京都立呪術高等専門学校。
日本に二校しかない呪術教育の一校。多くの呪術師が卒業も此処を起点に活動しており、教育のみならず任務の斡旋、サポートもしている呪術界の要。
──と説明されたが、私も何が何だか分かっていない。東京の郊外にこんな所があったなんて知らなかったし、そもそも私は此処を〝宗教系の私立学校〟という認識をしていた。
私が入れと言われた学校だ。実際に来たのは初めてだが、それでも敷地の広さは家と何ら変わらなかった。あの何の為に建っているのか分からない沢山の和風な建物も家にある。
「──まさか治療の為に高専に来るなんて」
ベランダの様な高台から、景色を眺める。真っ暗な景色の中、灯篭の灯りがポツポツとまるで冬間のイルミネーションの様に灯っていた。まるでテレビの中の映像だが、然しこれは紛れもなく事実であり、現実だ。
溜息を吐きながら手摺りに体重を乗せる。もう七月に突入したと言うのに夜は風が吹くと肌寒い。
……母も、此処に通っていたのだろうか。此処で呪術を学んで、笑って、泣いて、青春をして。今の私と同じ様に夜空を眺めて。どんな事を、思っていたのか。
母には、やりたい事はなかったのだろうか。
呪術高専に入る時、如何思っていたのだろうか。
などと、様々な疑問が頭に浮かぶ。そう言えば、私は母の事を何も知らない。呪術師をやっていた事とか、昔の事とか、親戚の事とか。本当に、何も。
呪術界を離れるまで母は、何を考え、どんな気持ちで生きていたのだろう。この地獄の中で、まともに生きて行けるわけがない。
──なんて、今更考えたところで本人に聞く事も叶わないのだが。
風が強く吹く。冷たい風に少し体が震えた。
こんな冷たい夜は、あの日を思い出す。
真っ白い髪をした、不思議な男の人──。
「こんな所に居ると風邪ひくよ」
そう、まさにこんな人物の様な──。
ゆっくりと、顔を上げる。暗闇の中、鮮やかな白色が、私の思考を奪った。目を惹く様な、綺麗な白。それが人の髪だと気付くには少しだけ時間を有してしまった。然しその白色は、見覚えがあった。
「……あんたは」
「やあ、久しぶり」
それはいつぞやの男の人であった。私が両親と話し合った後、公園で出会った不思議な人。
まさか、呪術師だったとは。
「なんか納得だわ」
「え? 何? 何の話?」
「こっちの話」
男は首を傾げながら私と同様手摺りに体重を乗せる。男は数ヶ月前と変わらず目隠しをしていた。それで前は見えているのだろうか。見えていないだろう。目隠しをしたまま生活をする人間なんて産まれてこの方見たことがない。
無言の時間が流れる。久しぶりの再会だと言うのに、そこには感動はなかった。彼の事をよく知っているわけでもないし、ただ話を聞いてもらっただけだ。まぁ、その〝だけ〟が私にとって救いになったのだが。
「君も呪術師なったんだね」
「あんたこそ呪術師だったなんて。なんで言ってくれなかったの?」
「言う必要ないかと思って」
まぁ確かにそうだ。身も知らない女子中学生に自分は呪術師だと言ったところでそれはもう不審者以外の何者でもなく、其の儘警察案件だったろう。私だって何も知らない時に言われたら携帯で通報していた。
「私の事、知ってたの?」
「知ってるよ」
「何で?」
「さぁ?」
要領を得ない言葉に、私は溜息をついて諦める。きっとこの人はこう言う時いくら押した所ではぐらかされるに違いない。
「そう言えば、あんた、名前は?」
「え?」
「え? って、あんたは私の事を知っているのかもしれないけれど、私はあんたの事を何も知らないし」
「あぁ……そう」
そう言って男は頭を掻く。それは何処か寂しげに見えた。その姿が先程の家入さんと重なった。何故彼等は私がこう言う時、同じ顔をするのだろうか。何故私はこう言う時胸が締め付けられるのか。
此処に来てから分からない事だらけだ。
「五条悟。悟くんって呼んで」
「宜しく、五条さん。私は東雲絵名」
五条……五条ね。なんか聞いた事がある名前だ。何だっけ。忘れてしまった。
無言の時間が流れる。冷たい風が吹き抜けた。高所と言う事もあり風が強い。乱れる髪を抑えながら、息を吐く。冬ではないので息が白くなる事はないが、それでも体は震える。病み上がりの体に冷たい風は少々毒か。
五条さんはというと、着ている服が厚いのか寒がっている様子はない。
「怪我したんだって? お気の毒だね」
「そう思っている様子じゃないけど」
「いやいや、僕だって子供を心配する心は持っているよ。心優しいGTGだからね」
「何それ」
「グレートティーチャーゴジョー」
「いやそんなん如何でも良いし」
聞いた私がバカだった。
本日何度目かのため息を吐きながら頭を抑える。出会って最初から可笑しい人だとは思っていたがまさか此処迄だったとは。天才と変人は紙一重と言うが、此処迄五条さんを表すピッタリな言葉はあるまい。
「まぁ、家入さんの治療で如何にかなったわよ。でも、本当に凄いわね。反転術式。私もしようとしたけどてんで駄目。呪力が暴発しちゃって医務室めちゃくちゃにしちゃった」
「うわぁ。それ硝子怒ってなかった?」
「呆れてた。本当に申し訳ない」
五条さんの言葉に、先程の光景が脳裏に過ぎる。
あれから私と伊地知さんは一緒に割れてしまった瓶や照明を片付けていた。それはもう粉々で、瓶に至っては中の液体が溢れ出てもう使用が出来ない状態になってしまっていた。私に対して何も言わなかったが、床に濡れた薬品たちを少し悲しそうな顔で見ていた家入さんに、罪悪感が込み上げてきた。
「……ていうか家入さんの下の名前って硝子って言うんだね」
「あれ? 聞いてないの?」
「うん。そもそもこっちも名乗ってないし、私の名前も知らないんじゃないかな。なんか相手が名乗らないとこっちも名乗り辛くない?」
「そんなもん?」
五条さんには分からなそうだ。私から名前を名乗れれば良いのだが、其処迄私のコミュニケーション能力は高くない。家入さんは私と同じと言うわけではなさそうだが、そもそも人間自体に興味がなさそうだ。
……いや、一回無視しそうになったが、家入さんと五条さんは矢張り知り合いだったのか。しかも下の名前で呼ぶ程。
横目で五条さんを見る。目隠しで顔は見れないが、然し此方も華の女子中学生。変な勘繰りをしてしまう。例えば、二人はそう言う関係……とか。
「因みに硝子と僕はそんな関係じゃないよ」
「……五条さんの術式って人の心読むタイプ?」
「いや、絵名がただ単に分かり易いだけだよ」
その言葉に、私は何も言い返せない。昔から言われていた言葉だ。お前は本当に分かり易いなって。
言われていた?
一体誰に?
「そう言えば、此処で何してたの? 伊地知の用事を待ってるんだったら室内の方が良いでしょ」
「え? あぁ、少し考え事してて」
「考え事?」
私の言葉に、五条さんは首を傾げる。暗闇の中で五条さんの白い髪が揺れ、それはどこか神秘的なものだった。
「五条さん。大切なものって何だと思う?」
「何? 哲学?」
「幸せって哲学なの?」
「哲学でしょ」
哲学なのか。ともすれば私はどうやら難しい課題を出されたものだ。確かに私の大切な物は絵だ。然しそれを絵にするのは些か難しい。
絵を描いている私を描けば良いのか。それとも絵そのものを描けば良いのか。何を描けば雪平先生は認めてくれるのか。抑も正解なんてあるのか。
そんなことをぐるぐると考えているうちに頭が痛くなり、風を浴びようと此処に来て今に至る。尤も、それも頭を落ち着かせるどころか身体を冷やす結果になって終わったのだが。
「大切なもの……ね」
そう言って頭をポリポリ搔く五条さん。まぁ突然こんな話をされても困るだろう。口をついて出た言葉だったが、然し五条さんは意外にも真剣に考えてくれていた。
「絵名の大切なものって、何?」
ズイッと五条さんは私の顔に自信の顔を近づける。そのあまりの近さに、私は思わず仰け反ってしまった。異性の、しかも年上の長身が迫って来たら誰だってびっくりするだろう。
私は少し五条さんと距離を取り、口を開いた。
「それは……まぁ、絵だけど」
「──そっか」
そう言った五条さんの声は、何処か優しかった。なんだ、てっきり揶揄われるのかと思っていたが、そんな事は無く、「そっかそっか」と楽しそうに呟いていた。如何して楽しそうなのか、私には分からなかった。
「それで? 何でそんな事で悩んでんの? 大切なものが分かってんでしょ?」
「分かってるから悩んでんのよ」
私は大まかに、雪平先生から出された課題について説明した。その間も五条さんは私の話をうんうんと聞いていた。本当に意外に、この人は人の話を聞く。初対面の時は飄々としていて掴み所の無い性格だと思っていたが、そうでもなかったようだ。
それにしても、本当に難しい課題だ。一見簡単に見えるが、然し簡単、単純だからこそ難しいのだ。
絵に対して、私が如何向き合っているか。今迄どんな事を想い、どう描いてきたか。それを絵にするのは到底簡単ではない。
自分と向き合う事こそ、難しい事はないと言うのに。
「へぇ、絵画教室に通ってんだ」
「まぁね。画家志望だし。これでも任務以外じゃ常に絵を描いているのよ」
誇る様に、胸を張る。まぁ、こう言ってもそもそも任務や勉強以外の時間が圧倒的に少ないのだが。そう考えると昔より絵に向き合っている時間はこの上なく少なくなっている。
そんな状態で課題を乗り越えることが出来るのか。今になって不安になってきた。絵は心の鏡と言われているが、経歴が長い雪平先生には適当に書いた所でバレるに決まっている。適当に描く気はないが。けれども今この状態で描けないのは事実だ。
「大切で大事だからこそ、如何書いたら良いか分からないの」
「如何して?」
「如何してって……自分が如何絵に対して向き合っているか、まだ分からなくて」
そう言いながら、目を伏せる。
「絵を描いている自分が好きなのか、絵を描く工程が好きなのか。絵を描くモデルが好きなのか。それを考えていたら分かんなくなっちゃって」
私は今迄何を考えて絵を描いていたか。意識すると本当に分からない。こんな中途半端な気持ちで絵なんて描ける筈もなく、先程もスケッチブックと顔を付き合わせてみたが、鉛筆は空を切るばかりで一向に白い紙へ鉛を落とす事は無かった。
描けない。描けなかった。
どれだけ筆を取っても、どれだけ無意味に鉛を紙に押し付けようと、納得出来る作品には到底仕上がらない。描いて、消して、描いて、描いて、破いて、捨てて。それを繰り返して、最早自分が何を描いているのか分からなくなってしまった。何を描きたいのかも。
「うーん、僕には絵の事は分からないからなぁ」
「じゃあ何で聞いたのよ」
「何となく?」
そう言ってからから笑う五条さん。
……先程の評価を覆してやろうか。
私が五条さんに対して握り拳をしていると「でも……」と、笑いまじりに口を開く。
「君の部屋にある押入れ。其処を調べれば何か分かるかもね」
「え……?」
風が吹く。
如何言う事だと問う前に、後ろから足音が聞こえた。
「絵名様。そろそろ次の現場へ……って、五条さん!?」
「お、伊地知じゃん。何してんの?」
伊地知さんは五条さんを見た瞬間、まるで小動物の様に震え上がる。その姿に、私は首を傾げる。
「如何したの? 伊地知さん」
「へあっ!? な、何でもないです!」
そう言って明かに怯えている伊地知さん。
これは、もしかして私にじゃなく、五条さんに怯えているな? まぁ、私に怯えていないは当然として、然し五条さんの何処に怯える様子があると言うのか。この人はただ少しだけ飄々としているだけに見えるのだが。
「何だよ伊地知ぃー。人の顔見て逃げんなよー」
そう言いながら五条さんは逃げ腰になっている伊地知さんの肩に手を回す。その姿は宛らカツアゲしている不良の様だった。成る程、伊地知さんが五条さんに怯えている理由が少し分かったかもしれない。
「五条さん。私達次の現場に行かなきゃ見たいだから。その辺にしてくれない?」
「あーじゃあしょうがないね。ていうか、もう夜の十一時だよ? まだあんの?」
「しょうがないでしょ? お爺ちゃんに言われたんだから」
そう。時刻はもう夜の十一時。家の電気がポツポツと消えてくる時間である。本来ならこの時間は寝ているか受験勉強をしているか絵を描いているかのどちらかだが、不本意にも私はこれからまた呪霊を祓いに行かなければいけないのだ。凡そ中学三年生の受験生が行って良い所業ではあるまい。祖父は何を考えて私にぼんぼこと任務を振るのか。
私達は五条先生に見送られながらその場を後にした。ただ少し、疑念だけを残して。