──夏の陽射しが強まるにつれ、不機嫌も極まる男が一人。エヌラスだ。
一身上の都合により夏でも長袖の着用。
それが尚のこと日本特有の気候が牙を剥く要因でもある。
日本の夏は海外のような熱気と異なり、湿度を含む。それ故に肌に張りつくような不快な暖気が襲う。
本格的な夏を迎える前にやってくるのが梅雨。年間通して見れば確かに恵みの季節、農家さん大喜び。
雨の時期ともなればコース練習も控えめに、屋内トレーニングが主体となるため中央トレセン学園でも温水プールがフル稼働。
何が楽しくてエヌラスは今、そのボイラー室にいなければならないのか──。
低く唸るボイラーから発せられる蒸気の熱、こもる熱気は行き場がなく湿り気を帯びて顔に張りついてくる。じわじわと蒸される感覚に半ギレになりながらもエヌラスは温水プールのボイラーの緊急メンテナンスを終えて出てきた。
その頃にはもう汗だくでシャツが透けるほど。
「ファッキンホットッ!!!」
今すぐにでも全裸で風呂に入りたい。そんな気持ちでいっぱいだった。
だが生憎とそんな勝手が許される時間帯ではなく、エヌラスは水分を吸ってしなだれる髪を鬱陶しくかきあげながらプール室へ戻ってくる。
そこにはチーム〈キャロッツ〉が勢揃いしていた。チームトレーナーである號も一緒だ。
「ボイラー見てきたらパイプんところ緩んでたからとりあえず締めてきた。詳しいことは業者に点検してもらうしかねぇな。たづなさんには戻りがてら連絡しといたから明日には来るだろ」
「お疲れ様です、ありがとうございます」
「っだぁー、もークッソあちぃ。日本の夏ってこんなんなのか? 耐えがてぇ〜。滅びろ太陽」
「エヌラスさん。まだ梅雨なんで夏はこっからですね」
「滅びろ銀河」
規模が拡大した。
號から余っているタオルを受け取り、顔を拭く。そのふんわりとした感触にエヌラスが眉をひそめ、何気なく嗅いでみる。フローラルな香り。
チームで使うタオルやシューズはトレーナーの管轄下、勿論自主的にウマ娘が管理してもいいが、號は水分補給用の飲料やタオルを自分で用意していた。
「このタオルってお前が洗ってるんだよな?」
「む、臭います?」
「いやむしろ逆。すげぇふわもこでいい匂い」
エヌラスの感想に〈キャロッツ〉も頷く。第一ボタンを外し、エヌラスは首周りも拭いていくが、なんか目線の怖いウマ娘がいるような気がしてならなかった。
「……しっとりしてるエヌラスさんて、色気あるよね」
「……はい」
聞こえてるぞダンツフレームとマンハッタンカフェ。エヌラスは聞こえない振りをする。
しかしナリタブライアンもなにか思うところがあるのか声をかけてきた。
「ん? どうしたブライアン」
「アンタ、なんで長袖なんだ? そこまで文句言うなら半袖でいいだろう」
そう言いながら號を指差す。夏を迎える前からすでに半袖に衣替えしている姿に時期尚早、とは思わなくもない。当人の快活な印象からむしろそっちのがデフォルトの気がしてならなかった。
「……まぁ、ちょっと、諸事情で人様に素肌見せたくないんだ」
「墨入ってたりします?」
「入れてねんだわ墨は。それやってたら大問題だろうが」
「その顔で?」
「よーし號、プールトレーニングするか」
「すいません勘弁してもらっていいですか!!」
首と足を持ち上げてプールに向けて振りかぶるが、誠意ある謝罪によって水没を免れる。
普段は下ろしている前髪も汗で張りつくとなると邪魔なのか、エヌラスは前髪も上げた。
「……なに、そんな珍しい? 俺の額は」
「そう、ですね……」
「なんで前髪上げとかないんですか」
「俺の顔見てよく言えるな、號」
「なんかもう見慣れたので別に隠す必要はないのでは? 気にする生徒もいないでしょうし」
「世間体的に! 傷顔はちょっと駄目だろ! 少しでも馴染もうと努力してんの俺は!」
バサバサと乱雑に上げた前髪を下ろして手櫛で直すといつものように左目を隠す。もうちょっと見ていたかったマンハッタンカフェがちょっぴり残念そうにしていた。
「とにかく。ボイラーの不調だから今日のトレーニングは切り上げとけ! はい解散!」
──予定していたよりも早くトレーニングが終わってしまったマンハッタンカフェとダンツフレームは旧理科準備室でジャングルポケットを待つ。アグネスタキオンは研究に余念がないのか今日はずっとパソコンと向き合っていた。何やらデータを打ち込んでいる傍ら、見慣れないお菓子がキーボードの横に置いてある。
「カフェちゃん、昨日ね。エヌラスさんの言ってた喫茶店にタキオンちゃんと行ってみたんだ」
「どうでしたか?」
「すっ、っごく美味しかったよ! でもコーヒーとかは店主さんの話だと市販品って言ってたから味はそこまで……カフェちゃんの淹れてくれたコーヒーの方が美味しいかなぁ」
「──そうなんですね。料理は、どんな物が?」
「えっとねー、昨日食べたのはー……」
「はい」
ダンツフレームが味を思い出しながら指折り料理を数えていく。しかし、メニューを聞いているマンハッタンカフェの顔が渋い。
「……あの、喫茶店なんですよね?」
「そう、なんだけどー……ちょっと変わった店主さんでぇ」
「……ちゃんこ鍋」
「うん。ちゃんこ鍋食べたんだぁ」
「…………ロシアンマリトッツォ」
「……思い出したくないなぁ、あの味」
生クリームにサンドされた梅干しの味。想像するだけでも顔にシワが寄る。隣で話を聞いていても顔をしかめてしまう。
「タキオンさんは……」
「私かい? ザラメだったよ」
「ザラメ」
「ジャリジャリしてたって言ってたよねぇ」
「……ちょっと、想像したくないですね」
他の料理は絶品と太鼓判を押していると、ジャングルポケットが慌ただしく旧理科準備室の扉を開け放った。
「いやー、ワリーワリー! 遅れちまって!」
「大丈夫だよ、私達も突然トレーニング中止になっちゃってたから」
「にしても今日は雨かぁ~」
「この時期はジトジトして嫌だよねぇ。エヌラスさんも嫌な顔してたし」
「……私は、嫌いではありません。雨音は聞いていて落ち着きますし」
「タキオーン、オメーも例の喫茶店行くだろー?」
「私は遠慮しておくよ、こっちの研究の調子がいいからねぇ。あぁそうだ、ポッケくん。もし覚えていたら店主に持ち帰りのクッキーを頼んでおいてくれたまえ」
「へいへい、覚えてたらなー」
ジャングルポケットが二人を連れて離れていく。アグネスタキオンだけはパソコンとにらめっこしながらキーボードを叩き、データを入力していた。手を止め、横の袋からクッキーを一枚つまむと口に放る。
──和風純喫茶「よろづ」は、相変わらずの閑古鳥。雨でも通常営業中。表の看板には「本日のオススメ」が手書きで書き換えられていた。本日は中華の気分らしい。
店内の扉を開けてすぐ脇には傘立てが用意されていた。
よろづのマスターは退屈そうにクロスワードパズルと睨み合いをしていたが、店に入ってきた顔ぶれを見てペンを挟んで立ち上がる。
「いらっしゃいませー。おや、昨日見た顔だ。こんにちは、ダンツフレーム」
「こんにちはぁ」
「今日は昨日と違う友達?」
「はい、こっちがポッケちゃんで、こっちがカフェちゃんです」
自己紹介をすると店主は気さくに手を振って挨拶を交わした。空いている席にどうぞ、と手で促されて三人はカウンター席に並んで座る。
「今日はカヤさん来ていないんですか?」
「来なくていーよ、あんな胡散くせぇ客。店のあれこれに手を回してくれた奴だけど、それはそれとして俺嫌いだもん」
「あ、あははは……好き勝手言ってる……仲良いんじゃないんですか?」
「この世の法律が許すならとっくに殺してんだけどなー。ま、いいや。あんな奴の話なんか」
あくびしながら身体を伸ばし、うなじで髪を縛って三角巾を着用。エプロンをかけてから手を洗ってアルコールでしっかり殺菌。指の間から手首まで丹念に塗り込むと一拍。
「さて。今日は何食べる?」
「いや何食べるも何も、メニュー表とかねぇの?」
「あ? ねぇよ、んなもん。見ての通り、食いたいもんあったら言ってくれ。大体作れる」
「めっちゃうめぇパフェ食いてぇ」
「おしわかった」
厨房に消えた店主が戻ってきたのは十五分後。待ちくたびれていたジャングルポケットの前に置かれたのは、文句のつけようがないパフェ。スタンダードに生クリームとアイスクリーム、フルーツが溢れんばかりに盛られ、その上からチョコレートソースとストロベリーソースの合掛け。ラズベリージャムも添えられているだけでなく、ウエハースで冷えた舌を休ませる気遣いも忘れない。
「ぉ、おお……!」
「ほらよ、ごゆっくり」
その出来栄えには流石にジャングルポケットも圧倒された。
飾り気のない容器、ウマ娘の胃には少々物足りない人間の標準サイズに凝縮された技術の粋を目の当たりにして硬直する。ダンツフレームも目を輝かせていた。先日出されたものとはまた違ったパフェだが、今日のは“本気”なのがわかる。
王道中の王道、ごまかしの効かない一発真剣勝負。ウマ娘でいうレース当日のようなものだ。
すかさずスマホを取り出して撮影開始。ちらりと店主の顔を覗き見る。
「……ウマスタに載せてもいいですか?」
「ウマスタってなに?」
「ぇ!?」
「いや、俺そういうSNSとか全然興味ねぇから全く知らんのよ」
勿体ない! ──心底ダンツフレームは思った。
そこで早速いろいろと説明する。相槌を打ち、うんうんと頷く店主だったがあまり乗り気ではないようだ。
「宣伝するなら一番手っ取り早いと思います」
「つっても、俺携帯がコレだし」
店主がポケットから取り出したのは──スマホですらない、ガラケー。しかも折りたたまないタイプ。
「携帯なんて、電話とメールができればそれで十分機能的。俺が求めてるのはそこだけ。それにそういう、なんつうの? 匿名で書き込むっていうの? 顔も名前も知らない相手のこと信頼ならないんだ」
「そうですかぁ?」
「まぁ──客商売だからさ。やっぱ相手の顔見て信頼できるかどうか判断してぇんだわ、俺」
自分の目で直接見た物以外信じないタイプ。だが、なんとなくその言葉に納得してしまう。
マンハッタンカフェがダンツフレームを挟んでジャングルポケットを横目で見ると、どこから食べようかスプーンを迷わせていた。
「さて、そっちは? 飲み物頼むなら期待しないでくれよー、俺そっち方面は手抜いてるんだ。あぁ、でもそうだな。今日は雨で少し冷えるし、スープでも飲む?」
「あ、じゃあ私軽食もセットでお願いします。それと、昨日のお菓子ありがとうございました。寮長さんも喜んでましたよ」
「そりゃあよかった。そっちの黒い子は?」
「……そう、ですね。では、オススメでお願いします」
「今日は中華だけどマジで言ってる?」
「……えぇと。では、私も軽食のセットで」
「はいはーい、少々お待ちをー」
店主が厨房に足を向けようとした瞬間──ピタリ、と立ち止まる。
それから遅れて、よろづの扉が開かれた。
「いやぁ、今日は良い雨だね。──おや、今日は珍しく客の入りが多いみたいだ」
「あ、カヤさん」
「おやぁ? 昨日ぶりだね、こんにちは」
にこやかな笑みを浮かべる黒いウマ娘にダンツフレームは笑顔を向ける。
どんな人なのかと、マンハッタンカフェが何気なく顔を横に向けて──、
「────────、……」
まるで自分が金縛りにでもあったかのように、動けない。蛇の巣穴に投げ込まれた蛙のようにマンハッタンカフェは身体が凍りつく。
息が詰まる。寒い。
──
「……おや、おやおや。君はちょっとばかり────ふふ、いや、面白い子がいるね」
カヤの言葉がやまびこのように遠くから頭の中で反響する。わけもわからずマンハッタンカフェは目尻に溜まった涙が零れそうになると、突然自分の視界が塞がれた。それは和風柄の御盆。
カウンターから身を乗り出して店主が視線を遮ると、カヤを睨みつける。
「悪ィが今日は満席だ。他の店行ってくれ」
「え? お店の中、まだ全然座るところ……」
あるのに、とダンツフレームが言いたげにするが、カヤは顎に指を当てて笑っていた。
「今日は忙しそうだ、他の店を当たることにしよう。それではね」
「二度と来んな」
そっけない態度、というよりも明らかに冷たい口調で突き放すがそれを意に介した様子もなくカヤは黒い和傘を開いて手を振る。内側が赤く塗られた不吉な柄だが不思議なことに異様にそれが似合っていた。黒い服のおかげで統一感があるからか。
カラカラと音を立てて扉が閉められると、店主はようやくマンハッタンカフェの顔から御盆を外した。
どっと冷や汗が吹き出し、小さく息を乱す姿にダンツフレームが心配そうに覗き込む。
「カフェちゃん、大丈夫? どうしたの?」
「…………い、え……なんでも──ありません。あの、今のヒトは──」
「さぁーて、張り切ってメシ作るかー」
くるりと踵を返して、マンハッタンカフェの問いから逃げるようにして厨房へと姿を消した。
ジャングルポケットはパフェを頬張って幸せを噛み締めている。ダンツフレームは特に変わった様子がない。
(……今の、は。いったい……“お友だち”とは、また違う。もっと、邪悪な──)
目を閉じる。──ヒトの形に押し込められた、無数の眼。
忘れよう。忘れてしまおう。アレは、見てはいけないモノだ。
自分では決して手に負えない。
アレは──“いてはいけないモノ”だ。
マンハッタンカフェはマスターが料理を運んでくるまでの間、ずっとカウンター席の磨かれたテーブルを見つめていた。