汝、暗君を愛せよ   作:本条謙太郞

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継ぐ者たち 2

 少年がアニェスを伴ってたどり着いた最後の店はルー・サントルの終端間際、勝利広場に続く一角にある。

 

 店の前に立ち、緊張さえ感じさせる連れ合いの表情を見て彼女は問うた。

 

「殿下、こちらのお店が?」

「うん! アニェス殿。ついに来たよ、俺は! 父上と母上の願いを成就するためにね。そして俺も。ああ、もちろんアニェス殿を退屈はさせない。御婦人向けのものがちゃんとあるから」

「ええ…それは存じていますけれど…」

 

 今回の散策で少年が第一の目的地として挙げたのがこの店であったことから、強い興味があるのだろうと分かってはいた。

 しかし、グロワス王とアナリゼ妃の願い? それがここに来ることとなると全く以て意味が分からない。確かに有名な職人の店ではあるが、あえて王とその正妃が訪問を望むほどの場所なのだろうか。

 

 ——この『ブラーグの工房(メゾ・ブラーグ)』というのは。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「殿下! お久しゅうございます。誠にもって。我が命あるうちに、かくも凜々しい若殿に成長された殿下にお会いできるとは、神の御裾の元、その幸運の物語を言祝ぎましょう」

 

 小柄な老人が姿に似合わぬ大声で少年を歓待する。

 

「ブラーグ殿もご壮健でいらっしゃいますね! ねぇブラーグ殿、俺は今、凄く高揚しています。ここが父上が仰っていた…」

「そうですぞ、殿下。サンテネリ至尊のお方にさえ門を閉ざした我が城にございます。まさに殿下がルロワ家初めてのお客様なのです。今日はこれまた陛下にさえお見せしたことのない我が秘技もお目に掛けますゆえ、お帰りの際には是非陛下とアナリゼ様にご自慢あれ」

 

 抱き合わんばかりに盛り上がる少年と老人の姿をアニェスは呆然と眺めた。

 ——殿下、わたくしの存在をお忘れに?

 小さな疎外感を覚えながら。

 

「ああ、そうだ、ブラーグ殿。今日は俺に付いてきてくださった方をご紹介しましょう。こちら、アキアヌ大公女アニェス殿でいらっしゃいます」

 

 ひとしきり興奮した後、そういえば、と存在を思い出し、慌てて駆け寄ってくる少年の姿に、彼女は極めて不敬な連想を抱いた。

 例えば同類と道ばたで出会い、興奮のあまり飼い主を置き去りにする犬。

 

 一方で、少年の紹介を受けたブラーグは老いた四肢を緩慢に動かし両膝をつくと、恭しく頭を垂れた。

 

「お初にお目にかかります。アニェス・エン・アキアヌ様。ルー・サントルで時計製作を生業としております、アブラム・ブラーグと申します。アキアヌ老公様、大公様にご愛顧いただいた光栄に加えまして、本日姫様のご尊顔を拝する機会を得ましたこと、誠に我が生涯の物語を彩る幸運の中でも最良のものと存じます」

「楽になさってくださいませ。ブラーグ殿。貴殿のお名前とその神業は祖父よりよく聞きます。本日はよろしくお願いいたしますね」

 

 肩肘を張った跪礼と口上。いささか古風な挨拶を受けたアニェスは手慣れた様子で立ち上がるよう促す。

 ブラーグは足に力を入れ片膝を立てるが、そこからなかなか立ち上がろうとしない。

 

「ああ、お年を考えずに無理をなさるから」

「しかし殿下、アキアヌ大公女様がお相手とあっては礼を失してはなりませんので」

「分かってますって。ほら、いきますよ。それ」

 

 相変わらず気安い会話を交わしながら、少年はブラーグの脇にかがむと、その腕を肩に回し、ゆっくりと立ち上がらせた。

 

「そういえば、今日はアントワン殿は? お留守ですか?」

「息子は先日帝国に発ちました。ありがたいことに発注が多数ございましたので、いっそ伺って一度に商談を、と」

「それはよかった! 帝国にも物の価値が分かる方々がたくさんいるようです」

「なにせ()()アナリゼ様の母国ですからな」

 

 グロワスは老人に肩を貸し、店の奥へしずしずと歩いて行く。その後ろ姿は身体が弱った祖父と介助の孫とさえ見えた。

 

 アニェスはここで明らかに、王太子家族の知られざる一面を目撃している。

 いかに名高い時計師とはいえ平民のブラーグを王太子自ら助け起こすなどありえないことだ。王家どころか中流以上の貴族であれば決してそのような振る舞いはしない。引き連れた従僕が手助けをすることはあろうが、それも稀だ。

 この”工房”に老人一人だけというのもおかしい。弟子や下働きの者が少なくとも4、5人は待機していておかしくない。にもかかわらず、老人はたった一人で彼らを出迎えた。

 

「殿下、ありがとうございます。もう私は大丈夫です。アキアヌ様の元へ」

「本当に? 無理はなさらないでくださいよ。父上も母上も次の”講義”を楽しみにしていらっしゃるのですから」

「もちろん伺いますとも。…陛下はその…ご健勝で?」

 

 これまでの気安さに似合わぬ老人の遠慮がちな口ぶり。

 それも無理はない。王の不予は一月ほど前から巷間に知れ渡っていたのだから。

 

「父上は…ちょっと今体調がよろしくない。でも、もうすぐ回復されるでしょう! そうだなぁ、来月はまだ具合が悪いかもしれませんが、今年中にはまた」

「なんと! それはよかった!」

 

 老人の心内をはかってか、あるいは心からか、あるいは願望か、少年は極めて楽観的な未来図を語ってみせた。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 店の2階は工房になっている。

 実用本位の室内だが、広さに比して不釣り合いに大きい窓が思う存分取り入れた陽光が、その質素な佇まいを漂白された美に転換せしめている。

 

 職人の仕事場など初めてのアニェスには何もかもが新鮮に映った。

 中でも目を惹くのが妙に腰高の机である。

 天板が男の胸元にまで達するそれは、机というよりは棚に近い。

 

「これはね、アニェス殿、こうやって使うんだ。時計の機械はとても小さいから、目をうんと近づける必要がある。でも、かがみ込むと背中を痛めてしまう。そこで発想をひっくり返して、机の方を目に寄せてやるというわけだよ」

 

 彼女の疑問を察した少年が得意げに実演する。

 

「なるほど。色々な工夫があるのですね」

「うん。ちなみに母上の部屋にも同じものがある」

 

 王国正妃の部屋になぜ時計製作用の机があるのか、アニェスには図りがたいことばかりだ。

 

「なぜ正妃様のお部屋に?」

「母上は趣味で時計製作をなさるから。もちろんブラーグ殿のように部品から作るのではなくて、組み立てるだけだけど。でも、本当に面白いんだ。ちゃんと組み上がったときの達成感は格別だね」

 

 ——アナリゼ様が時計を? 製作?

 将来義理の母となる可能性が高いアナリゼ妃とはこれまでに何度も顔を合わせてきた。

 帝国の宝と称された怜悧な美貌。寡黙ながら凛とした佇まい。それらはアニェスを含むサンテネリの女達には真似ようもない、ある種荘重な雰囲気を醸し出していた。

 機械弄りのような手仕事とはおよそ縁遠い。

 

「アナリゼ様が時計製作を…」

「母上は手先が器用なんだ。その点父上は全然敵わない。そうですよね、ブラーグ殿」

 

 驚きを鎮めきれないアニェスを尻目に、さも当然と少年が話を振る。

 

「陛下はまぁ…。人には向き不向きがございますゆえ。陛下は物事を大きく動かすことに長けていらっしゃるのでしょう。一方アナリゼ様は精緻な作業と相性がよいご様子」

「ところでブラーグ殿、精緻といえば、()()はいつ頃仕上がります?」

「組み上げは済みました。後は精度の調整と不具合の確認を残すばかりです。そうですなぁ、あと二月もあれば…」

「見せてもらえますか?!」

 

 またもアニェスを置き去りに、少年はブラーグに詰め寄らんばかりの勢いで強請った。

 

「もちろんでございます。さあ、ではこちらへ。アキアヌ様もよろしければ」

 

 ブラーグに誘われて、彼女は二人のいる窓辺の机に近づいていく。

 

 老人は引出から縦長の木箱を取り出し、ゆっくりと蓋を開いた。

 

 濃紺の羅紗地張りの中に一本の腕時計が横たわっている。

 

 優美極まる青焼きの時針と分針。ブラーグ製作時計の代名詞ともなった文字盤の微細な彫り込み。それらは全て見慣れた意匠である。時計にさほど興味が無いアニェスですら父と祖父が所持する懐中時計で見知った姿。

 腕時計という形態ももはや珍しいものではない。

 グロワス王とアナリゼ妃、ゾフィ妃が好んで着用したことから流行となり、いつしか定着した。

 

 だからその腕時計に特徴があるとすれば一つだけ。

 本来秒針が収まるはずの6時位置で文字盤が円形に穿たれて、機械の一部が露出していた。

 

「これは?」

 

 優美な装飾の施された文字盤になぜ穴を空けるのか。醜い機械を敢えて見せるのはなぜか。アニェスには見当も付かない。

 

渦型機構(タルビロン)、とでもいいましょうか」

 

 ブラーグはしごくあっさりと告げて、丁寧に竜頭を巻き上げる。

 

「ああ、すごい…。すごいな。本当に動いてる!」

 

 少年の声には驚嘆があった。そして純粋な喜びが。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 時計の心臓部である天府は、振り子の動作を回転に置き換え等時性を作り出す部位である。天府の回転部である天輪は厳密な等時性を持つものの、それが置かれた角度によって微細な間隔の揺らぎを余儀なくされる。平置きと縦置きでは部品にかかる重力に変化が生じ、回転間隔に差が出るのだ。

 この些細な誤差を消し去るためにブラーグが考案した仕掛けこそが渦型機構(タルビロン)である。

 通常懐中時計は懐にしまわれるため、平置きのように天府の各部位にかかる力が均等になることはない。だが、天府の機構自体を常に回転させてしまえば、理論上は全ての部位に同じ力がかかる状態となる。

 従来回転していた針本体ではなく、針の裏側に存在する天府機構一式が回転する様が渦巻きに似ていることから、それは渦型と名付けられた。

 

「腕時計の小さな筐体によくこれが載りましたね」

「それはもう、破棄した試作だけで家が一軒建つほどです。——陛下のあのお言葉がなければ、いかに酔狂を自認する私でも、こんな()()()試みは決していたしませんよ」

 

 実のところ渦型機構は実用性に乏しい。

 天府を回転させることによって得られる取るに足らぬ精度向上と、その複雑さゆえの故障頻度や耐久性の低下を秤に掛けたとき、犠牲にすべきは明らかに前者である。

 とはいえ懐中時計に搭載するのであれば、いかに微小といえど効果が見込めるだけましである。

 残念なことに、腕時計に乗せた場合、渦型機構はそもそも()()()()()のだ。

 ほぼ一日中縦置き状態の懐中と異なり、腕に括り付けられた時計は人間の動きに沿って様々な角度を取る。つまり、天府を回転させたところで、機構の全ての部位に同一の力をかけることは理論上不可能なのである。にも関わらず、筐体の大きさを考えたとき、必要な部品の細密さは懐中において必要な程度を遙かに上回る。

 つまり全くの無意味でありながら、ひたすらに労力と加工精度を要求する”装飾”に過ぎない。

 

 ブラーグはそれを理解していたし、王もまたそれを分かっていた。

 分かりながらなお、王はブラーグに依頼した。

 5年前の、まだ肌寒い春の夜に。

 

 見る目を持たぬ王侯貴族のお遊びであれば、ブラーグも適当に()()()()()()()()を細工してくれてやっただろう。膨大な報酬を要求しながら。

 しかしブラーグは王を理解していた。王が彼を理解したように。

 ブラーグは王が自分を理解していることを知っていた。偏執的なまでの精度への拘りと、”新しい何か”を創造することへの情熱を。

 

 その王が言うのだ。

 何か理由があるのかと問うと、王は答えた。

 

 物がその道具としての価値を失ったとき、無駄と見なされてきたものこそが価値になる、と。

 

「例えば何か新しい技術が発見されて、狂いが全くない時計が生まれたとしよう。その時、あなたが追い求めた精度は完全に過去のものとなる。あなたの天才も名声も、そして作品も、全て時代遅れのがらくたになる。だが、恐らくその時、人々は時計の精度自体にさほど価値を見出さなくなっているはずだ。正確であることが当たり前の世界なのだから、当然だね」

 

 王は半ば挑発するように、ブラーグに投げかけた。

 

「そのような技術が生まれるとは思えませんが。陛下のご想像の内以外には」

 

 ブラーグも言い返す。

 

「生まれるよ。あなたがその土台を築いたんだ。あなたは人生をかけて時計の精度を飛躍的に高めた。それゆえに、次代の者達はあなたという巨人の肩の上から新たな研究を始めることができる。そしてさらに次の者達も。人がこの世から消えぬ限り、いつしかたどり着くだろう」

「では、それでよいでしょう。目的地にたどり着いたのですから」

 

 ブラーグの返答は半ば投げやりなものだった。

 

「目的地に着いた後も人は生き続ける。そこにあなたの時計は在るべきだ」

「使えぬ道具になんの意味がありましょう」

「価値を剥ぎ取られて初めて見えるものがある。必ず。例えばあなたの時計が時代遅れの、道具としての用を為さぬ物となったとき、そこに残るものはなんだろう」

 

 王は自身の腕から自身の時計を外し、じっと眺める。

 現時点で最高の精度と最高の価値を持つ金の塊、対面する老人が作りあげた、まさにその物を。

 

「分かりません。何があるというのです。私の時計を超えるものが溢れる世界がもし来たらば、陛下がお持ちのそれすらただの廃品。価値を持つのはせいぜい筐体の地金くらいのものでしょう」

 

 これまで王が投げかけた言葉は老ブラーグの矜持を著しく傷つけるものだった。彼は「最高の道具」を作ってきたのだ。その自負がある。

 

「そうはならない。誰かが必ず、この時計のうちに()()を見つける。遙か未来の世界の誰かが、その時代に合った新しい価値を」

「どのような? 陛下、どのような価値です? お答えください」

「例えばあなたは使い古しの小刀を無価値と感じるかな。研ぎ直しを繰り返し、刃が小さくなってしまった。あるいは刃こぼれを起こしたそれを」

「ええ。そう感じますね。捨ててしまいます」

「例えばそれが父から、あるいは妻から記念に贈られた品であっても?」

 

 竜頭を親指と人差し指の腹に挟み、王は丁寧に回す。ゆっくりと。

 

「…理屈は分かります。陛下の仰りたいことはね」

 

 老人はそう吐き捨てた。王に対して。一平民が。

 

「ブラーグ殿。感傷ではない。私があなたに伝えたいことは。私が言いたいのは、価値は変化しうるということだ。いや、むしろこう言おう。価値は()()()()()()

「生まれ変わる…」

「小刀は”斬る”という機能——つまり価値を持つ。刃が駄目になればその価値は失われる。だが、そのもの自体には新たな価値が生じうるだろう。ある者にとっては記念の品。ある者は文鎮にするかもしれない。あるいは佇まいに美を見出す者もいよう」

 

 文字盤から目を上げ、男の翠眼はブラーグを射貫いた。

 

「私の時計は文鎮にちょうどよさそうです。なにせ金は重い」

 

 老人が発する自嘲交じりの言葉を、しかし王は受け入れた。

 

「何かご不満かな? これほど美しい文鎮。素晴らしい物だよ。だが、私ならばそこに別の価値を見出すだろう」

 

 男は再び帯を腕に巻き付け、尾錠を締めた。

 

「200年後の私はこの時計を見ながら思うだろう。これを作った職人は、かくも無意味なものにその生涯を捧げたものだ。それは——なんと偉大なことだろう、とね」

「陛下、ご無礼ながら…」

 

 広い額を朱に染めて言い返そうとするブラーグを、王は手を挙げ制止した。

 

「ブラーグ殿。つまりね、()()()()()()()。いや、より正確に言おう。この時計は()()()だ。我々はつかの間生きて灰に還る。何も残らない。私たちの生は無意味だ。しかし、我々はそれを理解しながらも精一杯生きようとするだろう。そう()()()()だろう。これは偉大なことではないかな。意志だけが我ら人と物を別つ」

「ではその時計は…」

「この時計はまさにあなたの意志だよ。ブラーグという希代の時計師が、いずれ無意味になると分かりながらもあえて組み上げた”意志の結晶体”だ」

 

 人文学と縁遠いブラーグには、王の言葉の詳細は理解できない。しかし、時計が自身の意志を具現化した姿であるとの言には得心がいった。

 理屈ではない。実感である。

 彼は職人として人生の全てを注ぎ込んできたのだ。時計に。

 

「ブラーグ殿。渦型機構(タルビロン)を腕時計に載せるとはつまり、あなたが時計界の英雄であることの証だよ。無意味さに立ち向かい打ち倒す、()()()()()だ。200年後の人々は驚嘆するだろう。機械にではない。あなたの勇敢さに。あなたの矜持に」

 

 思いのほか高まった声を落とすため、王は一旦口をつぐむ。

 心の沈静を取り戻す。

 

 そして決定的な一言をグロワス王は発した。

 

「あなたは時計界の王だ。その証を残されよ」

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「ブラーグ殿、この時計、俺に一週間ほど預けてもらえませんか?」

 

 決然と問いかけるグロワス少年の顔に老人は面影を見た。サンテネリの王と正妃の。

 

「殿下、恐縮ながらそれは叶いません。これは国王陛下に献上するもの。いかに殿下といえども…」

「もちろん! もちろん分かっています。俺は一刻も早く陛下にお見せしたいんです!」

 

 剣幕とも形容できそうな少年の口ぶりに面食らったのか、ブラーグは無言で眺めた。王太子グロワスを。

 さらに、少年の隣に佇むアキアヌ大公女アニェスを。

 口をきつく結び、目を伏せた少女の表情が()()を物語っていた。雄弁に。

 

「ああ…、ああ…。左様ですか」

 

 喉の奥からそんな言葉が漏れ出す。

 つまり、この時計の持ち主は()()()()()()()()()のだ。

 

「ねぇ、よいでしょう、ブラーグ殿。心配であれば証文も書きます。私は王太子だ。ただ父上にお見せしたいだけで、それ以外のよからぬ事などたくらみません。ねぇ」

「もちろんです。このブラーグ、そのようなことは一切考えておりませんぞ。なに、もう少し精度を追い込みたかっただけなのです。これは職人の(さが)と言えましょう。()()ぎりぎり一杯まで作業をしたがる」

 

 ブラーグが作った笑みはなんとも奇妙な塩梅だ。

 それは泣き顔とすら見える。

 

「じゃあ、いいんですね? 俺は明日、宮殿に戻ります。その前に取りに伺っても?」

「ええ。ええ。その時までに、しっかりとした箱に収めておきますぞ。これから箱に銘を刻みましょう」

「そういえば、この時計の番号はいくつですか?」

 

 ブラーグの時計には全て製作順の番号が与えられている。

 誰のためにいつ作られ、幾らで売られたのか。それらの情報が番号と紐付き台帳に記録される。

 ブラーグ製はあまりの人気ゆえ騙りが絶えない。偽造品を防ぎ真正保証を行うための措置だった。

 

「番号はございません」

「それは珍しい! では、何か名前を? ”タルビロン”とか?」

 

 王子の率直な命名は老人の笑みを誘った。今度は正真正銘の笑顔である。

 

 老人はゆっくりと首を振り、答えた。

 

「タルビロンとは、殿下のお考えも素晴らしく思いますが、実はもう決めてあるのです」

 

 時計を安置した箱の蓋をブラーグの手が静かに閉める。

 幾多の傑作を組み上げた手が。

 

 

「”大グロワス(グロワス・グロー)”、と」

 

 

 

 

 

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