汝、暗君を愛せよ   作:本条謙太郞

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王妃の証 5

 7月半ば、光の宮殿(パール・ルミエ)で催された自身と王の婚姻1周年を祝う夜会の場で、アナリゼは初めてサンテネリという国を知った。

 

 好意的な王とその妃達、母后、そして女官長。

 柔らかく、しかし幾重にも彼女を包む毛布のごとき”配慮”の外にある世界を、少女は初めて覗いた。

 

 彼女は生まれてこの方、他者から悪意を向けられた経験がない。

 教育係の厳格極まる育成方針は、エストビルグの珠ともいえる王女を立派な淑女に育てようとする衷心ゆえのもの。父母や異母兄から酷い扱いを受けたことはなかったし、臣下、女官達も当然そのような真似はしなかった。少なくとも彼女の視界の範囲においては。

 

 彼女はまさに宝玉であった。

 美しく貴重ではあるが意志は持たない。ゆえに他者の心に負の感情を惹起することもない。

 

 だから今、異国サンテネリの地において初めて彼女は体験した。

 敵意を。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 サンテネリにおいて王宮は半ば公共物である。

 庭園は常に開放されており、庶民であっても身なりがしっかりしていれば入ることができる。

 夫と並び庭園を散策する際に、庭のあちこちで芝生に座り日光浴を楽しむ人々の姿をアナリゼは何度も目撃している。彼らはごく気軽に王に声をかけ、王もまた一言あいさつを返す。

 故郷エストビルグでは見ることができない不思議な空間である。

 だからこの日、夜会が庭園で行われたことにも意外性はない。

 

 王は公式の夜会を嫌う。

 堅苦しさもさることながら出費が馬鹿にならないと王はアナリゼに告げた。恥ずかしげもなく、悪びれもせず。

 幸いなことにアナリゼもまた大して気に留めなかった。

 自身の婚姻式すら切り詰められ、こうして記念の夜会まで非公式なものにされようと、特に感慨は無い。

 アナリゼは中央大陸を二分する大国の片方の皇女として生まれ、もう片方の正妃となった。女の身にこれ以上の立場は存在しない。それが当たり前であった彼女にとって、式典の豪華さなどどうでもよいことだった。

 

 散策路の脇に並ぶ街灯では光量が足りず、あちこちに巨大なかがり火がたかれている。月明かりの白色とたき火の赤が混じり合い、一群の人々を薄紅に照らしていた。

 

 王はこの日、ずっとアナリゼの側にいた。

 他の妃達も顔を出しているが、今日はアナリゼに王の”世話(トレ)”を任せ、各自思い思いに実家の縁者と話し込んでいる。

 

 会には中心となる催しがない。

 場所が開放され、参加者には軽食と酒が振る舞われるのみ。人々は望む相手と自由に話す。日常出会えない他者と身分や立場の垣根を越えて語らうこの場はある種の交流会であり、社会の流動性を生み出す些細な仕掛けの一つといえた。

 

 式次第も演説も楽器の演奏も、何らかの珍品のお披露目もない。

 そんな自由な時間ではあるが、彼女が自由であったとはいいがたい。自身の夫は王である。挨拶に顔を出す者は引きも切らず、上は大貴族や他国の大使など貴顕から下は平民の大商人に至るまで、数分おきに祝いの言葉を捧げられ、答礼を繰り返している。

 アナリゼもまた、幼時より仕込まれて半ば自動的に口をつくようになった定型の挨拶を絶えることなく述べ続けた。

 

 だが、彼女は嫌ではなかった。

 王の左手がアナリゼの右手と絡み合っている。

 自身のそれを覆い隠す男の大きな手を彼女は好んだ。それはサンテネリに赴いた翌日の夜、初めて触れた手であった。

 

 彼女はブラウネ姉様(エネ・ブラウネ)からの密命も帯びていた。

「アナリゼさん、陛下のお酒にはご注意くださいね。陛下は時折調子に乗られることがありますから」

 ”陛下が調子に乗ったら”どうすればよいのか訊ねると、ブラウネはごくあっさりと答えた。

「アナリゼさんに意識を向けていただくのです。たくさんお喋りをなさいませ」

 

 これまでは王が”調子に乗る”心配はなかった。酒を飲む暇などないほどに客が絶えなかったのだから。

 

 2時間もすると人流はまばらになる。

 王は手に持った杯を空けた。1回目だ。

 

 アナリゼの視線に気づいたのか、夫は苦笑しながら問いかけた。

 

「アナリゼ殿もいかがか? 喋り続けて喉も渇くだろう」

「はい。陛下。しかし私は陛下を見ます」

「私を? なぜ」

「陛下は時々”調子に乗られる”ので」

 

 一瞬虚を突かれるも、やがて王は声を出して笑った。

 伸ばし始めた金髪が遠くのかがり火を受けて微かにきらめく。翠の瞳は心底楽しそうな気配に満ちている。

 アナリゼの右手は夫のなすがままだ。強く、あるいは優しく握られる肉の塊は。

 

「ああ、ああ、そのようだ。私は時々調子に乗って飲み過ぎてしまう。しかし今日は安心だ。あなたが見ていてくださる」

「はい。しっかりと見ます」

「それはありがたい。私は…」

 

 夫の上機嫌な言葉、囁きに近い言葉をかき消した粗野な叫び。

 遠く庭の中心部から飛び込んできた罵声の欠片を、アナリゼは生涯忘れないだろう。

 

 

「——あの東蛮地の小娘が!」

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 ブルテ地方はサンテネリ西部中央に位置する。

 元は独立した公国であり、文化的には対岸のアングランと関係が深い。深いというよりも、ブルテ大公国とアングラン王家は幾重にも婚姻で結ばれ、互いに相手の領域に領地を持つほどであった。

 ガイユールやアキアヌと並びサンテネリ領域の半独立国であったブルテ大公国だが、国土統一を生涯の目標に掲げるグロワス7世に征服され、その領土の大部分がルロワ朝の王領と化した。グロワス7世はそこに譜代の軍伯を多数封建する。ブルテ公領は消滅こそしなかったものの独立性は奪われ、ルロワ朝への臣従を誓う中規模諸侯となった。

 

 大王の征服から数百年を経て、ブルテ地方はサンテネリの一部となった。ブルテ大公国の存在は既に歴史の中に格納された記憶であり、今を生きる人々はそこに郷愁以上のものを見出さない。

 

 アングランと低地諸国、そしてサンテネリという三大商業圏の結節点の座はガイユール領に占められている。

 ブルテ地方はアングランとの交易拠点としての地位を喪失したが、果敢にも新大陸との貿易に乗り出して繁栄を取り戻した。

 かつてはほぼ()()といっても過言ではないほどの近しさを誇ったアングランは、いまや競争相手となった。

 

 しかし、土地の歴史は一種の呪いである。

 商売敵となってなお、言語にはアングラン語の痕跡が残り文化的親密性は高い。

 ガイユール公領がサンテネリとの紐帯強化に動く一方で、ブルテ地方はサンテネリに残る数少ない親アングラン勢力であるといえる。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 群衆の壁がその姿を認め道を開く。

 グロワス王とアナリゼ妃は急ぐでもなく、その存在を周囲に見せつけながら騒動の中心に歩を進めた。

 無言で周囲を睥睨する近衛兵を従えて。

 

 人々が遠巻きに取り囲む、その中心地は大きな空白である。

 備え付けられた木の机には食器と杯が散乱している。

 傍らに二人の男が対峙していた。

 

 片方、大柄な壮年の男はその右手に剣を持ち、一回り小柄な青年を盛んに威嚇する。

 

「落ち着かれよ。さぁ! 剣を下ろしたまえよ」

「なにを?! 貴殿はあるか? あの東方の悪鬼共が小癪にも撃ち込んでくる弾を雨あられと浴びながら、陛下の栄光の礎たらんと突き進んだことがあるのか? それを聞いている!」

「いや、ない。ないが、オーブル殿、それは今は関係なかろう」

「関係とはなんだ! どこに関係が? 教えてしんぜよう。陛下は惑わされておいでなのだ。あの蛮族共。我らサンテネリ(世界の中心)の猿まねばかりする、あの蛮地の女など娶られて。なにがめでたい! ルロワの大蛇紋は世界の笑いものぞ」

 

 剣を振り回す男の顔は赤く染まっている。

 片足を軽く引きずり、所在なげに身体を揺するその様は泥酔の典型であり、喫緊の問題にはなりえない。

 説得を続ける青年もまたそれを分かっているのか、距離を取りながらも自身の剣は抜かない。

 

「ああ、ブルテ公よ。貴殿はまだ若い! 若さゆえの…若さの、そう若さゆえに分からんのだ。御身こそブルテ公国の主であろうに。かつてはアングランにも大領を誇り、サンテネリ一の貴顕であった貴殿がサンテネリの名誉を汚すか! 我らが王。偉大なるグロワス陛下がだぞ…その…ああ、かのエストビルグ女の()()に…」

「オーブル殿!! なんと無礼な」

 

 ブルテ公国の主。酒乱の男にそう呼びかけられた青年はついに佩剣の柄に手をかける。

 酒の上の世迷い言は臨界を超えつつあった。明らかに。

 

 だからだろうか、爆心地ともいえる空白の場に入り込んできた男の朗らかさは場違いを通り越して滑稽にすら見えた。

 

「オーブル殿、そしてブルテ公。良い酒だ。楽しく飲みたいものだな」

 

 薄い笑顔を浮かべたまま男は親しげに声を掛け、平然と二人に近づいていく。

 

 先に気づいたのは当然のことながら青年の方だった。

 一瞬の硬直を経て、弾かれたように片膝を着く。

 

「陛下! これは! 誠に…神の御裾の元…」

「ブルテ公殿。何をそのような。楽にされよ。今日は祝いの場だ。私は酒が好きだ。楽しく飲みたい」

 

 咄嗟のことに言葉を詰まらせる小柄な青年。

 乱れた金髪もそのままに頭を垂れるブルテ公の肩に王はそっと触れ、立ち上がるよう促した。

 

 そして大声の主に向かい合う。

 

「さぁ、オーブル殿。貴殿も共に。その誇りたる剣はここぞというときに抜くべきだ。今は私と杯を空けよう」

「…」

 

 暗がりが視界を遮り、突然の闖入者を判別しえない男は、剣を下ろしてゆっくりと近づいてくる。左足を引きずり、恐る恐る。その様は不審物を見つけた猛獣の這い寄りに似ている。

 

「先ほど小耳に挟んだが、オーブル殿は先王陛下と共に戦でご活躍なさった歴戦の勇士だと。それは名誉だ! 私は若輩ゆえ未だ経験がない。貴殿の勇敢にして高貴な活躍を聞かせてくれないか」

 

 王はブルテ公を木椅子に座らせると、()()机の皿を片付け始める。

 その様を見て近衛兵達が飛び出してきた。

 

「ありがとう。手伝ってくれるかな。これを片付けてほしい。そして新しい杯を持ってきてもらえるだろうか。私もほら、もう飲み終えてしまった」

 

 上機嫌に兵達に頼みながら、グロワス王は自身の対面の椅子を近寄る男にすすめる。

 

 数名の近衛兵に銃口を向けられつつ、オーブルと呼ばれた男は声の主をはっきりと見た。

 剣が地に落ちる。

 

「…グロワス王陛下」

「ああ、貴殿が命をかけて共に戦ってくださったグロワス12世陛下の息子だ。だから私は間接的に貴殿に助けられたことになる」

「…それは…なんと」

「さぁ、腰掛けられよ。水を飲み、落ち着いて、楽しく飲めば良い」

 

 先ほどまでの興奮が嘘のように静かに男は椅子に腰を下ろす。

 男の角張った顎に薄く乗った肉が微細な振動を繰り返していた。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 アナリゼは大柄な近衛兵達が作る肉体の壁の隙間から、夫の行動をじっと眺めていた。

 

 彼女は混乱のただ中にある。

 ”東方の悪鬼”

 ”蛮地の女”

 ”エストビルグ女の股下”

 それが自分のことを指すのだと、最初は気づかなかったほどに。

 

 だが、気づいてしまっては後戻りはできない。

 侮蔑されること。憎まれること。

 

 ”大陸一の淑女”

 ”エストビルグの至宝”

 ”神が創造された最大の美”

 そんな聞き慣れた褒め言葉の裏に()()は存在する。恐らくこれまでも存在したし、今後も存在するのだろう。

 

 恐怖と呼んで差し支えのない感情だ。

 アナリゼの細い肢体は、常に罵倒に晒され続ける運命なのだ。

 

 エストビルグとサンテネリは数百年にわたって戦争を繰り返した仇敵の間柄である。その歴史を彼女は知識として学んでいた。だが、それは知識である。つまり紙面に載った文字に過ぎない。

 今、彼女は()()を体験している。

 両国はこれまでに大量の人間を殺し合ってきた。遠くで喚きちらすあの男にエストビルグの兵が銃弾を浴びせた。逆に、サンテネリの兵はエストビルグ兵を撃った。

 それを繰り返してきたのだ。

 

 敵地にいる。

 敵地のただ中にいて、敵に囲まれ、憎まれている。

 

 つまり、嫌悪されている。

 

 少女の心臓はおよそ経験したことのない早さで律動を繰り返した。

 耳の裏を大量の血液が恐ろしい速度で流れ落ちていく。

 

 どうすればよいのか。

 頼れる相手はいない。

 

 夫は兵士に彼女の警護を命じると、一人輪の中に入っていった。

「ご心配なさるな。私が少し話してくる。そうすれば誤解も解けよう」

 落ち着いた言葉と薄い笑顔を残して。

 

 硬直するアナリゼの手を王は両手で優しく撫でた。彼女はそこに暖かさを感じた。そして、隠しきれぬ巨大な感情も。

 

 それは怒りだ。

 

 では、自分はどうすればよいのか。

 頭から血が抜けていく。目の前がうっすらと白くなる。

 

 自ら望んだわけではない。

 望んでサンテネリにやってきたわけではない。

 遙か昔、エストビルグの宮廷で見合わされた帝国諸侯の子息達と結ばれる未来もあった。それが、帝国とサンテネリの都合で、今彼女はここにいる。

 

 それが自身の”物語”なのだ。

 敵地で憎しみと罵声を浴びながら生きる。

 

 横隔膜がせり上がり上半身の震えが振幅を増していく。このまま意識を手放して恐怖から逃れたい。

 彼女の周囲を取り囲む兵も、貴族達も、商人も、男も、女も、皆が自分を責め立てている気がした。笑顔の裏に怨念をかくして。蛮地のエストビルグ女と嘲りを込めて。

 

 

 だが。

 一方で、女を鼓舞する声も心内にある。確かにある。

 それはこの1年、彼女が体験してきたものだ。

 

 危なっかしく、しかし優しく、ときにはおどけて、稀に自分をときめかせる夫。

 同じ王の妻でありながら”友人”とも言える存在。

 人生でついぞ得られなかった”娘の立場”を感じさせてくれる女官長。

 空疎な中身を埋めようと決めて、夫や友人達とそれを探す日々。

 エストビルグの宮廷にはなかった全てがここにはある。

 

 この1年すらも、彼女を包んだ温かい皆の笑顔すらも、その裏に何かが隠れているのではないか。恐ろしい何かが。アナリゼの疑心は囁く。

 そんなはずはない。人の顔色を伺うことだけは得意なのだ。皆、真心から自分を思いやってくれている。

 

 しかし、本当に?

 懐疑と願望が脳内を輪唱する。

 

 どれほどの時間が経っただろうか。客観的には一瞬の、しかし主観では一生ともいえる逡巡を経て彼女は決めた。

 目を閉じて、唇を強く結んで、息を止めて、彼女は断ち切ることに決めた。

 

 何かを得ようとすれば、何かを失わなければならない。

 何かを得るためには、何かを成さねばならない。

 

 ()()を成すことこそが王妃の証なのだ。

 

 

 奥歯を強く噛みしめて、アナリゼは両足で地を踏みしめた。

 意識を手放すのはとても簡単な行為だ。だが、ふさわしくない。

 

 ——私はサンテネリ王国正妃、アナリゼ・エン・ルロワなのですから。

 

 

「皆さん、道を空けてくださいませ」

 

 王妃の掠れた言葉に兵達が驚きをもって振り返る。

 

「正妃殿下、それは少々危険に…」

 

 彼女は自身を気遣う兵に感謝の念を抱く。だが、行かねばならない。

 失われた血液を戻すべく、揺らぐ意識を奮い立たすべく、女は二度三度首を振る。豊かに流れる茶色の髪がかがり火を受けて紅くすら見えた。

 

「ありがとうございます。ですが、私は夫の元へまいります」

「しかし!」

 

 なおも言い募る男に、アナリゼの言葉は一つの断固たる命令として響く。

 

「では、皆さんが連れて行ってくださいませ。——この国の正妃を、国王陛下の元へ」

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 薄暗闇から浮かび上がるようにやってきた女を見て、グロワス王は静かに立ち上がった。王の顔は恐ろしいほどに真摯な色をたたえている。

 彼は無言で女の手を取り、二人の貴族が待つ卓へ導いていく。

 

「諸君、一人、同席してもらいたい方がいる。私が心から敬意を抱く淑女だ。お許し願えるかな」

 

 ブルテ地方のかつての主たるブルテ公、そして、グロワス7世の征服時に軍伯として立てられたオーブル子爵。先ほどの喧噪は嘘のように、じっと王が手を引く女の姿を見つめていた。

 

 王の問いを返したのはオーブル子爵である。

 酔いは覚めつつあるが、まだ意識はおぼつかない。過分に陽気が残っている。

 

「それはもちろん、陛下。華やかなご婦人のご相伴とはありがたいこと」

「そうか。ありがとう。オーブル殿。こちら、我が妻アナリゼ・エン・ルロワだ」

 

 両名共に新聞の挿絵で目にしたことはあれど実際のアナリゼを見たことはない。女は王が()()()()()どこかの若い貴婦人であろうと思っていた。

 

「これは正妃様!」

 

 気づいたブルテ公は素早く椅子を立ち、跪礼する。

 

「ブルテ公殿、楽になさってください。グロワス陛下の妻アナリゼでございます。以降よしなに」

 

 ブルテ公の礼に柔らかく簡素な言葉を返すと彼女は視線をオーブルに移す。

 焦点の合わぬ瞳で呆然と自身を眺める男に、アナリゼはつとめて朗らかに述べた。

 

「そちらの殿方、杯が空いていらっしゃいます。お注ぎしましょう」

 

 卓に置かれた葡萄酒の瓶を持ち、オーブル子爵の前に置かれた杯に紅いそれを注ぎ込んだ。

 かがみ込む女の胸元を首まで覆う大判布(カルール)が照明の揺らぎを受けて点滅する。

 大蛇を貫く槍の盾紋。ルロワの大蛇紋である。

 

「…これは、正妃様…」

 

 五十も近い壮年のオーブル子爵は事ここに至り正気を取り戻しつつあった。

 自身の失態とその結末を自覚する。

 

 新王の治世下で彼らブルテ地方の貴族達は苦杯をなめ続けた。

 新大陸交易は不調を極めている。

 幾多の同胞の血をもって打ち立てたルロワの栄光は、エストビルグとの和約によって無用の長物と化した。

 連隊は解散した。

 ”雪の王”の圧政は彼らの領地を根こそぎ破壊し尽くした。

 

 それでも彼らは耐えてきた。

 地方への援助を求める陳情に連れだってやって来た彼らは、更なる援助の伝手を求めて王の夜会に顔を出したのだ。

 そして平和と安寧を極める光の宮殿(パール・ルミエ)のただ中で、酒に火を着けられて、暴発した。

 

「オーブル殿、貴殿は果報者だ。私とてアナリゼ殿手ずから杯を満たしてもらうことなどないのに。——どうだろうオーブル殿。貴殿の想いは分かる。だが、貴殿が戦ったエストビルグの、その至宝たるアナリゼ殿は今や我が妻だ。彼女が貴殿の杯に今、酒を注いでいる」

 

 グロワス王は静かに語りかける。

 

「なぜアナリゼ殿があなたに酒を注ぐか。それを分かってほしい。彼女はサンテネリの王妃なのだ。サンテネリの王妃がサンテネリの勇者に酒を注いだ」

 

 アナリゼは夫の言葉をその耳に残しながら、半ば空いたブルテ公の杯にも酌を続ける。

 

 妻の驚くべき行動を見届けてから、王は彼らを遠巻きにする群衆に向き直り、大きく声を張り上げた。

 

「皆、聞いてほしい! 今宵、酒の上での些細な諍いがあった! 諸君が見た、まさにそれだ!」

 

「我が国を思い、我が国のために身を捧げた勇者。だが、酒の力はまさに”魔力”を減衰させる劇薬。少々酔いの回りが強かった。私もよく失敗をするのでね、気持ちはよく分かる!」

 

 夫の後ろ姿をアナリゼはじっと見守っている。

 

 グロワスはごく普通の男だ。

 見劣りするほどではないが驚嘆するほどの体躯は持たない。

 だから彼女がこのとき夫の背中に感じた巨大な頼もしさは、恐らく思慕の見せる幻影に過ぎない。だが、アナリゼという女にとって、()()が彼なのだ。

 

「だから私は今、失敗し、うなだれる勇者を元気づけよう。その証に、()()()()()()最も高貴な女アナリゼが、サンテネリの誇る勇敢な男に酒を振る舞った! これは素晴らしいことではないか? ——残念ながら、勇敢でない私の元には注いでもらえなかったがね」

 

 空になった杯を宙に振り、おどけた素振りを見せる王の姿が群衆の緊張をほぐしていく。小さな笑いが始まり、連鎖し、ゆっくりと空気が溶けだす。

 

「さぁ皆、酒はまだある! おのおの、傍らの高貴なサンテネリ女から酒を頂くとよい。そして我がサンテネリの名花たる女性の方々は、申し訳ないが、男どもの愚かさを笑って許してやってほしい。今日この晩限りは。——私も許してもらえるよう、敬愛する妻にお願いしてみよう」

 

 弾ける歓声には男のものも女のものもある。喧噪が戻ってきた。

 人々は輪をほどき、思い思いに動き始める。

 

 夫がそのささやかな演説を終え、自分の元に歩み寄ってくる。

 心臓は飛び跳ねる。だが軽やかに。

 血は引いていく。しかし緩やかに。

 

 女の脱力しつつある身体を王が受け止めた。

 男の両腕が細い女の身体を胸元に抱き込んでいく。包み込んでいく。女体の震えを止めるために。

 

 グロワスはアナリゼを至近に見た。

 鳶の瞳を埋め込んだ目尻は下がり、今にも涙を落とそうと身構えている。薄い唇の端は所在なげな顫動(せんどう)を止めない。

 しかし王はその姿を好んだ。その姿を愛した。

 

「アナリゼ殿。初めて見たとき、私はあなたを猫のようだと感じた。高貴な猫と。だが間違いだった。あなたはまだ若いが、獅子だ。気高く強い雌獅子だ」

 

 耳元に囁かれた王の声は、深く、低く、アナリゼの喉にまでしみこんでいく。

 

「それは——お褒めの言葉でしょうか」

「そうだ。最上の」

「でも、猫の方が可愛らしく思います」

 

 夫の腕に力がこもる。背中を押され、胸が男の胸板に張り付いた。

 

「雌の獅子も十分に可愛らしい。何よりも、獅子は雌が狩りをするという。頼りない夫をあなたが食わせてくれる。私はあなたに助けられて生きるよ」

「私は…強い獣に襲われてしまうかもしれません。——怖い、獣に」

「その時ばかりは雄の出番だ。あなたを襲う獣は、私が追い払おう」

 

 アナリゼは不意に、自身の後頭部に男の手のひらを感じた。ゆっくりと、髪を撫でる大きな塊がある。

 

正妃アナリゼ(ロワイユ・アナリゼ)。今後も同様のことはあろう。だが、常に王が側にいる。サンテネリの王が」

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「念のため確認を。拘束は?」

「しなくていい。内務卿殿、お分かりだろう。色々な考えがあり色々な思いがある。仕方のないことだよ。だが…」

 

 疲れ果てたアナリゼを女官長に引き渡した王は、間を置かずに呼び出したプルヴィユ伯爵に今後の予定を伝える。

 

「どの程度、彼のような者がいるのかは知っておきたい。恐らくあなたは既に名簿を作られているな」

「はい。作成しております」

「一度見たいな。今後のために」

 

 グロワス王は庭に続く小回廊の窓から、喧噪が引けた庭をじっと見つめていた。

 

「明日持参いたします」

「それと…」

「はい。明日の夜には配布させましょう。今晩は徹夜ですな」

「いつも済まない。アナリゼ殿の挿絵も忘れずに。ああ、ブルテ地方のことは書かないでほしい。ガイユールの二の舞はごめんだ」

「承知しております」

 

 会話の最後まで、王が内務卿と顔を合わせることはなかった。

 だからプルヴィユ伯爵が目にすることができた主君の顔は、窓に映った二次的なものに過ぎない。

 

 酷く冷たい色を孕んだその翠眼をプルヴィユは直接見なかった。

 

 

 

 

 

 

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