虚音イフの独白   作:サンサソー

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こちら、2025年3月12日投稿のお話でございます。


音虚

 それはもう一つや二つ世を跨ぐほどの昔話ではあるのですが。

 

 この通り数多くの姿を持つものでございますから、名前も必然とどんどん増えては困ってしまいましてな。

 まるで自分であって自分でないものができてしまったかのように感じることがあるのです。それはもう沢山。

 

 あたくしは誰なのか。どこから来て何処へ行くのか。自分のことがめっきりわからなくなってしまって、何もかもが怖くなっていた時期でございます。

 

 立ち寄ったのは、道の傍で静かに開かれている茶屋でございました。人もほぼ居らず、少し口寂しいものがありましたので、これ幸いと休ませてもらうことにしたのです。いや、閑古鳥が鳴いているわけじゃあございやせんがね。

 

 幻術でもって亭主に茶を頼んだ後、長旅でちょいと疲れておりましたから、足を休ませるべく縁台に腰掛けたのでございます。

 その際のこと。視界の端に何やら毛むくじゃらのものが映りましたので、物珍しく思って触ってみました。

 

 猫です。眠気まなこのまま鬱陶しげにこちらを一睨みしたものの、また心持ちよさげに頭を落としました。茶屋の看板かと思いましたが、あまり毛並みがよくないため野良であったのでしょう。

 

 猫殿はいたくお疲れのようでしてな。大欠伸をしながらぐったりと横になっています。茶が来るまでにちと暇がありましたので毛並みを堪能させていただいたところ、猫殿はこちらを一瞥した後、鼻を鳴らして空を眺めているのでございます。

 

 おや。と、あたくしは小首を傾げました。

 

 意識を全く感じないのです。まるで目を開けたまま寝ているかのような面持ち。猫とは一日の大半を寝て過ごすものとは聞きますが、このような表情をして寛ぐとは知りませんでした。

 

 イフ、驚きでございました。

 人に慣れたといえど、あたくしの見て呉れは異形でございますから。匂いもだいぶ違いましょうに、この猫殿はまるで意に介さぬのです。

 

 人や動物は化け物をひどく恐れますから、猫殿の反応が新鮮に見えたのでしょう。少しだけお話をしようと試みたのでございます。

 どれ、にゃあにゃあと。

 

「⋯⋯⋯⋯」

 

 無視されました。それはもう清々しいほどに。

 

 仕方ありません。これまで数多くを取り込み多様な姿と力を持つあたくしでございますが、言葉というものはひどく虚ろなものでございまして。なにぶん頭でわからなければ扱えぬのです。猫語などこれっぽっちも知らぬので困ったものでございます。

 いえ、あたくしの頭はすぴぃかでございますが。

 

 しかし猫殿の色の薄い反応は、当時のあたくしにとっては良い心持ちであったようで。

 おそらく参っていたのでしょう。これ幸いとはしたなくも悩みをぶちまけ始めたのでございます。何から何まで、一から十まで悉く。

 

 猫殿は小うるさいあたくしの話に相槌も打たずに、なんら変わらない様子のままでおりました。

 

 あたくしは人に正体を明かせぬ化け物なのでございます。

 

「…………」

 

 あたくしでさえ、自身がどのような正体を持っているのかわからないのでございます。

 

「…………」

 

 そんなものでございますから、同族かと思われた妖の皆々様方からも煙たがられておるようでしてな。

 

「…………」

 

 …………。

 

「…………」

 

 そばに、居てもよろしいですかな?

 

 猫殿は欠伸を一つするばかりでした。

 

 言葉というものは本当に虚ろなものでございまして、こうして通じるはずのない心は音を介さずとも何かしらを伝え聞くことはできてしまうようでして。

 

 あたくしが猫殿に打ち明けた悩みの数々、その愚を恥じました。自分をどうにかこうにか名付けようとしていた己の滑稽さを猫殿に笑われた気がしたからです。

 

 はじめからあたくしは一人。揺るぎない事実でありました。されど必ずしも一人のままでいる必要はない。これもまた揺るぎない事実でございます。

 こんなあたくしであっても、こうして傍にいる願いを欠伸混じりに返されるほどには、誰かの傍にいることはその実簡単なことでございました。

 

 好きにしろ。

 

 はてさて、猫殿ほどの自由人をあたくしは知りませぬ。

 

 あたくしは化け物。

 和を貴ぶ人に成れず、世を覆う妖に成れず。されどどちらの世界にも居場所を持つことができましょう。あたくしの好きで、意志一つで思いのままなのでございます。

 

 そうとわかれば途端に嬉しくなってしまって、ついつい舞い上がって黒霧を出してしまっていたようでしてな。

 周りに人がおらず助かりました。永く生きてはきましたが、まだまだ小童であることを痛感いたします。お恥ずかしい。

 

 もはや夕暮れ。店仕舞い。

 

 いつの間にやら来ていた茶は覚めきってしまいました。

 

 あたくしもそろそろこの場を立とうと腰を上げ、新しい尾と耳を揺らしながら暗い畦道へと身を躍らせたのでございます。

 

 

 

 なに、結局悩みの答えは出たのかと?ええ、存外に簡単なものでございました。

 

 妖でなし人でなし。畜生でもなし神でなし。今も昔も変わりはいたしません。

 

 あたくしは虚音イフ。

 ただの、化け物でございます。




にゃんにゃん。
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