執筆のお供は、ゆるる透明度でした。
稗田奈弥の人生は暗きに満ちていた。
彼女は「御阿礼の子」を支えるため、あるいは万が一の事態に備えて用意された予備に過ぎなかった。
幻想郷の歴史を背負う御阿礼の子の傍らで、何の力も持たぬ奈弥の存在は、稗田の血を次代へ繋ぐための暫定的な「
御阿礼の子が期待され、褒められ、尊敬を集める一方で、彼女は一人の人間として期待されることすら一度としてなかった。彼女の成長を喜ぶ者はなく、彼女が何を考え、何を願っているかを問う者もいない。彼女の人格が顧みられることは、ただの一度もなかった。
ただ一人の例外を除いて。
周囲からの冷遇が深まるほどに、奈弥にとって姉の存在は唯一無二の光となっていった。奈弥は少しでも姉の視界に相応しい自分でありたいと、あるいは彼女の孤独な重圧を分かち合いたいと願い、幼い頃から『幻想郷縁起』を読み耽り、幻想郷の歴史や妖怪について死に物狂いで勉強した。
だが、幾ら学んでも、幾ら読み込んでも、姉■には追い付けなかった。それでも私は姉を追い続けた。
深夜、行燈の火の下で必死に文字を追う彼女に、「あまり無理をしないで。身体が心配だわ」と優しく声をかけ、その努力を慈しんでくれたのは、世界中で姉ただ一人であり、彼女の責務を、重責を、使命を本当の意味で理解できているのは私だけだったのだから。
ある夜、彼女は部屋の隅から、姉様が『幻想郷縁起』第八版の編纂に勤しむ背中をじっと見つめていた。静まり返った部屋に、筆が紙を走る音だけが響く。だが、その背中は以前よりも小さく、時折、堪えきれないような短い咳が漏れた。筆を持つ手は微かに震え、白磁のような肌は病の色を帯びて透き通っている。
天に選ばれ、期待を一身に背負った姉様が、その寿命を削りながら孤独に歴史を刻んでいる。自分を認め、愛してくれる唯一の人が、報われることのない献身の中で磨り減っていく。
――早く助けなければ。
――少しでも楽にしてあげたい。
――姉様が遺す記録を、もっと完璧なものにしなければ。
その純粋な焦燥は、自分を無視し続ける周囲への「見返してやりたい」という黒い執念と混ざり合い、彼女を禁忌の道――『妖魔本』の編纂へと突き動かした。
しかし、それは間違いだったのだろう。
人ならざる者が刻まれた禁書を蒐集し、その毒を書き写すうちに私の身体には不可解な変調が現れ始めた。
はじめは、指先の墨汚れ。いくら水で洗っても、軽石で擦っても、爪の間や指の腹に染み込んだ黒い色が落ちない。それどころか、墨の染みは血管を伝うようにじわりと腕のほうまで伸びていく。
やがて意識も侵食され始めた。眠りにつけば、一度も訪れたことのない血塗られた異郷の光景や、存在しないはずの怪異たちの嘆きが夢に現れる。鏡を見れば、自分の瞳の奥に自分ではない「ナニカ」が潜んでいるような錯覚に陥った。
何より恐ろしいのは、わたし自身がその異常に恐怖を感じなくなっていったことだ。いつしか「姉のために」という目的さえも、蒐集そのものの快楽と、世界への呪詛に塗り潰されていった。自覚のないまま境界を滑り落ち、彼女が九十九冊目の妖魔本を書き終えた後、そこにはもう「
「さて、これが私の知っている青行燈の成り立ちです」
そう言い、私は話の区切りをつけるように、手元で行燈の芯を整えていた銀のライターを静かに置きました。カチリ、という小さな金属音が、静まり返った部屋に不自然なほど明瞭に響きます。
「……」
一度、部屋に逃げ場のない沈黙が降ります。チラリと阿求さんの様子を確認すると、彼女は膝の上で白くなるほど拳を握りしめていました。
「……あまりに、あまりに報われない」
阿求さんの声が、震えながら暗がりに落ちます。
「彼女を救えるのは私だけだったはずなのに、かつての私はただ彼女が差し出す献身を、何も知らずに享受していた。……情けないです」
それは、九代目としての感想のようにも、彼女の前世である阿弥の後悔が形を成した言葉のようにも聞こえました。掠れた声は湿り気を帯びて部屋の静寂に重く沈み、握りしめた拳がその感情の深さを無言で物語っています。
「…決して、貴女だけの責任ではありません。彼女の内にあった危うい気質も、無関係ではなかったのでしょう。現に慧音さんも彼女を案じていましたし、私としても彼女に声を掛けていたつもりです。今だから言える事でしょうが……そう、私たちは彼女を閉ざされた屋敷の外へ、もっと広い世界へ連れ出すべきでした」
私の言葉は慰めにしてはあまりにも淡々としすぎていたかもしれません。ですが、偽らざる本心を伝えたつもりです。気休めの甘言よりも、偽らざる本心を伝えることこそが彼女への礼儀だと考えたのです。
返事はありませんでした。阿求さんは小さく唇を噛み締め、溢れそうになる嗚咽を喉の奥で押し殺します。潤んだ目元を一度だけ拭うと、覚悟を決めたかのように居住まいを正しました。私もそれ以上の言葉をかけることはせず、静かに息を吹きかけ、最初の一灯を消し止めました。
失われた光の代わりに、重く冷たい静寂が、まるで古い書物の隙間を埋めるように座敷へと染み込んでいきます。
「……では、続きを」
堕ちた闇の太陽の話。
魔道具に魅入られた家族の話。
里を裏切ってしまった巫女の話。
八人の仲良し組の話。
家族が大好きな吸血鬼の親玉の話。
一つ、また一つ。物語が語られるたび、行燈の火は私の吐息によって光を奪われ、部屋の闇は濃度を増していきます。
五、十、二十……。
行燈の消えた跡には、どろりとした墨のような影が澱み、虚空からは誰かの啜り泣きや、古い紙が擦れ合う音が幻聴のように聞こえ始めます。
五十、七十、九十……。
阿求さんの輪郭が闇に溶け、ただ彼女の規則正しい呼吸音だけが、ここがまだ現実であることを辛うじて繋ぎ止めていました。
「……百番目。人から妖へ生まれ変わった少女の話」
ふっ。
百番目の怪談を語り終えると同時に、私は最後の一灯を消しました。
視界から色彩が、形が、光のすべてが剥落し、部屋を支配したのは、底のない純粋な暗闇。しかし、その完全な静寂は長くは続きませんでした。
唐突に消したはずの行燈の一つに、ボゥ、と小さな火が灯りました。
それは、先ほどまでの暖かな火の色ではありません。冷たく、神経を逆なでするような、病的なまでに鮮やかな「青」。
その光が広がると同時に、目の前の景色は一変していきました。先ほどまで私たちが百物語を談じていた部屋はどこにもなく、壁という壁から古い和綴じ本が溢れ出し、虚空には数えきれないほどの墨文字が、雪のように、あるいは羽虫のように舞っている不気味な部屋。足元の畳はドロドロとした墨の海へと変わり、そこから名前もないような力なき怪異たちの呻き声が響いてきます。
その異形の空間の中心。青い火を宿した行燈を手に、ゆらりと影が立ち上がりました。
「……ほう、百物語で私を読んだのか。考えたな、貴様」
その声は少女の声のようにも、何万ページもの古びた紙が一度に擦れるような音のようにも聞こえました。おそらく、奈弥さんが集めた百の物語、百の絶望、百の怪異が重なり合い、一つの人格を模造した鬼女の吐息。
白装束にびっしりと書き込まれた黒い墨文字が、まるで呼吸するように明滅しています。乱れた髪の隙間から覗く目は、鬼女そのもの。負の感情に塗れたその眼には人間味がありません。
私は彼女が踏み出すより早く、懐から幾枚の御札を取り出し、背後の阿求さんへと投げました。
「下がってください、阿求さん。ここからは私の領域です」
御札は阿求さんの足元で青白い光の円陣を描き、彼女を包み込む強固な結界となりました。阿求さんは震える唇を開こうとしましたが、その前に、青行燈が嘲笑うかのように言葉を繋ぎました。
「結界か。無意味なことを。……貴様がかつて私に施したあの忌々しい『封印』を、私が如何にして抜けたかわかるか?」
青行燈が細い指先を動かすと、彼女の輪郭が陽炎のように揺らぎました。鮮やかだった白装束の白も、びっしりと書き込まれた墨文字の黒も、まるで水に落とした一滴の絵具が広がるように、急速にその「密度」を失っていきます。
「私の力は『淡くする程度の能力』……強固な檻も、緻密な法陣も封印の強度を
彼女が語るにつれ、周囲の妖魔本の世界さえもが色彩を失い、銀灰色の不気味な虚無へと変貌していきます。
「幻想郷の妖怪共にも似たようなことをした。奴らの鋭い嗅覚も、私の『認識』を極限まで淡くしてしまえば、道端の石ころを避けるのと同義。私は誰の目にも留まらず、誰の記憶にも残らぬまま、幻想郷を滅ぼすための舞台を整えてきたのだ」
(なるほど。マミゾウさんや隠岐奈が彼女を見つけられなかったのはそのせいですか)
私は淡々と、眼前の怪異の能力を分析していました。『青行燈』…その名の通り、彼女の周囲に揺らめく焔はどこまでも
元は百物語の終焉のみに現れる、極めて希薄な存在である青行燈。
殆どの人間の視界にも留まらず、存在が薄かった稗田奈弥。
もしかするのならば、奈弥さんが青行燈へと堕ちたのは偶然ではないのかもしれません。
(物事を希釈させる能力……。これは私にとっても、相性の悪い相手ですね)
モノや私を希釈させるのであるのならば、恐らくは問題ないです。面倒なのは、人や妖怪…魂がある存在を希釈させること。それをされたら、私は元に戻す事は出来ない。阿求さんを早急に保護したのは正解でしたね。おそらく、結界は力を籠め続ければ、淡くされることは無いはず。
(となると、疑問が残りますね)
彼女がその『淡くする』矛先を私や周囲ではなく、自らという『個』に向けていた場合、私は彼女という存在に気づけなかったでしょう。正真正銘の透明人間…ならぬ、透明妖怪。私の封印なぞとうに通り抜け、基本自己にのみ作用する
「ふふ、私の力に絶望したか?」
勝ち誇ったような、重なり合う幾千のノイズ。
「…………」
私は無言のまま、手元にあった名もなき小石を指先で弄び、それを宙に投げます。一瞬の閃光が墨の海を切り裂き、私の手の中には、雪のように眩い紙垂を蓄えた、神々しいほどに白い大幣が握られていました。
私は、弱点である阿求さんを背にかばうように一歩前へ出ると、その大幣を淀みなく青行燈へ突きつけ、静かに告げました。
「絶望? ……まさか。むしろ逆ですよ。ようやく、希望が見えてきたところです」
阿弥にとっての奈弥は可愛い妹だし、自分を「御阿礼の子」だけでなく、「稗田阿弥」としても見てくれる数少ない存在。
奈弥にとっての阿弥は尊敬する姉だし、自分を「御阿礼の予備」ではなく、「稗田奈弥」として見てくれる唯一の存在。
奈弥、本当にいい子なんですよ。ただ、どうしようもなく運が悪くて、視野が狭いだけで。
作者はハッピーエンド好きなんですけど、うん……これ、ハッピーエンド行けるか?
…出来らぁ!えっ!ここからハッピーエンドに!(言いたいだけ)