今回、結構難産でした。
幻想郷のどこにでも繋がることができ、同時にどこでもない空間、後戸の国。
現世の喧騒から完全に隔絶されたその空間に、幻想郷の維持と管理を担う「
今回の議題は、鬼人正邪による前代未聞の逃亡劇――幻想郷をひっくり返し、強者と弱者の関係を覆そうとした、あの一連の天邪鬼による事件について。
「というわけで、これが天邪鬼、鬼人正邪の逃亡十日間のあらまし、……一通り頭に入ったかしら?」
並べられた報告の書面に視線を落とし、紙の端を指先で微かに震わせながら、私は扇でトントンと一定の、酷く無機質なリズムで机を叩く。内心の焦りを他人に悟らせまいとする私の、精一杯の防壁だった。
「あぁ、問題ないよ、紫。…今回の事件では、一応の主目的は達成したという解釈でいいのかな」
空間に浮かぶ椅子の背もたれに深く寄りかかり、隠岐奈が目を細めた。その視線は、私の張り詰めた声音の裏にある違和感を鋭く値踏みしている。まるで私の全身を浸している無気力感を見透かそうとするかのように。
「ええ、おそらくはその認識で間違いないでしょう。全ては紫の企み通り――いえ、私たちの計画通りに進んだ。反逆者である鬼人正邪を『幻想郷の全住民で追う』という大義名分を作ったことにより、バラバラだった住民たちの足並みを綺麗に揃えることが出来ましたから」
腕を組んだ華扇が、厳しいながらもどこか安堵したように頷き、言葉を重ねた。
「先の輝針城での『逆様異変』の折、鬼の魔力に触発されて暴れていた力の弱い妖怪たちも、今回の事件を経て周囲と『同じ一人の追跡者』として大手を振って動くことができました。正邪という明確な『共通の敵』に全員の意識を向けさせたことで、弱者たちの不満や孤立を解消し、彼らが幻想郷の中でこれ以上肩身の狭い思いをしないよう、綺麗にガス抜きをさせたというわけです。実に見事な手際ですね、紫」
「あぁ、華扇の言う通りだ。我々の目的は十分に達せられたと言えるだろう…無論、一つの例外を除いてだが」
隠岐奈が椅子の背もたれから上体を起こし、鋭い視線を私へと向ける。
華扇の言う通り、幻想郷のパワーバランスを維持するための計画は完璧に終わった。ただ、私たちは大きな代償を支払う事は予見していなかった。……いいえ、予見できなかったのは私。未知の事柄に恐怖を持つべきだった。そうであったのならば、夕雲が居なくなることは無かったのかもしれない。
「……ええ。めでたいお話はここまでよ、二人とも」
私の声音が一段と低くなったのを察したのだろう。後戸の国の空気が、ぴりりと張り詰めた。
「話の発端は、正邪が持ち出した『血に飢えた陰陽玉』。おそらくは夕雲のいない隙に羅万館に忍び込み盗んだのでしょうね。あれは元々、妖怪は触れる事が出来ない。だから、夕雲も甘く見ていたらしいわ」
華扇は一度、神社の方で保管されている霊夢が持っている陰陽玉に触れ、義手を吹き飛ばされた事がある。もしかすると、陰陽玉の力を使って、失った腕を探そうとでもしたのだろうか。
「…やけに詳しく知っているじゃないか。まるで本人に聞いてみたかのように話す」
「…その点については後で紹介するわ。きっと私たちの力になるはずよ。…話を戻すわね」
私は小さく息を吐き、華扇の鋭い視線を受け流すように扇を翻した。ここで弱音を吐くわけにはいかない。私は、
「鬼人正邪が持ち出した『血に飢えた陰陽玉』は夕雲が霊暮の死後に使っていた道具。だから、陰陽玉には夕雲の『回す程度の能力』――その深奥の『
私がその名を口にした瞬間、後戸の国を充たしていた空気が、目に見えて凍りついた。
「――なるほどな、そういう事か」
それまで椅子の背もたれに傲然と寄りかかっていた隠岐奈が、全てを深く理解したようにゆっくりと、しかし確かな重みをもって瞑目した。先ほどまで彼女の背後でガタガタと不気味に鳴動していた後戸の扉が、その思考の深まりに呼応するかのように、ピタリと音を立てて静まり返る。
「鬼人正邪は神託を解釈する巫女の神格である『天探女』と同族ともいえる存在であり、ヨモツ曰く『天逆毎』の転生体とのこと。要は『巫女』と『黄泉神』の二つのファクターを宿している存在って事になる。そうであれば…陰陽玉を使えてもおかしくない。そう、考えてるわ」
私がその仮説を告げると、華扇は組んでいた腕をきつく締め直し、悲痛に満ちた表情で視線を落とした。
「リザレクションは夕雲自身の記憶…いや、変化を代償にするモノですよね。となれば、夕雲があんな状態になったのも頷けます」
「皮肉な話だ。私たちは博麗霊夢が巫女になると同時に、幻想郷から夕雲の記憶を消し去った。上代沢慧音に歴史を食べさせ、紫の力で……それなのに、まさか幻想郷を守るための欺瞞の裏で、本人の記憶まで綺麗さっぱり消えて神へと戻ってしまうとはね。はは、賢者を気取った私たちが揃いも揃ってこのザマだ、滑稽極まるじゃないか」
後戸の国の空気が精神的に、まるで水銀かのように重くなる。
隠岐奈の嘲笑の残響が虚空に溶けて消えた後、そこには言葉にできないほどの濃密な沈黙だけが取り残されていた。賢者を気取り、幻想郷の理を完璧に御していると自負していた私たちに突きつけられた、あまりにも重い失敗の味。
だが、ここで立ち止まっている暇など、私たちには一秒たりとも残されていない。
「……嘆くのも、自嘲するのもそこまでになさい、隠岐奈」
私は、震えそうになる指先を白扇の骨へと強く押し付け、自らの声をあえて酷く冷徹に響かせた。
「夕雲が消え、ヨモツへと回帰してしまった。それは変えられない事実よ。……そして、最大の問題は、彼女の目的である『黄泉の国の復興』について」
私の言葉に、腕を組んだまま俯いていた華扇が、弾かれたように顔を上げた。その双眸には、一介の妖怪としての恐怖ではなく、世界の均衡を憂う賢者としての鋭い光が宿っている。
「復興で必要なのは大量の伊弉諾物質と滅んだ黄泉の神の魂魄よ。そして、ヨモツが残るのは『黄泉津大神』と『伊弉冉』の二つの神格ね」
「霊夢と霊暮という事ですか」
「ええ、ヨモツの性格からして無理矢理奪う事はしないでしょう。だけど、もし霊夢が死ぬような事があれば、私たちが手を出すよりも早く、その魂を自分の下へ迎えるでしょうね」
私の言葉に、華扇が「っ……!」と短く息を呑み、隠岐奈の瞳が冷酷なまでの鋭さで細められた。後戸の国を充たす水銀のような重圧が、さらに一段と密度を増していく。
「だが、ヨモツは黄泉津大神と伊弉冉が転生している事は知らないのであろう……いや、そうか…陰陽玉か。陰陽玉には霊暮の力が込められている。少なくとも黄泉津大神の転生体が存在しているのはバレるか。そこから、連続して伊弉冉の転生体の存在を感じ取ってもおかしくない」
隠岐奈は顎に手を当て、ぶつぶつと独りごちるように思考を巡らせていた。その鋭い双眸が、現世の綻びを一つひとつ縫い合わせるかのように激しく明滅する。
「加えて、夕雲自身が巫女がいなくなった後の予後策そのものであった。だから、霊暮が転生せずに是非曲直庁で働くのも問題なかったのだが…」
隠岐奈の紡ぐ言葉は、どこか遠い過去の設計図をなぞるように淡々としていた。しかし、その声の底には、自分たちが築き上げてきたシステムが、足元から音を立てて崩壊していくことへの隠しきれない焦燥が混じっている。
「とすれば、霊夢がもしも異変解決の際、命を落とすようなことがあれば――幻想郷の崩壊を意味します」
華扇が悲痛な面持ちで拳を固く握り締め、私と隠岐奈を交互に見据えながら、絞り出すように言葉を繋いだ。その表情は、博麗の巫女というあまりにも細く脆い一本の糸に、幻想郷のすべての生死が吊り下げられているというあまりに酷な現実に戦慄している。
「加えて、ヨモツの幻想郷での役割よ」
私は白扇をそっと胸元に引き寄せ、後戸の国の重苦しい虚空を見つめながら、さらに冷徹な事実を二人に突きつけた。
「彼女は博麗神社の祭神として、幻と実体の結界の核とも言える存在。彼女の存在が外の世界から死したモノ…忘れ去られ、否定されたモノをこの幻想郷に呼び込む。今はいいでしょうが…」
そこまで言って、私は言葉を濁した。どうせこの二人もそれぐらいわかってる。わかっているからこそ、この重圧に胸が潰れそうになる。
結界の核たる祭神にして、幻想郷の賢者が一人欠けた今、幻想郷という器そのものが内側からパキパキとひび割れていくような、そんな恐怖が私の肌を刺していた。
「…夕雲は幻想郷に来る前のヨモツの状態に戻ったのだろう?では、もう一度、ヨモツを博麗神社に招到するのはどうだ?」
「…………不可能ではないでしょうね。ただ、そのためにはヨモツに黄泉の国の復興を諦めさせる必要があるわ」
私は自嘲の笑みを深く刻み、力なく視線を虚空へと彷徨わせた。胸の奥を突き上げるのは、取り返しのつかない喪失感。あの孤独な国からようやく連れ出せた親友を、私はまた、あの暗闇に眠らそうとしている。そんな自分への嫌悪を押し殺しながら、私は過去の「成功例」を脳裏から引きずり出した。
「前回は二人の巫女の説得に応じて、ヨモツは招到を受けた。もしも前例にならうのならば、霊夢と霊暮の二人が動くことになるわ。ただ、前例が奇跡のような綱渡りでなんとかなったモノ。同じことが出来るとは思えない。可能性はとても低いでしょうね」
「ならば、それに賭けようじゃないか」
隠岐奈の言葉は、まるで冷水を浴びせられたかのように私の思考を現世へと引き戻した。彼女は椅子の肘掛けを力強く掴み、その双眸にいつもの不敵で、傲然たる賢者としての光をぎらつかせている。
「無論、最大限のリスクヘッジはする。博麗の巫女が死なないように密かに鍛え上げ、最後に私がテストをしよう。…それが出来れば、前回と同じ状況を作りあげ、霊夢と霊暮でヨモツを取り戻す。どうだ?」
隠岐奈の傲然たる提案は、淀みきっていた後戸の国の空気を一瞬で切り裂いた。彼女は、どれほど最悪な状況であっても現世の手綱を絶対に離さないという、神としての苛烈なまでの意志を漲らせている。
「……随分と大きい博打を打つものね、隠岐奈」
私は白扇の骨を指先が白くなるほどの力で握り締め、胸の奥で渦巻く感情を必死に抑え込みながら、冷徹な仮面を貼り付け直した。
「けど、貴女が直々に課すその『テスト』の最中に、万が一にも霊夢が壊れたらどうするつもり?その瞬間にヨモツが『伊奘冉』の神格を捉えて、幻想郷は一巻の終わりよ」
「フン、だからこそ最大限のリスクヘッジ、と言ったろう? 案ずるな、あの子の限界は私が見極めるさ。それに……」
隠岐奈は椅子の背もたれに深く身を沈め、その細い目をさらに鋭く細めた。
「腹は立たないのか?アイツにも私にも。少なくともこの苛立ちを治めるためにはアイツに一発、拳を入れてやりたいし、一発殴られたい。それにこのままでは幻想郷はいづれ滅びる。となれば、早めに策を講じた方がいい気がするがね。」
隠岐奈の剥き出しの感情が乗った言葉に、後戸の国の虚空がびりびりと震えた。
すべてを忘れてしまった夕雲への怒り。そして、賢者を気取りながらその変貌を未然に防げなかった、自分自身への激しい嫌悪と苛立ち。そんな彼女の横顔には、凄絶なまでの執念が刻まれていた。
「……珍しく熱くなっているじゃないですか、隠岐奈」
「当然だろう、華扇。少なくとも、私はアイツの事を友人だと思ってる。そうだな…きっと、私は友人に忘れられて腹が立っているのさ。そういうお前はどうなんだ。お前も夕雲とは親しかっただろう?」
隠岐奈から投げかけられた鋭い問いに、華扇は一瞬、言葉を詰まらせた。
きつく組まれたままの腕が微かに震える。
夕雲という存在は、彼女にとっても小さく無い存在だ。共に幻想郷の行く末を案じ、時にはその親バカぶりに呆れ、それでも確かに同じ現世の時間を共有してきた存在――。
「……腹が立たないわけ、ないでしょう」
華扇は顔を上げ、絞り出すような、けれど地鳴りのように低い声音で応じた。その双眸には、いつもの仙人としての冷静さはなく、そして「友人」としての激情が炎のように揺らめいている。
「夕雲に忘れられたこと以上に、自分の無能さと、何も知らずにあの十日間を過ごしていた自分自身に、反吐が出る。私は…どうすればよかったのよ」
華扇の、絞り出すような絶望の吐露に呼応するように、後戸の国の重苦しい水銀の空気がどんよりと低く、深く波打つ。
二人の賢者が剥き出しにしたのは、世界を守れなかった焦燥だけではなく、ただ一人の友人を孤独な闇へ突き落としてしまったという、痛烈なまでの悔恨と無力感。
私はその二人の姿を、ただ静かに見つめていた。白扇の影に隠した私の唇は、これ以上ないほどに固く結ばれている。
怒り、苛立ち、そして悲しみ。そんな人間らしい「穢れ」をすべて削ぎ落とされ、ただ滅びた国の復興だけを望む舞台装置になってしまった夕雲。その現実が、今この場にいる誰よりも、私の胸を容赦なく抉り続けている。
「……いいえ、二人とも。一番の『大馬鹿者』は、この私よ」
私は、自嘲の笑みすら作れなくなった冷徹な仮面の裏から、掠れた声を響かせた。
「ヨモツを連れ出し、黄泉神の神格を月の髪飾りに封印して、『夕雲』としての生を与えたのは私。霊夢が巫女になるのと同時に、慧音に歴史を食べさせ、私の境界で認識を阻害してあの子の記憶を幻想郷から消し去ったのも私……」
もしも、あのまま羅万館の店主として、誰もがあの子を覚えていたら。
あの子がもっと多くの現世の「穢れ」と「思い出」で満たされていたならば…
夕雲がヨモツに戻ることなんてなかったかもしれない。
私たちが良かれと思って施した欺瞞こそが、人間を神へと還してしまった。
「私が必死に守ろうとした均衡の裏で、あの子は一人で削られていった」
私はゆっくりと扇を開き、その妖しい文様で自身の視線を覆い隠した。
「だからこそ、私たちでもう一度すべてをひっくり返す。
何が何でも博麗神社に引きずり戻し、私たちの敷いた舞台で、今度は『新しい思い出』という名の未練にまみれてもらうわ」
自分の癖みたいなモノなんですけど、相反するモノが好きなんですよね。
忘れられたモノが集まる幻想郷で忘れられる存在。
大切な愛し娘を守るために愛し娘の大切な記憶を消す。
周りから自身の記憶を消し、しまいには自分の記憶が消えてしまった。
夕雲にはそんな自分の癖を十分に詰めています。
一度書いた時は微妙に納得がいかなかったので、少しでもエミュを深めるためにThe Grimoire of Usamiを買いました。けど、同僚が事実上の死というシチュが余りにも特殊すぎて、使いこなせなかったのが俺なんだよね。
二人の巫女云々については設定はあるので、いつか書くかも?名前を付けるならば、「夢を見る程度の能力」と「死者を蘇らす程度の能力」を持つ巫女の話。前者に比べて、後者が強すぎるだろ。