「まだ十時まで四時間はあるわね……」
私、マエリベリー・ハーンは、興奮や心配で高鳴る胸を必死でなだめようと試みていた。親友の蓮子に頼りきりだった旅とは違う、初めて尽くしの単独行。その経験不足は、野宿にテントのような物が必要だという初歩的な事実さえ忘れてしまうという、致命的な装備不足となって表れた。
おかげで夜通し熟睡とはいかなかったが、元より昼夜逆転の生活に慣れた身には些事だったのは幸い。むしろ、静寂に包まれた常陸路の夜は、満天の星を独り占めするには望外の舞台だったとさえ思える。
勿論、体が鉛みたいに重いのを除けば、だけど。
今日、七月七日は七夕。私の調査によれば、この七夕坂と思しき場所は、単なる暦の上だけではない、特別な意味を持つ日のはず。
しかし、夜が明けても世界の気配は沈黙したままで、何の変哲もない朝が訪れただけ。期待が大きかった分、今は不安と諦観がない混ぜになった感情が、思考の全てを覆い尽くそうとしていた。午前十時までが、途方もない時間であるように思える。
「大丈夫、きっと大丈夫だわ」
自分の内心を落ち着かせるためにも、私はこの七夕坂に来る要因となった日記、東方備忘録を開き、続きを読む事にした。
◆
あれは、一人旅に出かける一月前のこと。
蓮子は、自説への確信を深めたらしく、近く開かれる学会での発表に向け、論文執筆に没頭している。その集中ぶりは、親友である私との面会すら断つほど。彼女から届いた素っ気ない茶封筒には、ずっしりとした重みの紙束だけが収められていた。
「ふーん、これが蓮子の論文最新版、ね」
蓮子から送られてきた茶封筒には分厚い紙だけが入っている。
今どきアナログの論文なんて時代錯誤にも程があるけど、これにも彼女流のこだわりらしい、何か仕掛けでも有るのだろうか。
「……確率論の崩壊と異界?コペンハーゲン解釈の復活と夢の世界?さすが古典量子論復古主義のあいつらしい論文ね」
論文を読了したものの、私の心には退屈が澱のように溜まっていた。秘封倶楽部の活動が途絶えて久しいせいだ。気晴らしに、もう一つの日課に取り掛かる。夢で出会った不思議な店主さんから譲り受けた、古びた日記の解読である。解読不能な箇所は多いが、私の内なる力が、閉ざされた文字の扉を少しずつこじ開けている実感があった。
(これも私の能力が強くなったかからかしら?)
まぁ、この日記が読めればそれで良い。そう考え、私は珈琲を飲みながら、続きを読もうとする。前回読めた箇所は、永遠に冬が終わらず、春が訪れない異変の話だった。さて、今日は何が読めるかしら?
「あら?」
日記を開くと、どこかのページから一枚の栞がはらりと舞い落ちた。一度、全てのページをめくったときにはなかったはずだけど…
「見落としたのかしら」
栞には見慣れぬ文字が綴られていたが、その意味は不思議と、脳に直接流れ込んでくるようだった。
「七月七日に、七夕坂ね」
カレンダーを見ると、今日は六月七日。一ヶ月もあれば、七夕坂の場所と行くための準備には十分な猶予。
蓮子は忙しいだろうし、たまには私一人で、秘封倶楽部の活動でもしてみましょうか。
その時、私は不思議と確信していた。
この時間、この場所に行けば、私が探し求めている「今の世界と別の世界を分ける境界」を、現実の向こうにある幻想を、異界の実在を証明できる事に。
それが過ちだという事は気づかずに。
◆
霧雨が降りてきた。
そう言えば、まだ梅雨は明けていなかったか、と他人事のように思う。用意していた傘を広げ、濡れた日記の頁をそっとめくる。腕時計の針が示すのは九時半。約束の時刻まで三十分。だというのに、世界はまだ沈黙を保ったままだ。
焦りを鎮めるように深く息を吸い、再び物語に没入する。今読んでいるのは、新たに現れたという神様たちの話。彼女たちは何者で、どこから来て、何をしにきたのか。私は日記を読み進める。
私が読めた部分に限るけど、日記は、「見たことのない服を着た女性」が唐突に現れた話や「宵闇の妖怪」と「夜雀」にご飯を作ったなどと言った日常の話が多い。日常の話はほとんどが読めるけど、吸血鬼の一団が侵略してきた話や神社を裏切った人間を封印した話などの非日常の殆どは読む事が出来ない。一部が文字化けしているかのように、読もうとすると頭にノイズが走る。
いつのまにか、山に移り住んだ神様たちの話を読み終えていた。日常の話を読み進め、私はある事に気づく。
(…この日記も、残り一頁なのね)
最後の一頁は、いつもの穏やかな日常だった。
朝起きて、ご飯を食べる。食べた後は、朝支度をして、羅万館の準備をし、カウンターでお客さんを待ちながら本を読む。夕方頃になると、店仕舞いをして、里に買い物に出かける。
そして…
『私は遂に、見たことのない…いや、見覚えのある服を着た女の子に再会しました』
『
日記は、その言葉と共に終わりを告げた。
「……この物語を、追体験できたらいいのに」
思わず、声が漏れた。このインクの染みに、紙の匂いに、魂ごと溶けてしまえたなら。隠された真実も、行間の沈黙も、全てを知ることができるのだろうか。
見覚えのある服の女の子。それは、物語の冒頭に現れた見たことのない服の女の子と対をなす存在なのだろう。
そこまで考え、ふと顔を上げた瞬間、世界が一変していることに気づいた。音を吸い込むような乳白色の霧。肌を刺す冷気。吐く息は白く凍り、季節が逆行したかのような錯覚に陥る。腕時計に目を落とせば、長針は間もなく天を指そうとしていた。九時五十九分。
(あと、一分……!)
日記を持ち、坂の上を見据える。霧は煙のように渦を巻き、世界の輪郭を曖昧に溶かしていく。私の腕時計が、カチリ、と厳かな音を立て、十時を告げた。
――見えた。
扉ではない。
霧の向こう、空間そのものが裂けて生まれたかのような、歪な円環がそこにあった。これで証明できる。異界は、あの歪んだ円環の先に、向こう側に実在するのだ、と!
その刹那――脳裏に、忘れていたはずの記憶が雷のように閃いた。
「そう言えば……店主さん。最後に何か、走り書きで……」
じゃあ、「見覚えのある服を着た女の子」って…
◆
「メリー!?どこかに隠れているんでしょ!」
主がいない部屋に、私ことの声が虚しく響く。
親友の消息が途絶えて、二週間。彼女の部屋は、私の持ち込んだ論文の山に埋もれ、静まり返っていた。電気も水道らの使った痕跡はなく、その散らかった惨状が、まるで自分の無関心さを突きつけられているようで、私は唇を噛んだ。
「論文にかまけて、ほったらかしにして悪かったわ。……謝るから、出てきてよ」
最後はもう殆ど懇願だった。だが、沈黙が返ってくるだけだとわかり、私は意を決して部屋の捜索を始めた。失踪という最悪の可能性が、私の頭に過ぎる。メリーの能力からして、異界にいる可能性もある。その場合、私以外に誰が助けれるというのか。それに、元々散らかっていたのだから、多少汚したところで問題はないでしょ。
そうして、私が見つけたのは、この部屋の主の趣味ではない、何冊かの古書。
「……これを、メリーが?」
違和感。
秘封倶楽部の活動で、境界のありかを探し、資料を渉猟するのは常に私の役目だった。メリーは、その座標を頼りに「現場」へ向かう観測者。ならば、自分の知らない秘密の資料がこの家にあること自体が、異変のようなもの。
違和感は、真実の鉱脈を掘り当てるための、科学者のツルハシ。物理学者が些細な観測の矛盾にこそ真理を見出すように、この不自然さこそが、メリー失踪の謎を解く鍵に違いない。
私は埃を払い、一番上に置かれている古本の題字を読み上げた。
「『常陸国風土記』……ね。まずはここから、あなたの秘密を暴かせてもらうわよ、メリー」
◆
苔が生えた石段、忘れられた道標。此処が、メリーが最後に訪れたであろう『七夕坂』。その名は古びた書物の片隅にのみ残り、今や土地の記憶からも消えかけている。
再考の念が脳を掠めるが、即座に振り払う。メリーを追うには、メリーの遺した不確かなコンパスを信じるしかない。たとえ、ここが七夕坂であろうと、無かろうと、メリーがここにいるのは違いない。
『七月七日の朝四つ前に通ってはいけない。通ると必ず不思議がある』
メリーの資料にあった一文。彼女が消息を絶った時期と符合していた。
(メリーはおそらく退屈してた。私が論文の執筆で秘封倶楽部がなかったのが原因ね。それで、自分で資料を探して、この『七夕坂』にやってきた。ただ、メリーに資料を探す力があるとは思えないんだけど…)
思考のノイズを振り払い、私は結論だけを心に刻む。親友はここで「神隠し」という名の、予測可能な事故に遭ったのだ、と。
道端に並ぶ地蔵の列が、まるで意志を持っているかのようにこちらを見据えている気がする。だけど、私は嘆きも、ためらいもしない。ただ、燃えるような怒りと祈りを込めて、天を仰いだ。
「マエリベリー・ハーン! いつまでも異界の発見を、あなただけの聖域だと思わないで!」
この感情を一言で表すのはとても難しい。恐らくは、親友への醜い嫉妬と、救いを求める祈りの歪な混合物。
私は、苔むした地蔵の肩に手をかけ、渾身の力でひっくり返す。文化遺産保護法で、この辺一帯の人工物を動かす事は、禁じられてるけど、そんな事を気にしてきゃ、メリーは救い出せない。それに…後で直しさえすれば誰も気づかないだろう。
喉が、カラカラに渇いていた。心臓が肋骨の内側で警鐘のように鳴り響いている。この禁忌を破っても、メリーが戻ってこなきゃ、意味がない。でも、私はこれしか心当たりがなく、もうこれに賭けるしかないのだ。
そんな絶望に近い祈りとは裏腹に、世界はあっさりと応えた。私がひっくり返した地蔵の背に、光が漏れる一筋の裂け目を見つけたのだ。それは神聖な光ではなく、物理法則を無視した、ただただ異質な光。成功を喜ぶ気持ちなど、一欠片も湧いてこない。
私は、まるで自分に言い聞かせるように叫んだ。
「確かに、メリーの能力は不思議だよ!だけど、それも物理的な現象で無ければならない。何故なら、人類には観察しか許されていないからだ!不思議さで言ったら、量子の世界の方が遥かに上ね!」
裂け目の向こうに広がる世界の法則を予測する材料はない。だが、私は躊躇なくその亀裂に腕を差し込んだ!
しかし、その手が親友の体温を捉えることはなく、メリーは帰ってこなかった。その冷たい事実だけが、今も私の掌に焼き付いている。
◆
…
……
………
「おや、こんなとこに人間とは…珍しいですね」
「えっと…ここは?」
「…ここは既に死した世界。何にも無い世界ですよ」
「確かに、周りはお墓と…橘の花かしら?、、、ってあれ!店主さん!?」
「店主さん?」
「えっと…その、、、取り敢えず、貴女の名前を教えてくれませんか?」
「……?私の名前は◼︎◼︎之◼︎◼︎◼︎。誰にも語られぬ別天神です」
橘の木の意味は『追憶』です。備忘録に相応しいでしょう?
はい、結構重要な伏線は回収できました。そして、ノルマのように達成されるいつもの。
解説しないとわからないのでは無いかという考えと、解説を書くのは無粋では無いかという考えがせめぎ合っています。どうしよ…そうだ、それっぽい単語だけ書いとこ。『境界を操る程度の能力』、『日記帳』、『絵の中、物語の中、夢の中でも及ぶ』、、、よし!
それで、いつものように伏線の回収説明などなど。
まず第一に、拙作では八雲紫=マエリベリー・ハーン説を採用しています。よくある説ですが、納得できるように伏線を張っていました。
例えばですが、第十三話の羅万感with神出鬼没の困ったちゃんで…
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彼女を眠らせてまでこの場に来た理由は、一つ確認したい事があったからだ。私と幻想郷の核とも言える書物が問題なく書かれているかどうか…
「うん、私の知っているように記述通りに書かれてる」
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この通り、この時点で紫は夕雲が書いている日記の完成品を読んでいることを示してます。
ちなみに、同話で紫が夕雲と一緒に見た作品は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』ですね。マーティと違い、メリーは帰れなかったみたいですが。七夕で雨が降っちゃったからね、夫婦が会えないのはしょうがないね。
作者はハピエン厨なので、秘封夫婦好きは安心してください。メリーなら、きっとひょっこりと帰ってきましたよ。