それと、前話のエピローグを書くのを忘れていたので急遽追加しました。
黄泉の国の生活は、思いのほか穏やかなものだった。
暮らしの基盤として案内されたのは、街の中心にある広い邸宅――ヨモツ様と伊奘冉様が暮らす屋敷だ。宇気比で自身の潔白を証明した私を無下に出来ないのだろう。半ば監視名目で同居する形となったのだが、存外に居心地は悪くない。
……いや、正直なところ、悪くないどころがとても良いモノだった。布団は柔らかく、着ている衣服は黄泉醜女が綺麗に洗濯してくれる。食事は理由があって摂れないのだが、それでも衣食住の二つが高い水準で保障されているのだから、文句の付けようもない。
このような素晴らしい環境を与えられた私は、勿論、研究に没頭した。
これは仕方のない事。
天津神たちが恐れ、遠ざけ、穢れの温床として忌み嫌うこの地には未知に満ちている。例えば――穢れの収束と浄化の原理。死した魂はどこから来てどこに消えるのか、そして万物を生み出す伊弉諾物質について…手をつけるべき研究対象は山積みであり、考察すべき事象は無限に広がっている。
未知に触れるたび、私の知識欲は強く刺激され、頭は歓喜に震えて、視界のすべてが眩しく輝く。天才たる私が積み上げてきた知識が次々と過去のものへ塗り替えられていく――この感覚は、何物にも代えがたい至福だった。
そう、端的に言えば、研究が楽しくて楽しくて堪らないのである。
「……よし、これで生活に必要な時間はかなり省けるわね」
文机の上に並べた試薬瓶を眺め、私はひとりごちる。
目の前にあるのは栄養剤。それもただの栄養剤じゃない。睡眠も食事も必要ではなくなる弩級の完全栄養剤だ。使ったのはこの国に流れる変若水と呼ばれる水と自生していた桃の実。両方とも黄泉の国のモノであるため『黄泉竈食』になるのではないか?と考えた。だが、
今までは地上から持ち込んだ携帯食料しか食べることができず、いつかは底が尽きるため難儀していたのだが、ようやく解決した。
(……うんうん、これは仕方のないこと。そう、仕方なし仕方なし)
黄泉竈食とは、黄泉の国の食事をしたモノは二度と生者の世界へ戻れなくなるという古い伝承だ。この栄養剤はその法則に縛られないために生み出した、必要なモノなのだ。決して
心の中で己に向けて言い訳を補強し、私はひとり頷く。そして、苦みのある液体を喉へ流し込み、再び分析へと没頭する。
黄泉竈食のどういう力が作用して、死者を黄泉に留まらせるのか?
共食という習俗が何かしらの魔術的な儀式となり、黄泉から逃れることが出来なくなるのか?
そもそも、黄泉竈食を作るための食材はどこから来ているのか?
これらの問題を解決するための一つずつ材料を増やしていく。自生している植物と地上の植物の差異。変若水の成分調査。フィールドワークで集めた黄泉の土壌サンプルや湧き水の比較分析。
手を動かせば動かすほど、新たなデータが手に入り、仮説が立証され、次の疑問が湧き上がってくる。知の連鎖は留まることを知らず、文机の上は資料と研究成果で埋め尽くされていった。
(本当にこの国は研究すべきことが多い。知るべき事、考えるべき事、明かされる事…この国を究明するには何年かかるのかしら?)
バチリ
そうして研究が一段落し、ふと達成感に似た吐息を漏らしたその瞬間、脳裏に衝撃が走る。次の瞬間には視界の軸がぐにゃりと激しく歪み、世界全体が不自然な角度へ傾き始めていた。
(……ん? 一体なにかしら?)
明らかな異常事態。これもこの世界固有の法則によるものなのだろうか――などと一瞬本気で思索に耽りかけたが、冷静に視界を分析してみれば、世界が傾いたのではなく己の体が床へ倒れ、倒伏しただけに過ぎないと察した。
そして、視界が点滅するかのように明暗を繰り返し、急激に意識の輪郭が掠れていく。
倒れ伏した体勢のまま、急速に失われていく感覚を観察し、必死に原因を突き止めようと試みる。肉体的な栄養も活力も、変若水と橘から精製した栄養剤によって補充されているはずだ。代謝異常もなければ、組織の損傷もない。では一体なにが――
(あ~なるほど、精神がもたなかったのね)
自身の犯した欠陥に深く納得した瞬間、完全に視界は暗転し、私は深い闇の底へと落ちていった。
「おー××、気絶してしまうとは情けない」
揺り動かされる肩の感触と、呆れつつもどこかわたしを気遣うような、優しく落ち着いた声。意識が急速に浮上し、重い瞼を開けると、視界に飛び込んできたのは見慣れた天井……そして、上からわたしを覗き込むヨモツ様の顔。
「……ヨモツ、様……? わたし、は……」
「倒れてしまったんですよ、本当にもう、、、研究に没頭されるのも結構ですが、限度というものをですね…」
深く溜息を吐きながら、ヨモツ様はわたしの体を優しく起こしてくれた。頭がまだ少し揺れるように重く感じられる。この世界に来て、二度目の気絶か。この世界に来てからと言うもの、気絶することが増えている気がする。そして、これからも増えそうな予感がする。
「すいません。少し無理をしすぎてしましました」
「
「うぐ…それは…言い訳のしようもありませんね……」
私は素直に首をすくめるしかなかった。相手は屋敷の主であり、宇気比の件も含めて客人として保護してくれているヨモツ様だ。自身のプライドはあれど、居候の身で不養生を叩き込まれて倒れ、介抱されたとなれば立つ瀬がない。
「ほんとにもう…頭は良いのに、天才となんとかは紙一重ってやつですかね。それと、ナミも心配してましたよ」
「伊奘冉様まで……申し訳ありません」
「謝罪なら結構です。誠意は言葉ではなく行動で示していただきます。ほら、お入りなさい」
ヨモツ様が廊下に向かって声を掛けると、待機していたのか襖が勢いよく開いた。
雪崩れ込んできたのは黄泉醜女たち。その手には盆に載せられた湯気の立つお粥や、温かい薬湯、果物などが山のように抱えられている。
「はい!××様、お粥だよー!」
「ヨモツ様のご指示だからね! 綺麗に全部食べないと、今日は研究禁止なんだから!」
「……ヨモツ様、これは一体?」
「見ての通りです。あなたの研究を全面的に禁止するつもりはありません。ですが、健康管理すら出来ないというのであれば話は別です。今日から彼女たちを正式な『監視役』としてつけさせていただきます」
ヨモツ様はフッと呆れたような、けれどどこか楽しげな笑みを浮かべた。
「衣服の洗濯だけでなく、食事の介助、睡眠時間の管理まで……しっかり彼女たちに頼ってくださいね」
「え、いえ、いくらなんでもそれは過保護というものでは――」
「拒否権はありませんよ。さあ、まずはそのお粥を召し上がれ」
私が反論する間もなく、シコメたちに寄ってたかって布団の上で囲まれ、強引にお粥を口元へ運ばれる。
「いやちょっと待ってくださいよ。これって黄泉竈食じゃないですか!」
「はい?いや、確かにそうかもしれませんが…絶品ですよ?」
「絶品かどうかを問題にしている訳ではありません! 黄泉竈食を口にすれば、その者は黄泉の国の住人となり、二度と地上に戻れなくなるというルールがあるでしょう。私は天津神として、まだ成すべき仕事があるのですから!」
私が抗弁すると、ヨモツ様はぽかんとした顔をした後、腹を押さえて「くくっ」と喉を鳴らし、とうとう堪えきれずに破顔した。
「ふふ、あははは!そのような俗説を真に受けておられたとは!」
「……な、なにが可笑しいのですか」
「失礼いたしました。ですが××、冷静に考えてみてください。死者を逃さないために食事という不確実な策は採りませんよ」
「それには何か原因が…」
ヨモツ様はクスクスと笑いを収めながら、優しく、けれどあっけらかんと真実を語り始めた。
「黄泉の国への立ち入りや帰還を統べるのは、すべてナミの意思――ただそれだけです。死者がここへ留まるのも、生者が戻れなくなるのも、ナミがその出入りを管理しておられるからに過ぎません。時折、特別な事情で地上へ返される者もおりますがね」
「……では、あの伝承は……?」
「まあ、まったくの出鱈目という訳でもありませんよ」
ヨモツ様は目を細め、シコメが持つお粥の器をちらりと見た。
「最初は本当に些細な事でした。ナミが神避りしこの国に
どこか遠くを懐かしむような眼差しで、ヨモツ様は言葉を紡いでいく。
「そもそもこの国は忘れられたモノ、役目を果たしたモノ、壊れてしまったモノが集まる国。この国に降りてきたナミはどうであろうと既に終わった存在でした。命の熱を失い、深い悲しみと喪失感に苛まれていた彼女を少しでも慰めたくてね。私は心を込めて料理を振る舞ったのです」
「しばらくすると、ナギがこの国に自ら降りてきてナミを地上に連れ出そうとしました。ですが、死者が何の理由もなしに地上に戻るのは認められない。一度例外を認めれば、世界の均衡が崩れてしまいますからね。それでもナミは……心のどこかで期待していたのでしょう。たとえ地上に戻れなくとも、あのナギならば自分を愛し、この黄泉の国で共に生きてくれるのではないかと」
ヨモツ様の瞳に、静かな哀愁が差す。
「けれど、結果はご存じの通り。待ちきれずに部屋を覗き込んだナギは、腐敗し醜く変貌したナミの姿を見るなり、激しく恐れ慄き、逃げ出しました。愛した夫に拒絶され、惨めに逃げ去られる背中を見送った彼女の絶望と怒りが、どれほど深いものであったか……」
呆れを含んだその言葉は諦めにも似ていた。
「そして、恐らくは逃げ帰ったナギが『妻は黄泉の食物を食べたから、地上に戻らなかった』とでも言ったのでしょう。それが黄泉竈食の伝承の始まりです。そうやって、黄泉竈食などという欺瞞は今日に至るまでルールとして定着してしまったという訳ですよ」
「なるほど…それが黄泉竈食の始まりだと。確かにそんなの公表できませんね」
となれば、私が知る太古の伝承や昔話にも、多分に脚色が加えられている可能性があるわね。
長く生きる者たちにとって、歴史とはほぼ己の「体験談」や「主観」に過ぎない。今なお生き存える彼らが綴り、語り継ぐ歴史が、客観的な事実から乖離していくのは当然の話だ。
(一度、それらの話を洗ってみるのもいいかもしれないわね。ちょうど、詳しそうなヨモツ様もいる事だし)
歴史の信憑性に思いを馳せ、納得と興味の混じった視線を向けると、ヨモツ様はわたしのそんな思考の深まりを察したのか、どこか悪戯っぽく口元を緩めた。こちらの知的好奇心を見透かすようなその笑みは、先ほどまでの重苦しい神話の裏側から、一転して軽妙な雰囲気へと場を塗り替えていく。
「それはそれとして、実際に『黄泉の国の料理を口にして、戻らなくなった者たち』自体は存在します」
「それは……一体どういうことです!?」
先程の話は何だったのか?と思わず問い返すと、ヨモツ様はシコメが持つお粥の器をちらりと見やり、やはりどこか可笑しそうに付け加えた。
「保食神の作るお食事があまりにも美味しすぎるためにね。『こんな美味しいものが毎日食べられるなら、生者の世界になど未練はない。ずっとここに居たい』と、自らの意思で戻るのを辞めてしまうモノたちも後を絶たないのですよ。それと先ほどのナギの話が併せった結果でしょうねぇ」
「食の誘惑に負けて留まっているだけ……」
私の積み上げてきた仮説のすべてが音を立てて瓦解していくのを感じる。あまりにも意外な結末だ。自分の考えたこともない観点で目から鱗であり、有り体に言えば、猛烈に楽しくて仕方がなかった。知識とは、探求とは、これだからやめられない。
「さあ、種明かしも済んだことですし、冷めないうちにどうぞ。あ、ちなみに拒否権はありませんからね?」
「ちょっと、待ってくだ――むぐっ!?」
「ほら〷様ー! あーん!」
衝撃に固まっている私の口へ、シコメの手によって容赦なく木のスプーンが突っ込まれた。
口内に広がるのは、出汁の深い旨味と、米のやさしい甘み。喉を通った瞬間に体中の細胞が歓喜の声を上げるような、文句のつけようもない極上の味わい。
(……くっ……! 確かにこれは……帰りたくなくなる気持ちも、分からなくはない……!)
あまりの美味さになんとなく生まれた敗北感を抱きながら、私はされるがままにお粥を呑み込むのだった。
半分ぐらい自分の疑問を永琳に代弁させている。
東方世界の黄泉の国はどんなモノだったのか?日本神話との差異は?外の世界の人口増加につれ、死に行く人は増えていくことが予測されるが地獄はどう対応するつもりなのか?もし前回のように閻魔を増やすとしても、どこからスカウトするのか?ヘカーティアは地獄の女神らしいが、それは彼女だけなのか?などなど。
優先度はともかく、東方は知りたいことが沢山あって困っちゃいますよね。