あの暑くて忌々しい夏が終わり、季節は秋へと移りました。秋狩りにでも出かけようとも思いましたが、今朝、家の前に籠いっぱいの葡萄やお芋などの山の幸が「今年はこれで勘弁してください」と言う手紙と共に置いてあったので、とりあえずは勘弁してあげることにします。
となると、今日の予定は空白になってしまいました。うーむ、そうですね…今日はゆっくりと店の番でもする事にしましょう。なんか、誰か来る気がしますし…
そう思った私は、日記を片手にカウンターに座ります。
いい加減、やらねばならないことに着手します。それは、私の消えた記憶の確認について。
基本、私は物事を忘れる事はありません。頭を「回せば」、大抵のことは思い出せますから…ですが、陰陽玉の「回帰」の力が使われた時に、私の記憶を代償に、対象は元の姿に戻ります。勿論、陰陽玉を介さずに、他者の時間軸を弄っても私の記憶は喪失します。
「…さて、一体、何を忘れてしまったのでしょうね」
私は、カウンターに置いた、古びた革張りの日記帳へと手を伸ばしました。
…
……
………
日記は、私の外部記憶装置。私が、忘れてしまった記憶を知るための道標の一つです。
ぱらり、と年季の入った頁を捲ります。そこには、私の数千年、あるいは、それ以上に及ぶ、他愛もない日々の記録が、びっしりと綴られていました。永琳と交わした契約。今はもう存在しない国の美しい風景。うん、今のところ大丈夫そうです。ちゃんと記憶にもあります。
(やはり、神代の記憶は薄れませんね。現世に来てからに絞った方がいいかもしれません)
ぱらり、ぱらりと、さらに頁を捲っていきます。比較的新しい頁へと指を滑らせ、日記を後ろから読み始めます。
そこには、見慣れた名前が並んでいました。博麗霊夢、霧雨魔理沙、レミリア・スカーレット…今を生きる少女たちとの賑やかで、時に騒がしい日々の記録。うん、これも大丈夫。一つ一つ、鮮明に思い出せます。何年か前の夕食の献立さえ、寸分違わず記憶と一致しています。
(よかった…まだ、あの子たちのことは…)
安堵の息を漏らした、その時でした。
指が、ある頁でぴたりと止まります。
『魅魔を封印した。流石に悪ふざけが過ぎた。何十年か経ったら出してあげようと思う。その時は流石に反省してるだろう」
そこだけ、まるで虫に食われたかのように、見覚えのない名前が出てきました。魅魔。日記を読むに、私が封印した悪霊らしいですが…記憶にありませんね。
「魅魔…魅魔…口憶えが全くない」
口にすれば、するほど、知らない単語になっていく不思議な感覚。
私の魅魔と呼ぶ乾いた声が、静かな店内に響きます。
悲しくはありません。
ええ、悲しいはずがないのです。何を失ったのかすら、覚えていないのですから。悲しむことすら私にはできない。
ただ、恐ろしい。
心の底から、ぞっとするほどに恐ろしい。
記憶を失うこと自体は、覚悟の上です。巫女を救うためならば、この身がどうなろうと構わない。
ですが、本当に恐ろしいのは、その後。
もしかしたら、私にとって掛け替えのない存在だったかもしれない誰か。その人の笑顔も、声も、共に過ごした時間も、その全てを忘れておきながら、こうして今のように平然と茶を啜り、何一つ欠けていないかのように日常を送るであろう、自分自身が、何よりも恐ろしい。
大切なものが、この世界から消えてしまったのに。
私の中から、綺麗さっぱり無くなってしまったのに。
その喪失にさえ気づくことができない。
その事実が、私の心をじわじわと蝕んでいきます。
私が忘れてしまった「誰か」は、今、どうしているのでしょう。
私が、その人のことを忘れてしまったと知ったら、どう思うのでしょう。
そして、もしも私が霊夢や霊暮、紫の事を忘れてしまったら…
答えの出ない問いが、頭の中を巡ります。革張りの日記帳を閉じた私は、ただ静かに目を伏せました。
カラン、と。
その時、店の扉が軽やかな音を立てて開きました。どうやら、誰か来るかもしれないといった私の予感は当たったようですね。
「ごめんください…。あの、こちらのお店、開いていますか?」
入口に立っていたのは、特徴的な風祝の装束に身を包んだ少女。記憶の喪失の恐怖で沈んでいた私は、ゆっくりと顔を上げ、その姿を認めて少しだけ目を見開きました。
「…早苗さん?」
「えっ!?…夕雲さん!どうしてここに!?」
私の顔を見るなり、彼女はぱっと表情を明るくしました。どうやら、ここが私の店だとは知らずに入ってきたようです。
「どうして、と言われましても、ここが私の店ですから。あなたは?こんな辺鄙な場所まで、何かご用でしたか?」
「いえ、その…お散歩をしていたら、素敵なお店が見えたので、どんな所なんだろうって、つい気になってしまって…。まさか夕雲さんのお店だったなんて、驚きました!」
なるほど、偶然たどり着いた、と。人里からも神社からも離れたこの羅万館に迷い込むとは、彼女もなかなかに運命の引きが強いようです。
「ふふ、そうでしたか。まあ、立ち話もなんです。どうぞ、お掛けになってください」
「わ、ありがとうございます!」
私は、カウンターの奥から椅子を取り出し、彼女に座るように促します。早苗さんは、興味深そうに店内をきょろきょろと見回しています。外の世界では「現人神」として孤独だったと聞いていますが、その好奇心旺盛な姿は年頃の少女そのものです。その無邪気さが、ささくれ立っていた私の心にじんわりと染みていくようです。
「それで、夕雲さんは何をされていたんですか?なんだか…少しだけ、お疲れに見えますけど」
カウンターに置かれたままだった日記帳に目をやりながら、彼女は少し心配そうに私の顔を覗き込みました。この少女の、時折見せる鋭さにはいつも驚かされます。
「少し、昔の事を思い出していただけですよ。ほら、私、日記をつけているんです。そうですね、特に早苗さんに似ている子について思いを馳せていました」
私は早苗さんに向けて、私の日記帳を見せます。
「私に似た子、ですか?」
「ええ。と言っても、昔の早苗さんに似ていて、今の早苗さんとは少ししか似ていませんね。まぁ、早苗さんみたいに優しい子でしたよ」
私は微笑んで、彼女の頭をそっと撫でます。
今は、この温もりを、この穏やかな時間を大切にしましょう。代償として何を失うことになったとしても、後悔しないことを願うしかありません。
「…今度、私の友達を誘って遊びに来てもいいですか?」
「ええ、歓迎しますよ。まぁ、ここまで無事にたどり着ければ、の話ですが」
私の軽口に、早苗さんは「もう、意地悪ですね!」と楽しそうに頬を膨らませました。
「さあ、とっておきのお茶を淹れてあげます。少し待っていてください」
「はい!ありがとうございます!」
無邪気にはしゃぐ早苗さんに応えながら、私は恐怖を心の奥底へと静かに沈めるのでした。
⋈◀「…………どうしたものかしらね」▶⋈
「それで、このお店は何の店なんです?」
「そうですね…外の世界風に言うならば映画館です。もっとも、古い映画しか上映してませんけどね」
「映画ですか!!!」
早苗さんは、子供のように目を輝かせて身を乗り出しました。外の世界から来た彼女にとって、「映画」という単語は郷愁を誘う響きを持っていたのでしょう。
「幻想郷に来てから、映画に触れる機会なんて全くありませんでした!どんな映画を上映してるんですか?SFですか?それとも恋愛ものとかです?」
「ふふ、落ち着いてください。先ほども言った通り、古いものばかりですよ。幻想郷には忘れられたものが流れ着きます。私は、それを集めて、ここで上映してるんです」
私はお茶を淹れる手を止め、私から見て左側にある扉を指差しました。
「地下にシアター室がありまして、そこで毎回上映してますよ。誰かが入ったら勝手に上映される仕組みなので、折角ならば見ていかれますか?」
「わっ!いいんですか!」
「ええ、お代は貰いますけどね…って、もう行かれましたか」
私の言葉が届いているのかいないのか、早苗さんは目を輝かせたまま「行ってきます!」と元気よく言い残し、私が指差した地下へと続く扉の向こうへ駆けていってしまいました。その姿は、まるで宝物庫を見つけた子供のようです。
「…やれやれ。料金説明もまだなのですが」
まあ、楽しそうなので良いでしょう。私は苦笑しながら、カウンターの奥で二人分のお茶とお茶請けの用意を始めました。お芋を使うことも考えましたが、なんかやる気も出ませんし、おせんべいとかで良いですかね。
そう考えながら、戸棚から来客用の菓子盆と煎餅の袋を取り出します。お湯を沸かし、急須に茶葉を入れる。そんな他愛ない作業をしていると、地下から微かに、しかしはっきりと、陽気な音楽と聞き慣れない言語の音声が聞こえてきました。どうやら、もう始まったようですね。
「…あら」
聞こえてきたその音楽は、私も聞き覚えのあるものでした。確か、外の世界で幽霊退治を生業にする男たちの物語。妖怪退治を始めたと里で噂の早苗さんならば、ちょうどいいものかもしれません。
ふふ、と笑みを一つ零し、お茶と煎餅を乗せたお盆を手に、私はゆっくりと地下へと続く階段へ向かいます。
ひんやりとした空気で占められている階段を、お盆が揺れないよう静かに降りていくと、二つあるシアター室の片方から漏れる光と音が、階下に近づくにつれて大きくなってきました。扉をそっと開けると、暗闇の中に浮かび上がる巨大なスクリーンと、そこに釘付けになっている小さな後ろ姿が目に入ります。
スクリーンでは、数人の男たちが何やらごつい機械を背負い、薄暗い図書館の書架の間を恐る恐る進んでいました。どうやら物語はまだ始まったばかりのようですね。
私は音を立てないように早苗さんの隣の席に腰掛け、サイドテーブルにお盆を置きました。彼女は映画に夢中で、私が来たことには全く気づいていないようです。
「楽しんでいますか?」
静かに声をかけると、早苗さんの肩がびくりと跳ね、弾かれたようにこちらを振り向きました。
「わっ、夕雲さん!いつの間に…!はい、すごく! まさか『ゴーストバスターズ』が観られるなんて思ってもみませんでした!」
「ふふ、それはよかった。ここの映写機は、お客様の心に反応して、最もふさわしい物語を映し出すことがありますから。外の世界を懐かしむ、あなたの心に応えてくれたのかもしれませんね」
そう言って煎餅を一枚差し出すと、早苗さんは少し照れたように「ありがとうございます」と受け取りました。
「私の心に…。そうなんですね、なんだか嬉しいです」
ちょうどスクリーンでは、男たちが初めて遭遇した半透明の老婦人の幽霊に「静かに!」と一喝され、ほうほうの体で図書館から逃げ出す場面が映し出されています。そのコミカルな様子に、早苗さんがくすくすと笑いました。
「幻想郷の危険な幽霊も、あんな風に話が通じる相手ばかりだと助かるんですけどね」
「ええ、本当に。もっとも、こちらの世界の妖怪退治は、あのような機械ではなく、巫女の勘と腕に頼るところが大きいですから」
煎餅をかじりながら、私たちはスクリーンが映し出す『物語』を眺めます。
忘れてしまった過去への恐怖で冷え切っていた心が、こうして誰かと他愛ない時間を過ごすうちに、少しずつ温もりを取り戻していくのを感じました。
スクリーンに照らされた早苗さんの楽しそうな横顔を見ながら、私は今日この店を開けておいてよかったと、静かに思うのでした。
霊夢の記憶は消す癖に、自分の大切な人の記憶が消えるのは死ぬほど怖がってる主人公。自分勝手極まりなくて、人間臭いし、人の都合を無視する所は神様臭いね。ばーか。
夕雲は「第四十話 羅万館with完全永久瀟洒なメイド②」でも少しだけ触れたのですが、寿命による別れについては割り切っています。ですが、自分の記憶が失われるのは割り切れません。忘れちゃったら悲しいもんね。
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