マフィアのボスは元シスターフッド 作:茄子与一
︎︎眠らない街、それがブラックマーケットだ。裏社会に生きる者たちの巣窟という意味では、むしろ夜になってからがこの街の本当の姿とも言える。
︎︎お天道様が見ているぞ──そんな言葉を、子供の頃に一度は聞かされたことがあるだろう。しかしこの街に集う連中は、そのお天道様に顔向けできない輩ばかりだ。だからこそ、深夜になればなるほど賑わいを増す。昼間は閑散としている商店街も、夜には活気に満ち、まるで別世界のような様相を呈する。
︎︎ただし、そこで扱われている品々はそのほとんどが法に触れるものばかりだ。たとえば、商店街の入口近くに店を構えるガンショップでは、キヴォトスの生徒でも重大な怪我を負いかねないとして、一部自治区では規制されているホローポイント弾が絶賛割引セール中だ。その先にある新規店では、THC成分を含む違法リキッドが堂々売られていて、誰かが試喫している姿まで見える。
︎︎ホローポイント弾ですら自治区によっては規制対象なのに、大麻ともなればなおさらのこと。公安局がすでに目をつけているのは間違いないし、ヴァルキューレによる摘発も時間の問題だろう。そんなことを考えながら、リナは商店街を見下ろすビルの屋上でタバコを咥えていた。
︎︎手すりに片腕を預けた彼女の背後では、一人の少女がボロボロの姿で拘束されていた。安物の手錠とはいえ、疲労困憊の身では力任せに壊すこともできない。悔しげにリナの背中を睨みつけてはいるが、周囲を囲むリナの部下に低威力のピストル弾を撃ち込まれ、そのたびに小さく肩を跳ねさせていた。
「……さて、君は何のつもりで私を襲った? 記憶を辿っても、君とは初対面のはずだが」
「ふざけるな……っ! 先に手を出したのはお前らだ! 私の仲間を拉致して、金を奪ったんだろう!」
「君の仲間……ああ、うちのシマで好き放題していたスケバンたちのことか。ふむ、少し誤解があるようだから訂正しておこう。我々の店で暴れたから、ケジメをつけてもらっただけだ。それ以上の意図はなかったよ」
「ボス、時間の無駄です。早く片付けましょう」
「いいやダメだ。まだ聞きたいことがある」
︎︎事の発端は数日前、オラトリウム本拠地からさほど離れていないエリアにある飲食店で起きたトラブルだった。
︎︎本拠地周辺ではオラトリウムの支配を明確にするための大規模な区画整理が進んでいたが、その店がある一帯はまだ異なる組織が入り乱れ、抗争も絶えない地域だ。だからこそその店主は、巻き込まれないようオラトリウムに用心棒代を納めていた。
︎︎オラトリウムを新興勢力と侮る者もいたが、不用意に事を荒立てれば、藪をつついて荒々しい大蛇を出す羽目になる。それを理解している者が多かったからこそ、オラトリウムの傘下となった店舗の周辺は比較的平穏が保たれている。傘下入りする店も増え、一帯はオラトリウムの勢力拡大における最前線となりつつあった。
︎︎そんな最中、その店で騒ぎが起こる。ブラックマーケット外の自治区からやってきたスケバンの一団が、メニューの価格やサービスに因縁をつけて暴れたのだ。しかし幸いなことに丁度その時、組織の構成員が辺りを巡回していたため、騒ぎはすぐに鎮圧された。店主も怪我を負わずに済み、戦闘で破損した設備はリナが補償したこともあってか逆に感謝されるほどだった。
︎︎問題は暴れたスケバンたちだ。マーケットの理も秩序も知らなかったとはいえ、オラトリウムの支配域で騒ぎを起こしたとなれば、何の制裁も加えないわけにはいかない。それでは組織の看板と面子に傷がつく。
︎︎そこで、現場の構成員たちは見せしめとして、気絶したスケバンたちを近隣の歩道橋に吊るし、暫く銃の的にして遊んでいた。もっとも、気絶状態の者に直接弾を当てるのはヘイローを破壊する恐れがあるため、狙うふりをするだけだったようだ。
︎︎しかしそれだけでも十分な見せしめとなり、野次馬たちの間でオラトリウムの名は改めて刻み込まれたことだろう。実際、あの騒ぎの後、組織にちょっかいをかけてくる鬱陶しい連中は少し減っている。
︎︎その後、気を取り戻したスケバンたちは、有無を言わさず黒塗りのバンに詰め込まれ、オラトリウムのアジトへと連行されたらしい。部下たちは、偶然鉢合わせた幹部の同意を得ると、彼女らを牢屋代わりの部屋へ放り込み、数日間にわたり監禁した。
︎︎もちろん、彼女たちが持っていた金や武器弾薬はすべて没収した。それは監禁中に与えた飲食物の代金としての徴収である。身体的な拷問はリナの方針に反し、行えば粛清されるのは確実。それ以外であれば問題ないと部下たちが判断した結果だろう。
︎︎しかし、身を守る術もない状態で密室に閉じ込められた少女たちにとって、それは十分に精神的拷問だったに違いない。
︎︎そして昨日の昼、ようやく解放されたスケバンたちはひどく怯えていたという。部下たちは一応、マーケットの外まで彼女らを送り届けたらしい。
︎︎リナ自身はこの件に関与していなかったが、報告は受けており、事のあらましは把握していた。しかしその程度の話に関心を向けることもなく、彼女はスケバンたちの存在すら忘れていた。
︎︎なぜならばオラトリウムの懸念通り──連邦生徒会長が公の場に姿を見せなくなってから、キヴォトスの治安は悪化の一途をたどっていたからだ。
︎︎そしてこれまた予想の通り、治安の悪化に乗じてブラックマーケットは活気づき、資金を得た組織がオラトリウムと衝突する機会も増えつつあった。スケバンの一団に制裁を加えたところで、似たような連中は後を絶たないのである。カイザーとの抗争があるかもしれない今の状況では、本当に勘弁して欲しかったが。
︎︎ともかく、その対応に追われ、リナは深夜まで仕事を続けていた。部下への指示、報告書の確認、取引先との電話……ようやく一息ついた頃には、すでに夜も更けている。
︎︎タバコで気を紛らわせていたが、さすがに空腹を覚えた彼女は、数名の部下を連れて外食へと出かけた──それが、つい三十分前のこと。
「赤城リナだ! やれ!!」
︎︎しばらく車が走ると、不意にそんな怒声が響き、リナたちは襲撃を受けた。格好からしてよくマーケットでも見かける類のスケバンであることはすぐに分かったが、そのとき彼女の頭にあったのは「またか」という感情だけ。
︎︎まさか、部下が監禁していた連中のリーダー格が仲間を引き連れて襲ってくるとは思いもせず、別の敵組織の仕業かと考えていたのである。
︎︎とはいえ、想定外ではあったものの、単なるスケバンごときがリナの敵になるはずもない。彼女たちは瞬く間に制圧され、今まさにリナがリーダー格の少女に尋問を加えているところだった。
「君、どこにでもいるような不良グループにしては、やけに良い武器を持っていたな。この真新しいデザートイーグル……そこらのスケバンが持つには過ぎた代物ではないか?」
「返せ! それは私のだ!!」
「まともに撃てない君が持っていたって仕方ないじゃない。というか、まだ質問に答えてもらっていないよ」
︎︎襲撃してきた連中のリーダー格が腰に下げていたのはデザートイーグル。しかもほとんど使用感のない、新品同然のものだった。リナに応戦された際、メインで使用していたライフルがぶっ壊されたときには、さすがに腰から抜いて発砲していたが──しかし赤城リナというのは、拳銃ごときでどうにかなるような相手ではない。ただ運が悪かったとしか言いようがないだろう。
︎︎タバコを咥えたまま、リナは奪った銃をちらつかせながら少女の前に屈んだ。
︎︎ふう、と煙を吹く。ヤニの臭いに眉をひそめた少女は何か言いたげに口を開きかけたが──月光を背に自分を見下ろすリナの無機質な双眸が、あまりにも恐ろしく感じられ、すんでのところで口を噤んだ。
「君の動機は理解した。仲間がやられたから、やり返す。……ああ、同意はできないが、理解はできようとも。だが私が気になるのは、さっきの戦いで明らかに君たちとは別のグループの者が混じっていたことだ。一体どういうことなのかね」
︎︎実を言うと、先の戦闘でリナ達を襲ってきたのは彼女だけでは無かった。
︎︎四方八方から、ちまちまと此方を狙撃していたオートマタの集団。あの身なりからして、この少女が率いるスケバングループとは別物だ──電灯があるとはいえ、一キロ以上離れた地点にいた彼らを見つけたリナの視力はさておき──問題は、彼らと目の前の少女との関係である。
︎︎リナが襲われているのを見つけ、漁夫の利を狙ってスナイプしてきた……にしては、配置が妙に整っていた。商店街前を中心に半径約五百メートルを囲うように配置されていたのは、間違いなく偶然とは言い難い。
︎︎リナの問いかけに、少女は苦虫を噛み潰したような顔で視線を落とした。
「……依頼されたんだよ、あんたを襲えって」
「誰に?」
「さあな。そこまでは知らん……言っておくけどな、依頼がなくたって私らはお前を潰しに動いた。そこは勘違いするなよ、この外道が……っ!?」
「不良風情が! 誰に口をきいている」
「……そんな程度のことでいちいち撃つんじゃないよ。マーケットガードが来たらどうするんだね」
「っ、すいません」
︎︎多少は臆しているとはいえ、拘束された状態でなお敵意を収めない彼女の胆力はなかなかのものだった。しかし、その態度はさすがに目に余ると感じた部下は、痛めつけるために太腿辺りに発砲した。とはいえ、リナは「外道」と言われたことを特に気にしておらず、やんわりと注意をする。
「ふむ。まあ、私に恨みを持つ連中なんていくらでもいるだろうから、驚きはないが……こうも外に出るたびに襲われていたら、落ち着いて外食もできないな」
「ええ、ほんとに……今週だけでも四回目ですよ、ボス」
「数えるな数えるな。考えないようにしてるんだ」
︎︎リナが「またか」と思ったのも無理はない。もうすでに何度も襲われているのだ。
︎︎謎の狙撃部隊はひとまず置いておくとして、今回のような小規模の集団なら片手間で片づけられる。厄介なのは、もっと規模の大きな組織が襲撃してきたときだ。リナからすれば余裕の相手なのは変わらないが、後処理の面倒さが段違いになる。
︎︎せっかく気分転換に外へ出たというのに、いわれのない因縁をつけられ、銃まで向けられて襲われるとは。こんなことならアジトに籠もり、傘下の店から出前を頼んだほうがよほど気が休まるではないか。
︎︎そう何度も思いながらも、私室に籠もるのは性に合わない。結局は「なんとかなる」と割り切り、彼女はまた外へ出るのだった。しかし同じことを繰り返して数度目、流石のリナといえ本気で嫌気がさしてきていた。
︎︎最初は部下たちをそこらの寿司屋にでも連れていこうかと思っていたが──度重なる襲撃のストレスもあって、今は妙にガッツリと食べたい気分だ。
︎︎よし、行き先は変更して焼肉屋にしよう。リナはそんなことを疲れた頭でぼんやりと考え、おもむろに立ち上がった。
「そいつは手錠をかけたまま置いておけ。どうせじきに他の奴らも目が覚めるしね……ああ、叫ばれても面倒だから、適当に気絶させておいてくれ」
「はい、分かりました」
「ちょっ──」
︎︎ガッ──。
︎︎拳銃のホルスターでうなじを強く叩かれ、少女はバタンと倒れた。その姿をちらりと見たリナは、ため息をつきながら、売るつもりだった彼女のデザートイーグルを手元に放る。別に大した小遣いにもならないだろうし、コレクションの趣味はない。
「依頼された、か……どうせまたカイザーだろうな」
「ボス、あの不良のスマホを奪って解析に回しますか?」
「いや、いい。そこまでする必要はない」
「ですが……依頼をしたのがカイザーである確固たる証拠があれば、脅しの材料になるのでは?」
「君な、カイザーを脅したところで、素直に引き下がると思うか? もし脅すにしても、経営が傾くレベルのネタじゃなければ、無理やりにもみ消すさ」
「う……っ、そうですね」
︎︎ブラックマーケットにいると、カイザーの噂はよく耳に入る。信憑性は定かではないが、ヴァルキューレ警察学校と癒着しているという話もリナは誰かから聞いたことがあった。
︎︎それが仮に事実なら、公になったとき世間から猛批判を浴びるのは間違いない。だがあの狡猾な連中が、そんな凡ミスを犯すとも思えない。
︎︎そもそも、カイザーが一連のオラトリウム襲撃に関与していたとしても、世間から見れば──巨大企業がマーケットの犯罪組織を攻撃しているだけなのだ。証拠を握ったところで、それが脅しになるとは限らない。
︎︎オラトリウムは自他ともに認めるマフィア。いくら評判が悪いとはいえ、公に経済活動している企業と犯罪組織なら、大衆がどちらを信じるかは言うまでもないだろう。
「……とにかく、そんなことよりも飯だ飯だ。もう腹が減って仕方がない。さっさとゲヘナに行くぞ。あの焼肉屋は深夜も営業していたはずだ」
「焼肉ですか」
「何だ、不満か?」
「むしろ大好物ですよ。ご馳走になりますね、ボス」
「うむ」
■■■
「委員長、夜分遅くに失礼します」
「…………なに?」
──同時刻、ゲヘナ学園中央区・風紀委員会本部。その一室に、コンコンと扉を叩く音が響く。書類の山に埋もれていた風紀委員長の”空崎ヒナ”は、ゆっくりと顔を上げた。
︎︎キーボードを叩きながら、もう片方の手ではペンを走らせる。作業の手は止めずに、入ってきた部下の表情を一瞥するなり「ああ、面倒事だな」と直感する。案の定、彼女の眉間に皺が寄った。
︎︎夜はすでに深く、時計の針は午前零時に迫っている。だが毎日のようにテロや大規模な銃撃戦が起こるゲヘナにおいて、風紀委員会に安息の日などない。当然、そのトップに立つヒナも例外ではなく、一週間の平均睡眠時間はたったの三時間だ。
︎︎しかも今日は、「美食研究会」と「温泉開発部」が同時多発的に事件を起こした。彼女たちが事件を起こすのは別に珍しいことではないのだが、まるで示し合わせたかのように暴れ出すものだから現場の委員では対応に手間取った。そのためヒナもやむなく前線へ赴き、ようやく鎮圧したのが昼過ぎのこと。
︎︎だというのに、未処理の書類がまだ山積みだ。どうにか夜までに終わらせるつもりだったが、結局この時間になっても終わりが見えない。だからこそ今また新たな問題を持ち込まれるのは、正直うんざりだった。
そんなヒナの心境を察してか、彼女を常に支えてきた風紀委員会のNo.2──行政官の”天雨アコ”は、非常に疲れた表情のまま前へ進み出る。
「外郭区を巡回中の風紀委員から報告が入りました。ゲヘナ自治区にブラックマーケットの指名手配犯が侵入したとのことです」
「……指名手配犯?」
「例のマフィアですよ。うちでも手配をかけている"赤城リナ"です。……ヒナ委員長、どうされますか?」
︎︎その名を聞き、ヒナはわずかに目を細めた。
「……ああ、あの子ね」
︎︎脳裏に浮かぶのは、彼女が情報部にいた頃に目を通した記録だ。
︎︎ゲヘナ学園の情報部は、生徒の安全確保を目的に、他学園の有力な生徒を"潜在的脅威"としてリストアップしている。そのデータの中に名を連ねていたのが──組織犯罪集団オラトリウム首領、赤城リナだった。
︎︎名だたる凶悪犯……現在は矯正局に収監中の"災厄の狐"や"伝説のスケバン"などと並び、彼女はゲヘナにとっての明確な危険因子として扱われていた。
︎︎ヒナ自身も、興味本位で彼女の経歴を調べたことがある。
──自分と同い年、トリニティ総合学園の元生徒。自主退学後、ブラックマーケットで旗揚げ。他組織との抗争を厭わない好戦的な姿勢と、裏社会でも知られる卓越した戦闘能力を持つ。
︎︎そして……去年の夏頃に起きた大規模な抗争。
︎︎マーケットを飛び出したオラトリウムは、D.U.やゲヘナ、トリニティ、ミレニアムといった主要エリアで敵対組織との戦闘を繰り広げた。勢力争いによるものだと云うが、多数の施設を破壊し市民にも被害を出したことで、その後ヴァルキューレから正式に指名手配されている。
︎︎ヒナにとって、赤城リナの認識はその程度だ。
︎︎理由は単純である。何故ならばリナの指名手配後、オラトリウムはマーケット外での戦闘をほぼ行っていないのだ。風紀委員会が彼女の部下を捕らえたことは何度かあるが──リナ本人と戦ったことは今まで一度もない。
︎︎ヒナ自身も、情報部で得た知識や他学園から寄せられた情報はあるものの、リナ本人と顔を合わせたのは数えるほど。しかも遠目に見たことがあるというだけで、会話などしたことがなかった。故にヒナは、彼女の為人や性格もほとんど知らなかった。
「…………赤城リナひとりなの?」
「いいえ。二台の車でやってきているようなので、彼女を含めて八人ほどになるかと」
「そう……」
︎︎ヒナは沈思する。
︎︎彼女は指名手配犯だ、自分たちが見逃す理由はない──だが、なぜキヴォトス各自治区が急激な治安の悪化に頭を悩ませているこのタイミングでゲヘナに来たのかが分からない。
︎︎ただの気まぐれか、それとも何か目的があるのか。いずれにせよ、こちらから手を出すのは得策ではないだろう。マーケットで囁かれる噂のすべてを信じるつもりはないが、もしそれが本当なら、今日ヒナが鎮圧した問題児どもとは次元が違う。
「(……面倒くさい)」
︎︎他の風紀委員が相手をするには荷が重すぎる。それは、かつて情報部が出した分析からも明らかだ。
︎︎だがアコの報告では彼女がゲヘナに来たというだけ。まだ何かをしたわけではない。今無闇に動くのは悪手だ。
「赤城リナを発見した部隊は今どうしているの?」
「ドローンを使いながら車を追っています。他のエリアで哨戒任務をしている部隊も、彼女たちに合流しようと移動しているところです」
「……分かった。そのまま監視体制を維持するよう、その子たちに伝えてちょうだい」
「……えっ、と。それだけで良いのですか?」
「何かあれば私がすぐに出る」
︎︎アコは納得しきれない様子で、一瞬視線を揺らした。
︎︎ここ数年、キヴォトスを騒がせてきたマフィアの首領が、非常に少人数でゲヘナに侵入している──風紀委員会にとって、これほどの好機を見逃す理由があるだろうか。
︎︎まして、ゲヘナ最強たる委員長のヒナならば確実に制圧できるはず。それだけに、アコはこの判断には戸惑いを覚えた。
︎︎それでも彼女はどこまでもヒナに忠実だった。この行政官が、委員長の決定に異を唱えることなどありえないのである。
「了解しました。すぐに伝えます」
︎︎軽く頭を下げ、アコは執務室を後にした。ヒナはその背を見送りながら、散らかった書類の山へと視線を戻す。
︎︎単に"面倒だから"ではない。赤城リナは無秩序に暴れるだけのならず者とは違うと、ヒナが判断していたからだった。
︎︎そもそも彼女が、わざわざゲヘナ風紀委員会と衝突して何を得るというのか。
︎︎情報部の記録でも、彼女が関心を向けているのは一貫してブラックマーケット内の勢力争い。指名手配されたのも、その抗争が外部の市街や生徒を巻き込んだからに過ぎないのだ。彼女本人が市街地で暴れ回った訳でもない。
︎︎そして、報告によれば今のところ彼女は何もしていない様子。ならば、こちらから積極的に動く必要もないだろう。
︎︎だが──もしも彼女がゲヘナで何かを起こすのなら、そのときは自分が出る。ヒナの命令は、ただそれだけのことだった。
「……どうか、何もありませんように」
︎︎小さく呟いた声が、静まり返った執務室に淡く響いた。
︎︎ただでさえ問題児たちの相手で疲れ切っているというのに、この深夜に、ブラックマーケットで勢力を拡大するマフィアの首領と戦う羽目になれば、夜明けまで家に帰ることなど到底叶わない。それどころか、徹夜で翌日の職務に突入するのが確実だ。
︎︎赤城リナが容易く倒せる相手ではないと分かっているからこそ、ヒナの願いは切実だった。
︎︎どれほど優れた戦闘力を誇ろうとも、彼女とて人の身に過ぎない。多忙な職務に追われ、慢性的な睡眠不足に苛まれ、コンディションは最悪だった。救急医学部の生徒たちからは「いつ倒れてもおかしくない」と幾度となく忠告されているほどである。
︎︎それにしても、よりによってこんな時期にやって来るとは。
︎︎ヒナは心の中で悪態をつく。
︎︎元よりゲヘナ自治区は治安が悪いことで有名だったが、連邦生徒会長が姿を見せなくなってからは混乱がさらに深まり、無法地帯と化しつつあった。にもかかわらず、わが校の生徒会長は玉座にふんぞり返って高笑い。
︎︎ムカつくにも程があるが、だからといって責任感の強いヒナが職務を放棄するはずもなく、今日もまた、ろくに休む間もなく不良たちの制圧に奔走し、山積みの事務作業を片付けている。
︎︎そんな状況下でマフィアまで出張ってきたのだから、たまったものではない。本当に勘弁してほしいと、ヒナは心底思った。
︎︎しかし──ヒナやアコといった一部メンバーを除く風紀委員会が、マフィア襲来という突然の報せに動揺していた最中、当のオラトリウムはというと……。
「くく、どうだ皆、ここの肉は美味いだろう。なにせかの”美食研究会”お墨付きだからな」
「めっちゃ美味いっす! ボス!!」
「油の乗った肉に白米、これぞ至高の組み合わせ」
「本当は他の奴にも食わせてやりたかったが、まあそれは今度だ。金なら気にするな、全部私が出すからね」
「ふぅー! 最高ですボス!」
「マーケットのガムみたいなクソ肉とは全然違う……」
︎︎意気揚々と深夜の焼肉パーティーを楽しんでいた。
︎︎なお余談であるが、もしもの事態を考えて寝ずに仕事を続けていたヒナが監視に当たっていた部隊からの報告を聞いた際、なんとも形容し難い顔で唸りながら物凄い殺気を振りまいたとか。
︎︎