祝詞は多分変ですけど、寛大な気持ちで許してください。…これ、まず祝詞なのか?もうわかりません。
香霖堂にお邪魔した私は、すぐさま羅万館に戻り、ゆっくりすることにします。帰り道に、空に浮かぶ舟が見えたのですが、あれはなんだったのでしょう。
(まぁ、事が済んだ後に紫に聞いてみれば、良いですかね)
そう思い、私は久しぶりに自分のベットに横たわり、麗らかな日差しを浴びながら、ゆっくりと瞼を閉じました。
…
……
………
幻想郷の東端。巫女が死に、次代が受け継ぐまでの、誰のものでもない空白の場所。夜でも昼でもない、黄昏時。神社の裏側の、森が広がるだけの空間に、私が踏みしめる白玉砂利は、一歩ごとに清らかな音を立てる。目の前には、巨大な注連縄が用意され、彼女と霊暮の亡骸を囲んでいる。まるで、鳥籠のように。
これから執り行うのは、神格をその身から剥ぎ取り、人の理へと編み込むための秘儀。霊暮の、そしてある意味、ヨモツ自身の最後の願いを叶えるための、後戻りのできない儀式だ。
「ヨモツ、本当にいいのね?」
私は、ヨモツに声をかけて、最後の確認をする。その瞳に宿る覚悟が揺らがないことを知っていながらも、これは必要な手順だった。
「ええ、構いません。私の愛し子の最後の願いですよ? 私が叶えなくて、誰が叶えるというのです。映姫さんもお願いしますね」
そう言い、夜のような純黒の衣を纏った亡骸に、ヨモツは憑依した。その瞳に、自らがこれから辿る運命を真っ直ぐに見据えながら。ヨモツに呼ばれた閻魔の四季映姫・ヤマザナドゥは、その手に持つ悔悟の棒を静かに打ち付け、厳かに口を開く。
「…それがヨモツ様の願いであるならば、私も喜んで協力しましょう。これより、神と人の境界を分かつ理を一時的に解き、ヨモツ様を人の定めに繋ぎます」
閻魔がそう宣言すると、この場の気が引き締まる。世界の法則を、ほんの僅か、私たちの手で書き換えるのだ。
閻魔が悔悟の棒を高く掲げ、左右に振るう。清浄な光の粒子が舞い、私たちの身を清めていく。神としてのヨモツが放つ神気を、まずは人の儀式に耐えうるように鎮めるのだ。その光景を、私は静かに見守る。
「掛けまくも
祝詞に呼応するように、私は静かに前に進み出て、閻魔に続くように祝詞をあげる。
「――黄泉の国に成りませる神の御霊を、今、人の器へと還し奉る。彼の者が歩むは、喜びも、悲しみも、限りある命の道。その一歩を、阻む境界、此処に解き放たん」
私が、人と神の境界を解き、閻魔がヨモツを人であると宣言する。
『白黒はっきりつける程度の能力』
ハッキリ判断するのではなく、“つける”、その本質は、新しい判断の基準を作り出し、それによって判断するというもの。彼女が、「白」と答えれば、赤であろうと、黒であろうと、白の属性が付与され、「黒」と考えれば、ありとあらゆるものに黒という概念を付与する。
では、ヨモツのように神と人が混ざる、灰色の状態に、閻魔が人であると判断するとどうなるのか。
私が言霊を紡ぎ始めると、霊暮の体が淡い光を放ち始めた。内に秘めた神性が剥がれ落ちようとしている証。光は徐々に強まり、袖や裾から神力が金色の糸となってほどけ、宙を漂う。一本、また一本と、神としての力を構成していた概念そのものが、形を成して失われていく。その美しくも残酷な光景を、私は目に焼き付けた。
苦痛に顔を歪めるヨモツ。それは肉体の痛みではない。存在そのものが書き換えられていく、根源的な痛みだ。だが、彼女は声を上げることなく、固く唇を噛みしめ、ただ耐えている。それでいい、と私は心の中で頷いた。
とは言え、彼女が捨てた神としての過去は、あまりにも大きい。剥がれ落ちた膨大な神格は、主を失ったままでは世界にとって劇薬に等しい。その処理のために――
「ヨモツ様、これを」
閻魔が差し出したのは、古い友に贈られたと言う月の形をした髪飾り。ヨモツは震える手でそれを受け取り、自らの神だった頃の記憶、力、習合した全てを、彼女は残った最後の力で、それを小さな髪飾りの一点へと封じ込めた。
それは、過去との決別であり、同時に、決して捨て去ることのできない己の一部を、大切に仕舞い込むための儀式でもあった。
その全てを髪飾りに封じ込めた瞬間、ヨモツの体から溢れ出ていた神気が霧散し、ふっと糸が切れたようにその体が傾いだ。私は咄嗟にそのか弱くなった体を、壊れ物を扱うように抱きとめる。腕の中に感じるのは、間違いなく人の温もりと、命の重さだった。
「……っ……は……」
浅く、速い呼吸を繰り返す彼女の額には、玉の汗が浮かんでいる。存在を書き換えるという偉業は、その魂に計り知れないほどの負荷をかけたのだろう。今はただ、眠りが必要だった。私は彼女の髪をそっと撫でつけ、月の髪飾りがその黒髪に静かに収まっているのを確認する。これで、全て終わったのだ。
「儀式は、滞りなく。これより、ヨモツ様、貴女は人です。その生の限りを歩むことになります。その命の終わりに、私が貴女の罪と善を裁きましょう」
全てを見届けた閻魔が、厳粛に、しかしどこか穏やかな声で告げる。それは、裁きを下す者としての彼女なりの祝福の言葉だった。彼女は悔悟の棒を一度、こつん、と白玉砂利に打ち付けた。それが、この仮初めの神域を閉じる合図だ。
途端に、永遠に続くかと思われた誰そ彼時の空気が揺らぎ、世界の輪郭が滲み始める。注連縄は光の粒子となって解け、白玉砂利の道は元の森の土へと還っていく。まるで、長く見ていた夢から覚めるように、幻想は現実へと姿を変えていく。
「さて、と。帰りましょうか、私たちの幻想郷へ」
私は意識の朦朧としたヨモツを腕に抱いたまま、スキマを開く。その向こうに見えるのは、見慣れた我が家の、月の光が差し込む縁側だ。
閻魔は私に静かに一礼すると、その姿をすっと消した。彼女は彼女の場所へ還り、また罪人に罰を下す日常に戻るのだろう。
スキマを潜り、ヨモツを寝室の布団へとそっと横たえる。規則正しい寝息を立て始めたその顔は、神であった頃の威厳はなく、ただ安らかで、あどけない。けれど、その頬を伝う一筋の涙の跡が、彼女が成し遂げたことの重さを物語っていた。
「愛し子の、最後のお願い、ね……」
私は彼女の言葉を、静かな部屋で一人反芻する。
「ええ、ええ。貴女が人として笑い、泣き、迷い、そしていつか……その生の終わりに満足して眠りにつく日まで。この八雲紫が、あなたを見守っているわ」
誰に聞かせるでもなく、けれど確かな誓いを込めて、私は呟いた。
月の髪飾りが、窓から差し込む本物の月光を浴びて、ひときわ静かに、そして美しく輝いていた。忌々しいほどに。
◆
障子越しに差し込む光が、白から柔らかな琥珀色へと移ろい始めた頃。布団の上で、彼女がゆっくりと身じろぎした気配がした。
「………紫?」
掠れた、か細い声。けれど、それは確かに私を呼ぶ声だった。私は閉じていた目を開け、枕元へと顔を寄せる。
「あら、起きたの、ヨモツ?」
熱を測るように、そっとその額に手を触れる。まだ少し熱っぽいけれど…そう、彼女に熱があるのだ。神気を失った体も、少しずつ人の理に馴染んできたようだ。彼女はゆっくりと瞬きを繰り返し、ぼんやりとした瞳で私を見上げた。
「ヨモツ…その名前はもう、私には正しくないでしょう。それに、霊暮が折角、私に名前を譲ってくれましたし、そうですね…うぅ、頭が働きません」
存在の土台が書き換わったのだから、無理もないわ。混乱する思考を落ち着かせるように、彼女は自らのこめかみを押さえている。その仕草すら、ひどく人間臭くて、私は愛おしさを覚えた。
「そうね、新しいあなたには、新しい名前が必要だわ。『夕雲』なんてどう?」
「夕雲…ですか?」
彼女は、初めて聞く言葉を確かめるように、その響きを唇の上で転がした。
「ええ、夕雲。霊暮の『暮』…つまり、日が暮れるということ。黄昏時の空に広がる、あの美しくも儚い光景…夕焼けから、一文字いただいたの」
私はゆっくりと、言葉を紡いで聞かせる。
「雲はね、決まった形を持たないわ。風の吹くまま、気の向くままに姿を変え、空を自由に旅をする。天と地の狭間を漂いながら、何にも縛られることなく、在り様を変化させていく。神であったあなたが、これから人として生きていく。その生き方に、これほど相応しい文字もないでしょう?」
それは、全てを捨てて生まれ変わったあなたへの、私からの祝福の言葉。少しの嘘は許してちょうだい。
「夕雲……私が、夕雲……」
彼女――夕雲は、その名前を噛みしめるように何度も呟いた。やがて、その瞳に確かな光が戻り、ふっと、本当に穏やかに微笑んだ。それは、私が初めて見る、彼女の心からの笑みだったかもしれない。
「……ふふ、こんなに嬉しいのはいつぶりでしょう。夕雲…良い響きです。素敵な名前を、ありがとうございます、紫」
「どういたしまして。さ、喉が渇いたでしょう? 貴女が好きなお茶でも淹れてあげる。人として味わう初めてのお茶は、きっと格別よ」
私はそう言って立ち上がった。
夕雲。夕焼けの空にたなびく、自由な雲。
その名が、彼女のこれからの人生を、優しく照らしてくれることを願いながら。
⋈◀「別に私の名前を入れたかったわけじゃないわ、…本当よ?」▶⋈
夜の帳が完全に上がり、幻想郷に新たな朝が訪れる。障子に映る庭の木々の影がくっきりと輪郭を結び、鳥たちのさえずりが耳に心地良い。ちり、と風鈴が澄んだ音を立てた。彼女にとっては人の身となって初めて迎える、何の変哲もない、けれど何もかもが新しい朝。
私は、縁側で湯気の立つお茶をすすっていた。その隣には、少し大きめの私の着物を着て、覚束ない様子で湯呑みを両手で包み込むように持つ夕雲の姿がある。
「美味しい、です…。お茶って、こんなにも温かくて、良い香りがするものなのですね。なんだか、神様だった時より美味しいです」
一口飲むごとに、ほう、と感嘆の息を漏らす。神であった頃、概念として味を知ることはできただろうが、舌で味わい、喉を通り、胃の腑にじんわりと温かさが広がるこの感覚は、彼女にとって未知の体験のはずだ。その初々しい反応を、私は目を細めて楽しんでいた。
しばらく、他愛もない会話が続いた。庭の草花の名前、雲の流れる速さ、遠くから聞こえる人里の生活音。その全てに、夕雲は新鮮な驚きを見せる。
不意に、彼女が口ごもり、視線を畳の上へと落とした。
「それでですね、紫…」
先程までの明るい声とは違う、歯切れの悪い響き。私は湯呑みを置き、彼女の方へと向き直った。
「どうかした? 夕雲」
「その…なんと言うか、とっても言いづらい事なんですが…」
指先を所在なげにもじもじとさせている。まるで、親に何かをねだる子供のようだわ。私は、努めて優しい声を作った。
「大丈夫よ。なんでも言ってごらんなさい」
「まだ、神力が残ってると言いますか…」
夕雲が決心したようにそう言った瞬間、ぴしり、と空気が凍った。私の顔から笑みが消えたのを、彼女は見逃さなかったらしい。
「いや、そんな顔しないでくださいよ! なんでも言ってって言ったのは紫の方ですよ!」
夕雲は慌てて両手をぶんぶんと振る。その拍子に、彼女の湯呑みに入っていたお茶が溢れる…そのはずだった。
「おっと危ない……あ」
中のお茶が一人でに夕雲の湯呑みに戻る。夕雲はしまった、という顔で口を押さえ、湯呑みから目を逸らす。
「…夕雲。あの月の髪飾りに、あなたの神格も神力も、その記憶も全て封じ込めたはずよ。昨日の儀式は、完璧だったわ」
「え、ええ! それは分かっているんです! 髪飾りもちゃんとしてますし…。ただ、黄泉神の方は封じ込める事が出来ましたが、代わりに、忘れられた方の、昔の名前の方が出てきたと言いますか…ほら、人間の女性だって、離婚したら旧名に戻ると聞きます!きっとそれと同じですよ!」
例えが稚拙すぎるわね。でも、言いたいことは分からなくもない。黄泉神という、名前を捨てた結果、彼女自身もその下に埋もれさせていた、より根源的な神性が表層に浮かび上がってきた、というわけか。
私は大きな、本当に大きな溜め息を一つついて、こめかみをとんとんと指で叩いた。儀式が不完全だったわけではない。むしろ、黄泉神としての彼女を完璧に切り離したからこそ、その下に隠れていた地金が顔を出したのだ。
「…それで、その『旧姓』の貴女は何という名前で、何の神だったのかしら?」
私の問いに、夕雲は一瞬ためらい、そして決心したように、けれどどこか寂しげに、その名を告げた。
「私の、古い名前は知っているでしょう?紫にも名乗った事があります。
…そう言えば、私が夕雲と初めて会った時、ヨモツ以外の名前を名乗っていたわね。けど、権能までは知らない。
「永い時の中で、誰からも忘れられて、語られず、いつしか私自身も、黄泉神という名前ばかり使うようになっていました。きっとそのせいで、昨日の儀式の対象は黄泉神のみです」
なるほど。忘れられた神。信仰を失い、その存在が希薄になったが故に、大いなる神格を封じる儀式からもすり抜けた。そして今、黄泉神という蓋がなくなったことで、眠っていた古い神性が再び目を覚ました、と。
「それで、具体的にどんな力が漏れ出ているの?」
私は再度、尋ねる。
「はい…。朝、目が覚めたら、部屋の風車が、風もないのにずっとくるくると回り続けていたり… 顔を洗おうと水を盥に張ったら、その水が静かな渦を巻き始めたりですね」
「…回るものを司る、か。分かりやすいわね」
循環の力。それは、季節の巡り、星の流れ、命の輪廻、果ては運命の輪にまで通じる、根源的な権能。そんな大層な力が、蛇口の壊れた水道のように、彼女の身体から漏れ出している。これは、少々厄介なことになった。
「…分かったわ、夕雲。とりあえず、その力を制御する術を覚えるのが先決よ」
「制御、ですか?」
「ええ。今のあなたは、自分の意思とは無関係に、周囲のものを『回して』しまっている状態。まずは、その力を意識して止め、そして、意のままに動かせるように訓練しないと」
私はそう言って立ち上がると、一本の扇子をスキマから取り出した。
「いい? これから私が言う通りに、意識を集中させてみなさい。まずは、その湯呑みの中のお茶。その表面の揺らぎを、完全に『止めて』ごらんなさい」
私の言葉に、夕雲は「ええっ!? 動かすんじゃなくて、止めるんですか!?」と素っ頓狂な声を上げた。
「当たり前でしょう? 垂れ流しの力を御する基本は、まず『止める』ことよ」
この子の「人としてのリハビリ」は、どうやら「忘れられた神様としてのリハビリ」も兼ねることになりそうだわ。
まあ、いいでしょう。退屈しないだけ、マシかしらね。私は扇子をぱちり、と開き、少しだけ楽しくなってきた口元を隠した。
制御出来なかったら…そうね、最悪、体のどこかに神力を抑えつける注連縄でも付けてもらおうかしら?
ちなみに、夕雲はこの後、注連縄を付けることを紫によって余儀なくされましたとさ。一応、第二十二話のニトリ回で言及してました。
ちなみに、注連縄は東方世界において、神様を縛り付けるみたいな力があります。詳しくはフェムトファイバー。
後は、東方では、名前をつけることにすごい意味があったり、夕は朝、昼、夜と巡る、つまりは回るもの。雲も同じく、雨となったり、川や海になったりして巡る…循環してるものです。