マフィアのボスは元シスターフッド 作:茄子与一
「ボス、そういえばニュースはご覧になられましたか?」
「……? なんだね、急に」
︎︎オラトリウムがブラックマーケットに構える裏カジノ。
︎︎その最奥にある、豪華絢爛な装飾で彩られたVIPルームで、リナはこの店を任せているマネージャーからの接待を受けていた。カジノを包む異様な熱気とは対照的に、お気に入りの〈プッシー・キャット〉は氷のように冷えている。
︎︎たまに飲みながら、適度に紫煙を燻らす。これほど心身が落ち着くものはない。マネージャーからの近況報告を受けつつ、ゆったりと寛いでいたリナだったが、雑談がてらに挟まれた問いかけに首を傾げた。
「おや、見ていらっしゃらないので? SNSやテレビでもそこそこ話題になっていますよ。なんでも連邦生徒会の方で新たな組織が発足したとか」
「……ああ、あれか。〈先生〉とかいうよく分からない大人の話だろう?」
「ええ、そうです」
︎︎頷くマネージャーを視界に収めながら、リナはふん、と鼻を鳴らす。その顔はどこか機嫌が悪そうだった。
「愚鈍な連邦生徒会め……何が〈
「やはりお気に召しませんか、ボス」
「君な。奴らのせいで余計な抗争が十三件も増えたんだぞ。恨み言の一つや二つ吐きたくなるものさ」
──連邦生徒会長の失踪。
︎︎それを知ってから数日は、オラトリウムも普段通りの日常を過ごせていた。それが明確に変わったのは、ミレニアムで発電所がシャットダウンしたり、各自治区のチンピラが重武装化して他校のグループと衝突し始めた辺りだろう。
︎︎それだけならまだ良かった……のだが、中にはブラックマーケットで名を挙げようとする愚か者もいた。そのため彼女たちの矛先が、クロノスにも取り上げられることのあるオラトリウムに向くことが多々あり、リナ達はつい昨日までそれらをチマチマと潰して回っていたのだ。
︎︎おまけに今度はマーケットで敵対する他の組織からも横槍が入るなど、ここ最近は散々な目に遭っていたのである。
︎︎元を辿れば、すべては連邦生徒会の機能不全が原因だ。もとより好ましい印象を抱いてはいなかったが、今回の件で評価は決定的となったといえよう。
︎︎未だ動かぬ連邦生徒会に不満を抱きつつ、普段は放任主義のリナも、あまりの襲撃頻度に辟易し、珍しく自ら銃を手にして外での警戒態勢を敷いていたほどであった。
︎︎そんな最中、D.U.でそれなりの規模の騒乱が発生したとの報告が彼女の耳に入る。
︎︎ヴァルキューレ警察学校も治安崩壊の瀬戸際でキャパオーバー、SRT特殊学園も手網を握る連邦生徒会長がいなければもはやカカシ同然。さて、どうなるか──とリナは気にしていたが、まさか正体不明の大人がその騒動を収めるとは予想だにしていなかった。
︎︎現場の状況は、D.U.にある拠点からすぐさま飛ばしたドローンのライブ映像で把握していたし、同時進行で組織が誇る凄腕のセキュリティ・ハッカーたちが連邦生徒会の情報を盗んでいたのもあり、その大人がキヴォトスに赴任していた〈先生〉というのは、連邦生徒会が公表するよりも早い段階で知っていた。
︎︎とはいえ、その先生とやらにリナの関心が向くことはなかった。それよりも先に、矯正局から複数の凶悪犯が脱獄したとの報せを受けていたからだ。
︎︎災厄の狐、慈愛の怪盗、伝説のスケバン……ああ、聞くだけで頭が痛くなる面子だ。クロノスがまとめて〈七囚人〉と呼ぶ彼女たちと直接の敵対関係はないし、わざわざ厄介極まりない連中と矛を交える気もさらさらない。確かに先生や
︎︎特に災厄の狐は、気の赴くままに破壊行為に及ぶ特大のテロリストとしてこのブラックマーケットでも悪名高い。もし彼女の矛先がオラトリウムに向けば、甚大な被害は避けられないだろう。かといってハナから負ける気は無いが、火種を抱えていない相手にこちらから仕掛ける訳にはいかず、彼女への対処はオラトリウムが後手に回る他ない。
︎︎そんな嫌な予想が頭をよぎり、リナは思わず大きく溜息をついた。憂鬱な気分を紛らわせるように、水滴の滴るグラスを持ち上げ、クイッと飲む。
「大変ですねぇ」
「他人事のように言うんじゃないよ」
「ははっ、私がボスに任されているのはカジノだけですから」
「まったく……相変わらず呑気なやつだな」
︎︎このひと月で色々とあったキヴォトスだが、幸いにも各自治区の混乱はひとまず落ち着きを見せつつある。機能不全に陥っていた連邦生徒会がようやく動き、インフラ復旧や主要校への支援を開始したからだ。
︎︎溜息をついたのは、暴れる不良たちに武器を売りつけていたブラックマーケットの各組織だった。所詮は一時のバブルに過ぎなかったのだろうが、それでも十分に稼いだことだろう。まったく羨ましい限りだ。リナは内心で舌打ちした。
「……やっぱり我々も兵器産業に手を出すべきだろうかと最近悩んでいるんだが……参考までに君はどう思う?」
「フロント企業を立てて表で売るにしろ、マーケットで犯罪者相手に売るにしろ、やっぱり最大手のカイザーインダストリーとは何らかの形で協力しないと難しいんじゃないですか? ちょっとしたシノギ程度ならともかく、本格的に資金源とするなら、連中に筋を通した方が無難ですよ」
「それは嫌だ」
「じゃあ無理すね、あははは」
︎︎軽快に笑うマネージャーを見て、リナの口元も僅かに緩んだ。彼女とは組織創設以来の仲だ。幹部ではないが、それに準ずる扱いをしている。ゆえにこの程度の気さくなやり取りで気分を害するほどリナの心は狭くない。むしろ忌憚のない意見をくれる存在は、リナにとっても有難いものだった。
「そういえば、この店に付きっきりの君にはまだ言っていなかったがね。実は、近いうちにカイザーとやり合うことになるかもしれなくてな。そんな相手に協力を頼むなんて私が言うわけがないだろう?」
「……カイザーと。それはまた厄介な話で……」
「我々がアビドスで採掘場を建設しているのは知っているね?」
「ええ……ああ、なるほど」
「そういう事だ。最近の襲撃も連中が絡んでいるとみて間違いないだろう」
︎︎リナは静かにグラスを回しながら、氷がカラリと音を立てるのを聞いた。すでに昔から何となく察していたことではあるが、やはり確定事項となると面倒な話である。カイザーコーポレーションはただの企業ではない。その背後には、キヴォトスの経済界も軍需産業も絡み合う巨大な利権の網が広がっている。ブラックマーケットとも浅からぬ繋がりがあるのは、リナもここ数週間で身に染みていた。
「確かに時期的に無関係ではなさそうです」
︎︎マネージャーは顎に手を当て、考え込むように目を細めた。普段は飄々としている彼女だが、こうした場面では意外に慎重な一面を見せる。リナはそんな姿を横目に、さらに話を続けた。
「それと、私が今日このカジノに顔を出したのはだな……君の顔を見たかったというのもあるが、一番の理由は、この店の顧客の中にカイザーの関係者がいないか確認したかったからだよ」
「……カイザー関係者ですか?」
︎︎マネージャーはゆっくりと身を引き、深くソファにもたれかかった。VIPルームの小窓越しに、カジノフロアの一部が見える。煌びやかなシャンデリアの光がテーブルに反射し、遠くではルーレットが回る音が微かに響く。熱狂に包まれた客たちは、勝敗に一喜一憂していることだろう。
︎︎だが、ここはそれとは無縁の空間だ。分厚い壁とカーテンに遮られたこの部屋には、雑多な喧噪も届かない。静けさの中、グラスに触れる指先の動きすら際立つようだった。
「いいえ、来てないと思います……」
︎︎マネージャーは慎重に言葉を選びながら答える。完全な自信はないが、現時点での情報としてはそう判断するしかない。
「出来ればカイザーPMCの兵士がいれば情報を得やすい。調べてくれないか」
「……分かりました。もし発見したら、適当な理由を付けて捕まえます?」
「ああ。是非そうしてくれ」
︎︎リナは氷の溶けかけたグラスを軽く傾け、口を湿らせる。冷たい液体が喉を滑り落ちる感覚を味わいながら、目の前のマネージャーに視線を向けた。
︎︎このカジノは、ブラックマーケットの顧客層にも人気のある店だ。故に多くの客を抱えており、彼らが生み出す利益は組織の重要な資金源となっている。ギャンブルとは総じて運営側が儲かる仕組みなのだ。
︎︎無論、オラトリウムとの関わりは表向き伏せてあるが、察しのいい者ならば、店内に控える用心棒の存在を見てすぐに理解するだろう。ここが誰の縄張りなのかを。
︎︎しかし、時折そういった"察し"に乏しい者たちが騒ぎを起こし、あっさりとしょっぴかれることもある。そしてリナは、そんな連中の中に、カイザーの関係者──特にカイザーPMCの兵士が混じっている可能性に期待していた。
︎︎要職についている社員が、こんなところに出入りしているとは思えない。だが、何も知らぬ下っ端がノコノコと遊びに来ていることは十分にあり得るし、あるいは情報を持っていても、このカジノがオラトリウムの支配下にあると気づかず、無警戒に足を踏み入れている者もいるかもしれない。
︎︎どちらにせよ、捕まえて情報を吐き出させるつもりだった。一般生徒や市民への拷問は固く禁じているリナだが、敵の……それもオートマタであれば、殺さない限り何をしても構わないというスタンスである。
「奴らの四肢でも剥いでダルマにしてやれば、漏れたオイルで口が滑ることもあるだろうね。くくく」
「……その顔やめてくださいよ、ボス。怖いです」
︎︎マネージャーが冗談めかして肩をすくめるが、その声には微かな本音が滲んでいた。
︎︎しかしリナは薄く笑ったまま、グラスの氷を指で転がす。静寂が支配するVIPルームの中で、微かな氷の音だけが響いた。
■■■
──動揺と不信が混じった目を眼前の男に向けながら、ホシノは思案に耽っていた。
︎︎数日前、後輩のアヤネが連邦生徒会に宛てた支援要請。何年もアビドスを放置してきた彼女たちが、それを受理するとは欠片も思っていなかった。
︎︎だが、現実にはこうして"支援"が来た。しかしそれに対するホシノの感情は、一言では言い表せない。
「そしてこちらは委員長の──三年のホシノ先輩です」
「いやぁー、よろしく”先生”」
︎︎登校中にシロコが連れてきたという大人の男性。なんでも、連邦捜査部シャーレの先生らしい。
︎︎対策委員会の隣の部屋で昼寝をしていたホシノだったが、性懲りもなく攻めてきたカタカタヘルメット団のせいで、挨拶よりも先に学校防衛を優先せざるを得なかった。
︎︎セリカに引っ張られて部屋に入った時には、まだ微睡みの中にあったせいで、大して気にも留めなかったが、戦闘で目が冴えた今は違う感情を抱いていた。
「(シャーレ……最近出来た、連邦生徒会の関連組織)」
︎︎厄介だな、とホシノは思う。
︎︎弾薬の在庫が慢性的に不足しているのは確かで、それに危機感を抱いたアヤネがシャーレに支援を求めたのも理解できる。むしろ、健気な後輩の行動には感謝すら覚えていた。
︎︎しかし、それはそれとして。
──……大人なんて信じられない。
︎︎彼女はそんな感情の方が先に来ていた。
︎︎大人たちに良いように扱われてきたのが今のアビドスなのだから、いかに連邦生徒会と深い関わりを持つ組織とはいえ、彼が"大人"である以上、ホシノが警戒するのは当然のこと。
︎︎いや、むしろシャーレが、"連邦生徒会の関連組織”であるという点こそが、彼女の警戒心をより強固なものにしていた。
「(あの子との関わりがバレたら面倒だなあ……)」
︎︎ホシノは軽くため息をついた。
︎︎他の後輩たちはまったく知らないことだが、ブラックマーケットの組織犯罪集団オラトリウム──正確にはそのフロント企業との関係を持つホシノにとって、連邦生徒会と関わりのある人間がアビドスにいることは、即ちリスクの上昇を意味している。
︎︎たとえこのシャーレとやらの人間が表向き中立であろうとも、連邦生徒会との関係を持つ以上、どこまで信用できるかは分からない。普段通りの気楽な振る舞いを装いながらも、ホシノの思考は警戒の色を徐々に強めていた。
︎︎だがそんな彼女の態度は、相手にも伝わるものである。
「”(……うーん、ホシノって子……少し妙だ)”」
︎︎アビドスの生徒たちと交流していた先生は、漠然とした違和感を覚え始めていた。
︎︎全員に歓迎されるわけではないのは分かっていた。だが対策委員会とやらの委員長だという小鳥遊ホシノがこちらに向ける警戒心は、単にアビドスにやってきた
「”(普通の反応なら、もっと露骨に反発するか、あるいは頼るかのどちらかだ。けれど、この子は……)”」
︎︎決して言葉にはせず、先生はホシノの表情を注意深く観察する。アヤネたちに向ける笑みは崩さないまま、しかし彼は視界の端でしっかりとホシノを捉えていた。
「”(……何か隠している?)”」
「ご覧になった通り、我が校は現在危機にさらされています。そのためシャーレに支援を要請し、先生がいらしてくれたことで、その危機を乗り越えることが出来ました。……さっきの人達に学校を乗っ取られていたかもしれませんし、感謝してもしきれません……」
「”ねえアヤネ、対策委員会っていうのは……”」
「ああ! そうですよね、申し訳ありません。ご説明致します。対策委員会とは──」
︎︎先生の疑問に答えるため、アヤネは頷いてハキハキと喋り出す。
︎︎このアビドス高等学校唯一の部活。全校生徒はこの場にいる五名のみ。他の生徒や市民は他の自治区へ移り、先程のヘルメット団のようなチンピラに狙われている……。そんなアビドスを蘇らせるために集った有志の集まりが、この対策委員会であるとアヤネは言う。
「”なるほどね。ありがとう、アヤネ”」
︎︎そう呟きながら、先生はチラリとホシノを見た。
「”(まずは全員に信用されるようにするのが先、かな)”」
「もしシャーレからの支援がなかったら、今度こそ万事休すってところでした」
「ん。恥ずかしい話だけど、私たちだけじゃ学校を守りきるのは難しい」
「補給品も底をついてきてたし、流石に覚悟したねぇ〜。ホントいいタイミングで来てくれたよ、先生」
︎︎ホシノが言葉を継ぐ。その口調は飄々としていたが、どこか含みがあった。だが、彼はそこには反応を見せない。
「”(いいタイミング、ね……助かったと言いつつ、何かを探るような言い方だったな)”」
︎︎それは単なる思い過ごしかもしれない。だが、顔を合わせてからこれまでホシノが見せてきた微妙な態度を思えば、気のせいと一笑に付すには、いささか引っかかるものがあった。
︎︎かといって、こちらが先に警戒心を見せれば、それこそホシノに信用されなくなる。
︎︎一度、静かに息を吐き出し、先生は改めて穏やかな表情を作る。視線を彼女たちに戻し、自然な調子で会話へと意識を向けていった。
「うんうん、もうヘルメット団なんてへっちゃらですね! 大人の力って凄いです!」
「そだね〜……それで一つ私から提案なんだけどさ? せっかく先生も居るし、シャーレから弾薬の支援も受けられたことだし、これを機にヘルメット団の前哨基地、襲っちゃわない?」
「前哨基地……ですか?」
「うん。さっきは撃退できたけど、どうせ数日もすればまた襲ってくる。ここんとこ、ずっとそういうサイクルが続いてるからね。今なら、一つ厄介ごとを潰せるかもーって思ってるんだけど、どう?」
︎︎確かにホシノの提案は極めて合理的だった。
︎︎頻発するヘルメット団の襲撃は、借金返済に追われるアビドス高等学校にとって、確実に大きな損害となっている。否応なく応戦を強いられるホシノたちは、銃器やドローンを駆使して抵抗しているものの、資金難にあえぐ彼女たちには弾薬の調達すらままならない。
︎︎先生はまだ知る由もないが、アビドス高校はオラトリウムのフロント企業からの寄付も、生徒のバイトの給料も、その大半は借金の返済に回さなければならない。まさに「無い袖は振れない」状況である。
︎︎そして、弾薬が尽きれば、最悪ステゴロでの応戦さえ辞さない覚悟が求められる──ホシノであればそれも十分に可能だろうが、だからといってそれは最善策ではない。
︎︎ならば、そもそもの原因であるヘルメット団の根を断つことは、この良くない状況を改善する確かな一手となる。借金返済の障害が一つ減るだけでなく、防衛線そのものの負担も軽くなるのだから。
︎︎しかも、今は戦闘直後で相手も疲弊しているはずだ。加えて先生の巧みな戦術指揮が加われば、彼らのようなチンピラ相手に敗れるはずもない。
︎︎好戦的なシロコや、これまで何度も痛い目に遭わされてきたセリカは、すでにやる気十分といった様子だった。ノノミも静かに頷いて賛同している。そして──、
「先生は……どうですか?」
︎︎戸惑いがちに、アヤネは先生の判断を仰いだ。
「”良いんじゃないかな”」
︎︎アヤネにそう問われた先生は、特に迷うことなくホシノの提案を了承した。彼女の態度にいくつか気になる点がないわけではなかったが、今回の申し出自体に不審なところは見当たらない。
︎︎それに、状況を俯瞰すれば、今が動くべき時だということは明らかだった。敵もこちらも消耗してはいるが、勢いをそのまま攻勢に転じられれば、損耗を抑えつつ決定的な打撃を与えられるかもしれない。
「よっしゃ、先生のお墨付きも貰えたことだし。この勢いでいっちょやっちゃいますか〜」
︎︎ホシノは肩の力を抜いた調子で笑いながら、周囲の後輩たちを見回す。
︎︎その笑みは柔らかく、どこまでも飄々としていたが、瞳の奥に潜む光はどこか鋭い。ほんの一瞬、それが戦場に立つ者の眼だと先生は直感したが、ホシノはすぐにいつもの調子へと戻っていた。
「ん。ヘルメット団の前哨基地は、ここから約30kmくらい。遅くなってもあれだから、今から出発しよう」
︎︎シロコが静かにそう言うと、空気がピンと引き締まった。
︎︎誰も異を唱えることはない。先ほどまでの和やかな雰囲気の中にも、砂漠の戦場を生き抜いてきた者たちの覚悟が、無言のうちに共有されていた。
︎︎荷物を整え、武器の状態を確認し、各々が支度に取りかかる。装備を手にするその所作には無駄がなく、動きにも慣れが滲んでいた。日常に戦闘が食い込んでいる彼女たちの「普通」は、キヴォトスの”外”とは違っているのだと先生は感じる。
︎︎まるで、これが学校生活の一部であるかのようだった……というか、いつものことなのだろう。戦闘が日常に組み込まれている彼女たちは、まるで部活の準備をするかのように自然な手つきで戦いの支度を進めている。
︎︎先生は静かにその様子を見守りながら、ふとホシノに目を向けた。飄々とした態度を崩さない彼女の背に、彼はどこか頼もしさすら感じている。
──もちろん、何かを抱え込んでいるのであれば話して欲しいという気持ちはあった。
︎︎だが今はそれを口にする場面ではないし、そもそもアビドスに来たばかりの自分に躊躇いなく話せるような内容であれば、あのような疑いに満ちた警戒感のある視線は向けてこないだろう。
︎︎だが、これも彼女なりに考えての提案だったはずだ。そう思えば、さきほどの微妙な間や含みのある言い回しも、きっと最年長の先輩として後輩への責任感から来るものだったのかもしれない。彼女の立場に自分を置き換えてみれば、見知らぬ大人を警戒するのは至極当然のことだった。
︎︎疑うより、まずは信じる。
︎︎キヴォトスに赴任したばかりでまだ不慣れなことは多いけれど、彼はそう自分に言い聞かせながら、深く息を吐いて教室の外に出る生徒たちの後を追った。
︎︎
──約10キロの道のりというのは、人が歩けばおおよそ二時間である。だがこのアビドスの街では話はそう単純ではない。
廃ビル、崩れたアーケード、朽ちた標識。陽光に照らされて蜃気楼のように揺らぐ街並みの中を、アビドス対策委員会の一行は淡々と進んでいく。目的は先ほどアビドス校を襲撃してきたヘルメット団の前哨基地を叩くこと。
︎︎だが、あまり急いで向かう必要はなかった。敵もまた、アビドス生との戦闘で相当に手痛い目に遭っているからだ。戦車の類は既に破壊しており、中には負傷している者もいるだろう。体力を消耗した状態で炎天下のアビドスを進むのは、それなりに時間がかかる。
だが、それに対してホシノたちはまだ体力に余裕がある。襲撃直後に先生の戦術指揮を受けており、消耗は普段より少ない。ヘルメット団が前哨基地に戻る頃合いを見計らって追撃すれば、拠点に到着したばかりの敵を迎え撃つことができるだろう。僅かな時間差での接触が見込める以上、彼女たちにとっては悪くない条件である。
少し懸念すべきは、唯一、元々の体力にあまり自信のない“先生”の存在くらいだった。
ホシノたちの後方支援を行うために校舎に残ったアヤネの音声ナビゲートを頼りに、代わり映えのない街をひたすら歩くこと数十分。
信頼関係の構築も兼ねて彼女たちとの雑談を交えていた先生だったが、つい数日前まで空調の効いたシャーレの部室で仕事をしていた反動か、あるいはアビドスでの遭難による影響か、満足に回復したとは言い難い体力が物凄い早さで消耗していくのを彼は感じていた。
額に滲んだ汗を拭いながら、蒸し暑いシャツの中をパタパタと扇ぐ。首元のボタンは既に外していたが、乾いた熱気はまるでまとわりつくように離れてくれなかった。
つい、思わず漏れたひと言は、本人の意図に反して口をついて出たものだった。
「”……暑いね”」
「そう? いつもこんなんだけど」
「ん、先生。スポーツドリンク持ってきてるから飲んで」
「ありがとう、シロコ」
受け取ったボトルを傾けると、冷たい液体が喉を潤していく。
「”生き返る……”」
思わず漏れたその一言に、誰かがくすりと笑う気配があったが、特に誰も何も言わなかった。
乾いた風が吹き抜け、砂埃が視界を曇らせる。
︎︎先生は喉の渇きがひとまず癒えたのを感じつつ、背後で歩く足音や、時折響く金属音に耳を澄ませた。
皆、無言だったが、それは気まずさではなく、むしろ落ち着いた空気に包まれた沈黙だ。
先生と生徒たちの間の心理的な距離はまだ確実にある。顔を合わせてまだ半日も経っていないのだから当然だ。しかし先生は、こうして並んで歩いているだけで、ほんの少しずつ打ち解けている気がしていた。
「”……ん?”」
それからも何とか歩き続けていた先生だったが、市街地に入ると人の往来が僅かに増えたような気がして、右へ左へと視線を動かした。
アビドスに来てからというもの、これまでほとんど見かけることのなかった市民の姿に、彼はわずかな驚きを覚える。とはいえ、それを口に出すことはなかった。こうした環境にも人が暮らしているのだ、と改めて思い知らされたからである。
しかし、やはりその数はD.U.の街とは比べ物にならなかった。
あらゆる施設が打ち捨てられたままの景観の中を歩きながら、先生は廃校寸前のアビドスと、その自治区の現状を目の当たりにし、あのときアヤネの要請に応えた判断は、決して間違いではなかったと確信する。
そんなことを考えていた最中、ふと、彼は誰かに見られているような気配を覚えた。
「先生?」
歩調を緩めた彼の様子に気づいたノノミが、首を傾げて尋ねた。先生はその言葉に曖昧に頷きながらも、視線の先を見定めようとする。
「”ああ、いや。……誰かに見られているような気がして……”」
妙な胸騒ぎに眉をひそめたその時、隣で歩いていたホシノが、少しだけ困ったような笑みを浮かべて言った。
「……あー、なるほどね。気にしなくて大丈夫だよ、先生」
「”ホシノ?”」
「ほら、あそこ」
ホシノが白い指で指し示す先。反対車線の斜め前方、数メートル先の路肩に数台の大型トラックが停まっていた。
運転席に座っているふたつの人影が、どうやらその視線の主らしい。
「”あれは?”」
警戒の色を滲ませながら尋ねる先生に、ノノミがすぐに答える。
「ああ! あのトラックは〈
「”……GM?”」
首をかしげる先生の問いに、今度はアヤネのナビゲーションが通信越しに応じた。
『一年ほど前にアビドスに進出した、新興の鉱業会社です。現在、先生たちのいらっしゃる地点からおよそ20キロ離れた場所で、採掘場の建設を進めています。おそらく、あの車両はその作業用のものかと。特に問題はありませんのでご安心ください』
アヤネの冷静な解説が先生の不安を静かに払っていく。
「ん。みんな良い人達」
それまで黙って話を聞いていたシロコも、簡潔な言葉でそう告げた。穏やかなその声に、どこか先生の緊張も和らいだ。
アヤネ曰く、かつてのアビドス自治区では金が採れたという。
だが、度重なる砂嵐や校舎の移転により、採掘の技術も資本も失われ、今ではその痕跡さえろくに残っていないらしい。
それでもなお、ある程度の埋蔵量があったのではないかと見込まれ、ある日アビドスに〈GM社〉を名乗る外部企業から土地購入の打診が届いた。
当時のアビドスにはまだホシノを含めて三人の生徒しかおらず、加えてそのシロコとノノミもまだ新入生──故に企業との交渉はすべて、ホシノひとりの肩に委ねられていたらしい。
先生は、年若いながらも一人で交渉の矢面に立ち、企業との契約をまとめ上げたホシノに、思わず感嘆の声を漏らした。
しかしそれは、ただの世話好きで片付けられるような役割ではない。自分ひとりの判断が、学校の未来を左右するかもしれない重責……その責任を背負い続けている彼女の背中を、先生は静かに横目で見つめていた。
アビドスに来る以前から、彼は慣れない書類仕事のサポートを通じて、会長代行の七神リンをはじめとした連邦生徒会の面々と接する機会が多くあった。
その中で、キヴォトスという学園都市が「各校に強い自治権が与えられている」特異な場所であることは知識として理解していたつもりだった──が、こうして実際に目の前で生徒が企業と契約交渉を行い、学校を支えている姿を見ると、その現実に改めて驚かされる。
「でも、私はあの企業のこと、よくわかんないのよね。ホシノ先輩、全然教えてくれないんだもん! 良い人たちなのは知ってるけど……」
セリカが少しむくれたように言葉を漏らす。
「おじさん、セリカちゃんにはまだ商談とかは早いと思うなぁ~?」
「ど、どういう意味ですか!?」
「だって……ねぇ?」
ノノミが肩をすくめて苦笑し、通信越しのアヤネもどこか似たような反応を返す。
ムキーっと怒りをあらわにするセリカの頭を、シロコが無言で撫でて宥めた。だがその一方で、彼女はどこか不審げな目でホシノを見やる。
「セリカとアヤネはともかく、私とノノミにも詳しく教えてくれないのは、なんで?」
「”……?”」
先生が何気なくホシノに視線を送ると、彼女は肩にかけたバッグのストラップを握り直しながら、苦笑まじりに答えた。
「色々あるのだよ~。なにせ大きなお金が動いてるからね。相互に守秘義務があるのさ。いくら同じ学校のシロコちゃんたちでも、そう事細かには教えられないの」
「守秘義務?」
「そう。これは言っちゃダメだよ~っていう、大事な約束のこと。シロコちゃんたちのことはすっごく信頼してるけど、アビドスの対外的な信用にも関わるから、口外できないんだよ……およよ」
ホシノのわざとらしい泣き真似に、シロコは言い返す言葉を飲み込んだ。
アビドスとGM社の交渉が行われたのは、入学して間もない頃。自分やノノミがまだその輪に加われる立場ではなかったことは、流石のシロコも理解している。
けれど、その後も何一つ教えてもらえなかったことが、どこかずっとひっかかっていた。
けれど今、守秘義務の存在を知って少しだけ納得がいく。企業と学校という違いはあれど、公的な組織間で交わされた契約は守らなければならない。世間一般の常識には少々疎いシロコであっても、それくらいのことは理解していた。
そんなやり取りのあと、彼女たちはGM社のトラックを横目に見つつ、再びヘルメット団前哨基地への道を歩き始めた。──だが、そのなかで先生だけは、先ほどのシロコとホシノの会話の中に、妙なひっかかりを覚えていた。
「(……守秘義務、契約……なるほど)」
飛躍した考えだと、自分でも思う。けれど──、
初めて教室でホシノと目が合ったときに感じた、あの微かな躊躇いのような視線が、ふと彼の脳裏を掠めた。
もしかしたら、自分の存在が何かに触れてしまったのだろうか。しかし、その「何か」が一体何なのか、今の彼にはまったくわからなかった。
ただこのアビドスという場所が、見た目以上に複雑で、そして繊細な事情を抱えていることだけは、少しずつ肌で感じ取れるようになっていた。
例えば──会話の端々に滲む言葉の重み。
どこかで何かに線を引こうとするホシノの言い回し。
そして、笑顔の奥に見え隠れする、言葉にできない何か。
けれど今はまだ、それを深く問いただすだけの言葉も、立場も持ち合わせてはいない。
ゆえに彼はただ、目の前を歩く彼女たちの背中を見つめることしかできなかった。
──アビドスが、どんな日常を積み重ねてきたのか。
そして、自分がこれからそこにどう関わっていくべきなのか。
先生の胸の内に、そんな小さな問いが芽生え始めていた。だが、その答えは近いうちに明らかになっていくことになる。
砂にまみれた道の上を、彼らの影が静かに伸びていた。
割と久々ですが生きてます