「それにしても。随分大きくなりましたね、メリー。びっくりです」
「…ヨモツなの?」
「ええ、我こそは唯一の黄泉神、ヨモツですよ。久しぶりですね、メリー」
「えぇ、久しぶりね、ヨモツ」
表面上は和やかな会話。問題は夕雲…いや、ヨモツの記憶がどこまであるか。
………認めたくない事実だが、ヨモツは私の事を紫ではなく「メリー」と呼んだ。つまり、幻想郷での出来事は全て忘れている、全て無くなってしまった。そう考えるのが妥当だろう。
どうしようもなく悲しくなる。叫び出したいほどの感情が喉元まで競り上がってくる。
けれど、それすら押し殺して、あくまでも自然に、いつもの私として接して……いや、接してどうするのよ? 私はこれから、どうすればいい。ようやく、ようやくあの暗闇から連れ出せたというのに。私はまた彼女を、あの孤独な国に置いていってしまうの?
「…なんか苦しそうですね、メリー。大丈夫ですか?お腹痛いとかですか?」
「……ええ、そうね。少し、お腹が痛むみたい」
私は自嘲気密にそう言って、痛む身体を支えながら、ゆっくりとヨモツの腕から降りて地上に足をついた。
本当に痛むのは腹ではなく、私の胸の奥底にある、ちっぽけな心の方だったけれど。
「だけど、大丈夫。このぐらいすぐ治るわよ。安心して頂戴」
私は胸の痛みを押し殺し、再度、無理矢理にでも笑みを顔に貼り付けて見せる。
意地…なのだろうか。ここで弱音を吐いて、涙を流すことは絶対にしたくない。けれど、そんな私の強がりなど見透かしているかのように、ヨモツは小さく息を吐いた。
「嘘です。顔色、真っ白ですよ? 唇からも血が出ていますし……冷や汗も凄いです。どう見たって大丈夫じゃないでしょう」
彼女はその細く白い指先で、優しく、本当に愛おしむように私の頬に触れた。その手のひらは、黄泉神という悍ましい名に反して、どこか陽だまりのような温かさを残している。
「メリーは昔から隠し事をするのが下手なんです。……何があったのかは分かりませんが、そんなに傷だらけになるまで一人で抱え込むなんて、貴女らしくもない」
ヨモツは私を見つめていた。
その瞳には、ただ純粋に、目の前で傷つき苦しんでいる「メリー」という存在を、心配して労わろうとする確かな情愛だけがあった。
「大丈夫、痛いところは全部、私が癒やしてあげますから。……ね? だからそんなに苦しそうな、悲しそうな顔をしないでください。大丈夫、大丈夫、私は貴女の味方ですよ」
ヨモツの優しい言葉が、私の凍りつきかけた胸の奥に突き刺さる。
彼女は、幻想郷での日々をすべて忘れてしまった。
羅万館での暮らしも、溺愛していたはずの我が子のことも、すべて。それなのに――かつて、遙か昔に、あの孤独な国で一緒に過ごした私への情愛の記憶だけは、奇跡のようにはっきりと残したまま、こうして私を心配してくれている。
記憶を失い、完全な黄泉神へ回帰してもなお、根底にある性質は何も変わっていない。
「ヨモツ……貴女って、本当に……」
馬鹿な
……自分が失ったものにすら、気づいていないから、なの?
「ごめん、ちょっと胸を借りるわね」
胸の奥から突き上げるどうしようもない愛おしさと、それ以上の絶望感に、私はただ彼女の胸元に顔を埋めることしかできなかった。
押し当てた額から伝わる彼女の鼓動が、あまりにも温かくて、それがなおさらに私の心を切り刻む。私を抱きしめるその優しい腕は、彼女が「夕雲」として積み上げてきた全てを、我が子のことすら忘却の彼方に置き去りにして成り立っている。そんな残酷な奇跡、頼みもしないのに。
弱音を吐くまいと、涙は流すまいと、必死に張り付けていた仮面が、彼女の懐のなかでみっともなくひび割れていく。
けれど、ここで声を上げて泣くことさえ、今の私には許されない。だって私は、境界の妖怪――八雲紫なのだから。せめてこの絶望を悟られないよう、私は彼女の衣に顔を深く埋め、声を殺して、ただその理不尽な優しさに身を委ねるしかなかった。
…
………
…………
しばらくして、私の顔を包み込むように、ヨモツの手のひらからふわりと、どこか懐かしい薬草と清涼な霊水の香りと共に、途方もなく清冽な神力が流れ込んでくる。
それは昔からヨモツが私に使う霊薬であり、
「……よし。これで顔色は良くなりましたね」
ふふ、と満足そうに微笑むヨモツの気配を感じながら、私は彼女の胸元からゆっくりと顔を離した。身体の激痛は跡形もなく消え去っている。けれど、その代わりに残ったのは、私の知る「夕雲」という人間が完全に消滅してしまったという、取り返しのつかない喪失感だった。
ヨモツは私を支えていた手を優しく離すと、衣服の煤を払うようにして、すっと背筋を伸ばした。
その瞬間、彼女の纏う空気が、先ほどまでの親愛に満ちたものから、一転して絶対的な『神』のそれへと変貌する。
「さて、メリー。昔話の続きはまた今度にしましょう」
ヨモツは端整な顔立ちを、ひどく冷徹な、それでいてどこか淡々とした無表情に切り替えた。
彼女の視線が向いているのは、私ではない。私には見えていない何処かを、誰かを見つめている。
「随分変なところに逃げ込んでいますね。まぁいいです。貴女を傷つけ、この国を荒らしているのは天逆毎の転生体でしょう?」
ヨモツが「そう言えば黄泉の神の転生体を見るのは初めてですね」と言う。それもそうでしょうね。貴女は他の神々の魂をすべて現世へと転生させ、自分だけを復活の贄としてたのだから。
「現世に迷惑をかけるだなんて…少しおいたが過ぎます」
ヨモツは静かに夜空を見上げたまま、透き通った声で淡々と言葉を紡ぐ。そして、丁寧な口調のまま、ヨモツは静かに一歩を踏み出し、夜空へと向かって音もなく浮遊していく。
「じゃあ、メリー、さよならです。きっとこれは私にとって、泡沫の夢のようなモノでしょうが。私、貴女に会えてとってもうれしかったですよ」
「待って――」
伸ばした私の手が、虚空を掴んだ。
結界を構築しようとした指先が、みっともなく震えて、力なく落ちていく。
――いざという時は、私が夕雲を、この手で。
つい先程、胸に刻んだはずの覚悟。彼女がもし『唯一の黄泉神』へと完全に回帰してしまったのなら、その時は私が自らの手でカタを付けるのだと、あの時は確かにそう決意していたはずだった。
なのに、私の手は動かなかった。
結局のところ、私のあの覚悟は、覚悟などと呼べる代物ではなかった。
人間としての記憶をすべて失い、私のことも「メリー」としか呼ばなくなってしまった彼女を前にして、私にその引き金を引けるはずがない。夕雲が私の親友であるのならば、ヨモツは私の恩人なのだから。
夜闇を昇っていく黒い背中が、星空に滲んでいく。
私はただ、涙で視界が歪んでいくのを止めることもできず、零した星の灯りに目を細める事しかできなかった。
メリーのあの今にも泣き出しそうな顔。それを思い出すだけで、私の胸の奥はこれ以上ないほどに、きりきりと締め付けられます。
……おそらくは、メリーが私にとって何よりも大切な友人だから。あの寂しい黄泉の国で、共に無聊を慰め合ってくれた唯一の存在が、あんなにも苦しげに顔を歪めていたのです。苦しみを取り除いてあげたいと思うのは当たり前でしょう。メリーが悲しいとこちらまで悲しくなっちゃいますから。
私は夜風を切り裂きながら、ふと、黒い着物の胸元へそっと手のひらを当てました。
先ほど彼女を抱きしめたときに残ったかすかな温もりが未だ残っているような気がします。その温もりに触れるように指先をきゅっと強く握り締め、鼓動の刻むリズムに意識を向けた、その時――。
ずくり、と。
泥臭く、もっと生々しい、焼け付くような痛みが胸の底から這い上がってきます。
…本当に、私のこの胸の痛みは、それ「だけ」の理由なのでしょうか?
現世にいつの間にか降り立ってから、何かが抜け落ちてしまったような致命的な喪失感があります。
メリーの瞳に映っていた、言葉にならないほどの深い絶望。私は何か、自分の命よりも大切なものを忘れてしまっているような――そんな名状しがたい違和感が胸の底で燻り続けている気がしてなりません。
ですが、今は思考を割いている場合ではありませんね。まずは目の前のやるべき事をやらねば。
「さてと、まさかこんなところに隠れるとは…」
鼻孔をくすぐる、悍ましくも懐かしい反逆の気配。それを辿って、この場所に訪れました。
現世の理がひっくり返り、天地が逆転しかけているこの歪みの中心点――そこは、鬱蒼と生い茂る竹林。不気味なほどに月光を拒む『迷いの竹林』の奥深く、その竹の葉を赤黒い魔力で侵食しながら息を潜めている存在を、私の目がはっきりと捉えます。
「はぁ、はぁ……っ! クソ、あの化け物め、手こずらせやがって……! だけど、打ち出の小槌は砕けても、この陰陽玉さえあれば私は何度でも……!」
満身創痍の身体を横たえ、それでもギラギラとした執念の瞳を燃やす少女。
彼女が血の滲む手で後生大事に抱えているのは、赤黒く暴走を続ける『血に飢えた陰陽玉』。
そして、その力の根源は―――
「……黄泉津大神?」
私が竹林の梢を踏みしめ、音もなくその眼前に降り立つと、転生体は弾かれたように跳び退きました。
「なっ、誰だてめぇ……!? 羅万館の……店主……!? いや、違う、その格好は――」
転生体の瞳に、明らかな困惑と本能的な恐怖が走るのを見逃しません。もしかしたら、案外早く事が進むかもしれません。
「初めまして、と言った方が良いでしょうか。天逆毎の転生体」
私は黒い着物の裾を優雅に調え、いつも通り、丁寧な口調で彼女に見据えました。
「高天原の神代より続くその反逆の御霊、黄泉の神たちの魂を転生させた私としては非常に興味深いものですが……。ですが、この国の理をひっくり返し迷惑をかけるのは、少々おいたが過ぎます」
「へっ、説教だと……!? 舐めるなよ、私はすべてをひっくり返す天邪鬼だ! 誰が相手だろうが、この陰陽玉の力でひっくり返してやるよぉぉぉッ!!」
「力に溺れるなんて…天逆毎とは真逆ですね」
天邪鬼の咆哮と共に、彼女の手の中にある『血に飢えた陰陽玉』が、まるで悲鳴を上げるように脈動しました。
転生体の背後から噴き出した赤黒い魔力は、この竹林の空間そのものを内側から食い破るような暴威となって私へと殺到します。
ですが――。
「勉強が足りませんよ」
私は一歩も動かず、ただ静かに右手を差し伸べました。
「そもそも、ナミに黄泉神としての名前と座を譲ったのは私です。そんな私に黄泉の魔力が効くはずもないでしょうに」
そもそも私は黄泉の国が滅んだあとの、正真正銘の唯一の黄泉神。
黄泉の国の復興のために、愛すべきモノたちの神格を、魄を喰らい、魂を模造した存在である私には、変質しているとはいえ黄泉の力は無意味です。
「な、に……!? なんで能力が、不発、に……っ!?」
「さあ、その玩具を回収させてもらいましょう」
私がすっと右手をさらに前に突き出すと、私の周囲を満たす濃密な黄泉の神威――生者の「生気」も「魔力」も等しく枯渇させ、ただの物言わぬ骸へと引きずり下ろす絶対的な死の領域が、瞬く間に天邪鬼を包み込み、彼女の全身の自由を完全に奪い、空中へと縫い付けます。
「が、あぁっ……! 体が、動け、ねぇ……! 離せ、離しやがれ!!」
どんなに暴れようとも、絡みついた神力はピクリとも緩みません。
私は静かに歩みを進め、宙に固定された転生体の目の前へと肉薄しました。そして、あの子が死に物狂いで抱え込んでいる『血に飢えた陰陽玉』へと、迷いなく手を伸ばします。
「やはり、黄泉大津神の力が…」
二つの別れた魂、その片割れ。ずっと待っていた愛しき妹の…
「やぁやぁ、ヨモツさま。師匠のお願いで迎えに来たよ」
静まり返った竹林の闇を裂いて、ひどく軽妙な、それでいてどこか聞き覚えのある声が響きました。見やれば、月明かりを浴びて竹の頂からするりと飛び降りてきたのは、長い兎の耳を揺らす一匹の妖獣。
因幡の素兎――因幡てゐです。
「……おや、貴女ですか。随分と久しぶりですね、てゐ」
私は伸ばしかけた右手をそっと止め、その小さな姿を見下ろしました。
千年、あるいは数千年ぶりでしょうか。大国主の元にいた頃から、この兎は何も変わっていませんね。私を前にしても、その瞳の奥には相変わらず人を食ったような抜け目のなさと、肝の据わった不敵さが透けて見えています。
「そうそう、久しぶり久しぶり。相変わらずお硬いねぇ、ヨモツさま。そんな風に眉間にシワ寄せてると、せっかくの綺麗な顔が台無しになっちゃうよ?」
てゐはちろりと舌を出し、ひょいひょいと軽い足取りで歩み寄ってきました。
普通の人妖であれば、近づくだけで魂が凍りつくような黄泉の気配。それを肌で感じながらも、この兎はまるで春の野原でも散歩するかのように、けろりとした顔をしています。やはり、ただの妖獣ではありません。
「それで? その師匠とやらが私に用ですか?」
私は空中へ縫い付けた天逆毎の転生体――未だに「が、あ……」と呻きながらもがいている天邪鬼から視線を外し、てゐを静かに見据えました。
「そうそう、私の師匠である八意永琳がヨモツ様を呼んでいるってわけ。そんなわけで、そんな天邪鬼なんて放って、私に着いてきてくれない?」
てゐは頭の後ろで両手を組み、わざとらしく肩をすくめて見せました。
永琳。かつて高天原で八意思兼神と呼ばれていた、途方もない智慧を持つ天才。
地上の、それも黄泉の理に関わるこの陰陽玉の暴走と、私の動きを瞬時に察知するあたり、その洞察力は相変わらず恐ろしいものがあります。
「なるほど、永琳らしい。私も永琳の気配を感じてから、会いに行こうと思ってたんですよ」
「でしょ? じゃあ話は早い。着いてきてよ」
てゐが親指で竹林のさらに奥を指し示します。
「ふふ、分かりました。では、案内をお願いしますね、てゐ」
私がそう応じた瞬間、てゐは「おっ、さすがヨモツさま。話が分かるねぇ!」と嬉しそうに耳を揺らしました。
同時に、私はゆっくりと右手の指先を戻し、空間を縛り付けていた神威の檻を、跡形もなく霧散させます。
「が、はっ……! げほっ、げほっ……!」
地面に叩きつけられ、激しく咳き込む天逆毎の転生体。彼女は自由になった瞬間、恐怖に引きつった目で私を一瞥し、這いつくばるようにして一目散に竹林の闇の彼方へと逃げ去っていきました。
あの子が持つ陰陽玉を今すぐこの手で回収しなかったことは、間違いだったかもしれませんね。とは言え、黄泉津大神が確かに転生していることを知れたのは大きいです。
「ささ、あいつが気が変わって戻ってこないうちに、さっさと行こう。師匠、待たされるのはあんま好きじゃないみたいだしさ」
「あら、永琳は案外辛抱が足りませんね、私なんて万単位で待ち続けてるというのに」
「はは、ヨモツ様。普通に笑えないよ」
私は黒い着物の裾を静かに揺らしながら、その小さな背中の後を追います。
一歩、また一歩と竹林の奥へ足を踏み入れるたびに、周囲の空間がまるで月の魔力によって清められていくかのような、奇妙な静謐さに満たされていくのを感じていました。
ちなみに第91話で触れましたが、夕雲が一番恐れていたことは「自分が忘れたことに気づかない事」でした。恐れたこと…起きちゃったね。
いろいろ頭の中で考えてた設定やほんのり張っていた伏線を補強出来て満足。ヨモツがなぜ眠るのか?とかにも通じていきます。
多分、次にBADEND√の話を投稿して、次に進みます。
安心してください。もう書き終わっているので、ちょい推敲を重ね次第、投稿します。もしかしたら今日中かも。
それにしても、