夜風が、少し肌寒く感じる季節だった。 私は博麗神社の縁側に腰を下ろし、手に持った盃に映る月を揺らしていた。
「……寂しい空ね」
思わず、そんな言葉が漏れる。今夜の幻想郷の空は、まるで何者かに黒い布を掛けられたかのように、一面の闇に包まれていた。いつもなら宝石箱をひっくり返したように煌めく星々が、ひとつも見当たらない。天の川のせせらぎも、北極星の導きも、全てが消え失せている。
ただ一つ残されたのは、頭上で妖しく輝く月だけ。それも、まん丸で愛らしい満月ではなく、微妙に欠けた小望月だった。きっと、明日には満月になるだろう。
「星明かりがないと、月ってこんなに冷たい色をしていたのね」
私は盃を口に運ぶ。お酒の味はいつもと変わらないはずなのに、どうしてか今日は味気なく感じる。妖怪たちの姿は今日は無い。珍しい。もしや、私が寂しさを抱えているのとでもいうのか。
(もしや、あいつらがまた変なこと考えてるんじゃないでしょうね)
脳裏に浮かぶのは、私の悪友みたいな立ち位置に居座る鬼の大将と、神社に悪戯を繰り返す悪霊。
私は着物の袂を直し、小さくため息をつく。
いつもなら、この時間になれば酒の匂いをさせた連中がどこからともなく湧いてくるはずなのに、今夜は妙に静かだ。あいつらの妖気は一応、感じられない。平和なのは結構なことだけれど、この底知れない静寂は、かえって私の肌を粟立たせる。ただ静かなだけではない。生き物の気配そのものが、夜の闇に溶けて消えてしまったかのような不気味な沈黙。
まるで、世界中が息を潜めて、あの月のご機嫌を伺っているような……そんな嫌な予感が胸をよぎった。
予感が確信に変わったのは、翌日のことだった。髪結い紐を新調しようと思って里へ降りた私は、異様な光景を目にすることになる。
「……嘘でしょう?」
里の入り口に立った私は、思わず絶句した。いつもなら、子供たちの笑い声や何かしらの店の店員の掛け声で賑わう大通りが、墓場のように静まり返っていたからだ。けれど、人はいる。溢れるほどに、人がいるのだ。
彼らは皆、立ったまま動かない。畑仕事の途中だったのだろうか、泥だらけの鍬を持ったおじいさんも。洗濯物を干していたお母さんも。いつも鬼ごっこをしていた子供たちも。
全員が、首がおかしくなるような角度で、真昼の青空を見上げていた。その瞳は、虚ろで、けれど熱っぽく潤んでいる。
「ねえ、どうしたの? おじさん」
私は、顔馴染みの八百屋の主人に声をかけた。彼は私の声に反応しない。瞬きさえ忘れているようだった。 彼の視線を追う。そこには、昼間の太陽の光に紛れて、うっすらと、けれど確かに「あの月」が浮かんでいた。
「ああ……きれいだ……」
「わたしの……月……」
「もっと……もっと見せて……」
風に乗って聞こえてきたのは、うわ言のような呻き。それは恐怖や苦痛の声ではなく、まるで恋焦がれる相手を見つめるような、恍惚とした甘いため息。
背筋に冷たいものが走る。大の大人であるおじさんがしてたからではない。
これは、今までの異変よりもずっと質が悪い。彼らは、生きることを忘れている。ご飯を食べることも、眠ることも、家族と笑い合うことも、全てどうでもよくなっている。ただ、あの「独りぼっちの月」に見とれることだけで、心が満たされてしまっているのだ。
「……嫌だわ、こんなの」
私は強く拳を握りしめた。こんなの、生きているとは言えない。私の大好きな、騒がしくて、あたたかくて、時々ちょっと厄介な幻想郷の日常が、あの冷たい月に奪われていく。
◆◆◆
その夜、私は巫女装束に袖を通した。丁寧に髪を梳き、紅と白のリボンをしっかりと結ぶ。 鏡に映る自分に向かって、にっこりと微笑んでみせる。大丈夫、私は強い。
「霊暮様、背中の紐が緩んでおります」
背後から声をかけ、帯を締め直してくれたのは宮出口の一族のものだ。彼女は勤勉で、野心家だ。私の手さばき、呼吸、その全てを盗もうと、いつも飢えたような目で私の背中を見ている。
「ありがとう、宮出口。……手が震えているわよ」
「!……申し訳ありません。あの月の光がどうにも気味が悪くて」
彼女は悔しそうに唇を噛んだ。無理もない。あの月は人の心の隙間をこじ開ける。彼女のように上昇志向が強く、満たされない何かを抱えている人間ほど、あの月の光の毒は回りやすいのかもしれない。
「留守は頼んだわよ。私の帰る場所を守っておいて」
「……はい。ご武運を」
宮出口が一礼して下がろうとしたその時だった。 拝殿の奥の暗がりから、ふわりと彼女が現れた。
音もなく、気配もなく。ただ、そこにあった影が人の形をとったかのように現出する。澄んだ冬の夕焼けのような髪に、宵闇を深く湛えた瞳。その姿は、私とよく似ていた。まるで鏡に映したかのようだけど、どこか決定的に違うその姿。
「――待ちなさい、霊暮」
鈴を転がすような、穏やかで透き通った声。その神々しい姿を見た瞬間、私は自然と頬が緩むのを感じた。
「……霊暮、様……?」
背後の宮出口の声が震えている。私は彼女を一瞥する。彼女の視線は、私の目の前にいるヨモツを通り抜け、ただの暗がりを見つめていた。
ああ、そうか。彼女には見えていないのだった。この神社の神であり、私の育ての親であるヨモツが。
「ふふ、わざわざお出まし?お母さん」
私が微笑んで答えると、宮出口が「ひっ」と短い悲鳴を漏らした。 彼女の目には、私が何もない虚空に向かって、まるでそこに誰かがいるかのように親密に話しかけている、気狂いのように映っているのだろう。
「あなたが無茶をする気配がしましたから。……居ても立っても居られず、つい出てきてしまいました」
お母さんは私のことなどお見通しといった顔で、そっと手を伸ばした。その白く細い指先が、私の頭のリボンに触れる。少し曲がっていた結び目を、愛おしむような手つきで直していく。その仕草は、まさに娘の晴れ姿を整える母親のそれだった。
「私の目は誤魔化せませんよ。あなたのオムツを替えていた頃から、ずっと見ているのですから」
「もう、人前でその話はやめてってば。しかも、オムツの頃は見てないはずでしょ」
私が少し頬を膨らませて抗議すると、お母さんは、くすくすと楽しそうに笑う。その笑顔は、異変の重圧で張り詰めていた私の心を、少しだけ解きほぐしてくれた。
「はいはい、分かりました。……ですが、霊暮。今回の異変は、いつもとは違いますよ」
お母さんの声が、ふと真剣な響きを帯びる。
「あの月は、ただの魔力を持った光ではありません。あれは『鏡』です。見る者の心の奥底にある、埋めようのない孤独、満たされない渇望……そういった心の『隙間』を映し出し、増幅させる魔性の光」
彼女は、心配そうに私の胸元に手をかざしました。
「力でねじ伏せる相手なら、貴女の敵ではないでしょう。ですが、己の心と向き合う戦いは、時にどんな妖怪よりも過酷です」
「孤独、ねぇ」
私は夜空を見上げた。夜の闇を嘲笑うかのように、欠けることのない完全な円――満月が鎮座している。凍てつくような白銀の光。それは周囲の星々のささやかな瞬きを暴力的なまでの光量で塗りつぶし、天空というキャンバスを独占している。まるで「私だけを見ろ」と強要するかのような、圧倒的な自己主張。確かに美しいが、それより先に鬱陶しいという気分になる。
「ま、私には関係ない話ね。だって、私の心は満たされているもの」
私は胸を張って言い放った。強がりではない。私には、守るべき神社がある。信頼できる仲間がいる。そして何よりいつも傍で見守ってくれる家族がいるのだから。
「……そうですね。貴女なら、大丈夫でしょう」
母さんは、私の頬を両手で包み込み、額にコツン、と自分の額を合わせた。
「行ってらっしゃい、霊暮。……決して、月に心を惑わされないように」
「ええ、任せておいて。さっさと解決して、朝ごはんまでには帰ってくるから」
私は彼女の手をそっと離すと、目を伏せている宮出口に向き直る。
「宮出口。あんたは、絶対に空を見上げるんじゃないわよ。……それと結界を貼ったから、帰ってくるまで、誰も神社に入れないで」
「は、はいっ! 承知いたしました!」
「よし」
私は地面を強く蹴り、夜空へと舞い上がる。冷たい夜風が、頬を叩く。眼下に広がる里は、死んだように静まり返り、ただ、あの青白い月の光だけが、病的なまでに鮮やかに、世界を染め上げていた。
空に近づくほど、肌を刺すような孤独感が強まっていくのが分かる。世界にたった一人きりになったような、心細い感覚。
「……ふん、上等じゃない」
私は、震えそうになる手を、ぎゅっと握りしめた。
「待ってなさい、独りぼっちの月。……その寂しさごと、私が祓ってあげるわ!」
さて、どうやって月まで行こう。とりあえず、悪さしている妖怪を祓いながら進むとしよう。
〇〇は本来、満月ではないのですが…許してください。いざとなれば、地域によって伝承が違うから、セーフ理論を振りかざします。
ちなみに何の妖怪かわかりました?
霊暮は里ではそれなりに人気(と言っても霊夢と同じくらい)ですが、里の老人たちには少し恐れられています。まぁ、幼いころに妖怪を撲殺する姿とか見たんでしょう。
幻想郷に銃はあるし、青娥は底知れなさがすごいし、毎月新情報が出る東方君。銃はなんだ…河童関係か?それとも、無縁塚で流れてきたのを改良した的なやつなのか。…そもそも、博麗大結界前に銃はあったし、元よりあったのか。