呪術のセカイ   作:猫山紅葉

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今度こそは完結目指して


中学三年編
第一話 始まり、そして再開


 これは私の人生である。一度きりの、私だけの人生。

 

 お世辞にも幸せとは言えない人生だった。呪い、呪われ、束縛し、妬み、羨み、嫌悪し、嘆いた。数え切れない程の涙を流し、それでも地を這いつくばって泥水を啜りながら足掻いてきた。

 

 裏切られもしたし、傷つけられもした。裏切りもしてしまったし、傷つけもした。挫折もしたし立ち止まって逃げてしまった事もある。

 

 もう一度同じ人生を歩きたいかと問われれば首を捻らざるおえないが、それでも私ははっきりと、胸を張り、迷いなく言える。

 

 私はこの人生に、悔いはない。

 

 必死に足掻き、振り払い、溺れそうになりながらも必死に生きてきた人生は、私にとって価値のないものではないのだから。

 

 これは、私の人生である。私の──青春である。

 

 青くて暑い。それでも赤くて黒い、呪いのような青春。

 

 弱くて、卑怯で、臆病で。それでも死に物狂いで生きてきた人生だ。

 

 未完成で、大人になれない私たちは、きっとこの先も同じ事を繰り返し、成長していくのだろう。傷を負い、傷を付け、後戻りも出来ないほどの不幸せな、けれども幸福な、呪われたこの生涯。

 

 これはそんな誰よりも弱い私の、少し特殊で、特別な物語。

 

 私はきっと、この日々を生涯忘れることはない。

 

 

 

「では、みなさんは来年中学三年生です。進路の事をこれから真剣に考えていてください」

 

 担任の声に生徒たちは疎らに返事をする。私もその中の一人で、紙を見ながら先生の声も上の空で聞いていた。

 

 ──進路、どうしよう。

 

 美術系の学校に行く事は私の中で決定事項だ。その中でも気になっている学校が二つある。

 

 一校は基礎教育を重視する学校。そしてもう一校はプロの画家から学べる学校らしい。どちらもこの辺りの学校であり、行くならそこだろう。まぁ、基礎は昔から書いているから大丈夫だとして、プロもうちに一人いる。

 

 基礎から学ぶか、プロから学ぶか。どちらも魅力的であり、画家になるには絶対に押さえておきたいポイントを重視している。

 

 いくら考えても自分の中の答えを見出せない。今直ぐに答えを出さなくても良さげだが、しかしもう中学二年生の冬。受験勉強の期間も考えればもう時間もない。

 

 早く自分の道を決めなければ。自分の未来だ。後悔のない様に真剣に吟味しなければ。

 

「って事は、帰ったらすぐお父さんに相談ね」

「あら、何を相談するの?」

 

 突如頭上から声が聞こえ、顔を上げる。そこに居たのは桃色の髪をした可愛らしい少女だった。

 

「愛莉」

「なんか上機嫌なんだもの。で? どうしたの?」

 

 そう言いながら、前の席に座る。恐らく前の席の持ち主はもう帰ったのだろう。騒がしいクラスメイトの中にその人物は見当たらない。

 

「いや、私たち来年──というか今年から三年生じゃん? 進路の事、お父さんに相談しとこうと思って」

 

「良いじゃない!」と、愛莉は満面の笑みで答える。その笑みはあまりに眩しく、私は思わず目を細める。

 

 桃井愛莉。私の親友。普段はアイドルとして生きているが、それでも彼女はれっきとした中学生、私の友人である。

 

 馴れ初めは去年の夏だった。愛莉がバラエティ番組の事で揶揄われた事がきっかけだった。それまではお互い認識はしているが話す中ではなかったのだが、しかし愛莉がバラエティ番組のネタで陰で嗤われるのが何となく気に食わなく思い、笑っていた人物に噛みついたのだ。

 

 足が出た。手が出た。ついには殴り合いの大喧嘩にまで発展した。何とか教師や周りの人物、そして愛莉の仲裁で事なき終えたが、それでも虫の居所が変わらなかったのだ。その時に愛莉に感謝されたのを覚えている。暴力沙汰を起こして事を荒立てた私に、である。私は自分が気に食わなかっただけだと素っ気なく言ったが、それでも愛莉は絶えず私に感謝を伝えた。

 

 むず痒かった。けれどそれ以上に、嬉しかったのだ。良かれと思った事じゃない。ただ自分がムカついたから。ただそれだけの理由で噛みついた先に、人が救われているだなんて。思ってもみなかった。

 

 それから、今の今までこの縁は続いている。切ろうと思っても切れないこの縁。けれどもう少しこのままでいいかなんて、思ったりもした。

 

「愛莉はどうするの?」

「私は宮女に行こうかしら。あそこ単位制もあるし、何よりセキュリティも信用出来るしね」

「そっか、良いじゃん」

 

 それを聞き、私は安心する。アイドルである以上、身の危険は着いて回る。だから学校側に信用出来るセキュリティがあるのなら、それに越した事はない。特に愛莉は()()()()()のだ。

 

「……でも、愛莉大丈夫? 最近、無理してるんじゃない?」

「え……」

 

 一瞬目を見開いて呆気に取られた顔をする。けれど次の瞬間、愛莉は笑みを貼り付ける。

 

「……大丈夫よ。テレビのお仕事も沢山貰えるし、光栄な事だわ。それにテレビにも出たらグループの宣伝にもなるしね」

 

 そう言って矢張り、笑う。けれどその笑みは何処か悲しそうだった。

 

 愛莉が無理をしているという事は分かっていた。こう聞いて、愛莉が無理をして大丈夫と言う事も。けれど私には何が出来るか。

 

 何も出来ない。芸能界の悩みなんて、私にはどうすることも出来ない。私は所詮中学生。そんな私に、何が出来ると言うのか。もう少し、私に力があれば多少は違ったかもしれないが。

 

 ふと、愛莉の肩を見る。そこには何かしら、生物ではないナニかが乗っている。私がいつも見ているアレである。

 

「愛莉、少しこっち」

 

 手を招き、愛梨を呼ぶ。愛莉は首を傾げながらも私を信用しているのか、体を私によこす。そんな愛莉の肩に触れ、ソレを捕まえる。ソレは私の手の中で蠢いており、少し気持ちが悪い。甲高い鳴き声を出しているがとてもではないが可愛いとは思えない。

 

 昔から、ソレが見えた。

 

 妖怪──だろうか。分からない。けれど人ならざるモノだと言う事だけは理解で来ていた。いつから見えていたかなんて覚えていない。最初から見えていた。私にとってそれは当然のことであり日常だった。

 

「ちょっと絵名、私の肩に何か付いて……あれ?」

 

 最初は困惑一色だったが、次第に目を見開いて肩を見る。

 

「肩が……軽くなった? 嘘、あんなに重かったのに。絵名、何したの?」

「ちょっとツボを押しただけ。なんかで読んだんだよね。まさか本当に効くなんて」

 

 そんな嘘が自然と出た。これには自分でもびっくりだが、それでもこの愛莉の顔を見ると、何も言えはしない。何となくだが、少し愛莉の顔が明るくなった様な気がする。気の所為かもしれないが。

 

 愛莉はその仕事柄、沢山のものに憑かれやすい。それを入学式から見てた私は、ソレに関わりたくないと思いながらも、ソレでも親友を見捨てるなんてしたくなかた為に少しだけだがソレを除去する方法を身につけた。と言っても特別なことは何もなく、ただソレと愛梨を引き離すだけなのだが。今までは気付かれずに後ろから取っていたが、今回は致し方ない。

 

「絵名……」

「ん? なあに?」

「ありがとう」

 

 思わず顔を見る。愛莉は心底嬉しいと言わんばかりに──笑っていた。

 

 あぁ……あぁ……。

 

 なんて眩しい笑顔なのだろう。心からの屈託のない笑みは、人を惹きつける。愛莉にはそんな魅力があった。正真正銘、愛莉は最高のアイドルだ。

 

 こんな事しかできないけれど、出来る事は少ないけれど、それでも愛莉の傍にいても良いかな。

 

 

 

 

「あー、疲れたぁ」

 

 そんな呟きが私の口から漏れる。絵画教室の帰り道であった。二月の半ば。空はもう真っ暗である。肌を切るような風が冷たく、私は身を縮めた。今日に限って手袋を忘れてしまったのだ。手は画家にとって最も大切にしなければいけない部位だと言うのに、情けない。

 

 神山通りは簡素な空気に包まれていた。普段から人通りが少ないが、寒さがまたその寂しさを助長させている。

 

「本当、どっちが良いんだろう」

 

 頭の中で、進路の事を考える。一から基礎を学び直すと言うのも反省の意味も込めて良いかもしれないし、プロに教わっても成長が早くなるかもしれない。どちらにしろ良い方向に好転しそうだ。まぁどちらにしろ、早いうちから勉強しておくことに越した事はない。

 

 ぼうっと歩いていると、突然に何やらふわふわした感触が足に伝わる。見下げてみると、野良猫だろうか、茶色の毛並みをした猫が私の足に擦り寄って来たのだ。しかし野良猫にしてはいやに清潔感がある。捨てられて日が浅いのだろうか。私の踝上あたりまでのサイズである子猫は、一歩間違えれば踏んづけてしまいそうだった。

 

「でも、野良猫は触ったらダメって言うよね」

 

 テレビでやっていたが、野良猫はどんな病原菌を持っているが分からない為不用意に触ったり餌をあげたりしてはいけないと言っていた。しかも私はこれから受験生だ。何かしらの病気にかかっている暇はないのだ。

 

 しかし、何というか、この猫は放って置けない。この寂しげな瞳は何処か庇護欲を唆られる。

 

「あ、そうだ」

 

 思い立ち、駆け足で近くの路地に入る。猫はそんな私に首を傾げながら同じく駆け足で追いかける。気が触れたとかそんなではない。此処の路地は落ち葉が沢山ある。その一つ一つを、私は足で、靴で、確実に踏んでいく。

 

「見ててよ」

 

 そう言って私は手を空高く掲げる。

 瞬間、舞う様に落ち葉が上へ上がり、踊っているかの様に猫の周りを囲った。それは宛ら幻想的な光景だった。猫は己の周りを踊っている落ち葉にテンションが上がったのか、飛び跳ねて遊んでいる。

 

 ──昔から、不思議な力が使えた。

 

 私の手に触れたもの、視界に入ったものの形状、重力を自在に操る事ができた。この()()()体質と何か関係があるのかと一時期考えに考えまくっていたが、もうそれは諦めた。今ではそれを受け入れ、ひっそりと一人で楽しんでいる。

 

 遠くから、もう一匹の猫の鳴き声が聞こえる。顔を上げると子猫とは別にこちらを見ている猫が立っていた。

 

 子猫が小さな鳴き声を上げながら、その猫に駆け寄った。如何やら親子だったらしく、体をすり寄らせていた。

 

 そうか、捨て猫じゃなく、生まれながらの野良猫だったのか。きっとあの毛並みも、母猫が一生懸命に掃除してくれたのだろう。

 

 二匹の猫は私に背を向け、何処かに歩き出した。その際、子猫は私の方を一瞥したが、その意図は私にはよく分からない。もしかしたらお礼を言っているのかもしれないが、種族の違う私には到底知り得ない事だろう。

 

 伸びをする。辺りももう真っ暗であり、早く帰らなければ両親が心配してしまう。

 

「ん? あれは……」

 

 神山通りに面している公園。いつもはこの時間になると人なんて人っ子一人居ないのだが、今日は珍しくお客さんが居た。

 

 ……ベンチに寝転びながら。

 

 コートとか何か着ていれば良いのだが、その男は薄着であった。若そうだが、けれど決してこの寒さに強いかは判断できない。もしかしたら具合が悪いのかもしれない。

 

「……勘弁してよ」

 

 此の儘帰ってしまおうか。夜も遅いし、お母さんも心配する。それに関わって面倒臭い事に巻き込まれたら溜まったものじゃない。彼がまだまともな人間かわからないのに。

 

 でも、もし本当に立ち上がれない程の具合だったら──。

 

「……あぁ! もう!」

 

 勢い任せにその男の方へ駆け寄る。もう知らない。どうにかなったらなったでその時だ。今ここで無視をすると後々気になって気分が悪い。別に善意からの行動ではない。ただ、少し気になるだけだ。

 

 近づいて見ると、どうやら中学生のようだった。この制服は……近くの中学か。だったら尚更なんで中学生がこんな夜遅くにこんな公園で寝ているのだろうか。意味がわからない。息はしているらしく、死んではないようだ。

 

 起こすつもりが、しかし、私は少し止まってしまった。この男の顔が、あまりにも美しかったからだ。口元はマスクをしていて見れないが、それでも目元から分かる。この人は美人だと。

 

「……あのぉ、大丈夫なの? あんた」

 

 やっとの思いで動き、一回声をかける。しかし応答はない。深く眠っているらしい。眠っているだけならここらで放っておくのだが、いかんせんこの寒空の下。しかも夜遅くに中学生を放っておくなど、あまり気が進まない。

 

 ……私も中学生なんだけどな。

 

「あの! あんたこんな寒さの中で寝ると風邪引くよ!」

「んん……」

 

 体を揺すり、何とか起こす。そうしてやっと少年は反応を示した。

 

 目を、開ける。その瞳は、思考の全てを惹きつける程綺麗な──藤色だった。

 

 目が、合う。視線が、交差する。

 

 彼の瞳が、私を捉える。

 

『また、遊ぼうね、約束』

 

「──え?」

 

 頭に、ノイズが走る。知りもしない、何かの映像。

 

 しかし、それだけ。次の瞬間にはその内容を忘れてしまい、残ったのは気持ちの悪い疑問だけだった。その他の全ては、泡沫のように消え失せた。

 

 けれど、何故だろうか。どうしてだろうか。彼とは初めて会うはずだ。生まれて初めて、出会ったはずだ。なのに、どうして──彼とは、初めて会った気がしないのだろうか。

 

 覚えは、ない。けれど私はこの綺麗な瞳を知っていた。知っていて、真っ直ぐと、まるでパズルのピースが嵌った時のような感覚が、私の中に生まれた。いや、生まれたではない。それは私の中に存在していた。

 

 私は、何か忘れているのだろうか。

 

「………………?」

「あ、えっと、そんなところで寝てると風邪引くよ」

 

 我に返る。綺麗な瞳は、困惑気味な私を更に困惑で染められた瞳で見ていた。そうだ。当たり前だ。急に起こされたと思ったら当の本人はボケッとしているのだから。

 

 少年は私の言葉に少しだけ頷く。

 

「あんた、ここら辺の中学生でしょ。何でこんな寒い中薄着で寝てんの?」

 

 目を、逸らす。何だ、答える気はないと言うのか。

 

「具合でも悪いの?」

 

 今度は首を振る。

 

「じゃあ何で薄着なの。風邪引くじゃん」

 

 また黙る。この少年は一向に喋る気配はない。いい加減私は少しイラついていた。此処迄コミュニケーションを拒絶される言われはない。確かに自分勝手に起こしたのは私だが、それでも言葉を交わすのを嫌がられるほど酷いことをした覚えはない。もう置いて帰ってしまおうか。

 

 ふと、彼の指を見る。赤く悴んで見るからに寒そうだ。だとしたら何でここで寝ていたか疑問が積もる。こんな寒そうにするんだったらここで居眠りなんてしなければいいのに、もしくはコートを着ていれば多少は違ったかもしれない。なんて、手袋を忘れた私が言えたことではないが。

 

 ……まったく。

 

「はい、これ」

 

 私は自分の着けていたネックウォーマーを少年の頭から被せる。少年は目を見開いて私のネックウォーマーを交互に見た。

 

「このままじゃ寒いでしょうが。色が地味だけど我慢して」

 

 水色っぽい、だけれど燻んだ色をしたネックウォーマー。私の好きなデザインや色ではないけれど、年始の福袋で当たった為、仕方なく着けていたのだ。他に防寒具もなかったが、けれどこれがきっかけで新しいマフラーを変えるだろう。

 

「じゃ、私はこれで。あんたもさっさと帰りなさいよ」

 

 そう言って私は公園の出入り口へ歩いていく。マフラーが取れたので少しの解放感と寒さがあった。けれどもまぁ、後悔はしていない。私も早く帰って進路の事お父さんに相談しなければいけないし、何よりお腹が空いた。

 

 土を踏み締める音が、公園に響く。私の足音ではなかった。

 

 振り返ると、少年は立ち上がっており、先ほどと同じく目を見開いて私を見ていた。それから少年は目を泳がせ、何か言葉を発しようとして止めるを繰り返していた。しかし最終的に私に向かって、頭を下げた。

 

 感謝の動作──なのだろうか。彼なりの。

 

「じゃあ、さようなら」

 

 そう思うと、何だか体がふわふわするような気がする。気がする、だけだが。だけれど少しだけ、ほんの少しだけ、優しい気持ちになれるような気がする。

 

 

 

 

「ただいまー」

 

 玄関を開け、靴を脱ぐ。キッチンの方から美味しそうな匂いが漂ってきた。今夜は、カレーライスだろうか。人参入っていたら嫌だな。

 

 自室に行く前にリビングに向かう。リビングの扉を開けると、カレーの匂いが強く鼻に届く。キッチンでは母がエプロンを付け晩御飯を作っていた。その姿を見て、何処か安心する。

 

「お母さん、ただいま。お父さんはまたアトリエ?」

「あ……絵名、お帰りなさい。お父さんはもうすぐ帰ってくるわよ」

「分かった。ありがとう。というか今日カレー? 別に良いけど、人参入れるのはやめてよ」

「ふふ、ちゃんと食べなきゃ駄目よ。そうだ、チーズケーキ買ってあるから晩御飯の後食べなさい」

「え!? やった!」

 

 母の言葉に、私は飛び上がる程喜んだ。そりゃそうだ。誰だって晩御飯に好物が出てきたら喜ぶだろう。

 

「彰人はもう帰ってきてる?」

「部屋に居るわよ。今日も歌の練習してるみたい」

「ふーん」

 

 適当に相槌を打ち、彰人の部屋の方を見遣る。部屋の中から微かに音楽が聞こえてくる。しかし迷惑に鳴音量ではない為気にはしないが。

 

 ──なんだ、歌、続けてんじゃん。

 

 そう思うと、自然と笑みが溢れる。サッカーを辞めて心配をしていたが、この様子だと大丈夫そうだ。最近また活気を取り戻したように活発になっているし。

 

 キッチンから調理器具の音がする。カチャカチャと、音が響く。お父さんは、まだアトリエだろうか。家の中に充満する絵の具の匂いは、カレーの匂いで薄まっていた。私は静かに母の方へ視線を戻す。

 

「──お母さん、なんかあった?」

 

 私の言葉に、お母さんは動きを止める。それは何を意味しているのか、私には見当も付かなかった。

 

 違和感。

 

 母の行動が、どうしても違和感を感じる。

 

「……どうして? 何もないわよ」

「だったらいいんだけど」

 

 口ではそう言った。しかし視界の端に見える花を生けた花瓶。普段は気にならないが、それでも目についてしまう。

 

 花は、変色して下を向いてしまっている。

 

 母は本当にまめな人で、花瓶の水を変えなかったと言う事は絶対になかった。けれど今はどうだろうか。水は少し臭い、花も枯れている。こんな事、今まで一度たりともなかった。他にも洗濯物は畳んだままリビングに置かれているし、机の上も散らかっている。

 

 具合が、あまり良くないのだろうか。

 

「お母さん、もし体調が悪かったら無理しないでよ。私や彰人だって家事ができないってわけじゃないんだからね」

 

 何気なく言った言葉だった。当たり前の、娘の一言。しかしその言葉がきっかけで──母は崩れた。

 

 その場に崩れ、声をあげて泣いた。

 

「ちょ、お母さん!? どうしたの!?」

 

 思わず駆け寄る。キッチンの床は油汚れで汚いはずなのに、母はそれでも泣いていた。火の元は一応無事だが、一歩間違えると大惨事になっていた。そうなれば母だけではなく、家自体も取り返しのつかないことになりかねない。

 

 何故、母は泣いているのか。それすら分からず私はただ困惑するばかりであった。

 

 その時、扉が開いた。母のことがあるのにと思い少し苛立ちながら振り返ると、そこにはアトリエから帰ってきたであろう父が立っていた。

 

「お、お父さん! お母さんが……!」

 

 父を見た時、ほっとした。父ならどうにかしてくれると思ったからだ。

 

 しかし父は母に近寄らなかった。ただ顔を顰め、少し悲しそうな顔をした。普段仏頂面を貫いている父がそんな顔をするのは珍しく、私は少し唖然としてしまった。そうして父はゆっくりとソファに座った。

 

「絵名、座りなさい」

「え?」

 

 その意味不明な行動に疑問を抱く前に、父は私に向けてそう言った。母に一言声をかける前に、である。心配じゃないのかと、苛立つ。

 

「でも、お母さんが──」

「いいから」

 

 はっきりした口調だった。その鈍器のような声に、私の体はビクつく。

 

「座りなさい。話がある」

 

 父の顔は、真剣味を帯びていた。私は言われるが儘、父の近くに座る。母は一歩も動かない。

 

「母さん。お前は部屋に戻って休んでいなさい」

「……いいえ、私も此処に居るわ。元はと言えば私の所為だもの」

「……お前の所為ではないがな」

 

 母は漸く立ち上がり動いた。そうして私の隣に座る。顔には隈が出来ており、やつれていた。恐らく昨晩から寝ていなかったのだろう。何が母をそうさせるのか。

 

 沈黙が流れる。いつの間には彰人の部屋から流れる音楽は消えていた。その代わりと言おうか、物音のひとつもしない。寝ているのだろうか。晩御飯も食べていないのに。

 

 晩御飯と言えば、火の元はどうしたのだろうと少し耳を澄ましてみても、何かが沸騰する音も、ガスの音もしない。どうやら憔悴しても母は抜かりなく、ちゃんと止めたらしい。流石と言えた。

 

 私がキッチンに気を取られていると、父が徐に口を開いた。

 

「お前はもうすぐ中三だろう。進路の事とかは考えているのか」

 

 父の口から出てきたのはあまりに拍子抜けする内容だった。こんな神妙な顔で言うのはどんな大事なんだと思ったら、そんなどこの家庭でもありそうなそんな()()

 

「え、うん。美術系の学校に行こうかなって。今考えているのは此処と此処なんだけど……」

 

 そう言ってパンフレットを出そうとするしかしその行動は、父の言葉によって遮られた。

 

「やめておけ」

「えっ?」

「お前に、画家になれる才能はない」

「え──?」

 

 息が止まりそうだった。耳鳴りがして、鈍器で頭を殴られたような感覚。思わず母を見る。しかし母は俯いていてその顔を見ることは不可能だった。

 

「な、なに、言って……え、なんかの冗談? やめてよね、つまんないから」

「冗談ではない。お前に絵の才能はない」

 

 父の声が、顔が、まるで脳内に入ってこない。これは夢ではないか? そうだ、夢だ。父が私にそんな事を言うわけが……。だって一度だってそんなこと──。

 

「……そんな訳ないじゃない。だって、私、小さい頃から描いてるし、中学アートコンクールだって特別賞貰ったのに……」

「あぁ、知ってる。だがプロになりたい人間はごまんといる。それこそ、コンクールで大賞を取れないレベルでは誰に見向きもされないだろう」

「ま、待ってよ……なんで急に」

 

 私の静止を無視して父は言葉を続ける。

 

「お前は、呪術高専に通いなさい」

「は……?」

 

 それは、衝撃的な言葉だった。

 

 呪術高専──呪術高等専門学校。私立の宗教系の学校である。入学方法は疎か、受験方法も学風も何も判明していない学校だ。それ故に存在しているのかどうかすらも怪しい学校である。

 

「それから三年になったら祖父の家から通いなさい。四月になったら祖父の家に送る。準備しておけ」

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

 

 思わず立ち上がる。私の口から出た声は思ったより大きく、リビングに反響した。

 

 何? 何だって? 呪術高専? 祖父の家? 訳が分からない。何で急にそんな事を言うの? だって、だって今まで──。

 

「今までそんな事、言わなかったじゃん」

 

 沈黙が流れる。私の声は、消えていく。

 

 そしてその沈黙を破ったのは、母だった。

 

「うちの家庭はね、呪術師の一族なの。絵名も、覚えがあるんじゃ無いかしら」

「は……?」

 

 突拍子もない言葉だった。

 

 呪術師? 何を言っているんだ? 幽霊と同じくらい、超能力と同同に、嘘臭い。しかし、私はその言葉を否定する術を持ち合わせていなかった。

 

 私の体質が、それを物語っている。

 

「呪術師──呪いを扱い、呪いを払う。お母さんの一族はその家系なの。だから絵名には呪術師を育てる呪術高専に入って欲しいの」

「待って! 嫌なんだけど! 何で入らなきゃいけないわけ!? 今まで通りでいいじゃん! 何で急にそんな事を言い出すの!?」

 

 だからって、納得できる訳がなかった。急にお前は呪術師だ。呪術高専に入れと言われても誰が納得できようか。

 

 黙っている両親に、私は困惑と疑念と、苛立ちが募る。

 

「行かないからね! 私は美術系の学校に入るから!」

「絵名」

「だいたい、何で今更そう言うの!? だったら前から言えばよかったのに!」

「絵名」

「私の未来を、勝手に決めないでよ!」

 

 ゴキッという音が響く。その音を認識する前に、私はソファに倒れていた。左頬に走る鈍い痛み。顔を挙げてみると、母がこちらを見下ろしていた。

 

 何故、立っている? さっきまで座っていたのに。私は何故倒れている? さっきまで立っていたのに。

 

 そうか、殴られたのだ。叩かれたのではない。握り拳で、頬を殴られた。口の中にじんわりと鉄の味が広がり、液體が流れる。

 

「言う事を聞きなさい、絵名」

 

 その顔は今迄見たどの顔よりも、恐ろしかった。体の芯が固まり、何も言葉を発せない。震え上がるような明確な恐怖。従わなければという本能。

 

「…………はい」

 

 そういうしかなかった。それ以外の返答は、許されなかった。

 

 泣く暇もない。頬の痛みは広がるばかりで、私は頭が空っぽになる。どうしてこうなってしまったのか。私が一体何をしたのだというのだ。考えても、考えても分からない。

 

 けれども私には選択肢なんて、最初からない。そう本能でわかってしまったのだ。

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