紅魔館と夕雲の関係は本当に作者の頭を悩ませる。
慧音に厄介な後始末を頼んでから、数日が過ぎました。
幻想郷を覆っていた厳しい冬の気配はいくらか和らぎ、春の訪れを予感させる微かな暖かさが混じり始めた頃です。慧音曰く、博麗の巫女の当日の記憶からは、私の名は綺麗に消え去ったとのこと。これで一安心といったところです。
さて、そうなると、一つの悩みが私の心に重くのしかかります。
そう、紅魔館。別に、次も来ると約束したわけではありませんが、機会があれば訪れると咲夜に言ってしまったのも事実。前回が最後の監査のつもりでしたが、何も言わずにいなくなるのも不道理です。今回を最後に、私と紅魔館との繋がりは断つ。……そう、頭では分かっているのですが…
そのはずなのに、重い腰であるのも事実。今日の相手は、気まぐれな吸血鬼のお嬢様。ある意味では、慧音との交渉よりも、骨が折れるかもしれませんね。私は、紅魔館に行くための準備を済ませ、覚悟を決めると、店の扉を開けました。
⋈◀「ただ単に縁を切りたくないという内心には目を背けて」▶⋈
霧の湖の畔は、雪解け水の湿り気を含んだ、生温い霧に包まれていました。その霧の向こうに、まるで巨大な赤黒い怪物が伏せているかのように、紅魔館のシルエットがぼんやりと浮かび上がっています。
館の正門に着くと、見慣れた門番が、うららかな日差しに誘われたのか、気持ちよさそうに舟を漕いでいました。彼女の穏やかな寝息を邪魔するのは、無粋というもの。私は音を立てぬよう、そっと門を抜け、玄関までこっそり歩く事にします。
完璧に手入れされた庭園を抜け、玄関の扉を開こうと、手を上げた、その時でした。
まるで、私の到着を待ち構えていたかのように、扉が、内側から音もなく、開かれたのです。そこに立っていたのは、紅魔館のメイド長の咲夜でした。
「お待ちしておりました、夕雲様」
彼女の声は、どこまでも丁寧で、そして、どこまでも温度がありません。昔はもう少し感情があり、天然でしたので、少しの揶揄い甲斐はあったのですが、今はもう全くです。少なくとも、私には感情を見せてくれません。
「…お嬢様が、夕雲様を首を長くしてお待ちです」
その言葉に含まれた、僅かな棘を感じながら、私は静かに微笑み返しました。感情を見せない…先ほどはそう言いましたが、レミリアやフランの事になると、私にも感情を見せてくれるんですよね。あとは前回みたいに、私が侵入者だとしたら嬉々として、ナイフを私に向けます。
「申し訳ありません。最近は、予定や用事が積み重なっていまして…案内をお願いできますか?」
私の言葉に、咲夜は無言で頷くと、くるりと背を向け、館の奥へと歩き始めました。私も、その後ろに続きます。
彼女に導かれて進むのは、どこまでも続く赤い廊下。窓はありますが、その数少ない窓も、主人のために厚いカーテンで閉ざされ、外の光は一切差し込みません。そのため、壁には等間隔に燭台が並び、炎がゆらゆらと煌めいています。その光が、私たちの影を長く引き伸ばし、不気味な雰囲気を醸し出してます。
会話がなく、歩き続けていると、ひときわ大きく、豪奢な装飾が施された両開きの扉の前で、咲夜は足を止めました。そして、私の方を振り返りもせず、扉を静かにノックします。
「お嬢様、夕雲様をお連れいたしました」
中から、子供のように、しかし、どこか威厳を帯びた声で、「入りなさい」と返事がありました。咲夜が、重厚な扉をゆっくりと開けていきます。気が重いのは変わっていませんが、私も腹を括りましょう。
咲夜が扉を開けると、そこは前回来た時と同じ、執務室のようです。壁一面を埋め尽くす書棚、去年はなかった大きな地球儀、そして、部屋の中央には、彼女の小さな体には不釣り合いなほど巨大な、豪奢な執務机。その椅子に、一人の少女が、ちょこんと座っていました。
「久しぶりですね、レミリア。元気にしていましたか?」
私の姿を認めても、レミリアはすぐには口を開きません。ただ、ペンを片手に、まるで重要な書類に目を通しているかのように、尊大な当主の表情で、私を一瞥するだけです。
しかし、その背中に生えた大きな悪魔の羽が、彼女の意識とは無関係であるかのように、落ち着きなく、僅かにぱたぱたと揺れているのです。
…となりますと、ここは静かに待つのが正解だと、私の長年培った勘が言っています。私は、執務室にある柔らかい長椅子に座り、レミリアの忍耐が切れるの待ちます。
やがて、彼女は、ペンをコトリと置くと、値踏みをするような視線を私に向けたまま、不満げに口を開きました。
「……遅かったわね。約束、忘れたのかと思ったわ」
その声は、紅魔館の主としての威厳が満ちています。ですが、その言葉とは裏腹に、私の姿を認めた瞬間、それまで揺れていた彼女の羽が、一度だけ、大きく広がりかけたように見えました。すぐに元の位置に戻りましたが……。
(……今の動きは、何でしょう。癖、でしょうか。今まではしなかったような気がしますけど)
私は心情を察せられぬよう、穏やかな笑みを浮かべて、一礼します。
「ええ、申し訳ありません。咲夜にも全く同じ事を言いましたが、最近忙しくて…なかなかお邪魔する時間が出来ませんでした」
「ふぅん。まぁ、いいわ」
レミリアは、ぷい、とそっぽを向き、尊大な態度を崩しません。それでも、その横顔が、ほんの少しだけ、本当に僅かに、嬉しそうに綻んでいるように見えました。錯覚でしょう。
「それで、今日はどうするのかしら?」
彼女は、椅子の肘掛けに頬杖をつき、再び、カリスマ的な吸血鬼の顔で私を見据えます。
「いつも通り、監査のつもりです。ですが、その前に、少し喉が渇きまして」
「…そうね。咲夜、お茶を」
レミリアは、椅子に深く腰掛け直し、再び威厳のある声で命じます。
「それと、私がこの間、外の世界から取り寄せた、とっておきのケーキもよ。夕雲にも、紅魔館のもてなしの格というものを見せてあげなさい」
「畏まりました、お嬢様」
咲夜は完璧な一礼と共に、音もなく部屋を出ていきました。
再び、部屋には静寂が訪れます。
レミリアは、執務机の上に積み上げられた書類の一枚を、意味ありげに手に取り、眺め始めました。まるで、私との会話の主導権は、あくまで自分にあるのだと、示しているかのようです。
「それで、監査以外に何をするのかしら?」
視線は書類に落としたまま、彼女は尋ねます。
「いえ、今日は監査が終わったら、帰ろうと思っていますよ。そして、レミリア……私は、今日の監査を、最後にしようと……思っています」
どこか歯切れの悪い私の言葉に、彼女は「…そう」と短く呟きました。
その時、再び扉が開き、咲夜が銀のワゴンを押して現れました。ワゴンには、美しい装飾のティーセットと、見るからに高価そうな、色とりどりのフルーツで飾られたホールケーキが乗っています。
そのケーキを目にした瞬間、それまで尊大に振る舞っていたレミリアの瞳が、きらりと輝きました。威厳を保つようにぴんと伸ばされていた彼女の悪魔の羽が、不意に、ぱた、と一度だけ、大きく揺れます。
「ケーキが来たみたいわね。さて、お茶にしましょうか」
⋈◀「さて、この分からず屋はどうすれば納得するかしら」▶⋈
「それで、夕雲。貴女、今年は監査に来るつもりじゃなかったらしいじゃない」
「……ええ。去年の監査で、契約は果たされたと思いましたので」
今でも憶えている。去年の梅雨ごろ、この紅魔館の主と交わした幸福の定義。そして、無邪気に笑うフランの顔。
―― どうか、私の娘たちが幸せになるまで見守ってくれ
幻想郷を侵略した吸血鬼の王、ヴラド・ツェペシュ。私が異変解決のために、その命を奪った時の彼と交わした最後の約束。彼の娘たちが幸福であると確認したため、契約は満了だと、そう確信しました。
「ええ、確かに『私は幸せ』って言ったわね。けどね、夕雲」
レミリアは、悪戯っぽく細められた瞳で私を見つめます。
「私は夜の帝王にして、紅魔館の主。欲望には限りがないわ。その無限の渇望が叶えられない限り、私は真に幸せだとは言えないの。だからね、貴女が欲しいの」
私は、手にしていたフォークを静かに置くと、目の前の小さな吸血鬼を見つめ返しました。彼女の言葉は、まるで子供の駄々のように聞こえます。
「……レミリア。それは、ただの我儘というものではありませんか。欲しいものが全て手に入らなければ幸福ではない、と。それは、道理の通じない子供の理屈ですよ」
……私の、どこか諭すような言葉を聞いたレミリアから、表情が抜け落ちました。
「我儘? 違うわ、夕雲。これは、吸血鬼の『本質』、渇きよ。血への渇き、退屈への渇き、運命への渇き……決して満たされることのない、永遠の渇き。吸血鬼ではない貴女にはわからないでしょうけど……それとも、なってみる?」
冗談めかした最後の言葉だけが、やけに部屋に響きました。
……やはり、私には貴女がわかりません。
私は、この歪な関係を終わらせるため、最後の、そして最大の疑問を投げかけました。
「そこまでして、私を縛り付けたい本当の理由は何です? 貴女の父親を殺した、この私が憎くないのですか?」
私の問いに対するレミリアの答えは、淡々としていました。
「勿論、憎いわよ」
そのあまりに平坦な響きにこそ、言葉の持つ真実の重みがずしりと沈んでいました。だからこそ、私は激情を抑えきれませんでした。ずっと心の底で燻っていた、罪悪感が堰を切って溢れ出します。
「でしたら!」
「でしたら、仇である私を遠ざけるべきでしょう!なぜ私を傍に置くのですか! 」
心からの叫びでした。部屋の隅に控える咲夜が、ぴくりと肩を震わせたのが視界の端に映ります。レミリアは、その叫びを静かに、決して遮ることなく、最後まで受け止めていました。
やがて、私の言葉が途切れると、彼女はゆっくりと口を開きます。
「ええ、確かに、私はお父様を殺した貴女が憎いわ。だから、貴女には永遠に償ってもらうのよ」
彼女は、椅子の肘掛けに頬杖をつき、その真紅の瞳で私を真っ直ぐに見据えます。そこに宿るのは子供の我儘ではありません。永い時を生きる、夜の王としての風格。
「貴女を遠ざけた事で私たちにどう利益があるというの?夕雲、貴女はただお父様を殺した私たちに罪悪感を覚えているだけ、楽になりたいだけでしょう?」
「……」
「そんな貴女を私は許さない。貴女には、永遠に、私たちの幸福を見守るという『契約』で、償ってもらうわ」
彼女は、楽しげに、そして、残酷に、その言葉を紡ぎます。
「お父様を殺した貴女が、お父様の代わりに、私たちの『退屈』を紛らわせ、私たちの『幸福』を保障するのよ。これ以上の、皮肉な罰はないでしょう?」
その言葉を聞いて、私は、思わず、乾いた笑いを一つ漏らしました。
(ああ、そう言うことですか。私は、本当はここから去りたくなかったですね。この関係を終わらせるための『理由』ではなく、ここに居続けるための『口実』が、欲しかった…自分のことは自分が一番わからないと言いますが、その通りです…)
やれやれ。私の罪悪感も、彼女の独占欲も、全てを満足させるこんな完璧な答えを提示されてしまっては、一本取られました、と言うほかありません。
私は、手にしていたフォークを、カチャリと音を立てて皿の上に置きました。降参の合図です。
「……敵いませんね、貴女には」
自嘲気味にそう言って微笑むと、レミリアは満足そうに、勝利の笑みを返します。
「ええ、分かりました。その罰は、謹んでお受けいたしますよ、レミリア」
「ふふ、よろしい!」
レミリアは、今日一番の上機嫌な声で言いました。
「さ、つまらない話は終わり! ケーキを食べましょう、夕雲! 咲夜の淹れた紅茶は、世界一なのよ!」
その顔は、もはや夜の王ではなく、ただ、お気に入りの玩具を手放さずに済んだ、無邪気な子供のそれでした。
先ほどまでの腹の探り合いが嘘のように、彼女は上機嫌でケーキを頬張り始めます。私は、その姿を横目で見ながら、差し出された紅茶に、静かに口をつけるのでした。
どうやら、この奇妙で、少しだけ厄介な契約は、まだ当分、終わりそうにありません。
レミリアは結構(書いてて)好きです。原作で色んな一面を見せてくれますから、カリスマ溢れるお嬢様でも、おぜうさまでもどちらでも書いて良し。うん、書きやすいです。…それでも、今回は苦戦しましたけど。
要は、「一緒にいて良いの?」「いいよ」って話です。
それと個人的に画期的発明なのですが、⋈◀「紫のスキマを真似しようとしてこれです」▶⋈←これどう思います?中に登場人物の内心や本心が書いてあります。ちなみに中は読まなくても全然オッケーです。