今回のお供は「モノクロームレインボー feat. ytr【魂音泉】」でした。かなり好きな曲。
窓の外からかすかに見える山はピンク色に染まっていた。あの日と同じように桜の花びらが。
数日前の、穏やかな昼下がりのこと。私は突然倒れた。
庭掃除の最中、箒を握りしめる指先の感覚も、高く透き通った春の空を追う視界も、まるで砂時計の最後の一粒が音もなく零れ落ちるように、ポツリと零れ落ちた。
崩れゆく私を間一髪で抱きとめたルナサお姉さまの、聞いたこともない程か細く、悲痛な叫び。狼狽しながら駆け寄るメルランお姉さま。そして、必死にユウグモを呼びに走ったリリカお姉さまの背中。
薄れゆく意識の淵で見たあの光景だけは、今も消えない残像のように私の心に深く焼き付いている。
視界の端が少しずつ、本当に微かに淡い白に溶けていく…
でも、それはかつてのあの、すべてを奪い去るような白黒の静寂なんかじゃない。温かな陽だまりの中に溶け込んでいくような、とても穏やかな眠気。
「……ふふ。お姉さまたちったら…そんな顔をしないでよ」
私の言葉に、ルナサお姉さまが眉を寄せながらもなんとか口角をあげようとする。
メルランお姉さまは落ち着きなく私の手を握りしめていて…その温かさが少しだけ震えていた。
俯いたまま、私のベッドの端を強く掴んでいるのはリリカお姉さま。
お姉さまたちとは、もう十分に話を終えている。
思い返せば、この数日はまるでお別れ会のようだった。
「……ルナサお姉さま。貴女は一番しっかり者だけど、たまに一人で抱え込みすぎるところがあるから。これからは、二人のことも、自分のことも、もう少しだけ甘やかしてあげてね」
生真面目な彼女とは、お姉さまたちが生まれ変わった日の事を話した。私の記憶の影でしかなかった彼女たちが、本物の騒霊として生まれた瞬間。ルナサお姉さまは「貴女がいなければ、私たちはまだ暗闇の中にいた」と、誇らしげに言ってくれた。
「メルランお姉さま。貴女の明るさはこの屋敷の太陽よ。……私が死んでも、あんまり長くは落ち込まないで。貴女が笑っていないと、悲しいわ」
天真爛漫な彼女とは、ユウグモに内緒で盗み食いしたお団子の味を思い出した。魔法の修行に疲れた時、彼女の騒がしいほどの笑い声に、私がどれほど救われてきたか。彼女は「う゛ん゛、
「リリカお姉さま。貴女はいつも三人のバランスを一番に考えてくれたわね。……これからは、お姉さまたちの間を取り持つだけじゃなくて、もっと自由に生きてくれたら、私もうれしいわ」
世渡り上手な彼女とは、これからについて話した。この家をどうしたいのか、私が居なくても大丈夫なのか、何がしたいのか、これからどうするのか…どうやら、彼女は音楽が気になっているらしい。きっと器用なリリカお姉さまなら上手くいく。
そう、騒霊であるお姉様たちはきっともう大丈夫。私がかけたあの大魔法のおかげで、彼女たちはこの幻想郷で、私がいなくなっても自分たちの足で立っていける。
それが、私の人生でたった一度きりの、一番自慢できる仕事。それに…彼女もいる。
「……レイラ。大丈夫ですよ。すぐに良くなります。今はきっと…疲れてるだけですよ。もう…心配、させないでください」
この聞き慣れた、誰よりも優しい声。
枕元に座る彼女は、いつもの赤い袴を端正に整えて、呆れたように溜息をついていた。でも、分かってしまう。彼女が膝の上で感情を押し殺すかのように手を強く握りしめている、その様が。
私はそっと、震える彼女の手の上に、自分の皺の寄った手を重ねた。かつてはあんなに大きく見えた彼女の手も、今は私の方がずっと老いてしまって、なんだか不思議な気分だ。
「私の事は私が一番分かっています。もう……時間なのでしょう?」
「……そんな、そんなわけがありません。いいえ、認めませんよ。レイラ、貴女はまだ……これからでしょう?……そうだ、良い医者を知っているんです。今すぐそこへ行きましょう。永琳なら…きっと―――『ユウグモ』」
短く彼女の名を呼ぶ。ユウグモの肩がビクリと震えた。まるで、隠し事がバレた子供のように。
「……本当に嘘が下手ね、ユウグモは」
重なった私の指先から、彼女の熱い体温が伝わってくる。誰よりも頼れる彼女が、今この時ばかりは迷子のような顔をしていた。
「…寿命を延ばす方法なんていくらでもあるんです。この宇宙で一番の名医に頼み込むこともできますし、古今東西あらゆる人が追い求めた不老不死になることだって出来ちゃいます。それが嫌なら、打ち出の小槌で捨食の魔法を使いましょう。それでも駄目ならば、最悪、私が貴女の時間軸を逆回転させることだって…」
「もう…誰でもない貴女がそんなことを言うんじゃないの。貴女が『幻想郷では里の人間が妖怪になることが一番の大罪』って教えたのよ?」
「レイラは里の人間じゃありませんから?…きっと大丈夫ですよ。なにか言われたら、私がなんとかしますし。だから…レイラ、お願いだから…お願いですから、一緒に生きましょうよ」
彼女の震える声が、私の胸の奥に、かつてないほど鋭く突き刺さった。
”一緒に生きる”
一瞬、本当に一瞬だけ。
私の心は、その甘く、残酷な誘惑に激しく揺れ動いた。
(……ああ。まだ、この温かな手のひらの中にいたい)
八十年の歳月。人間としては十分すぎるほど生きた。けれど、この人の隣にいる時間に「十分」なんて言葉は存在しないのだと思い知らされる。
不老不死。捨食の魔法。そして、若返り。
彼女が提示したそれらの禁忌は、今の私にとって、抗いがたいほどに魅力的な果実だった。
もし、私が頷きさえすれば。
明日も、明後日も、百年後も。私はこの人と一緒にお茶を飲み、意地悪な冗談に頬を膨らませ、お姉さまたちと笑い合うことができる。
死という「終わり」を、まるでなかったことのように「回し」直して、この永遠に続く春の中に留まることができる。
ユウグモを置いていかずに済む。
泣きじゃくるお姉さまたちを抱きしめ続けられる。
(……生きたい。まだ、貴女の隣で笑っていたい……っ)
視界が歪む。死の淵にあるはずの心臓が、生への未練を燃料にして、どくんと大きく一度だけ、情けなく脈打った。
けれど。
潤んだ瞳で私を見つめるユウグモ。
貴女が私に教えてくれたのは、「
止まった時計に針を授け、歪んだ軌道を修正し、あるべき円を描かせる。その気高くも厳しい「回帰」の理。
人も、妖怪も、この天常のままに変っていく。たとえ物言わぬ石ころであっても、転がれば角が取れ、留まれば苔が命の跡を刻む。この世すべて、森
永遠なんて、存在しない。
万物は廻り、巡り、そしていつか、始まった場所へと還っていく。
この八十年という歳月は、私が貴女と共に、一歩ずつ、懸命に描いてきた唯一無二の円。
ねえ、ユウグモ。
もし今、貴女が私の時間を逆回転させてしまったら。私のこの白い髪も、皺だらけの手も、家族と一緒に積み重ねた物語も、全部「なかったこと」になってしまうかもしれない。それは私にとって、死ぬことよりもずっと怖くて、悲しいこと。
私は、消えてしまいたいわけじゃない。自分自身の人生を、誇りを持って完成させたいだけ。
だから…私は揺れ動く心を、溢れ出しそうな未練を、自分の意志で押し止めた。
「ふふ、本当に……ちっとも聞き分けがないんだから」
私は、震える彼女の手をさらに包み込むように力を込める。指先に伝わる彼女の魔力の波打ちは、まるで荒れ狂う嵐のよう。放っておけば、彼女は本当にこの世界の理なんて無視して、私の時間軸を弄って、私を生き延ばすだろう。
「だめ、ユウグモ。……貴女がそんな風に力を使ったら、貴女の大切な記憶が無くなっちゃうじゃない。もしかしたら、私の記憶かもしれない。そんなことまでされても、私はちっとも生きたくないわ」
私のしわがれた指先で、彼女の頬をそっと撫でる。かつて、私が子供だった頃に彼女がしてくれた、あの時のように。
「それに…この皺も、この動かない足も、全部私が生きてきた証なの。私とお姉さまたち、それに貴女のおかげで生きてきた証……それを消してしまうなんて、一番の冒涜だと思わない?」
「……っ、そんな話聞きたくないです。私はレイラに生きて欲しい!それでいいじゃないですか…」
彼女の目から、大粒の涙がこぼれ落ちて、私の手の甲を濡らす。
私は、震える彼女の熱い涙を、しわの寄った親指でそっと拭った。
「じゃあ、お願いよ。ユウグモ…私は人間のまま死にたい…我儘を聞いてくれない?」
「それは…………ずるいですよ、レイラ」
彼女の声は、絞り出すかのようだった。
私の我儘を、彼女が一度だって無下にはしなかった。厳しいことを言いながらも、結局は私を甘やかし、歩みを支え続けてくれた貴女。
私は、わざと少しだけいたずらっぽく、弱った目元を細めてみせた。
「ふふ……最後に、一番の我儘を聞いてもらおうと思って。ねぇ、ユウグモ? 私を『人間のレイラ』として、笑って送り出して」
「……っ、本当に……。貴女には、最初から最後まで、敵いませんね」
彼女は噛み締めていた唇を離し、諦めたように、愛おしそうに私の顔を見つめた。
その瞳から溢れる涙は止まらなかったけれど、もうそこには理を壊そうとする危うい覇気はない。ただの、親しい友人を送る悲しくも慈愛に満ちた眼差しだった。
「良いでしょう。……貴女の勝ちです。私のシンメイ、◼︎◼︎◼︎徊◼︎◼︎の名をもって、約束しましょう。貴女はこの幻想郷で『人間』として、その生涯を全うしました。……それは、何者にも、たとえ神である私にさえも汚させはしません」
「ですが、私にも一つだけ我儘を言わせてください。……せめて、貴女の往く
「勿論よ。お願いできるかしら?」
私がそう答えると、ユウグモはゆっくりと私の手を放し、居住まいを正して立ち上がった。
その瞬間、部屋を満たしていた重苦しい空気が、一点の曇りもない澄み渡ったモノへと塗り替えられていく。彼女の纏う紅白の装束が、窓から差し込む陽光を受けて、見たこともないほど神聖な輝きを放ち始めた。
ユウグモが静かに目を閉じ、その指先が空に美しい弧を描く。
すると、私の心臓の鼓動に合わせるように、足元から柔らかな光の波紋が広がっていった。それは今の私を無理やり生き永らえさせるための魔力ではなく、私の魂がこれから往く路を真っ白に清めるための、慈愛に満ちた祝福。
彼女の唇が、震えることなく、厳かに紡ぎ出す。
きっとこれは世界で最も贅沢な祈りの音。死の神としても、生を言祝ぐ巫女としても、その二つが重なり合った祝詞を聞くことが出来るなんて、どんな果報者でもこれに敵う幸せなんてあるまい。
境界の守護者たる我が名に於いて、慈しみ祝いて
死して往く路の安寧を守り給へと申し奉る
……そう。私は、この幻想郷に受け入れられ、ここで生きたのだ。
異国から流れてきた孤独な少女だった私に、ユウグモお姉さまたちはずっと傍にいてくれた。
私の八十年の歩みが、一文字、一文字に溶け込んでいく。
膝の上に乗った自分の手が、不思議と温かい。もう、冷たい風も、孤独な闇も、私を脅かすことはできない。
祝詞の終わりとともに、部屋全体が眩い白光に包まれた。
でも、それはちっとも眩しくない。
ユウグモが、伏せていた瞳をゆっくりと開いた。
そこにはもう迷子のような不安はなく、友人を見守る人間としての瞳があった。
「……ふふ、最高の、贈り物……ありがとう、ユウグモ」
私の視界が、いよいよ光の粒子に溶けていく。
でも、不思議と悲しくはなかった。彼女が保証してくれた路の先には、きっとまた、お日様のような温かな春が待っていると信じられるから。
私は最後にもう一度だけ、大好きな先生の、そして世界で一番美しい巫女様の顔を網膜に焼き付けた。
「……ユウグモ、あのね。……大好き、だったわ」
その言葉を最期の吐息に乗せて。
私は、彼女が敷いてくれた眩い光の中で一歩ずつ。
本当の眠りへと、ゆっくりと踏み出していった。
「えぇ、こちらこそありがとうございます。私も幸せでしたよ」
レイラと別れて、数日が過ぎました。
春の陽気は相変わらずで、博麗神社の境内には風に舞う桜の花びらが積もっています。私は一人、縁側に座り、湯呑みから立ち上る茶柱をぼんやりと眺めていました。
「……静かですね。静かすぎます」
いつもならば、この静かな時間帯も気に入っているのですが、今回ばかりは気が滅入るばかり。
「……甘えていたのは、私の方だったのかもしれませんね」
独り言を零した、その時。
静寂を切り裂くように、神社の階段の下から、賑やかで、けれどどこかぎこちない足音が近づいてきました。
「……あら。ルナサに、メルラン、リリカじゃありませんか」
顔を上げれば、そこには三人の騒霊たちが立っていました。
彼女たちは私の前に並ぶと、顔を見合わせ、最後に末っ子のリリカが一歩前に踏み出しました。
「ユウグモさん……。あの、相談があるんだけど」
「相談、ですか。どうかしましたか?」
リリカは、かつてレイラが握っていた、今はもう動かない「打ち出の小槌」の残骸を大切そうに抱え、私を真っ直ぐに見据えます。
「えっと……私たち、決めたんだ。レイラが遺してくれたこの体で、レイラが大好きだったこの世界で、自分たちの『音』を響かせていこうって」
「音、ですか」
「ええ。メルラン姉さんはうるさいくらい元気だし、ルナサ姉さんは暗い曲ばっかりだけど……。三人で合わせれば、きっと素敵な
リリカは、私の膝の上の伊弉諾物質と、私の手を交互に見つめました。
「……私たちに、『楽器』を作ってくれない?
私は、彼女たちの顔を一人ずつ見つめ返しました。
ルナサの瞳には静かな覚悟が、メルランの瞳には抑えきれない希望が、そしてリリカの瞳には綺麗な好奇心が宿っています。
……ああ、本当に。あの子は最期まで私を働かせるのが上手ですね。
「やれやれ。この私に楽器の製作依頼とは。もう、私じゃなきゃ退治されちゃうんですからね!
それじゃあ、誰がどんな楽器を希望するんですか?」
張り続けた伏線をようやく回収しました。本当に長くなっちまったなぁ。
もっと劇的に回収してもよかったのですが、それはそれで似合わない。