──日が暮れ、夜の帳が降りた頃。エヌラスは校内を巡回する。なにしろ中央は広い。知る限り一番広い敷地を持つ。なんなら裏には畜産場どころか畑まであるのをつい最近知った。いや、本来なら説明会があったはずなのだがすっかり頭から抜け落ちていたのである。秋川理事長が少しでも学園の出費を抑えようと併設した農場は一部生徒の自主的な手入れなどにより毎年新鮮な野菜が収穫されていた。
夜の校内も慣れたもので。
なんならちょっとこの世のものではない奴らの姿を見るのも、慣れたもので。
音楽室で鳴るピアノに対抗してギターをかき鳴らして黙らせた。
理科室の人体模型をコブラツイストで絞め落とし撃沈。
図書室で飛び交う本の群れをライターで脅迫し整列させた。
メソメソ泣いてるトイレの花子さんも常連さんだ。早よ成仏しろ。
「……なんか今夜はやたら多いな?」
エヌラスは不思議そうに首を傾げながらも、肩車した花子さん(仮)を支える。なんで懐いちゃったの君。
今夜はご丁寧に『お友だち』も加勢してくれている。気のせいでなければ花子さんと威嚇しあってる。やめなさい猫の喧嘩じゃないんだから。
「まぁどうせ校舎に残ってる生徒なんて──」
いるな。
エヌラスが立ち止まったのは最上階の廊下。『お友だち』が壁をすり抜けて教室の中を覗いていく。何事もなければそのまま階段の前で手招きをしてくれるが、隠れて校舎の中に居座る不良生徒を見つければその教室から出てくる手筈になっていた。
まさに今『お友だち』が教室から出てきている。
耳をそば立て、息を殺し、潜む相手の気配を探るとエヌラスは教室の鍵を開けて中を見渡した。手首にストラップを通した懐中電灯を持ち上げて中を軽く照らす。
無人の机と椅子が並ぶ中、肩から降りた花子さん(仮)が机に座る。そこは座る場所じゃありません。エヌラスが椅子を引くと改めて座り直した。というかどこから来た子だ花子さん(仮)。何人目だこのトイレ在住の花子さん(仮)は。
どこからかフラフラと迷い込んで来た子なのだろうが、エヌラスは首を傾げる。
教室の中を歩いて回り、掃除用具の入ったロッカーの前で立ち止まった。
「…………いや、まさかね」
懐中電灯を消して教室を後にする。
……。
…………。
静かに、物音を立てずにロッカーの扉が少しずつ開けられていくとその中から手が伸びる。ゆっくり、ゆっくりと身を乗り出す姿があった。
「……行ったか?」
「あぁ。マジで気づかれたかと思ったが、賭けは私の勝ちだな」
狭苦しいロッカーの中から出てきたのはナカヤマフェスタとシリウスシンボリの二人。声を押し殺して小さくガッツポーズを見せるナカヤマフェスタに、シリウスシンボリは悔しげに片眉をつり上げていた。しかし、すぐににやりと笑みに変わる。
「おっと、そうだった。忘れちゃいないだろうな……賭けの内容は」
「あぁ。「宿直に気づかれず、寮に戻るまで」だ」
「つまりこっからが本番だ、わかってるな?」
シリウスシンボリの言葉に、ナカヤマフェスタが頷いた次の瞬間──。
「やっぱりテメェらかナカヤマシリウスゥッ!!」
勢いよく開かれた教室の扉と怒号に、二人の絶叫が響き渡る。花子さん(仮)もめちゃくちゃ驚いていた。
「で? 何してたんだオメーら。どうせ賭け事だろうけど。今月入ってもう三回目だぞ」
ふてくされたように二人は視線を逸らしている。
「クソ、今回こそバレてねーと思ってたのに……」
「あのな。別に俺は賭け事を禁止しようとは思ってねーの。夜遅くまで学校に居残るなって言ってんの。なんかあったらどーすんだ」
そうならないために自分がいるわけだが。
「今回はなんの賭けしてたんだ?」
「宿直のアンタに見つからずに寮に戻れるかどうかって賭けだったんだ」
「私は見つかる方に賭けてたぜ?」
「そーかいそりゃどーもシリウス」
ナカヤマフェスタは「見つからない」方に賭けていたが、ぬか喜びだったことに肩を落としていた。しかし、エヌラスがそれに「ほほう?」と興味深そうに応える。
「つまりまだ、寮に戻れるかどうか、って賭けは続いてるわけだ」
その言葉に二人が顔を見合わせた。
「どうだ、ここはひとつ俺と賭けないか? ルールは単純明快、鬼ごっこだ。俺に捕まらず学校から抜け出せればそっちの勝ち。俺に捕まったら俺の勝ち。やるか?」
「どうせやるならなにか賭けてもらわないと」
「んー、じゃあそっちが勝ったら今月はお咎め無しでどうだ? 俺が勝ったら、そーだなぁ……明日、手を繋いで登校してもらおうか」
「「は!?」」
「悪い話じゃないと思うが、どうする」
ゴクリ、とナカヤマフェスタが唾を飲み込む。勝負師として、ヒリつく勝負を求めて止まない彼女の性質上、必ず受けるとエヌラスは踏んでいた。シリウスシンボリもまた、挑発的な笑みを浮かべる。
「いいぜ、お手並み拝見といこうか? ──オカルトハンターさんよ」
「受けて立つぜ」
「うーし、んじゃ──よーい、ドン!」
と言ったら、スタート。のつもりだったエヌラスは、すぐさま両脇を抜けて走っていく二人の遠ざかる足音に振り返る。花子さん(仮)もその様子を見ていた。
──夜の廊下を駆け抜ける。階段を一段飛ばしで駆け下り、踊り場でターンすると同じように降りて下駄箱を目指す。
「ハッ、ちょれぇもんさ──!」
シリウスシンボリは勝ち誇っていた。だがナカヤマフェスタは勝負師としての勘がなにかを告げている。
明らかにこちらに有利な勝負の条件に、裏があると踏んでいた。
「シリウス! なんかおかしくねぇか!」
「なにがだ?」
「考えてもみろよ、っと!」
あっという間に三階からニ階、一階に駆け下りる。あとは廊下を突っ切っていけばすぐに玄関ホールに出るはずだ。
「アイツがこんな簡単な勝負仕掛けてくると思うか?」
「だからといってどんな手品を使えばウマ娘に勝てるってんだ?」
「そりゃそうだが──」
「よぉ、遅かったな」
「「ぎゃあああぁぁぁっ!!!?」」
玄関ホールの柱の影によりかかるようにして待ち構えていたエヌラスに、二人は本気で腰を抜かしそうになった。
驚きのあまり、その場に尻もちをつく姿を見下ろしながら勝ち誇った笑みを浮かべている。
「ど、どうやって私達より先に!?」
「そんなもんご丁寧に階段駆け下りるわけねぇだろ。三階から飛び降りたんだよ」
三階から!? ──驚きに目を見開く二人の口からは乾いた笑いが出ていた。そんな二人の頭に手を置いてゲームセット。呆気ない幕引きにナカヤマフェスタはニット帽を目深に下ろす。
「あぁ、クソ。だから嫌な予感がしたんだ……」
「安請け合いするからだ。これに懲りたら────」
──エヌラスが言葉を途中で閉ざした。
「?」
その視線はまっすぐに二人の背後。無人の廊下に向けられている。
据わった目で睨みつけている迫力は人相も相まって剣呑な空気を醸し出していた。何を見ているのかと、ナカヤマフェスタが恐る恐る振り返る。
──暗闇が立っていた。そうとしか形容できない姿に、どうしようもなく背筋が凍りつく。
舌の根が乾く。息が詰まる。見てはならないものを見てしまったような感覚に、心臓の鼓動が早鐘を打つ。鼓膜を内側から叩く音がやけに頭に響く。
閉め切ったはずの廊下に、風が吹き込む。やけに湿り気を帯びたそよ風が肌に纏わりつく。獲物を前に舌なめずりされているような不快感に体が震えた。
アレはなんだ、と自問自答する前に視界を遮られる。
「ナカヤマ。
「…………」
「シリウス、振り返らずにそのまま校門まで走り抜けろ」
なにかただ事ではないことが起きているのが空気でわかったのか、シリウスシンボリは歯噛みしていた。
「……一つ聞かせろ。今、そこにいる奴は──皇帝サマの脚を奪った奴か?」
「さぁな。そいつを今から確かめるんだよ。いいから走れ。俺の予想が正しければ、アイツはこの学園の敷地から外には出れないはずだ」
エヌラスに背中を叩かれて、二人は跳ねるように立ち上がると同時に駆け出す。
──遠ざかる二人の足音が聞こえなくなってから、相手の一挙一動を見逃さまいと意識を集中させていた。
廊下の突き当り。足元の非常灯で僅かに輪郭が照らし出されている相手の姿は暗闇を押し込めた人型をしている。
二本の脚で立ち、二本の腕を垂らし、高い背丈で威風堂々と佇んでいた。
赤い瞳。黒い体躯。その姿がどうしても──自分とあまりに似通っていることにエヌラスは舌打ちをこぼす。
一歩、距離を詰める。相手は動かない。二歩、踏み込む。相手が僅かに動く。三歩目で、明確に相手が動き出した。
腕を広げ、身を屈めて跳躍する。ただしそれはこちら目掛けてではなかった。
廊下の角に向けて激突するかに思われた姿はまるで溶けるように壁の中へ消えていく。
その“性質”をエヌラスは知っていた。──あらゆる角度に潜む猟犬。
(ティンダロスか──、コイツはちと厄介だが)
対応できないわけではない。“鼻”はこちらのほうが利く。
どれほどの静寂が訪れたか。一秒、ニ秒、五秒──もしくは、一秒にも満たなかったかもしれない。エヌラスはその場から飛び退く。
頭上の照明から飛び降りてきていた相手の奇襲を避けると、即座に反撃に転じる。
拳を握るのではなく、ゆるく開いた掌底。それを相手は腕で防ぐと、脚を振り上げてくる。
蹴撃を手刀で払いのけてから、エヌラスは軸足を払う。転倒する相手めがけて拳を打ちつけようとするが、転がって避けられた。ホールに危うく穴を開けるところだった手を寸止めする。
「っぶね……たづなさんに怒られる……」
器物損壊したら絶対給料天引きだろうな。そんなのんきなことを考えながら、エヌラスは相手の姿を目で追っていた。
無構え。両腕をだらりと垂らしたままこちらをじっと窺っている。睨み合いを続けたところで時間稼ぎにしかならない──そんなエヌラスの考えを読んだかのように黒い影はホールに置かれた鉢植えの影に身体を滑り込ませた。
「ッ、くそっ!」
その気配が急激に遠ざかるのを知覚しながらエヌラスは踏み込み──両脚に紫電が奔る。
──開け放たれた校門に向けて走るナカヤマフェスタとシリウスシンボリだが、短距離で使い切れるスタミナと走り方をしていない。距離に応じたペースというものがある。無理にそれを崩せばタイムに支障をきたすことは明白だった。だが、生命の危機。引いてはレース人生の危機が迫る今の状況下においてそれらは二の次となる。
いつもと勝手の違う走りに思うように進まない二人の前に飛び出してくる黒い影は、茂みの中から姿を現していた。横から飛びかかられて咄嗟に避けたことで転倒するが、幸いにも軽い打ち身程度で済んでいることにシリウスシンボリは胸を撫で下ろす。
「ナカヤマ、大丈夫か!?」
「あぁ」
追いつかれた。赤い双眸がこちらを見ていることに怖気が走る。しかし、シリウスシンボリは睨み返していた。その姿を不倶戴天の敵であるように。
たまらず力が入る。気づけば指は固く握りしめられ、拳の形になっていた。
その鼻っ柱にせめて一撃、やり返してやりたい。
シリウスシンボリが腰を浮かせようとした瞬間、目の前の黒い影が蹴り飛ばされていた。冗談のように地面と水平に吹き飛び、芝の上を転がっていく。
「ふぅっ、あぶねぇあぶねぇ。ってなんだシリウス、俺のこと殴る気か? やめろよ、お前らに殴られたら流石に俺でも無事で済まされないと思うから」
「──……、あの野郎を私にも殴らせろ」
「ダメだ。危ねぇから」
背後から迫る相手にノールックで裏拳を打ち込む。そのまま身体全体に一本軸を通した回し蹴りで胴を抜く。大気が震えるほどの衝撃には流石に堪えたのか、相手はたたらを踏んでいた。エヌラスのスラックスズボンの裾を紫電が“パチパチ”と奔っていたのを二人は見逃さない。
返す後ろ回し蹴りで今度こそ相手の顔面を捉えるときりもみ回転しながら茂みの中に倒れ込む。
「……なんか仕込んでんのか?」
「え? あー……脚に?」
うん、と頷く二人にエヌラスは顎に手を当てて考え込む。
「こう、空気摩擦で放電現象って起こるだろ? マイクロギャップ放電ってやつ」
「あの下敷き擦り合わせる静電気みたいな奴か」
「それ」
シリウスシンボリが何か物凄い言いたそうな顔をしていた。どんな速度で蹴りを放てば摩擦帯電による静電気が発生するというのか。
黒い影が低い唸り声をあげる。まるで地獄の釜の蓋が開くような重苦しい声。しかし、相手は足取りが重そうにしていた。
見やれば、足にトイレの花子さん(仮)がしがみついている。それを振り払おうと注意が逸れた瞬間──『お友だち』による鋭い飛び蹴りが黒い影の脇腹に突き刺さっていた。完全なる不意打ちに相手も受け身を取るのが間に合わなかったのか、ぐんぐん遠ざかっていく。
ナカヤマフェスタとシリウスシンボリにはそれが見えていなかったのか、目を白黒させていた。
「……一応聞くんだが。今の見えたか?」
「なんか急にアイツがぶっ飛んだようにしか見えなかったが……?」
「そうか、やっぱ幽霊は見えねぇのか……」
となると──“黒い影”の正体は幽霊などではない。
「こっちは問題ないから早く走って帰れ」
「聞きたいことは山程あるが、今は離れるのが先か」
「おう、また明日な」
まるで友達同士の別れのような気楽な挨拶を尻目に、二人はトレセン学園を後にして寮までの道のりを走り切る。
当然ながら美浦寮寮長であるヒシアマゾンに見つかって怒られたが、そんなものは今夜の出来事に比べれば怖くもなんともないことだ。