私が唯一の黄泉の神となってから、どれほどの時が経ったのでしょうか。
時間という概念すら意味をなさなくなった、永遠の黄昏が続く世界。ここにあるのは、数えきれないほどの墓標と、永遠に枯れることのない橘の香りだけ。私は世界の出口を塞ぐ千引岩と、唯一何も入っていない伊奘冉の墓標を背に、かつての日々を夢想していました。
もう何も変わらない。私はこの国と共にゆっくりと摩耗し、消えていくだけ……そう、思っていました。その日までは。
「きゃああああああっ!」
(音?)
何万年ぶりに聞く他者の声。その絶叫は、私の止まっていた意識を鋭い針で突き刺すように覚醒させました。何事かと顔を上げれば、そこにはありえない光景が広がっていました。
空と言っても、この国に本当の空はありません。あの日以来、色を失った虚無の天井です。その天井が、まるで古い布地のようにビリビリと音を立てて引き裂かれ、裂け目から眩い光と共に一人の少女が落ちてきたのです。
ずしゃっと音を立て、墓石の間に転がった少女は、金色の髪と見慣れない意匠の衣を纏っていました。
幻かと思いました。永すぎる孤独が見せた、戯れの夢かと。
ですが、風に乗って鼻腔をくすぐる香りで、それが現実だと悟ります。花の香りでも、土の匂いでも、死の匂いでもない。私がとうに忘れてしまっていた、温かく力強い――生命の香り。
私は金縛りにあったかのように動けませんでした。何千年、何万年ぶりの予期せぬ来訪者に、どう反応すれば良いのか、何を考えれば良いのか、全く分からなかったのです。
少女はうめき声を上げながら、ゆっくりと身を起こします。まず自らの手で冷たく湿った土の感触を確かめ、次に肌を刺すような空気の冷たさに身を震わせました。そして、自分の声すら反響しない完全な静寂に気づき、怯えたように辺りを見回します。
私は恐る恐る、一歩、また一歩と彼女のもとへ歩み寄りました。
「おや、こんなところに人間とは……珍しいですね」
やっとのことで絞り出した声は、緊張していたのか、自分でも驚くほど掠れていました。私が声をかけると、少女は土で汚れた衣を払いながらむくりと起き上がり、不安げな瞳で私を見上げます。
「えっと……ここは?」
「…ここは既に死した世界。何にも無い世界ですよ」
私の言葉に、少女は改めて周囲を見渡しました。どこまでも続く墓標と、唯一鮮やかな色を保つ橘の木々。彼女の顔が、不思議そうな表情に変わります。案外、胆の据わった子なのかもしれません。
「確かに、周りはお墓と…橘の花かしら?、、、ってあれ!店主さん!?」
少女は私の顔をまじまじと見つめたと思えば、突然、驚きの声を上げました。
「店主さん?」
私は首を傾げます。その呼び名には全く心当たりがありません。この子は一体、誰と私を間違えているのでしょうか。
「えっと……その、、、とりあえず、貴女のお名前を教えてくれませんか?」
少女は混乱した様子で頭を振りながら、必死に問いかけてきます。その瞳に浮かぶのは、見知らぬ世界に迷い込んだ子供の、純粋な怯えでした。私は「店主さんとは?」と疑問に思いながらも、久しく口にしていなかった自らの名を告げることにしました。
「……?私の名前は天常之◼︎◼︎◼︎。誰にも語られぬ別天神です」
私の名を聞いても、少女はますます困惑した表情を浮かべるばかりです。そりゃそうです。
「きっと、何のことか分からないでしょう。ですから、私のことはヨモツと呼んでくださいな」
私はこの奇妙な迷い子を助けることにしました。それが、単なる気まぐれや退屈しのぎでないことだけは確かです。かつて多くの魂を導き、安らぎを与えるのが私の役目でした。ですが、国は滅び、民は消え、私は守るべきものを全て失った。そんな私の前に現れた、たった一つのか弱き人の子。その生命の輝きはあまりにも儚く、だからこそ、見過ごすことはできませんでした。
これは、神としての最後の責務か。あるいはただの憐憫か。正直、自分でも分かりません。ですが、私の失われた国に迷い込んできたこの最後の一人を、見捨てることだけはできなかったのです。
「そういえば、まだ聞いていませんでしたね。迷い子さん、貴女の名前は?」
「私の名前はマエリベリー・ハーン。メリーって呼んでください」
「ふふ、分かりました。メリー、私は貴女を歓迎します。……早くここから出られると良いですね」
その時はまだ、この出会いが私の止まっていた時間を大きく動かす「きっかけ」になるとは、知る由もありませんでした。
◆
私の歓迎の言葉も、今の彼女には気休めにしかならなかったでしょう。メリーは生身の人間として存在していました。当然、喉は渇き、お腹は空腹を訴えます。
「あの……ヨモツさん。何か、食べるものとか、飲むものとかって……」
「ええ、一応はありますよ。ついてきてください」
おずおずと尋ねる彼女に頷き、私は近くの橘の木へと誘いました。そして、白く咲き誇る花の一つにそっと指で触れると、花の中心から真珠のように輝く一つの桃が生まれました。
「さあ、これを」
私はそれを捥ぎ取り、メリーに差し出します。
「いえ、ちょっと待ってください。ヨモツさん、なんで橘から桃が生まれるのですか?」
「出来るものは出来る。それだけです。この世界はメリーがいた世界とは違うのですよ。貴女の常識が通じないのも道理でしょう?」
「確かに、そうかもしれませんけど……納得いきません。(橘はミカン科で、桃はバラ科なのに……)」
そう小声で不満を呟きながらも、メリーは桃にかぶりつきます。
「あっ、甘くて美味しい……。それに、お腹が満たされる……?」
「この国で命あるものは、おそらくこの橘だけ。花の蜜を啜ることもできますが、果実で食べた方が良いでしょう? 私に作れるのは、たぶん桃だけですが」
橘から生み出した桃は、確かに彼女の命を繋ぎましたが、人間の欲望とは尽きないものです。
「ヨモツさん、美味しいですけど……美味しいですけど、毎日桃ばかりじゃ飽きます!」
ある日、彼女は頬を膨らませてそう訴えました。私にとっては食事という概念すら過去のものでしたが、彼女の切実な表情を見ていると、何とかしてやりたいという気持ちが湧き上がるのが、人情(神情?)というもの。
「では、何が食べたいのですか?」
「お米です! 白くて温かいご飯が食べたいです」
彼女の強い願い――『渇望』は、この何もない世界において、新たなものを生み出すための核となり得ました。死の土くれに、私は僅かな神気を注ぎ込み、メリーはそこに、彼女の記憶にある「田んぼ」の形を作りました。すると、どうでしょう。乾いていたはずの大地から水が湧き、やがて青々とした苗が顔を出し、ついには黄金色の稲穂を垂れたのです。
自分たちで収穫した米を、私がどこからか見つけ出した古い釜で炊き上げた時の彼女の喜びようは、見ていて飽きないものでした。
「次は日本酒が飲みたいです!」
米があれば酒が出来る。そう、メリーは主張し、私たちは見様見真似でお酒を造りました。殆どが私の力でしたけど。
人間の欲望は、さらにエスカレートします。
「ヨモツさん、お肉が食べたいです!」
これには私も困りました。植物ならまだしも、動物を生み出すのは訳が違います。と言いながらも、私はなんとかして、牛と馬を生み出しました。
生きている状態で…
「……食べられませんね」
「……そうですね」
結局、彼女たちの肉を食べることはできず、黄泉の国には墓守の神と迷い子の少女、そしてのんびりと草を食む牛と馬がいる、という奇妙な光景が生まれました。ついでに、いつのまにか蚕も生まれていました。どこから生まれたのでしょう?
それでも私たちの挑戦は続き、やがて雑穀や小麦といったものなら、安全に生み出せるになりました。いつしか、千引岩の周りには、ささやかながらも豊かな畑が広がっていました。メリーは、この死の国に確かな「生活」の彩りをもたらしてくれたのです。
◆
そうして、私たちの食卓は少しずつ賑やかになっていきました。橘の桃だけでなく、自分たちで育てた穀物で作ったささやかな食事を分け合い、千引岩の前に並んで座る。それが、いつしか私たちの日課のようになっていました。
メリーはよく喋る子でした。彼女のいた世界の話、蓮子という親友の話、大学の話。私には理解できない言葉も多かったですが、その話を聞いている時間は不思議と退屈しませんでした。
「だから、言ってるじゃないですか! ヨモツさんは、羅万館っていう骨董屋さん?の店主だったんですって! 私、貴女から日記帳をもらったんですから!」
「私は、ずっとこの国にいますが……」
「うー、話が通じない!」
彼女は時折そう言っては一人でぷりぷり怒っていました。その様子がどこか微笑ましく、私の止まっていた表情筋が僅かに動くのを感じました。
そう、彼女は私の世界に「時間」だけでなく、「変化」をもたらしてくれたのです。彼女が眠れば夜、起きれば朝。お腹を空かせれば、食事の時間。永遠に等しい黄昏の中に、確かなリズムが生まれました。そんな風に、いつものように二人で黄昏を見つめていた時でした。
「ねぇ、ヨモツはこんな何もない世界で寂しくないの?」
ある日、隣に座るメリーが、ぽつりと呟く様に、私に問いかけました。その時の彼女の金色の髪が、この国には存在しないはずの風にそっと揺れていたのを覚えています。
「ええ、確かに寂しいです。ですが、私はこの世界が消えるまで見守るつもりですから」
私は、努めて穏やかにそう答えました。
『寂しい』
その感情が今も私の中にあることを、彼女と出会って久しぶりに思い出していました。誰かと話したい、誰かに触れたいという当たり前の欲求。ですがそれと同時に、この国を見捨てることはできないという思いも、また強く私の中に存在しているのです。
「…聞きそびれてたんだけど、どうしてヨモツは此処にずっといるの? これのせい?」
彼女は千引岩を指さしながら尋ねます。彼女の目には、あれがただの出口を塞ぐ障害物にしか見えていないのでしょう。
「そうですね……。出られないというのも、理由の一つです。ですが、それだけではありません」
私は言葉を探すように、一度目を伏せました。何万年も自分自身に問い続けてきたこと。その答えはとうの昔に出ているはずなのに、いざ他者に伝えようとすると、ひどく難しい。
「結局は、自己満足なのでしょう。ただ単に、見守りたいだけなのです」
「見守るって……もう、誰もいないじゃない」
メリーの言う通りです。この国には、もう私の民は一人もいない。かつての賑わいも、神々の声も、今はどこにもない。あるのは、私の中にだけ。
(分かっています。そんなことは、私が一番……)
それでも、私はこの場所を離れることができないのです。
「ええ、誰もいません。ですが、確かにここに在ったのです。私の愛した国が、私の愛した民たちが、確かにこの場所で生きていた。その事実が、この大地から、この空気から完全に消え去ってしまうその時まで、私はここにいると決めたのです」
それは、誰かに強制されたわけではない、私自身の選択。理不尽に全てを奪われたあの日、私独りだけが生き残ってしまった。その意味を、私はずっと考えていました。そして、たどり着いた答えがこれです。復讐は果たせませんでしたし。
「この国で死んでいった全てのものの、最後の墓守。それが今の私の唯一の役目であり、そして、意地でもある。……そう、これは私の意地なのですよ、メリー」
(きっと、彼らもそれを望んでいることでしょう)
私の言葉を、隣の少女はただ黙って聞いていました。彼女の小さな頭では、私のこの途方もない時間の孤独と執着は理解できないかもしれません。ですが、彼女は何も言わずに、そっと私の手に自分の手を重ねてきました。その温かさが、何万年ぶりに私の凍てついた心にじんわりと沁みていき、なぜか私は泣きそうになりました。
◆
また、ある時はこんな話をしました。千引岩の前に座り、その表面に浮かぶ僅かな「境界の綻び」を二人で見つめている時のことです。
「……ねぇ、ヨモツ。もし貴女がこの世界から出られたらどうする?」
メリーがふと、空想の物語を語るように私に尋ねました。その横顔はいつになく真剣で、この国の黄昏の光を受けて儚げに輝いて見えます。
「さあ? 考えたこともありませんでしたね」
私は正直に答えます。あの岩の向こう側を想像することすら、永い時の間に忘れてしまっていたのですから。ですが、彼女の問いに、一つの未練について話すことにしました。
「……強いて言うなら、迷子の魂を探しに行くかもしれません。全く、どこへ行ってしまったのやら」
「迷子の魂?」
「ええ。私の国が滅びた時、一つだけ神格を見逃してしまいました。輪廻の輪に巻き込まれたのだと思いますが、それならば魂は摩耗していないはず。おそらく無事だとは思いますが……少し、心配で」
それは、この国で私に残された唯一の心残り。他の多くの魂は崩壊しきっており、私の手ではどうすることもできませんでした。それでも幾つかは修復し、輪廻の輪へと還しましたが……。
私の言葉を聞いて、メリーはぎゅっと自分の手を握りしめました。そして、決意を秘めた強い瞳で、私を見つめ返します。
「ヨモツ。私、ここから出て、元の世界へ帰りたい。……協力してくれない?」
その真っ直ぐな願いは、生きている者の当然の権利。
私は微笑んで、頷きました。
「もちろんです」
私は最初からそのつもりでした。このか弱き迷い子を、いつまでもこの死の国に縛り付けておくわけにはいきません。彼女には帰るべき場所があるのですから。
(……ですが、私はここに残ります)
私の心はもう決まっています。この少女が国から去るための手助けは惜しみません。彼女の持つ不思議な力が、この千引岩の綻びをこじ開ける「鍵」になるのなら、私の力の全てを彼女のために使いましょう。
そして、彼女を無事に元の世界へと送り届けた後、私は再びこの場所で一人になる。
それが、この国で死んでいった全てのものの墓守である私の務め。そして、私自身が私に課した、永遠の罰なのですから。
「ありがとう、ヨモツ……!」
私の決意を知る由もなく、メリーは嬉しそうに安堵の息を漏らしました。その純粋な笑顔を見ていると、私の胸にまた一つ、新しい感情が芽生えるのを感じます。
「この子だけは、必ず、帰してあげなければならない」
その思いは、いつしか私のもう一つの新しい「意地」となっていました。
行間が多いですなぁ。その辺はいつか書きたいです。
次は外伝です。夕雲と紫が一緒にお酒を飲みに行く話です。なんか10000文字ぐらいあります。