──俺のにいちゃんはゲームがすっげーつえーんだ!
──柊。お前とゲームやるの面白くねぇよ。強すぎんだよ。
──どうしてそんなに勝利にこだわるんだ?
……目を開ける。霜天路柊は身体を起こすよりも先に、自分の胸に手を当てた。そこでは確かにまだ心臓が脈打ち、血液を循環させるべく義務を果たしている。そうして自分がまだ生きていることを確かめてから身体を起こすのが、彼の日課のひとつ。
(……随分と、懐かしい夢を見たな)
久々に弟の顔を見たからだろうか。
スマホの電源を入れて時刻を確認する。朝の五時前。カーテンを開ければ外はまだ夜と朝の境界線が引かれていた。
柊は顔を洗い、身支度を整えると外へ出る。
冬の寒さの名残がいまだ残る日の出すらままならない早朝。閑散と静けさに包まれた時間に出歩くのも、また日課のひとつ。何年経っても変わらない。変化があるとしたら、自分の身の回りの環境が一新されたことくらいだ。
それでも。
やるべきことは変わらない。
──トレーナー寮を出て、見晴らしのいい場所を探す。
学園のコースはそういった意味合いでとても都合が良かった。
(この時間帯ならまだ見えるか)
夜明け前の空を見上げる。
他の星々が消えたあと、最後までひとつ輝く星を見つけてから柊はじっと見つめていた。
明けの明星──東の空に浮かぶ金星が一際輝くのを眺めるのが、もうひとつの日課。この習慣だけは、どこにいても続けている。
──……ザッ。ザッ。
「…………?」
上ばかり見ていたからか、気づくのが遅れた。コースに視線を下ろすと、ひとりのウマ娘が早朝から走り込みをしている。
まだ夜明け前だというのにそのウマ娘は緩やかなペースで一周すると、息を整えていた。
選抜レースも近い。デビューするウマ娘達にとって、それは運命のトレーナーとの出会いを意味する大事なレースだ。それに向けて練習を重ねるのは当然のこと。柊もそれは理解しているし、走るウマ娘の遠く小さくなっていく背中を見ていた。
さしたる関心は無かったし、相手に興味もない。ただ勝利のためにそれだけの時間を費やす姿を見て、感心する。
「……────」
さらにコースを一周したところで、そのウマ娘は柊の視線に気づいたのか立ち止まる。
“本格化”を迎えたウマ娘は、年齢にそぐわぬ成長を遂げる、とは講習で学んだ。そのため大人びて見えるウマ娘もいれば、逆に変化のないケースもある。しかし身体能力の飛躍的な向上は共通し、最たるものが脚力だ。
浅黒く健康的に焼けた肌。長い黒髪。凛とした青い瞳は独特の虹彩で輝いて見えた。学園指定の赤いジャージを着用し、すらりと伸びた手足。均衡の取れた肢体を見る限り、外見上ではとても年齢を測れなかった。
声をかけるでもなく、柊は視線を外して空を見上げる。
日の出が近づくにつれて明けの明星は姿を消していき、見えなくなるとようやく霜天路柊の一日が始まりを告げる。
黒いウマ娘はまだこちらを見つめていた。やがて、自分に声をかける意思が無いことを確認すると──再び走り出す。
その背中が遠ざかるのを横目に、柊はコースを後にした。
──中央トレセン学園正門前。
登校するウマ娘に混じって、トレーナーの姿がいくつか見える。その中には柊の姿もあり、號の姿もあった。昨日の今日ですでにもう先輩トレーナー達と挨拶を交わしている。それどころか談笑していた。場に馴染むのが早すぎる。
その一方でウマ娘に囲まれ……絡まれてる黒ずくめのトレーナーの後ろ姿も見覚えがあった。サングラスを外して睨みをきかせると蜘蛛の子を散らすように生徒達が離れていく。かおこわ。
かと思えば、離れていったウマ娘が友人を連れて戻ってきた。
「いや、わりーわりー。昨日黒い不審者探し回んのにダチに言いふらしててよ、撤回すんのすっかり忘れてたわ!」
「オメーのせいかジャングルポッケェッ!!!」
「そこまで言ったらポケットって呼べよ!! ポッケでいいよ、みんなそう呼んでっから!!」
喧嘩かと思いきや別にそういうわけではなさそうだ。しかしまだ二日目だというのに既にもう馴染んでいる姿を見て、柊は顎に手をやる。
(もしかして俺がおかしいのか?)
断じてそんなことはない。
「む、もしやそこにいるのは兄貴ではないか!」
「人のことを李徴のように呼ぶな」
「なんだいたのか柊、声くらいかけてくれよ」
「二人とも忙しそうにしていたので」
特にエヌラス。顔は相変わらず怖いが、眉間にシワを寄せているせいで迫力二割増し。サングラスで眉間のシワが緩和されるが怪しさ三割増し。この人どうあがいても悪人面になるのでは? 柊は訝しんだ。
不思議なことに。昨日はあんなにも戦々恐々とウマ娘達が距離を置いていたというのに今朝は逆に声をかけられている。どんな魔法を使ったらそうなるのか、柊は首を傾げていた。
「モテますね。エヌラスさん」
「自慢じゃねぇが俺は第一印象が最悪だから下がりようがねぇんだ」
「なるほど! 俺も真似してみます!」
「するな馬鹿野郎」
それが許されるのは多分この人だけだ。
「そういや選抜レース近いんだっけ?」
「担当するウマ娘に見当はついてますか?」
「あー……まぁ一応は」
「手を出すの早いですね」
「言い方ァ!!!」
この人おもしろいな。しかし驚くべき行動力であることに違いない。
「兄貴は他のトレーナーの方たちと話すべきだと思うが。そんな調子だと浮くぞ」
「放っておけ。お前はどうなんだ」
「俺のことは俺がどうにかする! 問題ない!」
「不安しかないが? まぁ、お前の方が一応。先輩だしな、そこは大丈夫だろう」
「柊は人見知りとかするタイプか?」
「そもそも他人と話すことが無いですね」
それ以前の問題だった。エヌラスがちょっと顔を引き攣らせている。
「いやお前……それはダメだろ……」
「兄貴は昔っからこんなんなので。エヌラスさんと話してるのを見た時はマジで借金取りかと思いました。その件については大変申し訳ありません!」
「いやいいよ、謝んなくて。とりあえず柊、お前もなんか目標あるだろ。それに見合った子を早めに見つけておけよ」
「わかりました。現段階ですと、まだ走りを見ていないので何も言えないですね。というかエヌラスさんはどうやって見つけたんですか?」
柊の素朴な疑問に対して、急に口を閉ざした。その横顔を號が見ている。
「……エヌラスさん。もしや不純な動機でウマ娘を見ていたりしませんか?」
「してねぇよ」
「ではどのようにしてお相手を見つけたのか伺っても?」
「…………」
押し黙るエヌラスは素早く踵を返して逃げ出した。
「足早っ」
「むしろあの人がレース出たほうがいいんじゃないか?」
「滅多なこと言うな」
──選抜レースの日が近づくにつれて、中央のウマ娘たちは落ち着きがなくなっていた。トレーナー達も今年はどんな子がデビューするのか期待に胸を膨らませる。
しかし、そんな中でも柊は変わらなかった。ただひとつ変化があったとすれば、明けの明星を見送る日課に、ウマ娘の朝練を見守ることが増えたくらいだ。互いに言葉を交わすことはなかったが相手から声をかけてくるのを待っているわけでもない。
選抜レース当日の早朝。
柊はすっかり常連となったコースに出ると、いつもの黒いウマ娘が準備体操をしているのが見えた。今日は走り込みをする前だったのか、入念に身体を解している。
すぐに視線を外してから夜明け前の空を眺め、白ばむ夜と朝の境界線を見つめていた。
耳を澄ませれば、ウマ娘の蹄鉄が芝を踏み込む音が聞こえてくる。いつもは一人分の足音しか聞こえてこなかったが、その日は二人分の足音に柊も視線を向けた。
先輩のウマ娘と併走を始めている。
最初こそぐんぐんと離されていたが、すぐに追い抜き、そのままゴールまで走り抜けていた。普段と違うメニューをこなしているのは選抜レースに向けた実践的なものだろう。それでも負荷のかからないように一戦だけの直線勝負だったようだが。
先輩ウマ娘が笑いながら手を振り、先に走り去っていく。その姿が見えなくなってから、黒いウマ娘はその場に屈み込むと自分の足を確かめるように触れていた。しかし、すぐに立ち上がる。
「…………──」
目が合った。
このところ毎日のように顔を合わせている。しかし、言葉を交わしたことは一度もない。
黒いウマ娘はじっと柊を見つめ、それから不思議そうな顔で見つめている方角に視線を向けた。やがて意を決したのか、真っ直ぐ歩み寄ってくる。
「……貴方は、私をスカウトしにきたんじゃないのか?」
初めて彼女の声を聞いた。思った以上に落ち着いた声に、どこか自信と、脆さが感じられる。
「いいや。俺はただ、星を見に来ただけだ」
「ここ数日、毎朝貴方の顔を見る」
「俺の日課なんだ。ここは見晴らしがいいから都合がいい。そうすると、一人のウマ娘が毎日のように朝練で走っているのが見える。それだけだ」
「…………」
「俺に聞きたいことはそれだけか?」
「……、そうだ」
柊はそれで会話を打ち切ろうかとも思った。さしたる興味はない。目の前の黒いウマ娘の名前にも、どんな思いを秘めているのかも。
「今日の選抜レースには君も出るのか?」
「ああ、そうだ」
「そうか。……何のために走るのか聞いてもいいだろうか」
「──“最強”を証明する」
その言葉に柊は初めて反応した。
「父や、祖父が最強を求め、歴史を変えたように。私はレース界で歴史を変える。全てを塗り替える。記録も、認識も、感情も。“最強”とは私であると」
特徴的な青い瞳に宿る闘志は紛れもなく本気だ。
「……“最強”、か」
だが。
霜天路柊にとってその言葉は、あまりにも空虚な響き。
「『勝利』は前提。私に流れている“血”は、そういうものだ」
──“最強”としての戴冠。
「……それは」
「?」
「それは。君が、最後の一人になってもか?」
黒いウマ娘はその質問の意図が汲めず、眉をひそめていた。
「貴方の言っている意味がわからない」
「夜明け前に、ただひとり夜空で輝き続ける星になったとしても……君は“最強”を誇れるか?」
「……──」
「もしその気があるのなら、君に期待している。今日の選抜レースは俺も見学させてもらうよ」
柊は踵を返してコースを後にする。
黒いウマ娘が立ち尽くしていることだけは気配で感じていたが、ただの一度も振り返ることはなかった。
──選抜レースが始まる。
柊はトレーナーたちが見学するラチ沿いの立ち見席でいつものようにパーカータオルを目深にかぶって眺めていた。新進気鋭のウマ娘たちが夢を見て駆け出す、その第一歩のレース。
そこには、あの黒いウマ娘もいた。
口々にもてはやされる姿に、柊は眉をひそめる。まだ彼女はデビュー前のはずだ。だというのに、まるで有名人の扱い。
隣に立っているトレーナーに声をかけた。
「あの子は、そんなに有名なウマ娘なんですか?」
「はっ!? アンタ、あの子知らないとか本気で言ってるのか!? いや、あの子を知らなかったとしても、あの名門一族の名前も知らないとか世間知らずもいいところだぞ!?」
「……はぁ」
そういえば彼女は、父や祖父も“最強”を求めて歴史を変えたと言っていた。となればその道で有名なのだろう。隣のトレーナーの解説も熱が入っているが、柊は聞き流していた。
「ほら、見ろよあの迫力……! 気合の乗り方が段違いだ!」
「……」
「彼女は──“ドゥラメンテ”! あの名門一族が送り出した“血”の結晶ッ! きっと圧倒的な走りを見せてくれるに違いない!」
遠目から見てもわかる気迫に──湧き上がるトレーナー達の歓声に。
震える空気に、熱狂的な視線に。
それらとは対照的に、柊は冷めきっていた。
「賭けませんか。彼女が一着になるかどうか」
「は? 何言ってんだアンタ、当然一着になるに決まってるだろ!?」
「なら俺は。それ以外に賭けます。もし一着になったなら、貴方がスカウトしてください」
誰もが、彼女の一着を信じて疑わなかった。しかし、柊はレースの結果を見ることなくゲートに並ぶウマ娘たちに背を向ける。
「あ、おい。ちょっと! レース結果くらい見ていけよ」
「見なくてもわかる──」
黒いウマ娘──ドゥラメンテ。ゲートイン前の迫力に誰もが圧倒された。
だが柊の目に、彼女のそれは武者震いなどではなく──。
──強がる子どもの姿にしか、見えなかった。