呪術のセカイ   作:猫山紅葉

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第十話 勝負をしよう

 教室のざわめきが、寝不足の頭に不快に響く。減ったお腹に食べ物を入れようとす るも、お箸に挟んだ出し巻き玉子は私の口に入る前にポトリと音を立てて弁当箱の中に落ちた。

 

「あんた、本当に大丈夫?」

「大丈夫大丈夫。何の問題もない。のーぷろぐれむ」

「使い道違うわよ」

 

 煩い。そんな事はどうでも良い。

 

 そう言えたら良かった。然し私はそんな気力も元気もない。口を動かす事も億劫である。

 

 私の身体には依然として包帯が巻かれていた。

 

 二ヶ月程が過ぎ、今はもう六月。皆は半袖を着ている中、私はカーディガンを着ていた。皆遠巻きに見るだけで何も聞いてこないが、その瞳に困惑やら疑念やら奇異が宿っているのは一目瞭然だ。正直に言うならば物凄く熱い。出来る事なら今すぐにでも脱いで布に覆われた肌を風の吹いている教室の空気に晒したい。然し服の下の無数の傷が、私にそれを許さなかった。

 

 祖父は、場数が正義と言っていた。場数を踏むことで身体が実践に慣れ、成長速度もぐんと上がると。それ故に祖父は私を何処其処に向かわせた。

 

 ある時は廃ビルに巣くう呪霊。ある時は他校に出現した女の子の見た目をしている呪霊。そしてまたある時には神社で様々な念を吸っている土地神の成れ果て。どれもこれも強敵であり、祓えたは良いものの、それでも大怪我で終わっていた。成長するどころかその前に私が呪霊に殺されてしまうのではないかと思う程に。

 

 愛莉はその度に私を心配してくれるが、それでも本当の事を言うわけにもいくまい。聞いた話によると、呪術界には『呪術規定』なるものが存在するらしい。それは九条まで規定されており、その中の八条に、『非術師に呪術の存在を明かしてはらならな』とある。それもあり、心配してくれる愛莉に対して何も言えないのだ。

 

 いや、恐らく呪術規定が無かったとしても愛莉に伝える事はないだろう。

 

 こんな世界の事は、知らなくても良い。

 

「そう言えば、六時間目の数学小テストだけど、あんた勉強してきたの?」

「……まあ、多少なりとも」

 

 嘘である。いや、勉強はしているのだが、それどどうしても()()ではない。なんなら明け方まで勉強をしていたのだ。勿論、私の意思ではない。

 

 祖父曰く、東雲家の人間たるもの、全てに完璧でなければならないらしい。だから半ば監禁状態で机に向かわされていた。昼間には家庭教師も付けて。そんな時間があれば絵を描いていたいと思う私であったが、それでもあの恐怖の化身である権化に逆らうことなど出来なかった。

 

 その他にも塾や呪術の訓練が休みなく、絶え間なく続いていく。何とか絵画教室には行かせて貰えているが、去年より教室に通う回数は大幅に減ってしまっていた。それでも唯一絵が描けるあの時間は、私にとって救いとなっていた。

 

 いくら雪平先生に酷評されようとも、絵が描ければそれで良かった。

 

 窓側の、一番後ろの席。開いている窓から風が強く入り、私の汗を冷やした。あれだけ寒かった冬も過ぎて、今はもう深緑が木々を鮮やかに彩っている。まるで音速の様に月日が過ぎて行くこの日々に、私は一種の焦りを覚えていた。今の状況を他と鑑みて、圧倒的に時間が足りない。皆が順調に勉強をしているなか、私だけが寄り道ばかりをしているばかりであった。

 

「へぇ、意外ね。あんたが勉強をしてるなんて」

「私だって少しは勉強をしますぅ」

 

 ニヤリと笑い、愛莉はまるで悪戯っ子の様な顔をする。確かに今までの私はお世辞にも頭が良いとは言えなかった。するより絵を描いている人間であったのは確かだった。

 

「じゃあ、テストが終わったら答え合わせしましょうよ。勝った方がチーズケーキ奢るってことで」

「チーズケーキ……!?」

 

 魅力的な提案に、私は分かりやすく食い付く。チーズケーキと言えば私の好物である。それを目の前に出されたらそんなの無視出来る訳がなかった。

 

「……分かったわ。乗りましょう。その勝負」

「決まりね。まったく、絵名はチーズケーキをちらつかせれば簡単に食い付いてくれて楽で良いわ」

 

 ムッと、口を尖らせる。否定し噛みつきたい気持ちは山々だが、しかし愛莉の主張通りに食い付いてしまった出前強くは出れない。

 

 けれどまぁ、チーズケーキか。東雲邸に住み着いてからと言うもの、そんな食べ物は長らく食べていない。出てくるのは質素な日本食が三色である。いや、他の人間から見たら高級料理なのだろうが、しかし私からしたら味気ない料理だった。ハンバーグやジャンクフードを食べられていた日々が幸せだったと、改めて思うのだった。

 

「何処のチーズケーキにする? 宮益坂通りの喫茶店も美味しいけど、駅前に出来た新しいファミレスのケーキも美味しいって噂よ」

「うーん。迷うわね。安定を取るか、冒険するか。勝負するんだったら美味しい思いをしたいけれど、でも愛莉と放課後寄り道することないから新しい所に行きたいと言うのも本心なのよね」

「あら、嬉しいことを言ってくれるわね。それに絵名だって最近忙しいでしょうに。朝遅刻間際に登校してきたり、放課後迎えの車が来たと思ったら急いで帰っちゃうし」

「待って、なんでそんなこと知ってんの? 愛莉と最近仕事で学校来てなかったじゃない」

「数学の吉武先生って口が軽いわよね」

「敬うべき教師をここぞとばかりに利用してんじゃないわよ」 

 

 どうやら数学の教科担任である吉武努先生に聞いたらしい。確かにあの人は口が羽よりも軽く、テストの出題問題をうっかり喋ってしまった記憶は新しい。まぁ、たった今更新されたが。然しなんでまた吉武先生がそんな事を知っているのだろうか。竹原先生は三年の受け持ちでは無いのに。

 

「噂になってるみたいよ。二年の頃とはまるで真逆になったって。授業も真面目に受けるようになったって」

 

「へぇ」と答えるだけで、他に何も言わない。別にそれは、私の望む姿ではなかった。いや、それでもそう決めたのは私だ。その事については何も文句はない。ただ少しだけ。ほんの少しだけ、寂しく感じた。どうして寂しいのかはわからない。

 

「特に体育はまるで別人のように運動神経良くなったって。私暫く授業に出れて無かったけど、本当に評判みたいね」

「……別に、何も凄くないわよ、こんなの」

 

 あれから二月(ふたつき)。任務を繰り返しているうちに私の身体能力は向上していたらしい。昨日の体育で五十メートル走なんて五秒台を叩き出せていた。同級生から変な注目も浴びてしまい、次からは加減して授業に挑もうと思ったのだ。然し今度は加減の仕方が解らなくなり、もう八方塞がりであった。

 

 けれど、これでも井の中の蛙だ。いくら非術師の中で強くなったって、それでは何の意味もない。他の呪術師は私以上の身体能力を持っている。二ヶ月そこらの素人未満が当然追い付ける筈もなく、クラスの人間たちに持て囃されたとて、喜べる筈もなかった。

 

 どうせなら、絵を称賛してほしかった。けれどもそれを言ってもどうしようもない。皆がそれを望むのなら、それを敢えて崩す方が得策だろう。教師からの信頼は、あって越したことはない。

 

 私にそれが出来るかどうか分からないけれど。もしかしたら耐えられなくなり全てを投げ出してしまうかもしれない。

 

 それでも──。

 

「あ、じゃあ今から小テストの予習をしときましょうよ。私だって負けたくないんだから」

 

 それでも、今目の前に座っている私の尊敬するべき親友が変わらず居てくれるのなら、今のままで良いかと思うのであった。

 

 

 

「せーの!」

 

 二人の声が重なり、私たちは同時に返却された小テストを表へ翻す。

 

 愛莉が八十七点。そして私が──。

 

「きゅ、九十八点……!?」

 

 愛莉の声が、教室に響く。クラスメイトの視線が全て此方に集中したが、しかしそれは一瞬の事で、瞬きの瞬間に皆自分のセカイに入り込む。アイドルだから声もよく通る。

 

 六時間目が終わり、私達は放課後に答え合わせをする為愛莉の机に集まっていた。私も自信はあったのだが、けれども愛莉の成績優秀さも知っていた。私が少し努力しただけで愛莉を越えることは出来ないと思っていたが、けれども私の努力は意外と結果に出ていたらしい。

 

「ま、勉強したからね」

「にしてはあんた成績上がりすぎじゃない? 前まで五十前後を行ったり来たりしてたのに。アンキパンでも食べた?」

「そんなもの現実にあるわけないでしょ」

 

 然しどう言ったって私の勝ちだ。チーズケーキは我が手元にあり。

 

 何処にしようか。折角の愛莉の奢りだ。どうせならとびっきり美味しいところが良い。新しい場所にしようか、それとも宮益坂にしようか。悩みどころである。

 

「あー。本当に悔しいわ。次は負けないからね」

 

 そう言って愛莉は机に突っ伏す。然し今回のテストの平均は七十八点。それを軽々しく越えている愛莉も相当なものだと私は思う。アイドルをやっている中で好成績を維持出来るのは、きっと並大抵の努力ではないだろう。

 

 私には、とてもじゃないが真似出来る芸当ではない。今この状況でも壊れそうな程にしんどいのに。

 

「……よし、決めた。駅前のカフェにしましょ。折角だから新しい味を試したいわね」

「しょうがないわね。今度は絶対和菓子喫茶奢らせてやるぅ」

 

 その言葉が、私の胸にじんわりと広がっていく。また次を約束する。それがどうしても嬉しかった。

 

 行き先を決めたや否や、私達は席を立ち鞄を持って出入り口に向かう。こんな一緒に帰れることは大変珍しく、二人でちょっかいを掛け合いながら歩く。端から見れば只の女子中学生だろう。

 

 女子中学生なのだ。アイドルでも、呪術師でも、(ひと)(たび)皮を剥げば其処には只の女の子が存在している。私達は、至って()()なのだ。

 

「……げ」

「ちょっと、何であんたが三年棟にいるのよ」

 

 教室の扉を開けた時だった。突如として目の前に橙色の髪が見え、立ち止まる。それは私の弟である東雲彰人であった。久しぶりだと言うのに、彰人は苦虫を噛み潰したような顔を浮かべていた。

 

 ──少し、背が伸びたか?

 

「委員会の事で先輩に用があったんだよ。誰が好き好んでおまえの顔見るかよ」

「ほんっと可愛くない奴。用が済んだのならさっさと帰りなさいよ」

「言われなくても今から帰るところだよ」

 

 互いに睨み合い、フンッとそっぽを向く。顔を向けた先には何とも言えない用な、口角を上げている愛莉と目が合った。

 

「……何?」

「いえ、相変わらず仲が良いんだなぁって思って」

「はぁ!?」

 

 私と彰人の声が重なる。普段は真似するなと噛み付くのだが、今はそんな事は言っていられない。

 

 仲が良い? 誰と誰が? 私と彰人が?

 

「ないない! 絶対に無いから!」

「そうっすよ桃井先輩! 誰がこんな野蛮娘と!」

「誰が野蛮娘よ!」

「あはは! やっぱり仲良し!」

「ちょっと愛莉!」

「ごめんごめん」

 

 そう言いながらも愛莉は依然としてクスクスと笑っていた。私はもう何か言う事を辞め、溜め息をつく。こうなってしまっては何を言ったって無駄だ。

 

 閉じていた目を片方開けて、横目に彰人を見る。何処と無く痩せたようにも見え、首を傾げる。いくらあの両親とは言え、ご飯を与えないなんて事はない筈である。

 

「其方は、如何?」

「あ? 如何って何だよ」

「元気にやってる? 何か変わった事はない?」

 

 鳩が豆鉄砲喰らったかの様に彰人は目を見開く。

 

 彰人に対して酷い扱いをしないとは思うが、嘗ての事もあり両親の事は信用し切れていない。反抗期とも言えない、初めて両親に対して抱くこの感情に戸惑い、然し逃げる様に思考を逸らした。これを深く考えてしまったら、取り返しがつかなくなる。

 

「まぁ、ぼちぼちだな。別に変わったことはねぇよ」

「そうなの。良かった」

 

 彰人の言葉に、ホッと胸を撫で下ろす。彰人の反応から言って、予感していた事はなさそうだった。ただ、痩せ細った様に見えるのは何故だろうか。

 

 私が訝しげに見ていると、彰人は「あぁ」と何か思い出した様に呟く。

 

「変わった事と言えば、相棒が出来た」

「相棒?」

 

 私と愛莉の声が重なる。聞き慣れない言葉に、私達は同時に首を傾げた。彰人は照れ臭いと言いたげに後頭部を掻く。

 

「ほら、ストリートで歌う相棒。伝説を超えるなら同じ志を持った人間と組まねぇとな」

 

 そう言って、上からだが彰人は笑った。

 

 いつだっただろう。夕方に出掛けて行ったと思ったら遅くに興奮気味に帰って来たのだ。こんな時間まで何をして居たんだと怒るお母さんの声も聞かず、伝説の夜とやらを語り出した。

 

 凄かったと。あれはまるで夢みたいだったと。目を光らせながらそう言っていた。お母さんは呆れていたが、それでも彰人は寝れない程に興奮していた。いつかあの伝説を超えるんだと豪語していた。

 

 私も母と同様呆れてはいたが、然しそれ以上に嬉しかったのだ。サッカーを辞めてしまった彰人が、また夢中になれるものを見つけられたのだ。

 

 応援しないわけにはいかない。今度こそ、彰人がもう二度と夢を失わない様に、祈るしか出来ない。こんな世界の事は知らなくてもいい。

 

「へぇ、良かったじゃん」

 

 目頭が熱くなり、目の前が滲む。泣きそうになる気持ちを抑え、彰人の頭を撫でる。抑え付ける様に。こんな顔見られるのは癪に障る。幸い愛莉は後ろに居るので私の顔は見えはしない。彰人が何やら騒いでいるがそんなの知ったことではなかった。ただ、顔を見られない様にする事に精一杯だった。

 

 ──彰人の頭を撫でたのはいつぶりだろうか。

 

「良い加減に離せよ」

「なあに? 照れちゃって」

「照れてねぇよ」

 

 そう言って私の手を振り払い、外方を向いた。口では言うが、それでも此方に向けた耳の紅潮が全てを物語っていた。

 

 可愛げが無いと思っていたが、まだ可愛さは残っていたらしい。

 

 大事で、大切な私の弟。どんな手を使っても、こいつだけは護らなくては。

 

「そうだ。私達これから新オープンしたカフェに行くんだけど、彰人くんも如何かしら。其処のパンケーキとても美味しいらしいの」

 

 妙案と言いたげに愛莉は手を叩いてそう言った。何が妙案だ。折角久しぶりに愛莉と出かけられると思っていたのに何故こいつまで混ぜなければいけないのだ。

 

 少しムッとしたが、けれども彰人とも積もる話もあったりなかったりするのでそれについては何も言わない。こんな時でないと話す機会なんてそうそうないのだから。

 

 然し帰って来たのは肩を落とす応えだった。

 

「折角のお誘いですが、これから練習があるんでる。申し訳ない」

「あら、そうなの? じゃあまたの機会にね」

 

 そうか。そうなのか。やっぱり今でも歌を続けているのか。

 

 胸にじんわりと暖かさが広がる。ホッとしたのだ。彰人がまだ歌を続けている事に、音楽が大好きな事に。叶うなら、これからもずっと音楽を愛し続けていて欲しい。私には許されなかった事だったから。せめて彰人だけでも好きな事を肯定されていて。

 

「あー……因みに言いにくいんだが、お前も行けないらしいぞ」

「はぁ? 何言ってんのよ」

 

 私の言葉に答える代わりに、彰人は窓の外を指差す。その方向は校門であり、私と愛莉は同時を見る。校門には黒い車が泊まっており、同じく黒いスーツを着た男の人が立っていた。他の生徒はそれを避ける様に帰っていく。

 

「あれ、お前の迎えだろ?」

「……嘘でしょ?」

 

 腹の内からじわじわと絶望が流れ出る。迎えと言っても、それは毎日ではなかった。いや、迎えは来るのだが、それでも学校から少し遠くの駐車場にお願いしていた。校門に停まるとしたら、それは急ぎの任務の時だけだった。

 

 ……何故、今日なんだ。他の日でも良いだろう。例えば、明日でも。

 

 然しそう言っても仕方がない。美術科受験という道を譲歩してもらっている手前、私には拒否権なんて無いも同然であった。使用人にどれだけ下手に出られようと、あの家の中では立場は最底辺なのだ。

 

「──愛莉」

「仕方がないわよ。行ってきなさい絵名」

「せめて引き留めてよう……」

 

 愛莉の淡白な反応に、私は項垂れる。あぁ、愛莉との時間が、新作のチーズケーキが遠のいていく。

 

 如何して私はいつもいつもこうなのだろう。上手くいかない。何もかも駄目だ。

 

「はい、行ってらっしゃい」

 

 愛莉に背中を押され、私は校門へ向かう。背中に刺さる哀れみの目が、体の傷より痛かった。

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