奥へと消えていきました。
遠く、里の方角から、ドンドコと腹に響くようなリズムが、風に乗って聞こえてきます。
私は、その音を聞いて、思わず、深くて長いため息をつきました。
どうやら、私の平穏な日常は、自らの手で吹き飛ばしてしまったようです。ですが、それによって道が開けたのなら、良しとしましょうか。
要約
「鬱憤とした空気が里に蔓延してるわ!このままだと鬱で里の人間がやばい」
「任せてください!私がそんな空気を吹き飛ばしてみせます!そーれ!…あっ」
「…やりすぎちゃったわね。まぁ、最良ではなくとも次善。こちらである程度の対処はするから、諸々頼むわ」