春の気配を孕んだ風が、私たちの間を吹き抜けていきます。
私の少し前を飛ぶ紅白の背中を、言葉にできない複雑な想いで見つめていました。あの子がまだ幼かった頃。私がその小さな手を引いて、弾幕の避け方、妖怪との戦い方、結界の貼り方、そして博麗の巫女としての在り方を教えた日々が、もうずっと前のように思えます。
今、私の目の前にいるのは私の知るあの幼い少女ではありません。幻想郷の均衡を背負う、立派な『博麗の巫女』です。
その成長をこうして間近で見られることはこの上ない喜びです。ですが、その喜びと同時に、決して親としてその名を呼ぶことのできない、このもどかしい距離が私の胸をちくりと刺すのです。
ちらりと私がついてきているかを確認する博麗の…ええい!
そうして空を飛んでいると、私たちの眼下に目的の場所が見えてきました。命蓮寺です。しかしそこは、静寂な寺に続く道とは思えないほどやけに騒がしいです。誰かが大声で叫んでいるような反響音が絶え間なく聞こえてきます。
(…ああ、山彦ですか。この間来た時もいましたね。それより、この白いふわふわは…)
私の目の前で舞う白いふわふわとしたもの…神霊とされていますが、私の目には少し違うものに見えます。これは神の霊威などという高尚なものではありません。もっと生々しい、誰かの欲望や心の声…。まるで忘れ去られた願いの澱か、あるいは叶わなかった望みの残滓か。それが何らかの力に当てられて形を得てしまっただけのような…そんな危うさを感じます。
私が冷静に状況を分析していると、寺に続く道かげから犬の耳を生やした一人の妖怪が飛び出してきました。
「おはよーございます!挨拶はきちんとしないとね!」
「え、あ、おはよーございます」
思わず条件反射で挨拶を返してしまう、あの子の素直さ。ふふ、昔から変わりませんね。そうなのです、一見ひねくれて見えますが根は素直で優しい子なんですよ。
「命蓮寺の戒律の一つ『挨拶は心のオアシス』!」
「そういえばこのお寺は妖怪寺だったわね」
「そうよ!妖怪に優しい妖怪のお寺!」
「じゃあ即刻退治するしかないわね!」
実に博麗の巫女らしい、単純で明快な論理です。
「考えるのが面倒になったら、とりあえず懲らしめる」
博麗の巫女はみな、総じてこの考えに囚われます。霊暮もそうでしたし、その前の代もみな考えるより手が出る方が早かったものです。魂がほぼ同じとはいえ、そんなところまで似なくてもいいと思うのですが。
霊夢が放った数枚のお札は、山彦妖怪――幽谷響子さんが放った音の弾幕をいとも容易く切り裂き、その本体へと吸い込まれていきました。短い悲鳴を残して彼女はあっさりと退散していきます。
「さて、と。お掃除完了ね」
霊夢がぱんと手を叩きます。
「お見事です、霊夢。流石ですね」
「これくらい、当然よ」
私がそう声をかけると、彼女は少しだけ得意げな顔をしました。ふふ、可愛い。
私たちはさらに命蓮寺に続く参道を進んでいきます。
やがて目の前に、古びてはいるものの立派な門が見えてきました。命蓮寺の入り口ですね。けれどその門の前で、先ほどの山彦妖怪が仁王立ちで私たちを待ち構えていました。
「ただの人間だと思って油断してたわ!ここから先は通さないんだから!」
「あら、まだいたの。懲りないわね」
「朝のおつとめは、掃除に炊飯、そして迎え撃ち!幻想郷に人間の悲鳴がこだまするよ!」
彼女がそう叫ぶと、空気をビリビリと震わせる衝撃波が鼓膜を揺さぶる不協和音と共に放たれました。ただ叫んでいるだけではない、意思を持った音の塊が弾幕となって私たちに襲いかかります。端的に言えば、うるさいです。
…やれやれ。どうやらもう少し懲らしめないと、先に進ませてはもらえないようですね。とはいえ私はするのは霊夢の援護程度、その援護も今は不要なようですし、ほぼ見ているだけなのですが。
正直、異変解決が初めてすぎて、どの程度手助けしていいものかわかりません。永夜異変の時の紫の話を聞いて、参考にすれば良かったです。一応、去年の地霊殿騒ぎの紫のスタンスぐらいを目指しましょう。つまり、危なくなったら助けるぐらいですね。
霊夢はその苛烈な弾幕の嵐の中を、まるで舞を舞うようにひらりひらりとすり抜けていきます。見事なものです。ですが一瞬、彼女の背後の死角となる位置から音の刃が数枚襲い掛かりました。おそらくは山彦妖怪さえも気づいていない、偶然の弾幕。
(…いけませんね)
私は誰にも気づかれぬよう、そっと指先で小さな円を描きます。
霊夢の周囲の空気が僅かに『回り』、小さな渦となってその音の刃をあらぬ方向へと受け流しました。
霊夢はそのことに気づく様子もなく、反撃のお札を響子さんへと叩き込みます。
(ええ、それで良いのです)
貴女はただ、前だけを見ていれば。前だけ見据えてくれればそれでいいのです。後ろを護るのは私の役目ですから。
⋈◀「山彦妖怪の弾幕を防いだし、味方…と考えて良さそうね」▶⋈
「それでは霊夢、私は住職の話を聞きに行きます。その間、霊夢は墓地を調べてください」
「はいはい、さっき言った通りね。それで、どうやって集まる?」
「私はその陰陽玉から位置を把握できるので、私の方から会いに行きますよ。それでは、また」
霊夢と別れた私は一人、命蓮寺の本堂へと向かいました。
境内に足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌を撫でました。どこからか微かに聞こえる読経の声と清浄な線香の香り、そして空気に混じり合う妖気が、人間と妖怪が入り混じるこの場所の不思議な調和を物語っているようです。私は真っ直ぐ本堂へ行き、そこにいた空色の髪をした妖怪に「住職を呼んできてください」と頼みます。妖怪には胡乱な目をされましたが、「夕雲と名乗る者が来たと伝えればわかりますよ」と言うと、渋々といった表情で奥へ向かってくれました。
(戦闘になると思いましたが、そんなことはありませんでしたね)
やがて本堂から現れた聖さんが、どこか芯の通った足取りでこちらへと近づいてきました。
「この間ぶりですね、聖さん」
私がそう言って穏やかに微笑むと、彼女――聖白蓮は驚いた様子も見せず、ただ静かに頷きました。
「ええ、夕雲さん。何か御用でも?」
「前回と同じく単刀直入にお聞きします、聖さん。この神霊騒ぎ、貴女は何かご存知なのでは?」
私の問いに彼女は少しも揺らぎませんでした。ただその黒曜石のような瞳が僅かに伏せられます。それは肯定とも否定とも取れる静かな沈黙。そうして聖さんはゆっくりと口を開きます。
「…ええ。あなたの仰る通り。この異変、私たち命蓮寺は全くの無関係とは言い切れないでしょう」
その声は鐘の音のように静かで、それでいて深く響きました。彼女は私を本堂へと招き入れ、厳かな本尊の前で二人向かい合って座ります。
「あれは霊などというものではありません。人、あるいは妖怪の…『欲』そのものです。純粋な願いや欲望が、何らかの力によって形を与えられこの辺りを彷徨っているのです」
(やはり…)
私の推測と一致します。ですが問題はその『力』の源と行き先。おそらくは聖徳王の元だと思いますが、彼女はどこにいるのか。
「騒ぎになっている霊については把握しております。私たちが知りたいのは、何故欲望の塊たる霊が寺に多いのか。寺は俗世から切り離すための場でしょう?」
「そのためには、私たちがなぜこの場に命蓮寺を建てたのかを説明する必要があります」
「ほう」
「私の部下に…いえ、正確に言えば部下の部下なのですが、探し物が得意な子がいます。彼女曰く、この土地の地下には何者かが埋まっていると報告されました。調査の結果どうやら危険な存在のようだったので、私たちは上に命蓮寺を建て、その封印の楔にしようと考えたのです」
「…そうですか」
前に会ったときに共有してほしかったですね。勝手に地底に入ったりして厄介事を増やす私が言えたことではないような気もしますが。
私はゆっくりと息を吐き出しました。それは安堵のため息でした。
「ありがとうございます、聖さん。これで全て合点がいきました。貴女のおかげで私たちもようやくこの異変の全体像が掴めました」
私のその偽りのない言葉に、聖さんの表情がほんの少しだけ和らいだように見えました。
「いえ。貴女のような方に隠し立てをしても意味がありませんから。それにこの異変は、もはや私達だけでは手に余るやもしれません」
「ええ、その通りでしょう。ですがご安心を」
私はにこりと穏やかに微笑みかけます。
「この件は博麗の巫女が必ずや解決に導きます。私はそのための、ほんの少しの『後押し』をするだけですので」
「…信じて、よろしいのですね?」
「ええ。それでは私はこれで。貴重な情報をありがとうございました」
私は静かに立ち上がると、彼女に深々と一礼をしました。もうこの場に用はありません。
私は霊夢の元へと戻るべく、静謐な空気が満ちるこの部屋を後にするのでした。
親バカ欲が高まる…
そして、ネタ切れ中(現在64話執筆中)どうしたものか。