青行燈の周囲を舞う無数の和綴じ本が、凄まじい速度で頁を捲り、弾け飛びます。
剥がれ落ちた鋭利な紙片の一枚一枚が、彼女の「淡くする程度の能力」によって存在の重みを削ぎ落とされ、光さえも透過する不可視の刃と化して私へと襲いかかってきました。
(なるほど、ただでさえ視認しにくい頁を能力で更に認識しづらくしているのですか)
シュッ、と空気を切り裂く微かな音。
私は鎌鼬のような刃を半身になって避けます。視認するのが難しいなら、他の感覚で捉えればいい。簡単な話です。
(それはそれとして、面倒ですね)
私は、大幣を縦に払い、不可視の刃の一撃を弾き飛ばしながら考えを張り巡らせます。
青行燈の「淡くする程度の能力」は幻想郷でも随一の危険な能力でしょう。相手の認識を弄り、自身の存在を見えなくさせる。有機物、無機物問わないどころか、霊力のようなエネルギーまでも彼女は希釈し、無効化する事ができます。
また、汎用性にも優れ、幾らでも拡張することが出来るのも優秀な点です。
極めれば以前起こった過去の出来事でさえも、希釈できるかもしれません…ですが、どうやら使い慣れていない様子。以前封印した際も使ってきませんでしたし、最近になって目覚めた能力なのでしょうか。
「…本当に、本当に面倒な女だな、お前は!」
青行燈が、苛立ちを剥き出しにした絶叫と共にその両袖を大きく振り上げました。刹那、上空を覆い尽くすような巨大な和綴じ本が現れると同時に自壊するように弾け、その破片の一片一片が、粘り気のある漆黒の墨液を纏った凶弾へと変じます。
「降りしきれ、忘却の泥濘! 貴様の存在ごと沈め!」
周囲は瞬く間に視界を奪う漆黒の帳に包まれます。ですが、私は眉一つ動かすことなく、大幣を静かに旋回させ、結界で凌ぎ切ります。私は弾幕を貼り、青行燈に回避や防御に専念させます。
なんとなくですが、彼女の能力の底が見えてきました。
(先ほどの光弾――『矛葬妙珠』は、あくまで彼女の出方を見るための試金石。私の指先を離れた瞬間に完成し、独立したエネルギー。彼女の希釈は容易くその構造を解いてみせた)
(それに比べ、結界は青行燈の能力の効きが悪い。おそらく、私が霊力を籠め続けているから)
つまり、青行燈の「淡くする程度の能力」は処理能力のようなものがあるのでしょう。私が霊力を供給し続ければ、実質無効化することが出来ます。彼女の希釈速度を私の『上書き』が上回り続ければ、実質的に無効化することが可能です。
となると、青行燈に効果的なのは…飽和攻撃。
「……種は分かりました。貴女の淡い幻想、現実の色彩で塗り潰して差し上げましょう。
私の言葉と共に、月の髪飾りに封印された神格が呼応し、私の髪が燃えるような橙色に輝き始めます。異界の暗澹たる闇の中で、その光だけが絶対的な重みを持ち、私の瞳までもが峻烈な色彩を帯びていきました。
「『無葬封印』」
私の指先から零れ落ちたのは、異空間の墨色さえも「明るい」と感じさせるほど、徹底的に塗り潰された黒色の光。私はそれを「回す程度の能力」を使い、青行燈の周囲に回るように張り巡らせます。
「なっ、消しきれない……!? 何だ、この密度は……ッ!」
青行燈は歯を食いしばり、「淡くする能力」を全開にして抵抗を試みますが、彼女が触れた端から淡くしようとも、私の背後から永遠と放たれ続ける弾幕が、彼女の処理限界を上回り続けます。
「無駄ですよ。貴女が薄める端から、私は染め続けますから……逃げ場も与えません」
黒光の渦に翻弄される青行燈。私はダメだしとばかりに左手を突き出し、彼女を中心とした空間に強力な楔を打ち込みました。
「『二重結界』」
青行燈の周囲に、二層の障壁が瞬時に展開されます。外側は逃げ場を封じる檻として。そして内側の一層は、私の放つ黒光を逃さず跳ね返し、その奔流を幾重にも増幅させるための鏡として。
「『無完綴結界』」
封印術と結界の併せ技。何十年か前に使った技とは違いますが…以前は怨霊相手に、今回は青行燈相手に調整したもの。結界の内側に閉じ込められた「無葬封印」は、鏡面のような障壁に衝突するたびに鋭く跳ね返り、その密度を幾何級数的に増していきます。青行燈が能力で一帯を薄めようとしても、四方八方から反射してくる闇が、瞬時にその空白を塗り潰し、青行燈を追い詰めます。
しばらくして、鏡面結界の中で飽和し、荒れ狂っていた黒光の嵐が静かに凪ぎ、硝子が砕けるような音と共に術式が霧散しました。その中心に立ち尽くしていたのは、先ほどまでの傲慢な姿が嘘のように、息も絶え絶えとなった青行燈でした。
私は泰然とした足取りで、伊弉諾物質から作り出した一冊の本を携え、青行燈に歩み寄ります。
「私を封印するのか」
「ええ」
「はは…いいだろう。だが、今に見てみろ。次こそ貴様を…」
「…?何を言ってるんです? 次 な ん て あ り ま せ ん よ」
「はぁ?」
「おそらく、今回と同じように封印の効力を希薄させるつもりなんでしょうが…そんなことさせません。封印に持続的に霊力を籠めます。
私は、まるで客人に茶を勧める時のような、穏やかで丁寧な微笑みを崩さずに告げました。
「な、な、何を言っている。そんなこと、できるはずが……!そ、そうだ!貴様も人間だ。忘れることぐらいあるだろう。であるならば、その隙を狙おう。貴様は永遠に気を張らねばならぬ!後悔しろ…」
「お生憎様。そんなの術式を組めばどうにかなるでしょう。さぁ、現実を見なさい。貴女は永遠に妖魔本の中で苦しむのです。幻想郷を破壊させようとした貴女が悪いんです。存分に後悔しなさい」
「おい、巫山戯るな!やめろ!」
私はお構いなしに青行燈を無名の本に叩き込み、封印を施しました。幾ら希薄しようとも、すぐに元に戻るそんな封印を。
これにて一件落着。そう言いたいところですが、本番はこれから。青行燈のみを殺し切らなければなりません。
種族としての妖怪を殺す、最も簡便な方法は怨霊に憑依させること。今回は奈弥さんを助けるのが目的なため、怨霊を憑依させるなんて以ての外です。
では、どんな手段を取るべきか。
まず、種族としての妖怪は精神を主体とする生命体です。そのため、肉体の損壊などはあまり気にしたい個体が多いです。そこで有効打となるのが、精神に関する攻撃。例を挙げると、名前や言い伝え等の否定、謂れのある武器による攻撃などがそれにあたります。
今回取った手段は『永続的な封印』という脅し。これは大陸から渡ってきたという九尾の狐でさえ、自死を選ぶほどの精神攻撃です。
問題はここから…私の思惑通りに事が進めばいいのですが…もしかするのならば、以前と違う結末を見れるはず。そう考え、私は妖魔本をパタリと閉じました。
視界が、黒に染まる。
それはただの闇などではなく、一切の陰影を、色彩を許さないそんな黒光。
ただ、この真っ黒な極光に満ちた空間には、私が認識できる「形」が何一つとして存在しなかった。
(……ああ、あ……。なんだ、これは。何なのだ、この封印は……!)
何度も、何度も、何度もこの封印から逃れようと力を振るう。
幾ら淡くしようとも、この空間は再び黒光に塗れ、淡くした端から端まで染め上げられる。
明らかに私が希釈する速度よりも、黒光が塗れる方が早い。
「くそ!ふざけるな!此処から出せ!」
以前の封印はこの「淡くする程度の能力」に目覚めてからは簡単だった。時間はかかったが、封印の効力を「淡くする」その程度で事足りた。だが、どうだ、この封印が馬鹿げている。何をやっても封印から逃れるビジョンが見えない。
――『貴女は永遠に、ここで後悔し続けなさい』
脳裏にこびりついて離れない、あの女の残酷なまでに穏やかな宣告。
肉体を焼かれる苦痛など、これに比べれば微睡みにも等しいだろう。私は永遠にこの牢獄に閉じ込められなければならないのだ。
(嫌だ。……嫌だ、嫌だ、嫌だッ! そんな永劫、耐えられるはずがない!)
周囲を埋め尽くすのは、星一つない、深淵よりもなお深い真実の闇。私がどれほど「淡く」しようと試みても、アイツの霊力は粘りつく泥のように私の存在に絡みつき、この暗澹たる檻の中に私を沈める。
時間が消える。感覚が狂う。視界が効かないこの空間で、唯一信じられるのは「自分という存在」の重みだけだというのに。
逃げ道を探そうにも、指先が触れるのはどこまでも続く滑らかな絶望の壁。何十年、何百年……。この沈黙と虚無が支配する箱の中で、私は私を構成する「青行燈」という罪を、ただ一人で、永遠に自覚し続けなければならない。
精神が悲鳴を上げ、思考が千切れそうになる。
この真っ暗な牢獄では、己の鼓動さえもが自分を縛る鎖のように聞こえる。
そして、恐怖が臨界点を超え、精神が瓦解する寸前。暗闇の底で、私の中に狂気にも似た「希望」が芽生えた。
それは以前の私ならば、絶対にしない行い。
(……封印を希釈することが出来ないのならば、私自身を希釈すればいい)
アイツも言っていたではないか。
「
裏を返せば、私という存在そのものを、アイツの術式が検知できないほどに希薄化させることができれば、この封印から逃れることができる。この底なしの闇から、すり抜けることができる。
だが、それは妖怪としての「自死」を意味する禁忌。
今まで、私は自分自身に能力を使う事を恐れていた。個を失い、情報を捨て去った先で、自分がどうなるのか分からなかったからだ。
だが、今は違う!
このまま闇に押し潰され続け、永劫の刑罰を受けるくらいなら、禁忌に手を染めたほうがマシだ!
(薄れて消えてしまえ、何もかも……!
自らを解体し、一枚の紙へと変えていくような行為。だが、焦燥が恐怖を塗りつぶし、成功への予感が全能感となって私の脳内を駆け巡っていく。
(は、はは……! これなら、これならば、アイツも追えまい。私が消えれば、貴様が注ぎ込む霊力も、この厳重な術式も、対象を失って空を切るはずだ。私は、貴様の思い通りなぞにはならない……!)
意識が、急速に闇の中に溶け出す。
青行燈という強固な自意識の輪郭が、液体のように解け、封印の隙間から染み出す「無」へと変質していく。
かつて味わったことのない、恐ろしいほどの浮遊感。それは、自らの存在という呪縛から解放される、全能の快楽。
(さらばだ、永遠の■女よ。私は貴様の手の届かない場所へ逃げ延びて見せる……!)
青行燈という強固な自意識は、自ら解き放った希釈の奔流に飲み込まれて消え去りました。妖怪としての名前、数多の怪異、蒐集した百物語の記憶……それら全てが希釈され、絶対的な封印を通り抜けて、どこかへと消えていきます。
――勝った。
おそらく、彼女が最後に抱いたのは、封印を出し抜いたという全能感でしようか。ですが、それは私の目論見通り。
「想定よりも早かったですね。まさか、一時間も持たないとは。そこまでにして、暗闇が怖かったのでしょうか」
「何言ってるんですか、夕雲様。……それで、奈弥はどうなったんですか!?」
「大丈夫です。私の目論見通りに計画は進みましたよ。後は回収するだけです」
そもそもがおかしかったのです。
青行燈は私と戦っている中、阿求さんを守る結界だけは決して干渉しませんでした。また、私たちから姿をくらます際も、あくまでも自分への「認識」を希釈させただけに過ぎず、自身の「存在」そのものを希釈させるような真似は決してしなかった。
(自分という形を失うことへの、本能的な恐怖。あるいは、自分を薄めすぎれば、内側に閉じ込めた『彼女』が露呈してしまうという、無意識の警戒だったのでしょうか。まぁ、今になってはわかりませんし、興味もありませんが)
であるならば、もし青行燈自身に、青行燈という人格を希釈させたら、どうなるのか。分の悪い賭けでしたが、どうやら私たちは勝負に勝ったようです。
私はゆっくりと、妖魔本の表紙を開きました。
封印は既にほどけ、本に残るは妖怪だった少女のみ。本を開くと同時に、眩い光が弾け、溢れ出した白光が、次第に細い手足、柔らかな髪、そして静かな鼓動を刻む肉体へと形を変えていきました。
「あ……、あぁ……」
阿求さんの喉から、絞り出すような吐息が漏れます。
光が収まったそこには、青行燈という不浄な気配を一切纏わない、真っ白な産着のような衣に身を包んだ一人の少女が、眠るように横たわっていました。
「……奈弥、さん……?」
「大丈夫ですよ。青行燈という妖怪は、青行燈自身の手で希釈し尽くされました。今ここにいるのは、その呪縛から解き放たれた、ただの稗田奈弥さんです」
私は大幣を静かに下ろし、橙色に輝いていた髪を元の色彩へと戻しました。
少女のまぶたが、微かな震えと共にゆっくりと持ち上がります。
「……ここ、は……?」
彼女の瞳に光が宿りました。
私は、年長者としての穏やかな微笑みを浮かべ、彼女と、そして立ち尽くす阿求さんへ向かって静かに告げました。
「おかえりなさい」
こうして長すぎる怪談の夜が明けましたとさ。
ええ、本当に長かった。次は心綺楼EDです。
夕雲さんに「次 な ん て な い。敗者に相応しいエンディングを見せてやる…!!」って言わせようとしましたが、自制。